「……もう、誰もいないのかな?」
「いや、もう船に乗ってるんだと思うよ。私有船とは言え、こんな事態だからね。今から乗るのが、ぎりぎりまで仕事をしていた人たちを運ぶ最後の便になってた筈だよ」
「行先は全員一緒なの?」
「うん。同じ星に移住するのは、産屋敷関係の人が多いんだ。あとは、人以外の生き物だね」
炭治郎さんと義勇さんが、ずっと探し集めてくれていた生き物たちだよと、善逸は優しく笑う。
シェルターの外で、汚染された空気や水に負けずに生き残ってきた生き物や植物を、長年二人が調査し採取してきたことは禰豆子も知っていた。それがこの日の為だと知ったのは、巨大な隕石群の衝突により地表の四分の三が消滅することを、地球政府が発表してからだったが。
禰豆子が生まれるより、いやそれどころか善逸の祖母が生まれるよりずっと前──もう三百年近く昔から、地球の終わりは予測されていた。一般市民に知らされたのは移住先の星々の環境がすべて整ってからだが、炭治郎たちは当時からそれを知っていたらしいと善逸は教えてくれた。
当時の産屋敷コンツェルン会長であり、産屋敷一族当主である産屋敷耀哉──炭治郎たち曰くお館様から直々に依頼されたのが、全人類の移住に伴い、共に新たな星で命を繋ぐ生き物たちの採取なのだという。
炭治郎と義勇が、地球政府の重鎮でもある産屋敷当主とどのような関係にあるのか、禰豆子は知らない。けれど、代々の当主に二人がとても信用されていることは、大人たちの会話から窺い知ることが出来た。
現在のお館様こと産屋敷輝利哉について禰豆子が知っていることは、殆どが炭治郎たちを含む大人たちからの伝聞によってだ。我妻家とも繋がりが深いと聞くが、お館様がチャットルームに来ることはなかったので、禰豆子は一度もお館様にあったことがない。だが、炭治郎と義勇が信用しているというだけで、禰豆子にとっては信頼するに足る人物である。
チャットルームで話をしているときも、炭治郎からの手紙でも、二人がお館様を敬愛し感謝していることは、度々語られていた。ともすればただ息を吸い、同じ日々を繰り返すよりほかない生と成り果てても仕方のないところを、お館様のお陰でいつの世も自分のなすべき仕事を与えられて生きていける。それはとても有り難いことだと、二人はよく言っていた。
しかも此度は命を繋ぐ仕事だ、こんなにも嬉しく誇らしいことはないと、幸せそうに。
だからチャットルームに入室するキーワードは、ずっと変わらず『お館様』だ。その呼び名を知る者しか、あの屋敷を訪れることは出来ないようになっていた。
それを聞いたお館様は楽しそうに笑っていたと、お館様の秘書である悲鳴嶼が禰豆子に教えてくれたことがある。
きっとお館様も二人のことが好きなんだと、禰豆子は思う。人類移住計画の立役者だとも聞くとても偉い人だけれど、きっと禰豆子や善逸と同じように、お館様も二人のことが大好きなのだろう。
手続きを済ませスペースシップに乗り込むと、歓談キャビンには見知った顔が幾人かいて、禰豆子は知らず安堵する自分に気づいた。
善逸に挨拶に来る人々は、禰豆子にしてみれば日常だ。昨日の続きの今日を感じさせてくれる。船が出航したら新しい生活が始まるだなんて、ちょっと信じられないぐらいにいつもと変わらない。
ワープ航法によって進む宇宙船は、地球時間で3日ほどの旅路で移住先の星に着くと、善逸は言っていた。宇宙船に乗るのは初めてではないが、今回は往路だけで復路はない。もう地球に戻ることは出来ないのだ。地球は生命の存在しない死の星になる。
そうだ。もう炭治郎や義勇には逢えない。二人は地球とその生を共にするのだから。
それが、二人が選んだ終幕だから。
握り締めていた掌を禰豆子はそっとひらく。
禰豆子の温もりが移ったカードの形をしたピアス。炭治郎の宝物。大切な約束の品だという、炭治郎が肌身離さず付けていたピアス。
炭治郎が存在していたことを知らしめるそれを、禰豆子が身に着けることを炭治郎は許してくれるだろうか。約束を知らない禰豆子が付けても、なんの意味も成さないのかもしれないけれど。
思う端から炭治郎も義勇も、きっと父や母も、笑って許してくれることを信じている自分に気づく。
炭治郎は、もしかしたらすぐ壊れてしまうかもと言っていたが、なんとなく大丈夫だとの確信がある。
まだ幼い禰豆子にこのピアスは似合わないかもしれない。このピアスが当たり前に似合うようになる頃には、禰豆子はどんな大人になっているのだろう。そのとき禰豆子は、自分という存在について炭治郎や義勇のように、善逸のように、胸を張って答えられるようになっているだろうか。
