夜と朝の狭間で

「結局、報告なんて出来なかった……」
 はぁ、と溜息を吐いて花子は宛がわれた一室で暫し放心する。
 事件のあらましを話そうにも、食事中にする話題でもないだろうという善逸や禰豆子の言はもっともで。鬼絡みではなかったこともありただの宴会になってしまったのは、もしかしたら勇治郎たちにとっては最初から想定されたことだったのではないだろうか。
 後藤も始めの内こそ緊張しきっていたが、元々炭治郎や善逸とは顔馴染みでもあり、酒が入ってしまえば実に機嫌よく話に花を咲かせていた。とはいえ、やはり義勇や宇髄には骨身に染み付いた上下関係が勝るのか、宇髄に声を掛けられるたびに硬直するものだから、すっかりいい玩具扱いされていたのは気の毒ではあったが。
 義勇は食事中一言も喋らず、一人もくもくと食事をしていたのだが、炭治郎によると「義勇さんは食事しながら喋れない人だから」だそうなので、まぁ、後藤にとっては幸いと言えるだろう。鮭大根を前に実に嬉しげに笑った義勇の顔は、別の意味で後藤のみならず花子にとっても心臓に悪いものではあったけれど。
 ともあれ、酔った後藤相手に報告もなにもあったものではなく、炭治郎や義勇も交えて後日報告書を作成する運びとなったのは、流れとして納得するしかない。けれども、自分がそのまま雷屋敷に泊まることになったのは、どうしても釈然としないというか、居たたまれなさが蘇るというか……。
「後藤さんの裏切り者ぉ……」
 そろそろ雨戸をてなければと思うのだが、そんな気力も湧いてこず、ぽつりとぼやき布団に転がる。今宵は月が明るい。障子を透かす月明かりだけに照らされて、部屋の電気も点けぬまま、はぁと溜息を吐く。
 夜も遅いし部屋は余っているのだからと、花子同様、後藤も宿泊を勧められたのだが、流石にそこまでは御免被るとばかりに有無を言わせぬ早口で辞去を告げたかと思えば、花子を置いてさっさと尻に帆を掛け行ってしまった。
 花子だって正直なところ帰りたかった。けれど、いそいそと寝床や浴衣、冷えるからと火鉢までをも用意してくれる禰豆子があまりにも楽しげで。恩人であり屋敷の主でもある善逸や先生である宇髄も、炭治郎や勇治郎も、言葉数少なくではあるが義勇さえもが、女の子がこんな夜更けに帰るなどまかりならんと言い募るものだから。意固地になるわけにもいかず、あれよという間に湯を使わせてもらう羽目になり、こうして一人客間で放心している。
 ちなみに誰かに送ってもらうという選択肢は、花子以外の誰も持ち合わせてはいないようだった。当然、花子がそれを口にできる雰囲気にもさせてはもらえなかった。
 確かに今日は酷く疲れてもいるし、こんな夜更けに帰るのは情勢不安な折、心配されるのは分かるのだけれど、新米の隠でしかない己が、こんなにも柱やそのご家族に気遣われるというのは、心苦しさのほうが勝ってしまう。
 それに、と花子は再び嘆息した。
 誰も彼も皆いい人だけれど、久しぶりに楽しいひと時であったことも否定しないけれど、だからこそ、ここにいてはいけない気がした。
「お兄ちゃん……」
 我知らず呟いた声が夜の静寂に密やかに響いて、胸の奥がつきりと痛む。
 日輪刀は振るうことが出来なかったけれど、せめて心の刃は常に磨いていたい。人の優しさや温もりは、怒りを忘れさせそうで少し怖い。
「花ちゃん、起きてる?」
 不意に庭先から聞こえた勇治郎の声に、花子はびくりと肩を揺らせた。庭に面した障子を小さく開けてみると、月明かりの下、浴衣姿に丹前を羽織った勇治郎が立っていた。
「勇治郎さん、どうされたんですか?」
