夜と朝の狭間で

「ねぇ、鬼と人はどう違うの? 鬼は人を食べる悪い奴なんでしょ? でも、鬼なのに優しいお医者さんだったり、人を守って戦ったりする鬼もいたんだよね?」
 別れの時間を引き延ばしたくて勢い込んで訊けば、二人は少し顔を見合わせて、僅かばかり眉を下げた。
「……肉体を構成する細胞の違いを説明することは出来るが」
「きっとそういういことじゃないですよね」
 悩んでしまったらしい二人に、禰豆子は少し戸惑った。そんなに難しい質問をしてしまったのだろうか。
「うーん、鬼と人の違いを上げることは出来るんだ。例えば鬼はお日様の光を浴びると塵になってしまうとか、人を食べるとか」
「だが、陽光を克服し人を食わない鬼もいれば、闇を好み人を食べた人間もいる。決定的な違いというなら、鬼に老いはない。鬼の肉体は、個体ごとに速度の差異はあるが常に再生を続ける。怪我をしてもすぐに治るのはその所為だ。加齢による細胞の老化や減少も、再生能力によって起こらない。……つまり、年を取らないということだ」
 義勇の言葉に、ドクンと禰豆子の胸が嫌な鼓動を刻んだ。
「でも……でもっ、鬼より怖い人だっているよね。そういう人より優しい鬼が長生きする方がいいと思うの。私は怖い人よりも、優しい鬼のほうが好き」
 不安を追い払いたくて懸命に言えば、炭治郎と義勇は揃って嬉しそうに微笑んでくれた。
 二人の微笑みを哀しいと感じることがあるなんて、今まで一度もなかったのに。今はその微笑みに胸が痛む。
 ずっと前から、誰に尋ねても明確な答えをもらえなかった問いがある。炭治郎と義勇には、答えを聞くのが怖くて決して問えなかった。その言葉を、今なら口にしてもいいだろうか。問いかけてもいいだろうか。これを最後にしない為に、問いかけることは許されるだろうか。
 逡巡する禰豆子の頭を、炭治郎がそっと撫でてくれたのと同時に、別れの時間が近づいたことを知らせる電子音が響いた。
「そろそろ時間だ。禰豆子、もう出ようか。お父さんが待ってるよ」
 ハッとして炭治郎と義勇の顔を代わる代わる見た禰豆子に、炭治郎と義勇は静かに微笑むばかりだ。
 聞くのが怖いと思った質問の答えよりも、炭治郎の発した一言は、禰豆子にとってはより聞きたくない言葉だった。
 二人と一緒にいられるのが嬉しくて、幸せで、いつまでもこうしていたいのに。けれど時間は残酷なほど有限で。禰豆子は小さく首を振ることしかできない。
「そんな顔するなよ。ちゃんと笑ってお別れを言ってくれ」
「最後に見る顔は笑顔のほうが嬉しい」
 穏やかに微笑む二人の顔に憂いはない。それがなんだか悔しかった。分かっているのに、我儘を言いたくなる。二人がどんなに自分に甘くとも、それでもこの我儘は、決して叶えられないことぐらい知っているけれど。
「本当に……一緒に行ってくれないの? もう、逢えないの?」
「……ああ」
「ごめんな、禰豆子」
 自分はこんなに哀しいのに。もう逢えないなど、耐えられないと思うのに。
 けれど二人が清々しく笑う理由も、うすうす察している。

