夜と朝の狭間で

「隠の仕事も昔とはだいぶ変わったけどな、でも絶対に変えちゃいけないこともある。いいか? 胸を張って隠を名乗りたいなら事実以外を軽々しく口にするな。隠は決して憶測や噂話に踊らされるな。俺たちが集めた情報に、隊士たちは命を掛けてることを忘れるなよ?」
 花子の指導役となった後藤にそうたしなめられたのは、神田にある隠の調査支部の一つであり、表向きは雑誌社の看板を掲げたビルヂングでのことだった。
 緊張しながら初任の挨拶を交わした際の後藤は、気のいいおじさんという印象だった。実際、後藤は面倒見がよく、偉ぶったところもない。上官としては最良の部類に入るだろうと思える人であった。
 だから気が緩んだのだ、とは、言い訳にしかならない。
 後藤の経験談を交えながら調査任務についての注意などを受けている最中、話題に出た日柱と水柱の名に、呪われ者のことかと聞いた花子の声は、我ながら嫌悪と蔑みが露わだった。
 そんな花子を見る後藤の眼差しが厳しさを帯びたのに、花子は失望を覚えた。この人もなのかと思った。この人も、柱だというだけで奴らに阿るような輩だったのかと。
「花子、お前はあの泣きべそ柱の紹介だったよな?」
「……鳴柱様のことですか?」
 柱に対してなんたる口をと怒られるかと思いきや、後藤が口にした言葉に一瞬ぽかんとしてしまった。確かに、鳴柱が陰では柱の威厳など欠片も見えぬと揶揄されていることは知っていたが、花子の恩人に対してあんまりな言い様ではないかと、反感が募る。
「でもって隊士を目指してた時の育手は、女好きの元音柱だっけ?」
「あの! 確かに鳴柱様はよく泣く人ですけど、立派に柱の責務を果たしてらっしゃいます。宇髄先生だって別に女好きなわけじゃありません。侮辱するのはやめてください」
「これぐらい皆言ってるだろ? 柱のくせに鬼狩りの最中にもギャーギャー泣き喚くって聞いたけどなぁ。元音さんだって三人も嫁さんがいるじゃないか。噂じゃ他にも囲ってる女がいるってよ」
 しれっと言い放つ後藤にどうしようもなく腹が立った。いくら疑いを抱こうとも、花子にとって二人はやっぱり恩人だ。噂だけでそんな二人を馬鹿にするなんて許せない。
「お言葉ですが、後藤さんはお二人のなにを知ってるというんですか。鳴柱様が鬼を狩る現場を見たことがあるんですか? それに、宇髄先生に妾だなんて……先生がどれほど奥様方を大切に想ってらっしゃるか知らないくせに、噂なんか鵜呑みにして恥ずかしいと思わないんですかっ」
「ふーん、そりゃ失礼しました。で? そういうお前は水柱と日柱のなにを知ってんの? なにを見て呪われ者って馬鹿にしてんだ?」
 責めるわけでもなく問われた言葉に虚を突かれ、一瞬、頭の中が白く染まった。
「あ、あの……でも、皆が……」
「お前にそれを教えた奴らは二人のことをよく知ってるし、一体なにが起きてなにがどうなってるのか、つぶさに見てきた奴らだってことか?」
 その時の花子の心境はと言えば、正直なところ反感が殆どだっただろう。意地が悪いと恨めしくも思っていた。
「……鬼が消滅していないという明確な証拠があります」
「鬼が消滅しなかったのは、確かにあの二人にかけられた呪いの所為だな」
 後藤の言葉に、花子は思わず当然だと胸を張る。ほらみろ、どれだけ言を尽くして呪われ者を擁護しようと、その事実は変えられない。
 だが、先輩を言い負かしたという優越感も、後藤の次の言葉で無様に萎んだ。
「あのさぁ、俺は呪いの所為って言ってんだけど? あの二人の所為だなんて言ってねぇよ。なぁ、流行り病で知り合いが死んだら、最初にその病気にかかった奴の所為か? 病気が悪いんじゃない、お前が悪いってそいつを責めんの?」
「で、でもっ、仮にも柱を名乗るなら呪われた時点で……」
「死ね、ってか」
 端的な言い様に、言葉が出なかった。ぐっと唇を噛む花子に、後藤は小さく嘆息した。
