夜と朝の狭間で

 さて、なにからお話ししましょうか。怪力乱神を語らずなんて言いますが、怪奇雑誌の記者さんなんかやってるぐらいだ、人知を超えた怪異ってのは本当にあるんだと、お嬢さんも信じていらっしゃいますかね? お頭の螺子がちょいと緩んだ輩の眉唾物の与太話……里じゃそんな風に言われていたんじゃありませんか? いやいや、いいんですよ。元号が昭和に代わって早十五年にもなります、そんな化け物が本当にいるなぞ信じる者のほうが少ないに決まってます。
 でもね、あたしは本当に鬼に遇ったことがあるんですよ。あれは、そう、十七年前ですか。震災があったでしょう? ああ、お嬢さんはまだ生まれていないかな。へぇ、震災の翌年生まれですか。やっぱり若いねぇ。あの時は本当に大変でねぇ、地獄を見たような気になったもんでした。おっと、話がまたずれた。すいませんね。
 あれはね、震災が起きるほんの一週間ほど前でした。まだまだ暑くてさ。あの時もあたしは、ここじゃあないけども山にいた。いえ、住んでいたわけじゃないんですけどね。なんというか、こんなことを若いお嬢さんに言うのはお恥ずかしいばかりですが、今じゃこんな枯れた生活をしてますけども、あたしもね、若い時分には結構悪さをしてまして。いや、本当にお恥ずかしい。
 これでもね、あたしは生まれも育ちも上等の部類だったりするんです。里じゃちょいと知れた名家ってやつでして、金に困ったことはなかったし、お頭のほうも小さい頃から神童なんて呼ばれたりしてね。自慢じゃないが実は帝大の医科を出てます。そうは見えないでしょう?
 ええ、はい、誰が見たって順風満帆。将来は約束されたようなもんでした。そうそう、これ。この髪もね、当時はちゃんと黒々してたんですよ? うん、なぁんにも困るようなことなんてありゃしない、心配事もない。うちは米騒動の時でさえ三度三度飯が食えたぐらいのお大尽でしたからね。卒業して里に戻りゃ親父が病院建ててくれることになってました。
 でもね、おかしなもんで他人様から見りゃなに不自由なく満たされてるような生き方をしていても、不平不満てぇのは知らず身の内に積もって澱んで、あたしのように道を外れる奴も出てくるわけです。医科に進んだのだって周りが頻りに勧めたからで、学友のようにやれ人を救いたいだとか、やれ不治といわれる病を一つでも減らしたいだとか、そんなご立派な目標があったわけじゃない。
 だからですかねぇ、夢だの目標だのを語る周りの奴らを見ているうちに、どんどん自分が何者なのか分かんなくなっちまいまして。ただただ鬱屈だけが積もって澱んで、学校を出ても医者として働く気にも里に戻る気にもなれずに、ダラダラと無為徒食な毎日を送ってました。親もその頃にゃ口煩くなってきて、それにまた苛立って、憂さを晴らしたくてどんどん荒れていく。
 いやはや、若かったんでしょうねぇ。哲学なんてぇ高尚なもんじゃあないが、なまじっか学があったもんだから、悪さをするにも自分の中で理屈を捏ね繰り回しちゃあ自分なりに正当化しちまう。そうなると飲む打つ買うは当たり前、人を傷つけることにも躊躇いがなくなっていくんですな。ほら、自分ではちゃんとした理由があると思い込んでますんで。
 そうこうするうちにどんどんまっとうな道には戻れなくなっちまって……ああ、すいませんね。あたしの身の上話なんざぁ、どうでもいいやね。そうそう、鬼の話でしたっけ。
