夜と朝の狭間で

 隠たちが抜け殻のようになった男を連れ去り、小屋の中を検分するのを横目に、小屋の裏手の壁に寄り掛かるように座らされた花子は、漸く動くようになってきた身体に安堵し深く嘆息した。やはり鬼殺隊の薬はあんな狂人のものとは比べ物にならないと、素直に感心する。
 日はとっくに落ち、寒さはいよいよ厳しくなっている。ぶるりと我知らず身体を震わせれば、ふわりと大きな羽織が肩に掛けられた。
「冨岡様、私なら大丈夫ですからっ。水柱が風邪など召されたら……」
「お前が着ていろ。俺なら支障ない」
「いいから借りておくといい。花子は女の子なんだから身体を冷やしちゃ駄目だ。顔の傷も痕は残らないって。本当に良かったな」
 淡々とした抑揚のない声と、快活に言い聞かせるような声に促されても、花子にしてみれば、二人は自分なぞが言葉を交わすことすら恐れ多い鬼殺隊の柱なのだ。まだ新米の隠にとっては雲上人と言っていい。
 躊躇う花子にクスリと笑い、ほら腕出してと炭治郎が羽織を着せようとしてくるのにますます慌ててしまう。思わず自分で着られますと断っても、いいからいいからと子供にするように羽織を着せてくる炭治郎に、花子はなんとも微妙な心持ちになる。
 先ほどの男に対して見せた二人の悋気を知るだけに、義勇の体温の残る羽織を炭治郎に着せられるという状況は、どうにもこうにも落ち着かない。あの悋気を己に向けられるのは御免被るのだが、こうも頓着されぬというのも年頃の娘としては情けないような気がする。
 しかし有り難いことに変わりはなく、気恥ずかしさを堪え花子はどうにか背筋を伸ばすと、深く頭を下げた。
「水柱様、日柱様、先ほどはお助け頂きありがとうございました。私が不甲斐ないばかりにお手を煩わせまして、申し訳ございません」
「なに言ってるんだ。花子は不甲斐なくなんてなかったぞ」
「いえっ、先輩方ならもっと上手に立ち回れたはずです! 毒だって……呼吸を会得できてたらあんな風には……」
 唇を噛み俯けば、忘れかけていた悔しさが蘇る。いくら新米だからといっても、もう少し上手くやれると思っていた。剣才なく呼吸も満足に操れなかったが為に隊士になれなかった自分には、せめて隠として立派に与えられた任を果たすしか、鬼に報いる手立てなどないというのに。
「潜入任務は本来隊士の役目だ」
「義勇さんの言う通りだ。それなのに恐ろしい目に遭っても泣かずにやり遂げた花子は立派だったぞ! 花子は偉い!」
「ああ……よくやった」
 大きな手が下げた頭にぽんっと乗せられて、ぎこちなく撫でてくれる。温かな微笑みで頷いて、固く傷だらけの手が花子の手を握り締める。
 ぐっと咽喉の奥から熱いものがせり上がって、唇が震えた。ああ、いけない、まだ許された訳でもないのに涙が零れそうだと思ったその時。

「呪われ者のくせに……化け物が柱を名乗ってんじゃねぇよ」

 ぼそりと呟かれたそれは、決して大きくはなかった。けれど含まれた嫌悪と悪意を、はっきりと花子へと伝えた。
「おいっ、よせよ。聞こえるぞっ」
「構うもんか。事実だろ。あの鬼もどき共がいるから、まだ鬼が出るんだ。俺たちの苦労は全部あいつらの所為じゃねぇか」
 ほんの数秒前の温かな気持ちなど消え失せて、カっと全身が怒りに火照る。
「今なんて言ったの!」
「花子、いいから。俺たちは気にしてないから」
 暴言を吐いた隠を追いかけようと立ち上がりかけた花子の肩を軽く押さえて、困ったように炭治郎は笑う。
「でもっ、柱に対してあんなことっ!」
「俺たちが生きているが故に鬼が消滅しなかったのは事実だ。柱を名乗る資格がないことは、俺たち自身が一番分かっている」
 温かな手で頭を撫でてくれた人の淡々とした声音に、自嘲や諦観の響きがないことが、無性に哀しい。
「あの人たちもきっと大切な人を鬼に殺されて辛い思いをしたんだよ。それは俺たちの責任だ。あの人たちを責めることは出来ない」
 明るく励ましてくれた人の言い聞かせるように紡がれる言葉の強さが、ただただ哀しい。
「俺たちの為に怒ってくれたんだな。花子は優しいね」
「優しくなんて、ありません……」
「優しいよ。さっきも花子は義勇さんが風邪をひくって心配してくれただろ? 殆どの人はそんな心配しないんだ。皆、俺たちが病気になんてならないことを知ってるから」