「死ねない呪いにかかった奴が、どうやって死ねばいいんだ? 日輪刀で頚を刎ねたって死ねなかった、太陽の下でも、鬼を殺す毒でも死ぬことは出来なかった。なぁ、どうやったら死ねるんだ? それを知ってるならあの人たちに教えてやれよ。それを一番知りたいと思ってるのは、あの人たちなんだから」
「頚を刎ねたって死なない……?」
 それが分かったということは、一度は殺そうとしたことがあるのか。いや、後藤の言が確かならば一度ではない筈だ。あらゆる手段が試されたのではないだろうか。それは当然かもしれない。鬼を全て滅するのが鬼殺隊の宿願なのだから。
 しかし、後藤が告げた言葉は、花子の想像を遥かに超えていた。
「ああ。日柱が水柱の、水柱が日柱の頚を、同時に刎ね落としたんだ」
「え……? 自分たちの、頚を……ですか?」
 愕然とする花子に、後藤は一つ頷くと苦々しい声で言った。
「鬼が消滅しなかったのは日柱と水柱にかけられた鬼舞辻の呪い故というなら、元凶の二人を粛正するのが筋だって、徒党を組んでお館様に直談判した奴らがいたんだよ。まぁ、そんなことを言い出したのは、生き残った隊士の中でもろくでもない評判しかない奴らばっかりだったけどさ。鬼舞辻無惨との戦いで必死に戦った人たちは、勿論誰もそんなこと口にしたりしなかった。逃げ回って隠れてやり過ごして、鬼に一矢報いるどころか、仲間を助けもせずに自分が生き残ることだけ考えてたような奴らほど、呪われ者を粛正しろって喧しくてなぁ。あの頃は質の悪い隊士や隠もそれなりに多かったから。ま、今もそういう奴らは結構いるけどな」
 今の質の悪い隠の一人が自分だというわけか。酷い侮辱だと反論する言葉は、けれど出なかった。
 呪われ者たちが自らの頚を刎ねたというのも驚きだが、それよりも鬼殺隊のなかにそんな卑怯者どもがいたという事実のほうが、花子にとっては衝撃だった。
 あんなにも苦しく辛い鍛錬を乗り越え、最終選別試験にも受かった者が、どうしてそんな無様で恥知らずな真似をするのだ。鬼への怒りより、人を守りたいという思いより、自分の命のほうが大事だというのなら、何故鬼殺隊に入った。自分は戦うことも許されなかったというのに。どんなに努力しても、自らの手で鬼に報いることは叶わなかったというのに。
「そんなことやってる暇があるなら、鬼の残党を狩りに行けよって話さ。でも、そういう声はどんどん大きくなっていった。先代のお館様は、鬼舞辻を殺すためにご自分の命さえ策に使って爆死されてたから……代替わりしたまだ幼いお館様に対する忠誠心が薄い奴が多かったのもあるんだろうな。流石にお館様もそのままにはしておけなくなったのか、生き残った鬼殺隊員を一堂に集めて、鬼舞辻の呪いがどういうものだったのかを説明してくださったよ。
 水柱と、当時はまだ一介の隊士だった日柱──竈門炭治郎に、鬼舞辻が最期の力で大量の血を浴びせかけて自分の血を継承させてしまったこと。その所為で、鬼舞辻に支配されていた鬼は消滅を免れたこと。だけど、二人は太陽の光を浴びても鬼舞辻のように塵にはならなかった。太陽を克服した鬼には前例があるから、二人が鬼ではない証拠にはならないとはいえ、二人とも人を食う鬼の本能って言うべき衝動は一切ない。上弦の鬼は全て斃されたから、残党の鬼は下弦にもなれなかった小物ばかりだ。鬼舞辻が斃されたからにはこれ以上鬼が増えることもない。残る鬼を狩れば鬼は全滅する。今までは先の見えない戦いだった、でもこれからは違う。鬼の数には限りがある。総力戦で鬼の数も激減している。今まで通り鬼を狩ることに尽力すれば直に終わりは来る。
 ……お館様のお言葉で鼓舞された隊士だって大勢いたんだ。むしろそういう人たちのほうがきっと多かった。でも、それを聞いてもまだ、鬼を狩るよりも呪われ者の頚を刎ねれば一瞬で片が付く筈だ、何故そうしないって強硬に言い募る奴らも、少ないとは言えなかった」
 鬼はこれ以上増えることがないとは、確かに花子も聞いたことがある。恩人である鳴柱が教えてくれた。
 だが未だに鬼は出る。まだまだ全滅の気配はない。何故なら呪われ者たちが今も生きているからだと、訳知り顔で語る言葉をそこここで聞いた。花子はその論理の愚かさにすら気付かずにいた。疑問さえ抱かなかった。
