上手く息が出来ない。酷い力で胸を押されてでもいるようで苦しい。
とん、っと、小さな音がした。ゆっくり視線を向けると、障子の隙間から勇治郎の指先が覗いていた。とんとんと、小さく畳の縁を叩く指先に、恐る恐る花子は手を伸ばした。触れた指先を、硬い手が握ってくれる。その温かさに励まされ、花子は顔を上げると深く障子に凭れかかった。
「足が竦んで動けなかった私に、お兄ちゃん、逃げろって。鬼にしがみついて、花子逃げろって怒鳴った。なのに……なのに私、動けなかった……。お兄ちゃんを助けたいのに、手も足も動かなくて、誰か助けてって、叫ぶことも出来なくって……。
あいつ、男の肉なんて固くていらないって、言ったの。女のガキが一番美味いんだって。私が、食べられるはずだった。私がいたから……私と一緒だったから、お兄ちゃんは殺されたの……っ」
何度も何度も繰り返し見た光景だ。悪夢の中で、何度も、何度も、兄は殺された。
何度やめてと叫んだろう。何度お兄ちゃんを殺さないでと泣いただろう。けれど、一度として自分は動けず、兄は殺される。夢の中でさえ、現実と同じように。
固く目を瞑っても、瞼の裏に焼きついた光景は消えてはくれない。きっと一生消えない。
「柱が来て鬼を斃してくれたけど……お兄ちゃんは、傷が深くて……その時には、もう……っ。ごめんね、って。鳴柱様が……間に合わなくてごめんねって、泣きながら、抱き締めてくれて……」
「そっか……父さんが花ちゃんを助けてくれたのか」
「うん……私のこと気にかけてくれて、お兄ちゃんのお葬式にも来てくれた。その時に、鬼のことを聞いたの。鬼を狩る鬼殺隊のことも。今いる鬼を全部斃したら、もう鬼は出てこないんだって。鳴柱様よりもっとずっと強い人たちが鬼の首魁を斃してくれたから、これ以上鬼が増えることはないんだよって、教えてくれた」
今いる鬼はきっと自分たちが全て斃すから、これ以上誰も殺されないように頑張るからと。間に合わなくて、本当にごめん。自分を恨んでいいから、どうか、救えなかった人の分も幸せにと、願ってくれた人。優しい人。
恨めと言われても、恩人を恨むことなど出来ようはずもなかった。だって、抱き締めてくれた腕も胸も、自分の涙と混じって頬を濡らしたその人の涙も、温かかったから。
「私も鬼殺隊に入れてほしいって、いっぱいいっぱいお願いしたの。私だけ幸せになるなんて考えられなかった。せめて鬼を斃さなきゃ、生きてくことも許されない気がした……。だって、私、お兄ちゃんに謝ることも出来なかった。リボンのお礼だって言ってなかった。そんな私が、なにもせず生きてくなんてできないって……お兄ちゃんに謝る資格すらないって思って。
最初はね、すっごく反対されたの。私のほうがびっくりするくらい慌てまくって、鍛錬がどれだけ厳しいか、何度も聞かされた。大の男が音を上げるくらいなんだから生半可な覚悟じゃ到底無理だって、散々喚かれたんだけど。でもね、最後には渋々だったけど宇髄先生のところに連れて行ってくれたの。先生に私を預ける時にも、なんで鬼殺隊のこと話しちゃったんだろう俺の馬鹿馬鹿って、また泣いちゃってたけど」
「うわぁ、目に浮かぶ。父さん泣き虫だからなぁ」
「でも、刀を握ってる時は格好良いよ? 先生のところに様子を見に来てくれた時にね、鳴柱様と先生が手合わせすることもあったの。本当にたまにだけど。そういう時の鳴柱様は凄く格好良くて綺麗だった」
「うん、泣き虫だし母さんの尻に敷かれてるけど、俺の父さん本当は格好良いんだ。父さんには内緒だけどね?」
「内緒なの?」
「そう、内緒。そんなこと言ったら調子に乗るから」
指先だけ繋ぎあったまま、背中合わせに二人でクスクスと忍び笑う。
思い出すことも辛い記憶を、こんなにも静かに語れるとは思わなかった。
「私も隊士になって、鬼を斃したかった。助けられなかったお兄ちゃんの代わりに、誰かを守りたかった。そうすれば生きてくことを許される気がしたから。お兄ちゃんが、許してくれる気がしたから……。
それまでは、絶対に泣かないって誓ったんだ。お兄ちゃんを助けられなかった私が、これ以上泣いてたらいけない。鬼が全て消えるまで、絶対に涙は見せないって。
だけど私には剣の才能がまったくなくて……呼吸だって上手く使えなかった。先生のところに三年もいたのに、結局最終選別試験さえ受けられなかった。鍛錬は本当に厳しかったけど、鍛錬中以外は先生も奥さんたちも優しくて、私より後に入った子が試験に合格しても、誰も私を責めたり見捨てたりしないでくれたのに……恩に報いることすら出来なかった」