 俺たちが呪われ者だって、知ってるから。

「そんなこと言わないでくださいっ!」
 それ以上聞きたくないと声を張り上げ遮る花子に、炭治郎は困ったように笑うばかりだ。義勇も心なし優しい眼差しを花子に向けている。二人とも自身や互いのことよりも花子を案じているのが伝わって、遣る瀬無さと憤りが募る。
 ああ、でもきっと、自分にはあの無礼者たちに怒りをぶつける資格などないのだろう。
 不意に浮かんだそんな言葉に、花子の憤りは急速に萎えた。代わりに身の内に満ちるのはどうしようもない自己嫌悪だ。
「優しいのは日柱様たちのほうです……私は……私もっ」
 二人を恨んだのだとは、言えなかった。それだけは言ってはならないと、飛び出しかけた言葉をぐっと飲み込む。
 花子にその言葉を言わせないよう、恩人たちは自分にそれを伝えなかったのであろうことぐらい、もう分かっている。自分だって上官が教えてくれなければ、あの隠たちのように噂を鵜呑みにし、二人を逆恨みしたままだったに違いない。
 恨む相手がいるほうが、楽だったから。辛くて、苦しくて、ままならない現実から目を背け、決して自分に害をなすことのない相手を恨みと定めるほうが、ずっと、ずっと、楽だったから。
 直接の仇はもういない。仇討つ術などもうない。鬼という存在を恨んでも、自身でそれを晴らす術は得られなかった。だから代わりに恨んだ。呪われた者たちを。鬼が未だ存在する原因となった者たちを。
 自分が楽になる為だけに。
「私は、優しくなんかない……ないんです」
 涙だけは必死に堪えた。それだけは駄目だと思った。泣いてしまったら、もう二度と許される日はこない。せめてそれだけは。もういない大切な人の為に。あの人に、許しを乞う資格を得る為に。