 まぁ、あの時もね、町でちょいとしでかした悪さのせいで人に追われてまして、それで山ン中に隠れていたわけです。ほとぼりが冷めるまでと思いつつ、こんな感じの打ち捨てられた山小屋でね、数か月は一人寂しく過ごしてました。ん? いやいや、大したことはしてませんよ。お嬢さんみたいにおぼこい子にお聞かせするのは申し訳ないが、男女の縺れというか、はっきり言っちまえば軽い気持ちで手をつけた女の兄貴が警官だったもんだから、責任を取れだなんだと揉めたのが広がっちまって……いやはや、本当にお恥ずかしい。
 あぁ、良けりゃもっと茶を飲んでください。冷める前にね。少しは身体が温まりますからね。
 まぁ、そんな具合で一人寂しく無聊をかこっていた時に、一晩の宿を求める二人連れが現れまして。これがまたなんともおかしな二人でした。
 年の頃は十五、六の少年と、二十歳そこそこに見える青年でね。二人ともまだまだ暑いっていうのに羽織なんぞを着込んでさ。ああ、しっかり覚えてますよ。忘れるもんかね。少年は市松模様、青年のほうは半無地半柄の奇妙な羽織を着てました。
 羽織の下は軍服っぽい詰襟で、洋袴の足にはきっちりゲートル巻いてさ。でも軍人や警官と違って草履履きだし、あたしが知るどんな軍服や制服とも違うようだったし。ああいう人たちってのは、洒落めかして服に違いを出すなんて出来やしないでしょ? なのにあんな羽織姿なんだもの。なにより少年の年がね、若すぎるでしょ、流石にね。
 なのにね、二人揃って腰に刀をぶら下げてるんだから、こっちは目を白黒させるしかないよね。ふふ、驚いてらっしゃるねぇ。ええ、あたしも驚きましたよ。帯刀禁止令が出たのは明治の頃ですよ? 大正になってもう十年以上経ってたんだ。流石にもうどこを探したって刀ぶら下げた市民なんていやしませんや。
 警官から逃げ回ってる身の上としちゃ戦々恐々、一瞬すわ追っ手かなんて思わずびくついちまったもんですが、宿を乞うてきた少年がなんとも腰が低くて礼儀正しくてね。本当に恐縮しきりってぇ具合だったんで、まぁ大丈夫だろうってんで招き入れることにしたんです。
 で、入ってきた二人を改めて見て、またびっくりですよ。戸口のうすっ暗がりじゃあ分からなかったけども、石油ランプの灯りの下で見た二人は、そりゃもう人目を惹く顔をしてましてね。
 少年のほうは額に大きな痣があったけども、なんとも可愛らしい感じでさ。笑う顔が純朴そうで、擦れたところがまったくなくて。髪やおっきな目がちょいと珍しい赤味を帯びてるのが印象的でね。そうそう、耳に大振りな耳飾りなんかしてたんだけども、それでも浮ついたようには見えないの。如何にも真面目で朗らかな子ってぇ感じだったねぇ。
 もう一人の青年はね、まるで錦絵から抜け出してきたかってぇぐらい、そりゃあもう綺麗な顔をしていてねぇ……藍色がかった目はきりりと涼やかだし、まつ毛なんて女が羨みそうなぐらい黒々と長くってさぁ、つい見惚れちまうぐらいの男振りの良さだったねぇ。二枚目看板張れそうな色男だってのに、とんでもなく無口無表情なもんだから、とびっきりの名人が作った生き人形みたいに見えたもんです。
 あたしもかなり遊んできたほうだけど、あんなに綺麗な男は秘密クラブでも見たことがなかったなぁ。
 ん? ああ、昔でいうところの陰間茶屋ですよ。明治の頃に鶏姦条例で取り締まられて陰間茶屋もすっかり消えたけどね、無くなるもんじゃあないよね、ああいうのは。
 でね、女めいたとこはまったくないし、愛想なしにもほどがあるってぇくらい表情一つ動かさないんだけどさ、そこがまた唆るったらありゃしない。陰間としちゃあ盛りは過ぎた年頃とはいえ、散る花ってのも乙なもんだ。丁度花も盛りの頃合いの可愛い坊やと並んで座ってると、まさに眼福。対照的な花二輪、たまらん風情があってねぇ。
