夜と朝の狭間で

 肩身が狭い。
 花子の胸中はまさしくその一言だ。一体なんでこんなことになったのか、事態は花子の理解の範疇を超えていて、現状認識が追い付かない。
 救いは自分の隣で同じように緊張を露わに座っている上官──後藤の存在だが、場違い同士の親近感はあれど、それでこの状況のなにが変わるわけでもない。二人揃って固まりきって座っていることしか出来ずにいると、後藤が疲れた声で呟いた。
「なんでこんなことに……現役柱三人に元柱とかねぇわ、一緒に飯とかほんっとねぇわぁ……」
「そうですよねっ、普通こんなことないですよねっ」
「ないない、あるわけねぇっ。いや、確かに俺も日柱と鳴柱は顔馴染みだけどな!? ただの隊士の頃から知ってるけどな!? 元音さんなんてほっとんど面識ねぇよっ?! ていうか花子、お前の柱の引きの良さなんなのっ!? なんでこんな柱とばっかりいきなり仲良くなってんだよ!」
「私みたいな新米の隠に、柱と仲良しなんて恐れ多いこと言わないでください! 鳴柱様と宇髄先生ならまだしも、日柱様や水柱様と顔を合わせたのは今日で二度目なんですよ。後藤さんのほうが日柱様たちとは懇意にしてるはずです。それに、まさか勇治郎さんが鳴柱様のご子息だなんて……」
 本当になんでまたこんなことにと、ついつい遠い目をしてしまう。
 事件の報告の為に支部に戻ると告げた花子に、うちで食事しながら話せばいいと言い出した勇治郎を諫めるどころか、それはいいと賛同したばかりか柱二人が花子の上官の後藤まで呼び出したものだから。あれよあれよと勇治郎曰く、うち──恐れ多くも鳴柱の邸宅である雷屋敷へと、途中落ち合った後藤ともども連れ込まれてしまった。
 辞退はしたのだ、懸命に。後藤と一緒に。なのに、いいからいいから遠慮せずにと、誰一人として聞き入れてはくれなかった。遠慮じゃない。ほんと無理。後藤の顔にははっきりそう書いてあった。きっと花子の顔にも。でも、たかが一介の隠が柱に抵抗するなど、所詮無駄な足掻きでしかないのだと思い知るに終わった。
 勇治郎たちに連れられた花子に驚きを見せたものの、鳴柱──我妻善逸はすぐに相好を崩し、奥方である禰豆子に花子を紹介してくれた。花子と顔を合わせるなり、禰豆子が一瞬泣きだしそうに顔を歪めたのが気になったが、その後は心底嬉しげに花子の手を取り座敷に案内するものだから、辞去する言葉も出せなくなって。とどめとばかりに折角だから花子の育手だった元音柱、宇髄天元も招待しよう、花子の初任務の祝いを兼ねての宴だからきっと喜ぶだろうなどと、浮かれた様子で善逸が宇髄を呼び出してしまって……結果、こうして後藤と二人、晩秋だというのに咲き誇る藤の花が見える広い座敷で、ふかふかの座布団に座して鯱張っている。
 東京市中でやたらと見かけるようになった贅沢は敵だとの立て看板が脳裏にちらつくほどに、目の前に並べられていく料理の数々に恐縮しきり。せめてもと手伝いを申し出ても、奥方様に有無を言わさぬ強さでお客様は寛いでいるようにと言い切られ。必死に固辞したお陰で柱を差し置き上座に座らされることだけは避けられたが、上げ膳据え膳でもてなされるのは正直勘弁被りたい。
 疲れていることだろうしお腹も空いているだろう、先に食べ始めて構わないと向かいに座る炭治郎ににこにこと勧められたところで、それではというわけにもいくまい。
 こそこそと後藤と話していると、後藤の反対隣りに宇髄が、花子の隣には善逸が同時に腰を下ろした。その瞬間に、後藤の目は完全に死んでいた。花子もつい頬が引きつってしまったが、素直に上座に座っておけば良かったと後悔してももう遅い。と、自分の席を立ってやってきた勇治郎に顔を覗き込まれた。
