夜と朝の狭間で

 庭で藤の花が小さく揺れている。古い日本家屋は広く、座敷の奥は昼でも日差しが届かぬため薄暗がりとなっている。
 開け放した障子から吹き込む風が、座敷の中央に足を投げ出し座る禰豆子の髪を揺らした。
 鴨居に立てかけられた古めかしい写真の数々に見下ろされながら、禰豆子はほうっと吐息した。
 この座敷で目にする光景全てが好きだ。いつだって咲き乱れる藤の花。穏やかな顔をした人々の写真。ここで逢う人たちの笑顔。藤の花の向こうに広がる竹林の、爽やかな緑、葉擦れの音。畳の感触、頬を撫でる風。なにもかもが禰豆子に優しい。
 大切な人たちと過ごした場所。禰豆子の人生はこの場所無くしては語れない。
「ただいま、禰豆子。久し振りだな、元気そうで良かった」
 快活な声に振り返れば、禰豆子の大好きな人たちが立っていた。
「ただいま。女子が足を出すな、はしたないぞ」
「まぁまぁ、義勇さん。今日はお小言はなしにしませんか」
 僅かばかり眉を顰める青年を、可愛らしい顔立ちの少年が笑いながら宥める。
 二人の服装はいつもとは違い、お揃いの衣服の上に異なる奇妙な上着を羽織っていた。どこかで見たことがあるような気がする服だが、思い出せない。
 見慣れぬ服は少し気になりはするが、それ以外は禰豆子の知る二人のままで、禰豆子は飛び跳ねるように二人に駆け寄った。
「炭治郎お兄ちゃん、義勇お兄ちゃん、おかえりなさい! そうそう、時間が勿体ないもの。お説教はなし! ねっ」
 笑って舌を出して見せた禰豆子に、義勇もやれやれと言いたげに苦笑してくれた。
 並んで縁側に座り近況などを語り合う。慌ただしさに忙殺され、こんな時間は中々取れずにいたので、話すことはいくらでもあった。
 それでなくとも、いつもは他の家族や親族に囲まれて、禰豆子が炭治郎たちを独り占め出来るチャンスは滅多になかったのだ。一緒にいられるだけでも嬉しいが、こんな風に二人に挟まれてお喋りする時間は、禰豆子にとっては何物にも代えがたい宝物のような時間だ。
 しかも、今日はいつものような偶然ではなく、二人が禰豆子と三人だけでと望んでくれたのだ。はしゃぎたくなるのは仕方がない。
「逢うのは半年ぶりだな。以前より少し背が伸びたか?」
「そうなのか? 禰豆子」
「うん。でも2センチだけ。義勇お兄ちゃんより炭治郎お兄ちゃんのほうが先に気付くかと思ったのに、ちょっと意外」
「俺だってそれぐらいは気付く」
 コツンと軽く頭を小突かれて、禰豆子は笑いながら肩を竦めた。
 今日は炭治郎だけでなく、いつもは寡黙な義勇も、たくさん禰豆子と話してくれるつもりのようだ。常ならば、ねだらなければ義勇が積極的に話してくれることはないから、これは相当に珍しい。禰豆子と会話するのを厭うているわけでは決してなく、とにかく話すことが苦手なのだとは、炭治郎に苦笑交じりに言われるまでもなく、早々に理解していた。
 だっていつだって禰豆子に向けられる義勇の眼差しも声も、炭治郎と同じように優しかったから。