とても難しい宿題だと、禰豆子は思った。
心を夜と朝の狭間に留め続ける為の、心の芯、魂の核と呼べるなにか。それをしっかりと抱いて立つ。それこそが人だと。炭治郎が、義勇が、善逸をはじめとする禰豆子の周りの大人たちが教えてくれたように、禰豆子もいつかは教え導ける大人になれるのか。
ああ、とても難しい。人として生きるということは、本当はとても難しいのだと知る。
人は迷う。人は惑う。苦しみ、悩み、恨みや妬みをどうしたって感じずにはいられない。それを乗り越えて、優しさや思い遣りを、慈しみを、誰かに与えながら自分の足でしっかりと立つ。
それが人を人として生かしてくれるのだと、もう禰豆子は知っている。
知っているだけじゃ駄目だ。ちゃんと自分もそうなるのだ。
だから、これは炭治郎たちから禰豆子への宿題であり、約束だ。それを忘れないためのピアス。約束の、誓いの、ピアス。
いつか。いつかは。これが私と胸を張って笑えるような大人になること。人としてどんなときにも生きること。
それこそが、炭治郎と義勇が禰豆子に与えてくれた一番の教えであり、贈り物なのだから。
ふと、炭治郎がチャットを離れる間際に囁いた言葉を思い出した。
あれはどういう意味だったのだろうと首を傾げたそのとき、善逸が話しかけてきた。
「禰豆子、待たせてごめんね。もうすぐ出航の時間になるし部屋に行こうか」
「パパ……あのね、このピアス、私が付けてもいい? まだ早い?」
チャリンと音を鳴らして掲げられたピアスに、善逸が優しく微笑んでくれることはもうわかっていたけど。
「いいよ。でも、耳に穴開けるの痛いかもよぉ? 禰豆子、泣かない?」
「大丈夫だもん! 玄弥くんもピアスしたいなぁって前に言ってて、開け方教えてもらったもの」
「え!? 玄弥そんなこと言ってたの? えー、まだ早くない?」
「玄弥くんのほうが私よりお兄ちゃんなのに、玄弥くんはまだ早いってパパ矛盾してない?」
思い切り眉を下げる善逸に笑うと、善逸は頭を掻いてバツが悪そうに笑い返してくれた。
「そのピアスは炭治郎さんたちの思い出が詰まってるからさぁ、禰豆子が付けたら炭治郎さんたちも喜んでくれると思うんだよ。でも玄弥はなぁ。お洒落したいとかだけでしょ?」
思春期に入った途端にこれかぁと、善逸がぼやくのに禰豆子はますます笑ってしまう。親戚の玄弥のことも、禰豆子と同じように善逸は慈しむ。それは禰豆子の周りの大人全員がそうだ。
分け隔てなく子供には愛情を。強いものは弱いものを守り、弱いものはいずれ強くなってまた弱いものを守る。これもまた、炭治郎や義勇から教えられてきたことだ。あの屋敷に集う全ての人が、その教えを受けて大人になった。
禰豆子はまだ守られ慈しまれる子供だけれど、いつかは禰豆子も、その教えを幼い子供たちに伝えていこうと胸に刻む。
「実弥おじちゃんに怒られたからピアスはお預けって、玄弥くん言ってたから大丈夫だよ。義勇お兄ちゃんに、玄弥はそのままで格好いいだろって、不思議そうに言われて照れてた」
「男前な義勇さんにそんなこと言われたら、そりゃ玄弥も照れて困っちゃうよなぁ」
声を上げて笑う善逸に、禰豆子もその時の玄弥の真っ赤に染まった顔を思い出し、笑い声を立てた。
笑っているうちに、胸にあった微かな不安が薄れていることに気づいた。
新しい星での暮らしは楽しみでもあるが、どうしたって不安はあった。
土と水と緑と共に生きる。遥か昔には人類が当たり前に享受していた暮らしは、禰豆子たち今の人類にとっては未知の生活だ。禰豆子が新たに住む星以外では、シェルター内の生活そのままに、オートメーション化された機械に頼る選択をした人たちもいる。だが、我妻家が選んだのは、昔の地球に一番酷似した環境の星での、人が自然と共に生きていた頃の暮らしをすることだった。
第三次世界大戦以前の生活など、原始と変わらない。そんな生活が出来るものかと、嘲笑う人も少なくはなかったと聞く。禰豆子もスタディチャットで会うクラスメイトに、同じようなことを言われた。
だが、我妻の人々は、それを選んだ。炭治郎が、義勇が愛した、遥か昔の自然に囲まれ自然と共に生きる暮らしを。
『まもなく出航の時間となります。自室、もしくは歓談キャビンの座席に着きお待ちください』
船内に響いたアナウンスに、禰豆子は我知らず息を飲んだ。
「……行こうか、禰豆子」
終わりだ。これで、本当に、終わり。もう二度と逢えない。本当に、もう二度と。
降ろして。今すぐに。私もお兄ちゃんと……炭治郎お兄ちゃんと義勇お兄ちゃんと一緒に!