「花ちゃん、うちの母さんのご飯口に合わない?」
「おうっ、花子、うちの嫁たちの飯には地味に及ばねぇが禰豆子の飯も美味いぞ! 食え食え、派手に食いやがれ!」
「ちょっと、そこの筋肉ダルマ! うちの奥さんのご飯になにケチつけてんだよっ、禰豆子ちゃんのご飯は世界一美味しいに決まってんだろ! あーやだやだ味音痴…って、イデエェェェエエエエエッ!! 頭割れる割れる!! イィィヤァァァァァァッ! 脳みそ飛び出るからぁぁぁっ!!」
「おうおう、派手にぶちまけろ。雷の脳みそ汁なんざ地味に不味そうだが我慢してやらぁ」
「母さんの作るキノコの煮物美味しいよ? 俺がさっきの山で採ってきたばっかので作ってもらったから新鮮だし! あ、鮭大根もそろそろ出来る筈だから、花ちゃんの分は大盛にしてもらおっか!」
「はぁぁ? 勇治郎、てめぇ任務中に呑気にキノコ狩りなんかしてやがったのか。てめぇも派手に握り潰すぞ、コラッ!」
「ギィヤァァァァァァッ!! んなこと言って俺の頭潰そうとすんのやめてぇぇぇぇ!!」
「任務中じゃありませーん、おじさんたちが飯食いに来る予定だって母さんに聞いたから、迎えがてらキノコも採ってただけですぅ。慈と悟がいたらもっと採れたんだけどなぁ」
「いや、採んな採んな。柱が任務に就いてんのに、地味にキノコ採ってる場合じゃねぇだろうがよ。双子はそんな阿呆な真似しねぇよう派手に躾けなきゃなぁ」
「派手に俺の頭が取れるぅぅぅぅぅっ!! ってか、いくら育手だからってうちの息子たちに変な躾けすんなよ!? んぎゃぁぁぁぁ捻るのやめてぇぇぇっ!!」
「ちょ、俺を挟んでやりあうの、やめて…………ああぁぁぁ帰りてぇぇぇ……」
 後藤さんまったくもって同感ですと言う余裕もなく、自分の周りで騒ぎあう恩人やら育手の先生やら恩人の子息やらに、花子があわあわと口を挟むことも出来ずにいると、手厳しい一喝が落ちた。
「お膳の前で騒がない!! 埃が立つし唾が飛ぶでしょ!」
 途端にぴたりと止んだ喧騒に、思わず花子は深く深く嘆息した。
「流石禰豆子!」
「相変わらず見事だな」
 やはり口を挟むことが出来ずにいたらしい炭治郎と義勇に、鳴柱の奥方、禰豆子はにっこりと笑う。
「お兄ちゃんと義勇さんも見てないで止めて。見てるだけなら案山子だってできるわよ? 勇治郎は食事中に歩き回るんじゃありません。小さい子じゃないんだから、お行儀悪いことしないの。あと、善逸さん。いつも言ってますよね? 宇髄さんに対しての口の利き方、気を付けてくださいって。慈と悟もお世話になってるんですから」
「おー、派手に言ってやれ禰豆子!」
「宇髄さんも子供じゃないんですから、あんまりうちの人を揶揄わないで頂けますか? そろそろお年に見合う落ち着きを見せてくださいね」
 奥様たちのご苦労が偲ばれますと仁王立ちで笑う禰豆子に、大の男たちが揃って首を竦める。
「すげ……禰豆子最強じゃねぇか」
「後藤さんだってちゃんと花子ちゃんを守ってあげてくれなきゃ困りますよ。可哀相に、皆がやいやい言うからすっかり委縮してるじゃありませんか」
「いや、それ、俺も同じ……いえ、すいませんでした」
 よし、と言うように頷いて、花子の傍らに腰を下ろして禰豆子が微笑む。
「騒がしくってごめんなさいね、花子ちゃん」
 禰豆子の笑みは炭治郎のそれと似ている。勇治郎の母だけあって、勇治郎の微笑みにも重なって見えた。いずれも朗らかで温かみのある笑みは、確かに三人の血の繋がりを感じさせる。
