夜と朝の狭間で

 一度だけ父にこっそり聞いてみた時の答えは、夜と朝の狭間にいる人だった。
 父も、母も、二人にそれを聞いたことはないのだと言う。祖父母もその答えを知らなかったはずだと、父は苦笑した。父が祖父母に、祖父母が曽祖父母に訊いたときの答えが、その言葉だったのだと。ずっと昔からきっと、その言葉が伝えられてきているんだろうねと、父は笑った。
 不思議に思っても、いつの間にかそんなことはどうでもよくなったんだよ。二人のことが大好きだから、帰ってきてくれるだけでよかったんだよと、優しく笑っていた。
 禰豆子も二人が大好きだ。だからきっと、こんなことにならなければその問いは、胸にしまい込んだままでいただろう。
 だが、もう二人には逢えないのだ。これから禰豆子が行くところよりも、もっとずっと遠いところに、二人は行ってしまう。
 恐る恐る問いかけた禰豆子を抱き締めたまま、炭治郎と義勇は、顔を見合わせクスリと笑い合った。
 炭治郎が悪戯っ子めいた笑みを浮かべて、義勇に向けて自分の耳をちょんとつついてみせる。
 意を察したらしい義勇が苦笑しつつ、己の耳を塞ぐのを確かめて、炭治郎が悪戯っぽい笑みはそのままに禰豆子の耳に顔を寄せて囁くのを、禰豆子はドキドキとしながら聞いた。ふわりと、優しい匂いが漂った気がした。
「俺もずっと分からなかったんだ。自分が何者なのか。でも今は、誰に訊かれても答えられるよ。俺は……」
 その答えに、禰豆子はきょとんと瞬きした。そして、炭治郎と顔を見合わせ思わず笑ってしまった。
 それは、禰豆子が想像していたどんな答えよりも、素敵な答えだと思った。
「義勇お兄ちゃんは? 義勇お兄ちゃんは何者なの?」
 なんとなく答えは分かっていたけれど。でも義勇の口から聞きたくて、弾む声で問う。
 交代とでもいうように炭治郎が耳を塞ぐと、義勇も小さく笑いながら、炭治郎と同じように禰豆子の耳に唇を寄せてくれた。やはりまた鼻先を擽った匂いは、炭治郎とは少し違うが、同じように優しい。
 ほんの少しの違和感は、義勇の囁いた言葉にすぐ消え失せた。
 義勇の答えは禰豆子の思った通りだったけれど、思ったものよりさらに素敵な答えだったので、禰豆子はいよいよ嬉しくなった。
 もういいや、と思った。逢えなくなるのは哀しいし辛い。けれど、二人が幸せならそれだけでいい。
 二人が何者であるのか。その答えが逢えなくなる一因だったとしたら、人じゃなくてもいいよと、二人が何者であっても大好きだよと言うつもりだった。だから変わらず帰ってきてよと、言うつもりでいた。
 でも、もういい。この屋敷を訪れる時と同じように、二人が寄り添い合って、笑い合って行くのなら、私も笑って見送ろうと禰豆子は思った。
 それが、長い長い時を生きてきたのであろう二人が、心から望むものであるのなら。大事なのは、なにより大切なのは、炭治郎と義勇が笑っていること。ただそれだけだから。
 元気でというのは相応しいとは思えないが、さよならはやっぱり言いたくない。だから禰豆子は笑って言った。
「今までいっぱい、いっぱい、お話してくれてありがとう。いっぱい、いっぱい、優しくしてくれてありがとう。炭治郎お兄ちゃん、義勇お兄ちゃん……ずっと、ずっと、大好き」
 ぎゅっと力の限りに抱き着いて言えば、二人は揃ってとびきり優しい笑みを見せてくれた。
「俺たちも大好きだよ……禰豆子」
「元気で」
 こくりと頷く禰豆子に頷き返し、義勇と共に立ち去ろうとした炭治郎が、ふと足を止めた。
 振り返り耳の飾りを取ると、畳の上にそっと置く。
「禰豆子、良かったらこれは禰豆子が貰ってくれないか? 禰豆子に持っていてほしいんだ」
「いいの? それ、炭治郎お兄ちゃんの大切なものなんでしょ?」
「いいんだ。もう約束は十分果たしたから、そろそろお役御免にしてやらなくちゃ。禰豆子が貰ってくれたら、俺たちも嬉しいよ」
 もっとも俺が付けていたから今まで保ってただけで、もしかしたらすぐに壊れちゃうかもしれないけれど。そう申し訳なさげに言うから、禰豆子はありがとうと微笑み頷いた。
 不意に軽やかな電子音が響いた。それに合わせるかのように、どこかで鴉の鳴く声がする。
 ああ、時間が来てしまった。お別れだ。
 二人の姿に、笑顔に、ノイズが掛かる。
 禰豆子の瞳に再び浮かぶ涙が、より二人の姿をぼやけさせる。
 なにか。なにか言わなくては。最後なんだから。焦る禰豆子の前で二人の姿が消えていく。
「……いってらっしゃい!」
 咄嗟に出たのは、いつもの言葉だった。
 一瞬目を見張った二人が、泣きだしそうに見えたのは気の所為だろうか。すぐにいつもの笑みを浮かべてくれたから、禰豆子には分からない。