「あのね、前に手伝ってくれたレポート、すごく褒められたの」
「ああ、歴史を調べるってやつか。禰豆子、頑張ってたもんな。偉いぞ!」
「うん。義勇お兄ちゃんがいっぱい教えてくれたから、私のレポートが一番詳しく調べてあったって。ありがとう、義勇お兄ちゃん」
「禰豆子のまとめ方が上手かったんだろう」
 褒めてくれた炭治郎と義勇に、禰豆子はその時のことを思い出しクスクスと笑った。
「ん? どうしたんだ、禰豆子。なにか可笑しかったか?」
「違うの。教えてもらった時のこと思い出しちゃって。最初は炭治郎お兄ちゃんが教えてくれてたのに、いつの間にか二人して義勇お兄ちゃんに教わってたよね。炭治郎お兄ちゃん、説明するのすっごく下手くそなんだもん」
 炭治郎の説明はとにかく擬音が多い。感覚的な言葉ばかりになってしまうものだから、そのたび、どういうこと? と聞き返すことになってしまう。そうするとまた違う擬音が飛び出すから、意味が分からない禰豆子も、何故伝わらないのか分からない炭治郎も、顔を見合わせ首を傾げ合うばかりになってしまったのだ。
 見かねた義勇が一つ一つ分かりやすく説明してくれなければ、レポートは惨憺たる結果になっていただろう。
 クスクス笑い続ける禰豆子に、炭治郎は怒るどころか、義勇さんがいてよかったな、やっぱり義勇さんは凄いと誇らしげに笑うものだから、禰豆子はますます楽しくなる。
 昔から炭治郎は説明をするのが苦手で、最終的に教えてくれるのは義勇になるのが常だ。自分の気持ちなどを伝えるのは苦手な義勇だけれど、事象などの説明をするのは苦にならないらしい。理路整然とした説明は分かりやすく、質問した禰豆子のみならず炭治郎も感心するのが、いつだって可笑しかった。
 そのたび義勇さんは凄いだろと自慢げに胸を張る炭治郎が、すました顔をしつつもどこか照れたように見える義勇が、いつだって禰豆子を幸せな気分にさせてくれた。
 言葉が足りない義勇の一言には、思わず戸惑ったり不安になったりすることもあるが、そういう時はいつだって炭治郎が、義勇さんは怒ってるわけじゃないよとか、義勇さんは照れてるだけだよなどと、義勇の伝わりにくい感情を教えてくれる。だから禰豆子は、炭治郎から向けられる優しさ同様に、義勇からの好意を疑ったことがない。
「炭治郎お兄ちゃんは手紙だと説明も上手なのに不思議だよね。なんでかな」
「そうかなぁ。自分じゃ気にしたことがないから……」
「炭治郎は筆まめだからな。慣れもあるんだろうが、確かに炭治郎の手紙は臨場感があって面白い」
 首を傾げる炭治郎に、義勇がかけた声はどこか誇らしげだ。
 いつもこの二人はこんな具合だと、禰豆子は、胸の奥がほわりと温かくなるのを感じた。
 炭治郎は義勇を褒められることを、義勇は炭治郎を褒められることを、自分が称賛されるより誇らしく感じるらしい。それは禰豆子やこの屋敷を訪れる他の子どもたちに対しても同様だ。
 二人とも自分のことより子供たちへの言葉をより喜び、心から褒めてくれる。だから禰豆子をはじめ子供たちは、二人に喜んでもらいたいがために、何事にも一所懸命取り組むのが当たり前になっている。
 大人たちはといえば、そういうことをすると義勇さんが悲しむよだとか、こうしたらきっと炭治郎さんも喜んでくれるよと言えば、子供たちが素直に言うことを聞いてくれるから躾が楽でいいなどと、よく笑い合っている。そしてその言葉には必ずと言っていいほど、自分もそうだったと続くのだ。そうやって二人を知る人は育ってきたのだと、誰もが嬉しげに言う。
「私も炭治郎お兄ちゃんのお手紙大好き。すごく面白いもの」
「禰豆子にそう言ってもらうと書いた甲斐があるな」
「義勇お兄ちゃんはお手紙だと逢ってお話しする時よりもっと無口だよね。いつも炭治郎お兄ちゃんのお手紙の最後に一言書いてあるだけなんだもん」
 揶揄うように言えば、義勇はなんとも言えぬ微妙な表情で、助けを求めるように炭治郎に視線を向けた。
「義勇さんだって最初はちゃんと色々書いてるんだぞ? 長くなりすぎて、恥ずかしくなっちゃうから出せないだけなんだ」
「おい、炭治郎……」
「えー、長くても嬉しいのに。義勇お兄ちゃんからの長いお手紙欲しかったな」
 表情は変わらないが義勇が慌てているのが分かって、禰豆子はますます揶揄う口調になってしまう。炭治郎はよく、義勇さんは可愛らしい人だと言うが、確かにこういう時、禰豆子もずっと年上の義勇のことを可愛いと思う。
「……悪かった。一度くらいはちゃんと書けばよかったな」
 僅かに苦笑しつつ、頭を撫でてくれる義勇の手は、優しい。それを微笑ましく見ている炭治郎の、眼差しが温かい。
 ああ、もっと、もっと、この時間が続けばいいのに。じゃあ今度は長い手紙を書いてと、ねだれたらどんなにいいだろう。

「そうだ。このあいだお話してくれた、鬼になろうとした人の話を、カナヲちゃんにも教えてあげたの。すっごく怖がっちゃって、可哀相なことしちゃった」
「そっかぁ。カナヲは怖い話苦手だもんな」
「禰豆子の話し方も上手かったんだろう。俺たちより上手だ」
「お兄ちゃんたちのほうが上手よ。私、お兄ちゃんたちのお話大好きだもの」
 炭治郎が身振り手振りをつけて面白可笑しく、義勇が言葉少なではあるが雄弁に語ってくれた、様々な話を覚えている。禰豆子だけでなく、この屋敷を訪れる子供たち皆が、炭治郎と義勇のお話を聞きたがったものだ。
 恐ろしいけれど悲しい鬼たちの話。鬼にされても決して鬼の本能に負けなかった女の子と、泣き虫だけれど心優しく本当は強い剣士が、結ばれる話。
 獣のように乱暴だけれど真っ直ぐな心根の剣士が、自分の心を閉ざしていた女の子を娶るまでの苦労話。太陽のように明るく笑う思い遣り深い男の子と、辛い時でも弱音を吐かずに寄り添い笑う女の子の恋物語。
 狐面の不思議な少年と少女。天狗の面を被った厳しくも優しい翁。偉そうだったりぼんやり屋さんだったりするお喋りな鴉たち。小さく可愛いけれど勇敢な雀。強く優しい様々な人たちの様々な人生。
 雪降る中で焚かれる篝火、力強い神楽。お日様の力を宿した不思議な刀。それを振るって鬼を斃す剣士たち。鬼の呪物にまつわる幾つかの冒険譚。
 もっとずっと小さい頃から炭治郎と義勇が語ってくれた、それら全ての物語を、禰豆子は覚えている。
 楽しい話も、恐ろしい話も。悲しくて思わず泣いてしまった話だって、全部覚えている。
 二人の話は、禰豆子にとっては遠い世界の御伽噺のように思えるものが多かった。特に不思議に思ったのは、一年中咲き乱れる藤の花の話だ。想像も出来ない鬼や、そんな鬼と戦う剣士たちよりも、見知った藤の花の話のほうが、まだ十二歳の禰豆子には不思議に思えた。

けれどそれも、もう聞くことが出来ない。今日この時を限りに、もうお話してとねだることも出来ない。