追い詰められていく花子に、優しい人たちが示してくれた道は。
「隠にならないかって鳴柱様や先生に言われて、私みたいに隊士になれなかった人でも、鬼を斃す為に働けるんだって知って……それで私、隠になったの。
あのね、鳴柱様も先生や奥さんたちも、誰も私に日柱様たちのこと教えてくれなかったんだよ?」
「一度も?」
「うん。でも、そういうのってどうしたって耳に入るよね……」
きっと皆かなり気を遣ってくれていたのだろう。宇髄のもとで鍛錬していた頃には、花子の耳にそれが届かぬよう誰もが注意していたものと思われる。
それは花子の為というよりも、明らかに炭治郎や義勇の気持ちを慮っていたのだろう。禰豆子に似ている花子を見て、善逸や宇髄はきっと、花子にいらぬ情報を与えることを躊躇ったのだ。炭治郎たちのことを話せば、炭治郎たちが置かれている立場についても言及せざるを得なくなるから。
鬼に身内を殺された者が炭治郎たちに向ける怒りや悪意を、善逸や宇髄はいやというほど知っている筈だ。花子もまた、どうしたって炭治郎たちを恨まずにはいられなくなることを、きっと危惧していた。
炭治郎たちと出会った時に花子の口から恨み言を聞かされれば、二人がどれだけ辛い思いをするのかなど、容易に想像がつく。だから善逸たちは花子を炭治郎たちから遠ざけようとしていたのだろうと、今ならば分かる。
もしそうなったとしても、炭治郎も義勇も、一言たりと花子を責めたりはしないのだろうけれど。善逸や宇髄も、花子ではなくむしろ自身を責めるのだろうけれど。
だが、そうやって人の悪意から遠ざけようとしても、いずれ悪意は忍び寄ってくるものだ。隠となり他の隊士や隠にも接することになってすぐに、それは花子の耳に届いた。
「新人の隠や隊士が集められて心構えを説かれた時にね、こそこそ話してる人たちが結構いたんだ。鬼狩りをする前に、呪われ者を粛正しろよ、って」
その言葉を口にすると、花子の胸はきりきりと痛んだ。けれどそれは、炭治郎たちを知った今だからこそだ。
呪われ者と呼ばれる隊士がいること。その者たちが生存しているがために、鬼の首魁を斃しても鬼が消滅しなかったこと。あろうことか呪われ者たちは鬼殺隊の要の柱であり、他の柱にもそいつらを擁護する者が多いこと。それらを聞いた花子は愕然とし、ついで激しい憤りを抱いた。
そんな簡単なことだったのか。そんなことで済むのなら、兄が鬼に殺されることはなかったではないか。あんなにもきつく苦しい鍛錬など必要なかった。呪われ者どもが生き汚く存在しているから、悲劇は繰り返されているのだ。
悔しくて、悲しくて、呪われ者たちを恨んだ。いっそ鬼に対するよりも強く。隊士になれなかった不甲斐なさや、兄を見殺しにしてしまった悔恨さえも、呪われ者たちの所為だとその責を擦り付けた。危険な目に遭い鬼を狩るより、自分への嫌悪と怒りに苛まれ続けるより、そのほうがずっと楽だった。
なに故、真の仇とも言うべき呪われ者どものことを、鳴柱や宇髄たちは教えてくれなかったのか。その理由も噂話から推測し、そうと思い込んだ。きっと呪われ者を擁護している柱とは鳴柱なのだと。元音柱である宇髄も同様なのだろうと。
「本当はね、ちょっとだけ鳴柱様や先生のことも恨んだの。私に日柱様たちのことを教えてくれなかったのは、自分たちが二人を庇ってることを知られたくなかったんじゃないかって。私に責められるのが嫌で、なにも言ってくれなかったんだって……勝手に思い込んで逆恨み。最低だよね、私……」
「そんなことないよ。俺だってそういうことあったもん」
「勇治郎さんでも?」
プハッと小さく噴き出す声がした。勇治郎は笑いを噛み殺しているようだ。
「俺でもってなに? 俺ってどんな風に花ちゃんには見えてんの?」
「だって……勇治郎さんは鳴柱様のご子息で、日柱様や水柱様の甥御さんで……ちゃんと隊士にもなれてるし、先生にもなんだか可愛がられてるみたいだったから……」
「順風満帆、前途洋々、将来の心配なんて一切なしのお気楽な極楽とんぼって?」
「……極楽とんぼまでは、思ってない……」
今は。まぁ、初対面は、ともかく。
「ま、いいや。うん、俺は恵まれてるよね。きっと他の隊士の誰よりも。でもさ、だからこそ色々言う奴もいるのよ、これが。なにしろ俺ってば呪われ者の身内ですし」