 考えなかったからだ。呪われ者を恨んでさえいれば、責めてさえいれば、鬼に対して何某か報いているような気になれたから。だから、事実を調べることすらしなかった。考えればすぐに分かっただろうに。
 呪われ者がいるから鬼が減らないのではない。鬼を斃さないから減らないのだ。鬼を狩る者が鬼殺隊ならば、呪われ者を責めて留飲を下げるだけの輩は、もはや鬼殺隊を名乗る資格などない。
 当たり前すぎるそんなことにすら思い至らず、目を瞑り耳を塞いだ自分は、一体どれだけ愚かなのか。
「責める声が上がる中で、水柱と日柱はなにも言わずに刀を抜いて向き合ったよ。お館様や、隠も含め生き残った鬼殺隊全員の目の前で。そして、お館様や柱たちの制止も聞かずに、自ら互いの頚を刎ねた。二人は頚が刎ね飛んだ瞬間、うっすら笑ってるように見えたよ。
 でも、死ねなかった……笑みが消えて絶望に染まった二人の顔が、さらさら崩れていって、残された身体から再生されていってさ……あの時の二人の顔は、思い出したくもない。あんな光景は、俺はもう二度と見たくねぇ。二度と御免だ」
 後藤の顔が苦痛を覚えたように歪む。実際、己の頚を刎ねられるが如くに胸の奥が痛むのだろう。当時を知らぬ花子でさえ、その凄惨な光景は想像するだに痛ましく、惨いと思わずにいられない。
「鬼舞辻を斃したのは日柱……炭治郎だったんだ。動くのもやっとなぐらい満身創痍になりながら、技を出して出して出し続けて、やっと鬼舞辻に朝日を拝ませてやったのは炭治郎だ。
 水柱と共闘していたらしいが、水柱は、炭治郎を庇って鬼舞辻に腹を裂かれて死にかけてたって聞いた。その時戦っていたのは、血鬼術で作られた迷路みたいな城だったんだけどな、それを作り出してた鬼が斃されたらしく、城が消えたおかげでその瞬間を見た柱や隊士が何人かいたんだ。
 全員、水柱はもう絶命してると思ったって言ってたな。なんせすげえ血溜りに倒れ伏して、切り裂かれた腹から腸が引きずりだされてたっていうから……。
 朝日を浴びて塵になりだしていた鬼舞辻は、炭治郎にじゃなく、息絶える寸前だった水柱に向かって自分の血を浴びせかけたんだってよ。呪われろ、この世の終わりまで呪われてあれって嗤いながら……。炭治郎も必死に庇おうとしたらしいけど、二人諸共に大量に鬼舞辻の血を浴びちまった」
「……鬼舞辻の血を身体に取り込んでしまったってことですか?」
「そういうこった。炭治郎は自分のことより周りの奴らのことで苦しむ奴だってのを察して、鬼舞辻は水柱を狙ったんだろうなぁ。ただでさえ自分より他人を優先しちまう性質だってのに加えて、水柱と炭治郎は兄弟弟子だからな。気難しくていつも一人でいるって評判だった水柱が、炭治郎とだけはよく連れ立って歩いてた。水柱は恩人だって炭治郎も言ってたし、俺も、炭治郎が犬っころみたいに嬉しそうに、義勇さん義勇さんって水柱に懐いてんのをたまに見たよ。無口不愛想の水柱も、そういう時はちょっとだけ空気が柔らかくってさ。
 うん、あの頃からすげぇ仲良かったんじゃねぇのかな。炭治郎にとって水柱は、同期の奴らとはまた違う意味で特別な相手って感じがしたな」
 如何にも遣る瀬無いといった溜息とともに後藤は言う。
「俺はさ、炭治郎とは縁があるっていうか……ぼろっぼろにやられてぶっ倒れてるあいつを運ぶの、なんか知らんが俺になることが多かったんだよなぁ。でも、心が完全に打ちのめされてるあいつを見たのは、あれが初めてだったわ。ごめんなさい、ごめんなさいって泣くばっかりで、そのくせ無表情だったんだよ。感情が全部抜け落ちて空っぽになっちまったみたいに、倒れたままの水柱の手握って、誰が声かけてもごめんなさいって泣くだけでさ……。
 初めて会った日なんて、あの馬鹿ときたら柱に食ってかかったんだぜ? 柱すっげぇ怖いのに。先代のお館様に向かって風柱に頭突きさせてくれなんて言いやがるし」
 そう言って後藤は小さく笑うと、まじまじと花子を見つめた。
「やっぱり似てるなぁ」
「え?」