 まさか夜這いではあるまいなと警戒してしまったのは、年頃の娘としては致し方ないことだろう。それは勇治郎も十分承知しているらしく、部屋に上がることなく縁側に腰かけると寒いから障子はそのままでいいよと笑う。
「無理に連れてきちゃったからさ、謝っておかなきゃなぁと思って。ごめんね、無理に誘って」
 皆寝静まっているやもしれぬからか、勇治郎の声は先までの軽佻浮薄な調子は鳴りを潜め密やかだ。
「いえっ、楽しかったですし、久し振りに鳴柱様にもお会いできて嬉しかったですから」
「あー、それ。父さんとこんな可愛い子が知り合いだったなんて、まったく知らなかったよ。宇髄さんに預けられてたんでしょ? 俺も宇髄さんとこで鍛錬させてもらえば良かったかなぁ」
 花ちゃんと一緒に隊士を目指したかったなぁなどと軽い調子で言うが、声音はやはり静かで、どこまでが本音なのかよく分からない。
「……私は選別試験すら受けられなかったぐらい、出来が悪かったですから。勇治郎さんとご一緒させて頂いても、苛立たせるばかりだったと思いますよ」
 自嘲の言葉は我ながら卑屈な響きがした。
 あの山では素直に感心した勇治郎の手。障子の隙間から覗き見えるその手が、今は少し憎らしい。
 柱を父や伯父に持ち、隊士になった少年。きっと自分と比べることすら烏滸がましいのだろう。鬼に親しい人を殺された者の怒りも苦悩も絶望も、おそらく勇治郎は知らない。自分とはなにもかもが違う。
 そんなことを考えてしまう自分が、嫌になる。
 これ以上は話したくない。これ以上、惨めになりたくない。眠気を催したことにして切り上げようと口を開きかけたその時、勇治郎が囁くように言った。
「おじさんたちのこと……ありがとね」
「え? あの、なにがですか?」
 唐突な礼の意味が分からず、思わず問いかければ、勇治郎は声に出さずに笑ったようだった。
「花ちゃん、母さんになんか似てるからさ。おじさんたち……特に炭治郎おじさんは、花ちゃんに他の奴らと同じように呪われ者って恨みをぶつけられるの、きっと辛かっただろうから。……だから、ありがとね。おじさんたちのこと恨まないでくれて、ありがとう」
 花ちゃんは優しいねと密やかに綴られる声音のほうが、よほど優しい。炭治郎の声と同じく、深い慈しみに満ちた声だ。
 けれどその言葉は、余計に花子の胸を締め付けた。
「優しくなんてありません……」
 誰も彼も、何故花子のことを優しいなど言うのだろう。自分のことなどなにも知らないくせに、なに故、優しいなどと思うのだろう。
「花ちゃんは自分が嫌いなの? 優しいって言われるの、嫌?」
「……嫌い、です。弱い自分も、優しいなんて私には相応しくない言葉をかけられることも……」
 どうしてそんなことを言ってしまったのかは分からない。夜の静けさの所為かもしれないし、勇治郎の淡々とした声の所為かもしれなかった。事実を確認しているだけというように感情を乗せずに囁かれた声は、するりと花子の心の閉ざされた深みに入り込んだ。
「優しいかどうかってさ、自分が決めるもんじゃないと思うんだ。俺は自分のことを平気で優しいなんて言う奴はあんまり好きじゃないなぁ。そういうのはさ、自分自身じゃなくて他人が判断することだよね。俺も炭治郎おじさんたちも、花ちゃんのことを優しい子だと思ったよ。それは花ちゃん自身が否定しても変わらないよ」
「それは知らないからっ! 私のことなんてなんにも知らないから言えるの!」
「うん、知らないねぇ。まだ知らないことのほうが絶対に多い。なにせ会ったばかりですし」
 俺が知っているのは、花ちゃんがとびきり可愛い女の子だっていうことと、おじさんたちのことを悪く言わないでいてくれたこと。陰口叩く奴らに対して怒ってくれたこと。それから、母さんや炭治郎おじさんになにも聞かないでくれたこと。