「やめてっ!」
勇治郎からそんな言葉を聞きたくなくて、思わず障子を開けた。うわっ、と声を上げて倒れこんできた勇治郎を受け止めきれずに、花子もキャッと小さく叫んで床に転がる。
知らず閉じた瞼を開ければ、五寸(約15㎝)と離れていない位置に勇治郎の顔があった。
まじまじと見つめてしまった勇治郎の瞳に、花子の顔が映っている。桃色がかった珍しい瞳の色。綺麗な瞳だと思った。勇治郎は母親似だ。あどけなさを残すその顔立ちは、きっと女の子たちを色めきだたせていることだろう。もしかしたら恋文なども貰っているかもしれない。優しくて明るくて強い、年頃の男の子。
そんなことを思った瞬間に、ぱっと花子の頬に朱が散った。顔が熱い。勇治郎もいきなり顔を真っ赤に染めて、ごめんっ! と言うなり飛び起きる。
夜で良かった。いつもならば心の底が不安に騒めく鬼の時間だけれど、今だけは、夜で良かったと花子は思った。月明かりだけの今ならば、きっと花子の真っ赤に染まっているであろう顔はよく見えないに違いない。胸がドキドキと高鳴って苦しいが、それはどこか甘い痛みだった。
「えっと、障子、閉めて? さっきみたいに」
「え、あ、うん」
あの小屋の中でのように薬を盛られたわけでもないというのに、花子の身体はぎこちなくしか動かせなかった。そっぽを向いた勇治郎に言われるままに、先までと同じくらいの隙間を残して障子を閉める。また障子に凭れかかるが、はて、手はどうしたらいいのだろう。またその硬い手に向けて伸ばすことは許されるだろうか。勇治郎は、また指先を握ってくれるだろうか。
躊躇っていると、勇治郎の指がおずおずと隙間から差し込まれた。ほっとして花子もそうっと手を伸ばす。触れあった指先から、また身体がかっと熱くなったけれど、離したくはなかった。勇治郎もそう思ってくれたのだろうか。躊躇うようにではあったが、また指を握ってくれた。
「あー、あの、さ、花ちゃんって……」
「……なに?」
「や、えっと、そう! 花ちゃんて炭治郎おじさんたちのこと、ちゃんと夫婦だって思ってくれてるんだね」
誤魔化すような気配を感じたのが少し不思議だったが、それよりも紡がれた言葉にこそきょとんとしてしまう。
「なんで? そんなの当たり前でしょう?」
炭治郎と義勇が心底想い合い慈しみ合っていることなど、傍目にも明らかではないか。
「んー、そうは思わない人のほうが多いかなぁ。やっぱりさ、男同士だから。特に今は子供を増やせっていう風潮だしね。鬼もどき同士で乳繰り合うしかないんだろうって、馬鹿にする奴もいるんだよ」
ただでさえ恨まれてる二人だから、蔑むネタになるならなんでも陰で言われるわけ。と、勇治郎は溜息交じりに言う。
「俺も言われるもん。男色野郎の甥っ子も男好きなんじゃないのかとか、尻使って昇格してんじゃないのかとかさ」
「酷い! なんで、そんなこと……っ」
憤る花子に、勇治郎は吐息だけで笑ったようだった。
「やっぱり花ちゃんは優しいなぁ」
「……そんなことない」
「あるよ。花ちゃんが違うって言っても、俺にとっては、花ちゃんは優しくて可愛い女の子」
勇治郎が囁く声は楽しげで、柔らかく響く。
なにも知らないからと反発する気持ちは、もうなかった。ただ恥ずかしくて。ふわふわと、嬉しい。
「俺も、恨んだことあるよ。おじさんたちのことも、父さんや母さんのことも。母さんは……鬼だったから」
嬉しい気持ちを掻き消す呟きに、花子はヒュッと息を飲む。
「聞いてる? 母さんのこと」
「……後藤さんが、教えてくれたから。鬼舞辻無惨との戦いがどんなだったか、日柱様たちがどんな目に遭ったのか、教えてくれた時に」
「そっかぁ……。ねぇ、後藤さんはなんて言ってたの? おじさんたちのこと」
問われ、花子は後藤の下に配属されたその日を思い起こした。今思えば恥じ入るばかりの出来事だ。勇治郎にそれを告げるのは躊躇われる。勇治郎から嫌悪されるのは怖い。それだけのことを自分はあの時言ったと思っている。
けれど、誤魔化したくはなかった。嘘をつくのは簡単だが、そうしてしまったら二度と勇治郎にも、炭治郎たちにも、顔を合わせることは出来なくなる気がした。
「あの時、後藤さんは……」
だから花子は静かに目を閉じ、口を開いた。言い訳が混じらぬよう、許しを乞う響きにならぬよう、ただ事実だけを。それが隠の大切な心得だと、教えられたから。