「……いってきます」

 二人の声が重なって、笑顔が消えていく。
 ふと、炭治郎が優しい声で囁くのが聞こえたが、もうその意味を問いかけることは出来なかった。
 二人が消えたと同時に白く染まった視界に、終わりを知る。抱き締められていた身体が失った温もりを惜しむのか、快適な室温が保たれている筈なのに、肌寒いような気にさせる。
「禰豆子、炭治郎さんたちにお別れは言えた?」
「パパ……」
 声のした方へと振り返りVRチャットのゴーグルを外す。部屋へと入ってきた父に、禰豆子は泣き濡れた瞳のまま、こくりと頷いた。
 見慣れている筈の部屋は、荷物を全て運び出し終えてがらんとしている所為か、なんだかよそよそしくすらある。
「出航時間まで間がないよ。話は船でしようか」
 父に促され部屋を出る。生まれてから十二年間過ごした部屋だ。あの古い屋敷を模したチャットルームほどの思い入れはないつもりだったが、やはり寂しさはあった。
 最後に目に焼きつけようと振り返った禰豆子は、床になにかが落ちているのに気づいた。
 きらりと光ったそれがなんなのか認識した瞬間に、禰豆子は目を見開いた。
「これ……っ!」
 慌てて駆け寄り拾い上げたそれは、カードのような形のピアス。炭治郎の耳で常に揺れていた、炭治郎の宝物。
「嘘……なんで? なんでこれがここにあるの!?」
 炭治郎は確かにくれるとはいったけれど、きっといつもの炭治郎の手紙のように送られてくるのだと思っていた。向こうに着いてから受け取ることになるのだろうと。
「……ごめんね、禰豆子。さっきまで二人はここにいたんだよ」
「ここに……? なんで! なんで教えてくれなかったの!? パパ、どうして!?」
 ぎゅっとピアスを握り締めて父に詰め寄れば、父は困り顔で微笑んだ。
「それが炭治郎さんと義勇さんの望みだったから」
 チャットでしか逢わないことが? それが二人の望み? 今までだって何度も一緒に暮らそうよと我儘を言ったけれど、いつだってそれは無理なんだよと言い聞かされていたのに。なのに、ここにいたの? ここに二人は来られたの? それなら何故、チャットでしか逢ってくれなかったの?
 禰豆子の口から飛び出しかけたそんなの酷いという叫びを、父の声が止めた。
「……残っている人も少ない今日しか、炭治郎さんたちは来られなかったんだよ。二人にはIDがないからね。本当だったらパパや禰豆子も今日まで残ることは難しかったんだけど、産屋敷の私有船に乗せてもらえることになったから、この時間まで残れたんだ。
 二人はね、最後に生身の禰豆子と話したいけど、それをしてしまったら、きっと離れがたくなるからって言ってたよ」
 父の声は穏やかだ。
 狡い、と禰豆子は唇を噛んだ。そんなことを言われたら怒れないではないか。
 抱き締めてくれた腕の温もりは、力強さは、フィードバック技術で再現されたものではなく、生身の二人の温もりであり、愛しさを籠めた抱擁によるものだった。気の所為かと思った匂いは、二人が纏う、二人の匂いだった。
 ああ、なんで気づかなかったんだろう。合成された匂いを炭治郎は好まないからと、VRチャットルームの嗅覚システムは常にオフにされているのだから、匂いを感じたのならそれは、生身の禰豆子が感じ取ったものだ。あの時感じた違和感はそれだったのだと、今更気付いても遅い。
「正直言うと、禰豆子のことが羨ましいと思っちゃったよ」
 落ち込む禰豆子の頭を撫でながら父は言う。
 パパだって二人のことが大好きなのに、二人が最後に一緒にいたいと思ったのは禰豆子一人なんてさ。あ、でも禰豆子のお陰でパパも初めて本物の二人に逢えたから、やっぱり禰豆子に感謝しなくちゃね。
 そう言って笑う。
 禰豆子を見下ろす眼差しは優しい。その目が赤くなっていることに、禰豆子は気づいた。
 きっと父も泣いたのだろう。たくさん、たくさん、泣いたのだろう。
 父が幼い頃には、炭治郎と義勇は小さな父をとても可愛がってくれたんだと。多分他の子たちよりもパパが一番可愛がられてた筈だよと、よく父が自慢していたのを思い出した。
 善逸、と。
 二人が呼んでくれるその声が大好きなんだと、その話をするたび小さい子供のように嬉しげに父は笑う。
 パパは子供の頃は泣き虫だったから、泣き止むまで二人がよく抱っこしてくれたんだよ。炭治郎さんの大切な友達に、パパはとっても似てるんだってさ。泣き虫なところもおんなじだって笑われて、ちょっと悔しかったなぁ。パパが怒るとね、ごめんごめんって笑いながら謝ってくれて、炭治郎さんが子守唄を歌ってくれたんだぁ。でも、炭治郎さんの子守唄は下手くそ過ぎて、耳がいいパパには辛かったなぁ。
 そんな思い出話を語る父──善逸は、本当に楽しそうで、禰豆子も聞いているだけで楽しくなったものだった。
 それなら私は誰に似てるのかな。お兄ちゃんたちの大切な誰かに似てるのかな。だからお兄ちゃんたちは、私にとっても優しくしてくれるの? と、尋ねた禰豆子に善逸が返してくれた答えは、今も思い返すとちょっぴり不思議な気持ちになる。