「いや、なんでもねぇよ。
 ともかく、鬼舞辻は斃した。これで鬼は消滅するって誰もが思った。けど……鬼は消えなかった。
 俺らの受けた衝撃は凄まじかったよ。だってそうだろ? 鬼が消滅しないなら、命を落とした人たちが浮かばれねぇ。先代のお館様だって奥方様やお子様たちと共に爆死されてる。柱にも上弦の鬼との戦いで命を奪われた人がいる。そうまでしても皆懸命に戦ってきたのは、全部、鬼舞辻をこの世から葬って鬼を消し去るためだ。鬼舞辻さえ斃せば全てが終わるって、誰もが信じてた。
 なのに、朝日を避けて蜘蛛の子を散らすみたいに逃げてく鬼どもがいるなんて、誰も信じられなかった。皆、逃げ散ってく鬼どもを追うことすら出来なかった。生き延びた人たちは、柱も含めてそんな力残ってないって人ばかりだったのもあるけど、なにより愕然としちまってたんだよな……どうして、何故って、誰だってそんな言葉しか浮かばなかった筈さ。
 そんな中で、もしかしたら炭治郎と水柱は鬼にされたんじゃないかって、誰もが不安に思ってた。見つけた時には確かに死にかけてた水柱の傷が、目の前で急速に治ってくのを見たから……。傷だらけだった炭治郎だって同じことさ。どう見たって鬼の再生能力にしか思えなくて……水柱が意識を取り戻しても、誰も彼も手放しで喜ぶことは出来なかった」
 そう語る後藤の声は苦しげで、花子は、この面倒見が良く気さくな上官が、未だに当時のことを悔やんでいるのだと悟らずにはいられなかった。後藤もまた困惑し、疑ったのだろう。そして、そんな自分を嫌悪したのだろうと思った。
「身体を調べ尽くされた結果、二人にかかった呪いが分かった。……因果なもんだよな、鬼舞辻は永遠に変わらない不老不死の身体を望んでたって話だが、太陽の光には結局勝てなかったってのに、呪いにかかった二人がそれを果たしちまった。
 鬼舞辻の血の所為で、二人の細胞は完全に変化してたって話だ。その結果、二人は死ねなくなった。日輪刀で頚を刎ねても死ねない、太陽の光を浴びても塵にはなれない。強い鬼どもが出来たように、鬼を殺す毒すら分解しちまう。鬼を人に戻す薬だって同じことだった。飲まず食わずで過ごしても死ねない。餓えで人を襲うようなことはまったくなかったけど、死ぬ手立てはまったくなかった。
 死ねないだけじゃない、二人とも爪やら髪やらが、これっぽっちも伸びなくなった。身体が時を止めちまったんだ。死ねない年も取らないとなりゃ、少なくとももう生き物として人とは言えねぇ。でも、鬼でもない。二人は、夜と朝の狭間の住人になっちまった……」
 夜と朝の狭間の住人……人でも鬼でもない者たち。本来ならば鬼の首魁を斃した英雄と呼ばれて然るべき者たちへの、その苦闘への報いがこれか。全てを託し命を賭して庇った者の頚を、首魁を討ち果たすと信じ命懸けで守ってくれた者の頚を、互いの手で刎ねなければならなくなる絶望だけが、誰も為し得なかった宿願を果たした末に手に入れたものだというのだろうか。
 鬼を殺す為の日輪刀を、互いへと振るった二人の胸中にあったのは、鬼殺隊としての悲壮なまでの覚悟なのか、それとも大切な者に死という救いを与えたかったのか。花子には分からない。想像もつかない。
「でも、一つだけいいこともあったんだぜ。太陽を克服した鬼には前例があったって言ったろ? その鬼な、炭治郎の妹だったんだ。禰豆子っていうんだけどよ、鬼のくせに人を食わねぇどころか、人を守って炭治郎と一緒に戦ってたんだぜ。信じられるか?
 その禰豆子がさ……人に戻ったんだ。それが分かった時だけは、炭治郎も水柱も嬉しそうだった。炭治郎が鬼殺隊に入ったのは禰豆子を人に戻すためだったっていうから、禰豆子にしてみりゃ、炭治郎があんなことになって自分だけ人に戻るのは遣りきれなかっただろうけどさ。それでも、呪いにかかってからすっかり表情を無くしてた炭治郎が、目覚めた禰豆子を抱き締めて、禰豆子良かったって、大泣きするの見て安心したんだよ、俺らは。ああ、大丈夫だ。炭治郎は変わらねぇって、ちゃんと人の心を持ったままだって、さ」