夜と朝の狭間で

 うずくまり思うようにならない指先で床板に爪を立てながら、女は黙り込んだ男を見上げていた。
 ああ、やはり私には無理だったのかと悔しさに眉を寄せる。四肢に力が入らない。荒く忙しない呼吸も、震える手足も、なに一つままならず。流れた汗が目に染みた。
 男は虚ろな目で虚空を見ている。にたにたと嗤っていたかと思えば口角泡を飛ばしながら怒声を上げたりを繰り返していたのも異様だったが、すべての感情が抜け落ちているように見える今の顔のほうが空恐ろしい。
 男の脳裏にはなにが過っているのだろうか。女には分からない。けれど、今自分がなすべきことなら、女はきちんと理解していた。
 情報を……もっと情報を得なければ。推測や憶測ではない確証を。今の話で確信した。男は本当に鬼と遭遇したことがある。だがそれは昔の話だ。必要なのは現時点で起きている失踪事件に鬼が関わっているかである。
 人を操る鬼は少なくない。この男もまた鬼の手足として使われているのか否か。それによって対処は変わる。
 囲炉裏の火の灯りが届かぬ小屋の隅は、だいぶ暗さを増していた。もうじきに陽が完全に落ちるのだろう。夜が来る。鬼の時間が、来てしまう。
 焦りと不安を気丈に抑え込み、女は必死に声を振り絞った。
「鬼、に……食わ…せ、たの?」
 ようよう絞り出した声はか細かった。だが、男の意識を女へと引き戻すには十分だったようだ。茫洋とした目が再び女に向けられた。
「食わせてたわけじゃない……勝手に食ってたんだ。俺が殺して埋めた死体を食ってたって、苦労しなくても人間が食えるから……だから俺を生かしてやってたんだって嗤ったんだ」
 抑揚のない声音。感情の見えない瞳。白髪の頭の中では今なにが巡っているのか。
「俺のことを、餌を運ぶ道具みたいに言いやがった……この俺を、見下してやがった……」
 囲炉裏の向こうで男がゆらりと立ち上がった。
「どいつもこいつも、馬鹿にしやがって……なんで俺が怯えなきゃいけなかったんだ。俺は完璧なのに。俺ほど優秀なやつなんていないのに」
 囲炉裏を回り込みゆらゆらと揺れながら男が近づいてくる。逃げなければと必死に手足に力を籠めるが、女の四肢は動かない。
「鬼だと、なにを馬鹿なって、笑ってやったんだ。なのにあいつら、俺が嘲笑っても怒鳴っても、ちらりとも俺を見なかった。立ち上がって刀抜いて……俺を無視したまんま、戸口を睨みつけてた」
 男の目が、ゆっくりと笑みの形にたわめられた。初対面の際と変わらない人の好さげな笑みを形作った顔。けれど絶対的に異なるその笑顔は、邪気を湛えている。
「腹が立って……あんまり腹が立って、ガキに飛びかかろうとした時、戸が吹き飛んできた。振り返ったら、鬼がいた。御伽噺みたいな風体じゃなかったけど、一目で分かった。こいつらが鬼なんだって。鬼は四匹いた。凍り付いた俺の前で、奴らにやにやしながら言ったんだ……見つけたって。呪われ者を食えばあの方の力が手に入るとか、半端者は鬼と人どっちの味だとか、訳の分からないことほざきながら近づいてきて……。
 食われるって、思ったんだ。俺を食いに来たんだって。俺は誰よりも優秀だから。完璧だから。鬼にとってもご馳走なんだって……。
 けど、鬼どもは俺なんて最初から目に入ってなかった。奴らが見てたのはあの人形野郎とくそ生意気なガキだけだった」
 女の鼻先に男が屈みこむ。髪をつかみ上げられ、仰け反った咽喉から思わず小さな呻きが滑り出た。
「おっかなかったよ。今のあんたみたいに手足に力が入らなくなっちまって、腰も抜けて。叫び声一つ上げられなかった。勝手に涙がぼろぼろ出てさ。けど、同時に腹が立った……。早く逃げろなんて偉そうに俺に指図して鬼に立ちはだかったガキどもにも、そこで初めて俺に気づいたみたいに、ゲラゲラ嗤った鬼どもにも」
 顔を覗き込んでくる男の視線に、本能的な恐怖が女を押し包む。それを振り払うように女はぐっと唇を噛んだ。
 悲鳴など上げるものか。涙など見せてやるものか。覚悟なら、とうに決めている。だから自分は、ここにいる。
「……あんたも、腹が立つな。泣けよ。怖がれよ。今までの獲物どもみたいに。あの時の俺みたいに!」
 怖がれ? 怖いに決まっている。今まで一度たりと人からこんな悪意を向けられたことなどない。こんな人でなしに出会ったことはない。人からこんな目に遭わされたことなど、一度も。
 けれど。
「今、も…鬼と…繋が、り、が?」
 もっと、もっと、怖いものを、自分は知っている。もっと、もっと、恐ろしく辛い状況を、自分は知っている。
 女は己が振り絞れる限界まで力を籠めて、男を睨みつけた。声は途切れ途切れ、唇はどうしたって慄いた。だが、知らなければならない。調べなければ。それが自分の責務だと、女は必死に言葉を紡いだ。
「行方、不明…の、人、たち……ころ、したの……っ」
 チッと舌打ちした男に頭を床に叩きつけられ、殺しきれない苦鳴が零れた。
「お前、雑誌記者なんて嘘だろ。マッポの狗か? 可愛い顔して食えねぇ女だな。まぁいいや。冥途の土産だ、教えてやるよ。ここいらで人を殺して、食ってたのは、鬼だよ」