 禰豆子はパパのおばあちゃん、禰豆子のひいおばあちゃんに似てるらしいよ。ひいおばあちゃんが亡くなった年に禰豆子がママのお腹の中にいることが分かって、それを報告したら炭治郎さんと義勇さんに、生まれてくるのはきっと、桃色の瞳をした可愛い女の子だよって言われたんだ。そうしたら、本当に桃色の瞳をしたこんなに可愛い禰豆子が生まれた。まだ名前を付ける前の禰豆子の写真を見た炭治郎さんがね、禰豆子って、ひいおばあちゃんの名前で呼んだんだ。それでひいおばあちゃんの名前を貰って、禰豆子って名付けたんだよ。

 その話を聞かせてくれた時、善逸は、そんなことが本当にあるのかは分からないけど、もしかしたら禰豆子はひいおばあちゃんの生まれ変わりなのかもって思ったんだと、少しだけ遠い目をしていた。パパはおばあちゃんっ子で、おばあちゃんがとってもとっても大好きだったから、そうだったら嬉しいなって思ったんだよと、笑っていた。
 おばあちゃんもね、禰豆子と同じ綺麗な桃色の瞳をしていたよ。そう言って笑う善逸に、パパは桃色が一番好きだよねと禰豆子が笑い返すと、いっそう嬉しそうに笑ってくれた。
 そんなことを思い出しているうちに、少しだけ憤りも薄れてきて、禰豆子は漸く涙を拭った。
「さ、行こうか。話は船でって言ったろ?」
「うん……」
 促されて、小さく頷く。炭治郎と義勇には言えなかった言葉を、振り返り見た部屋に向けて禰豆子は、そっと唇に乗せた。
「さよなら……」
 十二年間過ごした禰豆子の部屋。もう二度と帰ることが出来ない場所。
 明日にはこの場所も消え去るのだろう。禰豆子の思い出の場所は、思い出の中にしか存在しなくなる。
 先ほどまで装着していたチャットキットを、部屋の前に待機していたポーターロボに渡し、炭治郎のピアスだけを手に歩き出す。