 おっとっと、そんなおっかない顔しないでくださいよ。通好みのお遊びってやつですよ。
 まぁ初心なお嬢さんじゃ顔を顰めるのも仕方ないやね。えーと、どこまで話しましたっけね。
 ああ、そうそう。あの時もこんな風に茶を出して……そう、今お嬢さんが飲んでるのと同じようにね。まだ暑い盛りっていっても山奥のことですからね、夜はやっぱり冷えるんで。
 でね、やっぱり気になるじゃないですか。夜分に山越えなんてさ。わざわざ山道歩かなくても汽車だって通ってたからね。風体見たって怪しいっていうか、綺麗な兄さんだけでなく、まだ子供って言っていい坊やまで刀ぶら下げて夜の山道歩いて越えようってんだもの。訳ありに思うじゃないですか。
 だからね、聞いてみたんですよ。なにか事情があるならお力になりましょうかってね。
 こう、坊やの手を取ってね、弟が生きてりゃ坊ちゃんぐらいの年頃でした。他人事とは思えませんや。あたしで良けりゃなんでもしますよ、ってさ。
 ふふ、さっき陰間がどうこう話した時、お嬢さんえらく不快そうだったけど、その二人理無わりない仲だったみたいでしたよ? あたしが坊やの手を取ったら、綺麗な兄さん眉間に皺が寄ってたもの。それまでまったくの無表情だったってのにね。
 いやぁ、嬉しかったねぇ。だってそうでしょ。二人が道ならぬ仲なら話は簡単。後始末に苦労がないじゃないですか。いちいち埋めたり流したりしなくてもさ、手首結び合わせてそこらに転がし時ゃ、勝手に心中だと思われるもんねぇ。あたしがたっぷり遊んだ後でも、心中者ならこの世の名残に思う存分抱き合ったんだろうで済むじゃない。
 そうだよ、そうなるべきだったんだよ。そうじゃなきゃおかしいんだよ。
 なのにあのガキ、なんてぬかしやがったと思うね。

 お願いを聞いてくれるなら、今すぐに山を下りて自首してください……だとよ。

 バレてないはずだった! 見破られたことなんて一度もなかった! なのにあいつら最初から俺を疑ってやがった!
 ……おや、震えてるね、お嬢さん。ふふふ、そうだよねぇ、お嬢さんが正しいよ。皆そんな風に信じられないって顔して怯えてたよ。
 俺はね、心ん中にでっかい哀しみだとか、苦しさだとか抱えてる奴らが大好きでさぁ。幸せいっぱいに暮らしてる奴より、今にも死んじまいたい、けど死ぬことも出来ないって奴らのほうが、裏切られた時にそりゃあもういい顔するんだもの。そりゃそうさ、だって幸せな奴らには他にも救ってくれそうな相手がいるけど、あいつらには俺しか縋れるもんがないんだもんね。
 にこにこ笑って近づいて、優しくしてやって、一緒に泣いてやって。そうやって奴らが俺を信用しきって、隠してた苦悩を全部さらけ出して救いを求めてきた瞬間に、突き放して嘲り笑ってやるんだ。絶望の顔ってのはいいよねぇ。滅茶苦茶興奮するよ。でももっといいのは、嬲って貪って好き放題穢し尽くしてやった後で、いよいよ殺されるって時に見せる、壊れる瞬間の顔だね。そいつがぎりぎり生きてる拠り所みたいなちっぽけな希望が、カラリって音を立てて壊れて崩れる瞬間ってのがあるの。それを見るのがたまらなく好きなんだ。
 あの二人は本当に絶品なご馳走になるはずだったんだ。分かるんだよ、いっぱい見てきたからさ。にこにこ笑ってようと、なにも感じませんってな無表情だろうと……お嬢さん、あんたみたいにさも真面目に生きてますって澄ました顔でいても、ね。胸の奥にどうしようもない苦しさを抱え込んでる奴は、俺なら見ただけで分かるんだ。
