夜と朝の狭間で

 鋭い声音が自分の名を呼ぶのを聞いた。
 男の足の陰になって、女からは声の主は見えない。けれど、女──花子には、その声だけで十分だった。
「日ば、しら…さま…」
「嘘…だ……嘘だ嘘だ嘘だっ!! なんでお前ら……!」
 花子の微かな声を掻き消して、男の驚愕の雄叫びが響き渡る。兎にも角にも報告をと思う間も有らばこそ、花子の身体は温かな腕に抱え込まれていた。
「大丈夫かっ!? すぐに解毒剤を打ってもらうから! ああ、額に怪我までしてるじゃないか。痕が残らないようちゃんと手当てしてもらおうな」
 心配そうに見下ろしてくる大きな赫い瞳。凛々しくもあどけなさを残す顔立ち。市松模様の羽織。揺れる耳飾り。
 ほら、ちゃんと間に合った。信じていた。きっと竈門炭治郎と冨岡義勇が──日柱様と水柱様が来てくださると。
 遅れてやってきた安堵が涙を呼ぶが、花子はそれをぐっと堪えた。まだ己の任を果たしていない。己に科した誓いを果たすまでは泣かない。
「鬼、じゃ…ありま、せん。でも、人を…食べ、て……」
「分かった、もういい。もう十分だから。……義勇さん!」
 視線は花子に据えたまま背後に呼び掛けた炭治郎に応じたものか、ザリッと足を擦るような音がした瞬間に、男が苦鳴と共に吹き飛ぶように転げた。
 炭治郎の身体の陰になっていた戸口の辺りに、ようよう視線を向ければ、左右異なった生地仕立ての羽織を纏い、水際立った美貌の青年──義勇が突きの姿勢で刀を構えているのが見えた。抜刀はしていない。男を襲った一撃はあくまでも刀の鞘であったらしい。
 それでもその衝撃に男は息も出来ぬようで、蹲り意味をなさない呻きを断続的に上げた後、ガハッと音立てて血液混じりの吐瀉物を床にぶちまけた。
「なん、で……」
「炭治郎、その娘を早く外に」
「はいっ! 花子、もう大丈夫だからな」
 もはや男などまるで意に介した様子もなく、花子を案じながら小屋を出んとする二人に、ばっと身を起こした男が吠える。
「お前らなんで俺を斬らない! 俺の頚を刎ねるために来たんだろうが!」
 おそらく激痛をも上回る怒りにその身を支配されているのであろう。男は吐瀉物混じりの泡を飛ばしながら喚きたてる。
「お前らは鬼を狩る鬼狩りだって言ってたじゃないか! なら俺を斬れよ! 俺は鬼だぞ!」
「……思い出した。お前には一度会ったことがあるな」
 ちらりと男に視線を向けた義勇の瞳の冷徹さに、炭治郎の腕の中で花子は思わず首を竦めそうになった。身体の自由を奪う毒よりも、狂った男の妄言よりも、よほどその眼差しの凍り付きそうな冷ややかさのほうが恐ろしい気がする。
「炭治郎に不埒な真似をしようとしていた男だろう?」
「えっ!? そんなことありましたっけ?」
「あった」
 むすりと言い捨てる義勇と、自分を抱え上げたまま小首を傾げて記憶を探っていたらしい炭治郎が、思い出したと叫ぶなり男を睨みつけるのを、花子は視線だけで代わる代わる見つめるしかなかったが、それでも先の恐れは薄れていた。
「義勇さんのこと犯し…ぐわぁ! 言いたくない! 義勇さんにそんなこと言うなんて、俺の言葉じゃなくても言いたくないぞ! 確かに義勇さんはとんでもなく綺麗で可愛い人だけど! あんな嫌らしいこと考えるだけでも万死に値するからなっ、お前!」
 憤懣やるかたない様子の炭治郎に、義勇がすんっとなんとも言えぬ顔になるのを見て、とうとう花子は小さく笑ってしまった。微かな吐息が漏れただけではあったが、それは確かに、花子がこの小屋を訪れて以来初めて本心から零した笑みだった。
「なんなんだよ……なんなんだよてめぇら! ふざけんな! なに呑気に話してやがる! 俺は鬼だって言ってるだろ! 余計な御託を抜かしてねぇで俺を狩れ!」
「俺たちの刀は鬼を狩るためだけにある。外道であっても人は人だ。人の法で裁かれるがいい」
 その時、花子は男が言っていた人が壊れる瞬間とやらを知った。他でもない男自身の姿によって。
 がくりと糸が切れたように足を折り座り込んだ男は、一気に年老いたように見えた。青ざめた顔からは全ての表情が抜け落ちて、ぶつぶつと呟く声にも力がない。
「違う人じゃない俺は完璧だ俺は誰より優秀なんだ俺は鬼だ人じゃない鬼だ人より強い鬼だ馬鹿で弱っちい人なんかじゃない鬼だ鬼なんだ」
 そんな声など聞こえぬとばかりに、戸口に歩を進める義勇と炭治郎の足を寸時止めたのは、それでも男が投げかけた問いだった。
「化け物……お前らこそ鬼なんだろ。化け物なんだろ。あの時とちっとも変わらねぇ形して、歳も取らねぇで……お前らだけ狡いだろ。卑怯じゃねぇか。お前らばかりなんでだよ。何者なんだよ……お前ら」
「俺たちにも、その答えは見つけられずにいるけど……だけど、どんなに迷っても、辛くても、人であることはやめない。鬼にはならない。絶対に」
 振り向かず、けれど強い声で言った炭治郎に、男の応えが返ることはなかった。