 禰豆子を本当の妹のように可愛がってくれていた、時折しか逢えない素敵なお兄ちゃんたち。
 誰にでも平等に優しい二人だが、禰豆子は少しだけ、他の子よりも大切に扱ってもらっていたような気がしていた。この特別な日に、禰豆子と一緒に過ごしてくれているのだから、それは禰豆子の自惚れや勘違いばかりでもないだろう。
 ならば、あの問いも許されると思いたい。どんな答えだろうと、禰豆子の反応次第ではもしかしたら。でも、それで二人に嫌われてしまったら? 二人に厭われるのは嫌だ。
 どうしようと逡巡するうちに、揃って立ち上がった二人に禰豆子はますます焦る。
「もう行かないと駄目だろ? 向こうでお母さんたちも待ってるんだから。ほら、禰豆子、笑ってくれ。俺たちは禰豆子の笑顔が大好きだから、最後はちゃんと笑ってほしいんだ」
「禰豆子」
 禰豆子に手を差し伸べながら二人は微笑んでいる。優しい声音に促され、そっとその手を取れば、ぽろりと涙が零れた。
「炭治郎お兄ちゃん、義勇お兄ちゃん……」
 さよならとは言いたくなくて、精一杯両手を広げてぎゅっと二人に抱き着けば、温かい腕が禰豆子を抱き返してくれる。
 お別れだからだろうか。抱き締めてくれる腕はいつもよりも温かく、力強く感じた。
 どうしたって涙は零れて、止められそうにない。けれど二人が望むなら笑わなければ。二人が大好きだと言ってくれる笑顔を見せなければ。
 腕の中で二人を見上げ、泣きながら笑ってみせた禰豆子に、二人も優しく微笑み返してくれる。もう見ることが出来ないこの笑みが大好きだった。抱き締めてくれる温かな腕が、頭を撫でてくれる優しい手が、好きだった。いや、これからもずっと好きだ。もう二度と抱き締められることはなくても、二度といい子だと頭を撫でてはもらえなくとも、きっとずっと、二人が大好きだ。
 禰豆子の大切な、大好きな、お兄ちゃんたち。
「禰豆子たちが行くところは、緑が多くて素敵なところだって聞いたぞ? 俺たちじゃ見せてやれなかった海もあるんだって」
「山もあれば川も滝もあるらしい。俺たちが過ごしたことのある場所に似ているかもしれない。俺たちの代わりに禰豆子が見てくれ」
 柔らかな声には、禰豆子に対する愛情と労りしかない。今しかもう訊けないあの問いを、もう口にしてしまおうか。
 大好きだから聞けなかった。父や母に聞いても明確な答えは返ってはこなかった、その問いを。
 禰豆子がもっと幼い頃から、時折ここで会えるだけだったけれど、いつまで経っても二人はちっとも変わらない。
 禰豆子の背が伸びて幼女から少女に成長しても、炭治郎と義勇はそのままで、一向に年をとらない。アンチエイジングの術は進化しているとはいっても、あまりにも二人は変わらなすぎた。まるで、人間ではないかのように。大抵の家庭にある家事用のアンドロイドのように。けれど、アンドロイドのように劣化したり故障したりもしない、一切の変化をもたらさぬ、二人の姿。
 けれど、それでも良かった。二人が何者だろうと、禰豆子は優しい二人が大好きだ。父も母も、伯父や叔母たちも、二人を知る全員が、炭治郎と義勇を慕っていた。だから禰豆子も、二人を嫌悪する気持ちなど抱いたことがない。
 それでも、やはり疑問は心にあったのだ。
 この屋敷に出入りできる者にしか、二人のことを話してはいけない。代々伝わる約束を違えぬよう、必ずこの屋敷で誰かが二人を迎えるように。おかえりと、必ず誰かが笑って言ってやるように。
 そんな不思議な家訓は、ずっと途切れることなく果たされてきたと父から聞いた。禰豆子の前には父が、その前は祖母がと、我妻の人々は常にこの家で炭治郎と義勇を出迎えてきたのだと。
 その意味を悟ったのはいつだったか。炭治郎の肩ほどまで、禰豆子の背が伸びたことに気づいた時だったか、それとも祖父の葬式後に、赤ん坊だった祖父が義勇の膝の上で粗相をしたことがあると、炭治郎たちが懐かしそうに笑い合っていたのを聞いた時か。
 いずれにせよ、禰豆子もそれを自然と察していた。炭治郎と義勇はずっとずっと、その姿を変えず生きているのだと。祖父母の時代からか、それとももっと前からか。それは禰豆子には分からない。それでも、二人が決して年をとることなく生き続けているのだということは、誰に問うまでもなく理解した。
 それは我妻の、この屋敷を訪れる全ての人が通ってきた道だ。きっと遥かな時間の中で、いつしか伝えられることなく忘れ去られた二人の正体。だがそれでも、二人を知る誰もが、己が心にその問いを封じ込め、二人と過ごす時間をただ慈しんできたのだろう。
 炭治郎と義勇が変わらずこの屋敷を訪れてくれるなら、それ以上に望むことはないと、誰もがその問いを口にすることを拒んできた。
 禰豆子も先人たち同様に、炭治郎たちに訊いたことはない。もっと小さい頃から、二人に訊くのはなんだか怖い気がして訊けずにいた。まだ幼い子が疑問を素直に口にしようとするたび、必ず誰かが素知らぬふりでそれを止めてきた。
 誰も知らない二人の正体。先ほどの義勇の言葉が、その答えであるのなら……もしも、禰豆子が抱いた不安が的中していたとしたら。

 いや、それでもいい。

 もしそうだとしても怖くはない。もう二人に逢えなくなることよりほかに、怖いことも哀しいこともないと禰豆子は思う。
 今までだってこの屋敷でしか二人には逢えなかった。ずっと一緒にいたいと泣いても、二人を困らせるだけで決してそれを叶えてはくれなかった。
 それでも二人は、度々この屋敷を訪れてくれたし、必ずただいまと言ってくれた。おかえりなさいと禰豆子が笑うたび、本当に嬉しそうにしてくれていた。
 屋敷を去る二人にいってらっしゃいと言うたび、本当は少しだけ不安だったけれど、それでも二人は必ずいってきますと応えてくれたから、禰豆子は笑うことが出来た。きっとまた逢えると約束してもらえたような気がしたから。だから我慢できたのだ。ちゃんとまた逢えるならと、耐えることが出来た。
 二人に変わらず逢えるなら、それだけでいいと思っていたのに。終わりが来るなんて考えたこともなかったのに。
 これが最後だと言うのなら、訊かなければならないと思った。ずっと口に出せなかったその問いを。
「炭治郎お兄ちゃん、義勇お兄ちゃん……二人は、何者なの?」
 人は必ず年をとる。人はいつかは必ず年老いて死ぬ。ならば、二人は何者なんだろう。人でないなら、なんと呼ぶべきなのだろう。

 年を取らないのが鬼なら、それなら、二人は……。