「あーっ! おじさんたちなにやってんだよっ! 女の子苛めるなんてサイッテー!!」
 唐突にそんな声が響いて、誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「えっ? 勇治郎なんでここに?」
「違う。苛めてない」
 ぽかんとした顔で駆け寄る隊士を見る炭治郎と、狼狽えたように首を振る義勇に、花子のほうが唖然としてしまう。
「言い訳無用! この子泣きそうになってるじゃん! こんな可愛い子泣かせるなんて言語道断! もう稽古に行ってやんないからなっ!」
「いや、お前それ自分がサボりたいだけだろ?! ていうか苛めてないから!」
「苛め……俺が、泣かせたのか……?」
「あぁっ! ほら、義勇さんが落ち込んじゃっただろっ!」
「俺が来たからもう大丈夫だよ? 柱に詰め寄られて怖かったよねぇ? しかもこんな押しの強いおじさんと仏頂面のおじさんだもん、怖くて腰抜かしちゃうのも無理ないよ。こんな可愛い顔に怪我までして可哀相に」
「おい、聞け! 花子の手を握るんじゃない! あと義勇さんはおじさんじゃないからなっ!」
「俺は苛めたのか……こんな女子を……」
「ね、ね、名前なんて言うの? こんな可愛い子を苛めるおじさんたちは俺がちゃんと叱っておくから安心してっ」
 ……誰? あと、喧しい。
 突然現れて素早く炭治郎と花子の間に割り込んだ少年は、にこにこと花子の手を取り、炭治郎や義勇のことなどてんで無視だ。花子と同い年くらいだろうか。服や佩刀した日輪刀を見るに隊士の一人には違いないだろうが、柱に対しての態度とは到底思えない。炭治郎とは顔馴染みらしい花子の上官だって、ここまで無礼な物言いなど一切していなかったというのに。
 疑問ばかりが頭に浮かぶが、なにはともあれ。
「苛められてません。あと、日柱様と水柱様はおじさんじゃありません!」
「えっ! 大事なのそこなのっ!?」
「よく言った花子! 義勇さんはおじさんじゃない!」
「……俺はおじさんじゃないのか?」
 ふんすっと胸を張る炭治郎に、なに故、義勇が無表情ながら悲嘆に暮れた声音で言うのかさっぱり分からない。花子の戸惑いは炭治郎にとっても同様のようで、義勇と顔を見合わせ互いに小首を傾げている。
「あー、義勇おじさん、意味違うから。俺らが言ってるおじさんは世間一般的な意味でおっさんのほうの『おじさん』だからね?」
「義勇さんはおっさんじゃない!」
「水柱様はおっさんじゃありません!」
 綺麗に重なった炭治郎と花子の声に、きょとりと桃色の目を瞬かせた少年が唇を尖らせる。
「ちぇーっ、義勇おじさんにべた惚れの炭治郎おじさんはともかく、やっぱり女の子は義勇おじさんの顔に騙されるんだよなぁ。この人こんな見た目だけど、もう四十越えてるからね? 紛うかたなくおっさんだからね? 炭治郎おじさんだって俺の父さんと一歳しか違わないおっさんだよ?」
「炭治郎はおっさんじゃない」
「べた惚れって、いや、そうなんだけど! そうなんだけどもっ! 人前でそういう恥ずかしいことを言うんじゃない! あと義勇さんをおっさんって言うな!」
「義勇おじさんこういう時だけ反応早っ! はいはいはいっ! 分かってます! あー、もうっ、この人たちメンドクサっ!」
「あの……なにがなにやら分からないんですが……とりあえず、手を放して頂けますか」
 一体なんなのだ、この怒濤の茶番は。狂人の妄執の犠牲になりかけたのは、ほんの半時(一時間)ほど前ではなかったか。
 先までの悲痛な思いすら吹き飛ぶ展開についてゆけず、花子は兎にも角にもと己の手を撫でる少年の手に視線を落とし言った。
 そして、今更のように気づいたのは、少年の手の硬さだ。花子と変わらぬ年頃の少年だ。隊士なのだから刀を振るう為の手であるのは当然かもしれないが、素直に剣士の手だと思った。花子が為せなかったことを為した手。傷だらけの手。
 悔しいとは不思議と思わなかった。軽薄な言動に毒気を抜かれていた為ばかりでない。それはきっと、少年と二人の柱との近さに安堵したからだろう。
 隊士の中にもちゃんと、二人に対して恨みなど持たぬ者がいる。呪われ者と蔑まぬ人がいる。それがただ嬉しくて。二人がなんの衒いもなく親しげに少年と言い合う様が、ただただ嬉しくて。
「うわっ、勇治郎! こらっ! 女の子の手を撫でまわすなんて破廉恥なことするな!」
「そんなはしたない子に育てた覚えはないぞ」
「いや、義勇おじさんたちに育てられたわけじゃ……イダダダダッ! ごめんなさいっ! ちょっ、やめて! 頭割れる! 握り潰されるぅっ!」
 義勇にギリギリと頭を掴まれ、絶叫しながら慌てて花子の手を放した少年──勇治郎に、花子はとうとう小さく笑ってしまった。
「やっと笑ったね。笑ったほうが可愛いよ」
 頭を掴まれたまま、それでも嬉しそうに微笑んだ勇治郎の顔は、少し炭治郎に似ていることに気づいた。温かな眼差しを送る瞳は、炭治郎よりも淡い桃色。知らずトクリと花子の胸が小さく鳴る。
 放された手が少し寂しいなんて、何故そんなことを思ったのか分からぬまま、花子の初めての潜入任務はそんな風にして終わりを告げた。