 だからあいつらを見て、すぐに思ったよ。あんたを見た時と同じように。これは俺の為に用意された極上の獲物だって。時間をかけて信用させるような状況じゃなかったのが惜しかったけどね。でもまぁ壊す手段なんて他にもあるから。あいつらが情死を選ぶぐらいの仲なら、むしろそっちのほうが楽しめるってもんだったしさ。
 あのガキがふざけたこと言いだしやがった時には、驚いたし腹も立ったけど、まだ俺も余裕があったと思うよ。手順は狂ったけど結末は変わらないんだから。ガキの胸倉に掴みかかろうとした時も、頭の中じゃ奴らの甚振いたぶり方を考えてたぐらいだ。二人並べて行きつ戻りつもいいが、まずはガキのほうを自分から俺のを咥えこんで腰振るまで嬲ってやるほうが面白いかなとかさ。それをどうすることも出来ずに見せつけられたら、人形みたいに綺麗な面はどんな風に歪むんだろうって考えただけで、愉しくてしょうがなかった。
 ……そうさ、なにも手抜かりはなかったんだ。全部いつも通りのはずだった。警戒されない笑顔も仕草も、いつも通りなんのしくじりもなく俺は演じてた。薬の調合だって完璧だったさ。あいつらだって躊躇いなく飲み干してた。お嬢さん、あんたみたいにね。
 うん、あの茶だよ。俺は優秀だからさ、意識はそのままに身体に力が入らなくさせる薬だって作れるんだ。帝大の医科にいた頃に作ったんだよ。
 医科は実験し放題なのが良かったなぁ。研修で診た病人どもで試してさ、効き具合まで完全に俺の意のままに出来るほどになったんだぜ? 凄いだろ? 俺だけが知ってる、俺だけが作れる薬だからさ、気に食わない奴の心臓を止めたところで誰も俺を疑わなかった。当然さ。だって俺はいつもにこにこ優しくて金持ちなのに驕らず優秀で、完璧な人間なんだから。
 俺と会った後で心臓が止まって死ぬ奴らが増えていっても、俺がやったっていう証拠なんてあるわけない。俺の薬はそれぐらい完璧なんだ。完璧な俺が作ったんだから。
 俺がさも悲しい辛いって泣いて、自分が気づいてやれば助かったかもしれないのにって嘆いてみせりゃ、誰も彼もお前の所為じゃないって、疑うどころか俺を慰めてくる始末だ。愉しいったらありゃしない。
 俺より優秀な奴ら、俺より好かれてる奴ら、そんなのはいらないんだ。だから殺してやって当然さ。俺は誰より優秀で、誰より好かれてるんだから。気に入った奴を嬲り犯すのも、殺すのも、俺だけは許される。完璧な俺に与えられた当然の権利なんだから。
 なのに……なのにあの野郎、俺の手を刀の鞘で突きやがって! この俺の手を! 触るなだと? ふざけんな! 獲物の分際で!
 なぁ、お嬢さん、もう動けないよな? 手も足も力が入らないだろ? そうさ、俺の薬は凄いんだ。お嬢さんだってそう思うよねぇ? 今まさに効き目を実感してるんだから、どんなに凄いことか分かるよねぇ?
 あいつらだってあんたみたいになす術もなく転がる頃合いだったってのに、なんであの野郎は動けたんだよ! こんなにも完璧な俺を睨みつけた挙句に、汚い手でそいつに触るななんて言いやがって!
 ガキもガキだ、貴方からは酷い臭いがしますなんて鼻顰めやがってよ! そうだ、あいつもあの野郎と同じで平然と立ち上がりやがった。ガキならガキらしく怯えて泣き喚けってんだよ! 泣いて喚いて俺に許しを乞うべきだろうが!
 ああ……そうだ、その時だった。あのガキが急に険しい顔して、俺に言ったんだよ。逃げてくださいって。

 鬼が来ます……ってさ。