 鬼の俺が、食ったのさ。

 にんまりと笑んでみせる男の言に、女は目を見開いた。
 嘘だ。咄嗟に浮かんだのは否定だった。そんなはずがあるわけないのだ。あり得ない。
 よしんば男が鬼だというのが事実だとしても、十七年前には既に鬼でなければ時期が合わない。
 鬼だったのなら、男が今生きている筈がない。男が語った二人連れに出遭ったのなら、鬼が生きている筈がないのだ。
 表で鳴いた鴉の声と羽音が、やけに響いて聞こえる。当たり前の日常の音と、男が口にした言葉の落差は、どうしようもなく非現実めいていた。
「分かったんだよ、なんであんなに怯えなきゃならなかったのか。まだ俺も完璧じゃなかったからだ。それまでも俺は、自分は人間なんて枠に収まらない完璧な生き物だと思ってたけどさ、そりゃあ精神に限った話だったんだよなぁ。この忌々しい肉体はただの人でしかなかった。だからあの鬼どもに怯えたし、人形野郎どもに見向きもされなかった。人形野郎に刎ね飛ばされた鬼の頚に噛みつかれて、一瞬でこんな髪になっちまうような脆弱な肉体でいる限り、俺は本当の意味での完璧にはなれない。
 でも、分かったんだ。俺は理解した。鬼さ! 鬼になればいい! そうすりゃ俺は今度こそ完璧な存在になれる!
 天だって俺に味方してるんだぜ? 人形野郎どもが鬼どもの頚を刎ねた後に、わらわら湧いて出た変な奴らに拘束されて、マッポに突き出されたけどよ、一週間後には震災で有耶無耶さ。こりゃもう運命ってやつだろ。神とやらも俺が完璧な存在になることを、鬼になることを望んでるんだ! 
 なのに……まだこの忌々しい身体は人間のままだ。けど、もうすぐだ。きっともうじき俺は鬼になる。あと二、三人ほど食えば鬼に変わるはずなんだ。どうせ食うならあんたみたいに若くて綺麗なのがいいよなぁ」
 今、この男はなんと言ったのか。女は理解できなかった。理解したくなかったのかもしれない。
 けれど、じわりと男の言葉の意味が脳裏に染み込んでくるにつれ、女はその異様さに恐れ戦く自分を抑えきれなくなった。
「人、を…食べ、たの? 鬼、に、なる…ため、に」
「食ったよ。何人も。最初は食いやすそうだと思って赤ん坊を攫ってきたんだけどさ、どうしても生じゃ食えなかったんだよなぁ。焼いたり煮たりしないと吐いちまう。今もあんまり生で食うのは好きじゃねぇけど、それでも食いだした頃よりは食えるようになってきたんだ。身体が鬼になってきてる証拠だろ。一回で食える量なんて高が知れてるからさ、ちゃんと余りは保存して毎日食うようにしてんだ。優秀なうえに努力家なんだよ、俺は」
 それなら、あの土間に下げられた肉の塊は。もしかして、あれは。
「あんたも残さず食ってやるよ。たっぷり愉しんだ後でな」
「ち、がう……」
「あぁ? なにも違わねぇよ。お前は俺に嬲られ尽くして殺される。その後は俺が鬼になる為に食われる。俺の獲物だ」
 違う、違う、違う! 叫び散らしたいのにもう声が出ない。鬼になる為に人を食べるなど見当違いも甚だしい。逆だ。逆なのだ。鬼になったから人を食うのだ。人を食わずにいられなくなるのが鬼なのだ。
 狂ってる。お前は鬼なんかじゃない。ただの狂人だ。そう叫びたいのに、惨めに床に這いつくばるばかりの自分が悔しくて仕方がなかった。抵抗する術を持たぬ自分が恨めしかった。
 だが、それでも。
 女は懸命に自分を奮い立たせた。せめてもと男に向ける瞳に力を籠める。絶望しない女に男の機嫌は最悪になるだろうが、構うものか。男の言が確かなら、すぐに殺されはしまい。泣いて許しを乞うまできっと男は自分を甚振り続けるだろう。だから、間にあう。きっと。
 どれほどの暴力や辱めを受けようと、殺されはしない。自分の責を果たすまでは死なない。
「……なんなんだよ、その目は。気に食わねぇ……。俺を恐れろ! 泣け! 喚け! 自分の分を弁えろっ!」
 蹴りつけようとでもしたのか、男が立ち上がったその瞬間。衝撃音と共に吹き飛ばされてきた戸が男の背を掠めた。
「……っ!?」
 振り向いた男の顔が、戸口を向いた途端に凍り付くのを、女は確かに仰ぎ見た。そして。

「──花子っ!」