そんな叫びが迸りそうになる。
それを止めたのは、禰豆子の肩に乗せられた善逸の手の優しい温もりだった。
「禰豆子が大人になる頃には、炭治郎さんと義勇さんが繋いでくれた命たちが、また命を繋いで、紡いで、当たり前に暮らしているようになるんだろうね」
禰豆子たちがそうしなくちゃいけないね、と。語る善逸の声は静かだ。
部屋に向かって歩き出しながら、手の中のピアスをぎゅっと握り締める。
「お兄ちゃんたちが繋いでくれた命……」
その言葉が、何故か心の奥底、魂の一番深くで、優しく響いたような気がした。
禰豆子自身もまた、その一つであるような気が……。
勿論、そんなことは気の所為だろうと思いはする。禰豆子の命は両親が、先祖たちが、血を繋いで生み出してくれた命だ。けれど、それでも長い長い、果てしなく長い歴史の中で、確かに自分は炭治郎と義勇によって生まれ、生かされてきたような、そんな気がした。
だとしたら、我妻の直系である善逸も、その父も、そのまた母も、ずっと、ずっと、我妻の人々は、二人が繋いでくれたからこそ存在しているのかもしれない。
今、禰豆子がなすべきことは、二人と共に逝くことではない。二人が望んでくれたのは、そんなことではない。
二人が託してくれたものがある。二人が繋いでくれたものがある。
それを繋いでいくのは。それを次に託すまで守るのは。
「パパ……私ね、いつか生き物を守るお仕事がしたいな。炭治郎お兄ちゃんと義勇お兄ちゃんが繋いでくれた命を、私が守るの」
私に出来るかなと少しだけ不安を滲ませて訊けば、善逸は嬉しげに笑ってくれる。
「禰豆子なら絶対に出来るよ。頑張れ、禰豆子!」
うん、と強く頷いて、禰豆子は先ほどの疑問を思い出した。
部屋に入り椅子に腰かけながら問う。
「そうだ、あのねパパ、さっきチャットで炭治郎お兄ちゃんが言ってたんだけど……」
禰豆子、これからはもう、自分の為だけに生まれておいで。
「……って」
なんのことだか分かる? と尋ねたら、善逸も首を傾げたが、やがてふと思い出したように言った。
「パパのおばあちゃんの話、禰豆子にはしたことがあったよね?」
言いながら、善逸は部屋に置かれていた手荷物からフォトフレームを取り出した。
禰豆子の隣に腰かけて、フレームを操作する。映し出されたのは禰豆子も見慣れた善逸の祖母、禰豆子の曽祖母の写真だった。
優しく微笑む皺だらけの顔。たわめられた桃色の瞳。
「……禰豆子はひいおばあちゃんの生まれ変わりかもって思ったって、パパが言ったの覚えてる?」
「うん。炭治郎お兄ちゃんが生まれたばかりの私の写真を見て、禰豆子ってひいおばあちゃんの名前を呼んだんでしょ?」
「そうそう。でね、昔から不思議に思ってたことがあったんだけど……ほら、見てごらん」
スライドされていく写真の数々に、禰豆子はきょとんと瞬きした。
「これ、全部ひいおばあちゃん?」
「ううん、でも、まったく同じ人に見えるよね」
何枚も、何枚も、流れていく優しげな老婆の写真。ルームの鴨居の上で流れているときには、あまり気に留めていなかったが、すべて違う人ならこれは多い。多すぎる。
善逸が指を動かすたびに移り変わる写真は、年代の違いはあれど、同一人物のように生き写しに見えた。
「ああ、この人……この人が我妻家の祖先で、あの屋敷を造った我妻善逸さんの奥さんの我妻禰豆子さん」
「禰豆子……?」
一番最初の写真の女性も、禰豆子の曽祖母と同じ顔をしている。いや、曽祖母がこの人と同じ姿になったのか。
「うん、この禰豆子さんが亡くなった年に生まれたのが、この禰豆子さんなんだって」
次に指し示された女性の顔も、最初の禰豆子と同じだ。
「禰豆子さんが亡くなると、次の禰豆子さんが生まれてくる……まるで急いで生まれ変わってきたみたいに。禰豆子が、ひいおばあちゃんが亡くなった年に生まれてきたみたいにね」
「生まれ変わり……」
茫然としている禰豆子に、善逸は、ふっと軽く息を吐き手荷物を探った。
「あのね、このフォトフレームには入っていない、家を継いだ時にだけ見せてもらえる写真が一枚あるんだよ。特別に禰豆子に見せてあげる」
食い入るようにフォトフレームを見つめる禰豆子に、善逸がそう言って取り出した別のフォトフレームには、古い古い写真が映し出されていた。
「これ……炭治郎お兄ちゃんと義勇お兄ちゃん!?」