 まだ二十代後半ほどに見えるが、勇治郎は花子と一つ違いだと言うから、母である禰豆子はおそらく三十半ばにはなるだろう。禰豆子はとても三人の子持ちだとは思えぬほどに若々しく綺麗な人だった。花子を見やる瞳には炭治郎と同じ深い慈しみがあった。
 けれど、自分の母のような年齢である禰豆子は、花子や勇治郎と同年代にしか見えぬ炭治郎の妹なのだ。義勇よりも更に年上に見えても、本来なら義勇のほうがずっと年嵩な筈なのだ。それは炭治郎や義勇が置かれた身の上を知らしめるようで、なんだか無性に胸が痛かった。
 憐れむのはお門違いだと分かっている。それと悟られたところで、きっと炭治郎も禰豆子も、花子は優しいと微笑んでくれるだろう。義勇もきっと責めることはないだろう。だが、だからこそ可哀相だなどと思ってはいけない気がした。
「あ、あの! キノコの煮物、私好きです! 好物なんです! いただきます!」
 だから、花子は禰豆子の労りに笑ってみせた。艶やかに煮含められたキノコに箸を伸ばす。噛みしめると口に広がる味わい深い出汁。花子の眉が知らず開く。
「美味しい……」
 思わず感嘆の呟きを漏らした花子に、禰豆子と炭治郎が顔を輝かせた。
「ほんと? 良かったぁ。キノコの煮物、花子ちゃんも好物なのね……もっと食べてね」
「ほら、花子。俺のも食べるといい。いっぱい食べな?」
 心底嬉しそうな様子ではあるが、二人の瞳はどこか切なげに潤んでいるようにも見えて、先の疑問がまた頭をもたげた。
 先日、神田にある隠の支部で炭治郎と義勇に初めて会った時に、炭治郎も今日の禰豆子と同じように花子を見た瞬間、瞳を潤ませたのを思い出す。花子、と呼ぶ声には例えようもない慈しみがあり、どこか懐かしげな眼差しは途方もなく優しかった。
 禰豆子も炭治郎も、花子にキノコの煮物が好物だった誰かの……おそらくは二人の肉親の面影を重ねているのではないだろうか。ふと、そう思った。
三年前に鬼から花子を救ってくれて以来、なにかにつけて気遣ってくれる理由を善逸に問うたのは、いつだったか。なかなか最終選別試験に進むことが出来ず、心折れそうになっていた頃だった気がする。自分が紹介した手前、育手の宇髄に対して申し訳なく思っていることだろうと、もうこんな不甲斐ない子供など本音では見捨ててしまいたいだろうと、我ながら捻くれた想いから出た問いだった。
 けれど、善逸はそんな花子の屈託などまるで気にした様子もなく、花ちゃんは俺の奥さんに似てるんだよねと照れくさげに言ったものだ。うちは息子ばかりだから娘が出来たみたいで嬉しいんだと、頭を撫でられている時に宇髄が通りがかったものだから、いつも通りの子供の喧嘩じみた遣り取りになってしまって閉口したのも覚えているが、それはともあれ。
 話にしか聞いたことがない禰豆子と対面して、こんなに綺麗な人に似ていると言われたのかと少し気恥ずかしさも覚えるが、重ね合わせて考えてみると、もしかしたら炭治郎たちの肉親と自分には、似通ったところがあるのかもしれないと思い至った。
 けれどそれを確かめるのは気が咎める。炭治郎や禰豆子の様子から察するに、おそらくその人はもういないのだろう。もしかしたら鬼に殺されたのかもしれない。軽々に問うて二人の心の傷に触れるのは嫌だった。自分だってもういない大切な人のことを、世間話のように問われるのは嫌だ。
 だから今はせめて笑おうと思った。二人の優しさを素直に受け止めて、嬉しいと笑っていよう。炭治郎と禰豆子の大切な人が、きっとそうしていたように。