「うーん、今のところはそれぐらい?」
 あ、それからとんでもなく怖い目に遭っても任務を遂行しようって頑張れる、強い子だってことも。と、炭治郎は小さく笑いながら言う。
 障子越し、背中合わせに二人座り込み、月明かりだけに照らされて。勇治郎の高めの声は柔らかく響く。ささくれ立つ花子の心を宥めるように、静かに響く。
「違うの……私も、本当はあいつらと同じ。最初は、恨んだの……日柱様と水柱様のこと、呪われ者って、恨んだの……っ」
 抱えた膝に顔を埋めて絞り出すように呟いた声は、酷く震えていた。何故そんなことを言ってしまったのか、花子にも分からない。けれど、言わずにはいられなかった。本当はずっと誰かに言いたかったのかもしれない。
「今は違うでしょ?」
「でも恨んだものっ、全部呪われ者の所為だって! 呪われ者がいるから鬼が消えないんだって、私だって、本当は思ったんだもの……」
 苦しかったから、辛かったから、どうしても恨まずにはいられなかった。
「そっか……うん、俺、花ちゃんのこともう一つ分かった気がする。花ちゃんは本当は」

 誰かに責めて欲しかったんだね。

 それは驚くほど静かに花子の心に染み渡った。
 ああ、そうだ。きっと、ずっと、本当はそう思っていた。断罪されたいと。慰められるより責められたいと。
 だって、慰められたら謝れない。お前は悪くないと先に許されたら、許しを乞えない。自分自身が、自分を許せない。
 震える声で、ぽつりと言う。
「お兄ちゃんが……死んだの……。三年前に、鬼に、殺された」
「うん……」
「あの日は、私の十三歳の誕生日で……お兄ちゃんがリボンを買ってやるって言ってくれた。ずっと欲しかった桃色のリボン……」
「きっと花ちゃんに似合っただろうね」
「お父さんとお母さんが流行り病で死んでから、ずっとうちは貧しくて……お兄ちゃんの稼ぎだけじゃ暮らしてくのがやっとだった。お洒落なんて出来なかった。だから、お兄ちゃんがリボンを買ってやるって言ってくれた時、本当に、嬉しかった……」
 泣くな、涙よ出るなと、自分に言い聞かせても、どうしたって言葉は詰まった。それでも、胸に押し隠してきた重苦しい罪の記憶を語ることもやめられない。ぎゅっと膝を抱えて声の震えを抑えようとしても、きっとくぐもる声に滲む涙の気配は勇治郎には伝わってしまっているだろう。涙を零さずとも人は泣けるのだ。それを花子は知った。
 勇治郎はもうなにも言わず、静かに花子の言葉を聞いている。障子越し、そっと花子の背に自分の背を合わせ、ただ黙って花子の懺悔を聞いてくれている。
「お兄ちゃんの仕事が終わってから、急いで二人で銀座に行ったの。値段を見てくらくらした。だってお店にあったリボンは絹の上等のものばかりで、凄く高かったんだもん。なのにお兄ちゃん、気にするなって。この日の為にちゃんと貯金してたから大丈夫だって、笑ってた。
 それでもやっぱり、あんまり上等のは選べなくて、一番安いスフ(人造絹)のを買って店員さんに結んでもらったの。お兄ちゃん、ちょっと悲しそうな顔したけどすぐに笑って、花子は美人だから安物のリボンだって一級品みたいに見えるなんて言って……店員さんが笑ってて恥ずかしかった。だから私、本当は凄く嬉しかったくせに怒ってみせた。お兄ちゃんなんて知らないって、そっぽ向いて。帰り道も、ずっと怒ったふりしてた。お兄ちゃんがもう遅いから手を繋ごうって言うのにも、もう小さい子じゃないんだから手なんか繋がないって強がって。
 もう少しで、家に着くって時だった……家に着いたら本当は怒ってないよって、本当は凄く嬉しいよ、ありがとうお兄ちゃんって、言おうと思ってた。なのに……それなのに、鬼、が……あの、鬼が……」