「パパ、チャットルームは残してくれる?」
「……いや、あのルームはもう使わないよ」
ドアのコンソールを操作し、スペースポートに繋がるゲートを開きながら言う善逸に、禰豆子は思わず立ち止まった。
「どうして!?」
残しておける思い出の場所は、もうあそこだけなのに。また泣きそうになった禰豆子に、善逸は悪戯っ子のような笑みを見せた。
「今度の家はね、あのルームをそのまま再現してるんだよ」
だからもう偽物の屋敷はいらないんだと、善逸は笑う。
「あのお家に住むの?」
そんなことが出来るのかと驚く禰豆子に、善逸は力強く頷いてくれた。見上げる禰豆子を促し、ゲートへと足を進めながら、善逸は続けて言った。
「地球では不可能だったけど、移住先の星でなら許可が下りたんだよ。産屋敷コンツェルンがテラフォーミングした星だから、うち以外も自然素材の家が多くなるんじゃないかなぁ。伊之助くんちとかカナヲちゃんちとかもご近所になるから、今度はチャットルームじゃなく、うちで皆で集まって遊ぶといいよ。
ルームの基になった屋敷と、全部が同じってわけにはいかないけどさ。まるっきり同じじゃ利便性が悪すぎて暮らすのは難しいから、設備は今と変わらないようにしてもらったよ。でもちゃんと座敷は畳だし、縁側もある。そんな大昔の技術を復活させるのは大変なのにって、かなり渋い顔されたけどね。お館様が……っていうか、産屋敷家が私蔵してた書物を参考に、どうにかこうにか建ててもらったんだ。紙の書物が残ってるってだけでも凄いよねぇ。まぁ、実際に読めたのはデータ化されたものだけど。
鴨居のフォトフレームには、ルームみたいにご先祖様たちの写真が流れるようにしてあるよ。炭治郎さんたちが大好きだった写真だから、あれは絶対になくせないもんね。
竹林に囲まれた庭には、藤の花も植えてあるんだ。でもね、ルームのようにいつでも咲いてるわけじゃない。今度の藤の花は春にだけ咲くんだよ」
その言葉に、禰豆子の驚きはますます大きくなった。
「本当?! 本当にそんな花があるの!?」
禰豆子にとって花とは、好きな時にポッドに種をセットすれば咲くものか、3Dホログラムで見るもので、季節ごとにしか咲かない花など、炭治郎たちが語ってくれたお話の中だけにしかないものだと思っていたのに。
「藤の花だけじゃないよ。禰豆子が大好きなタンポポも春になったら見られる。
……きっと、炭治郎さんと義勇さんが見てきた花と、同じようにね」
「春になったら……」
全てがコンピューター制御された作り物の四季ではない、本物の、春。自然の摂理で咲く花。
禰豆子が好きな『お話』の中にしかなかった世界。これから禰豆子は、いや、全ての人類は、そんな世界で暮らしていく。
炭治郎が語ってくれた眩い太陽の煌めきや温もりも、義勇が話してくれた清涼な川のせせらぎの冷たさも。花々の間を飛び回る虫たち。形を変えながら風に流れる雲の速さ。恐ろしくも美しい轟く雷鳴。獣たちの息吹。揺らめく炎の温かさや苛烈さ、時に優しく時に寂しい葉擦れの音。苔むした岩。ゆらめく霞。光を弾く蛇や魚の鱗。鳥たちがさえずる恋の歌。
二人がどこか懐かしそうに微笑みながら教えてくれた、遥か以前には当たり前のように地上に満ちていたという自然を、禰豆子は、多くの人々は、知らない。自分の目で見、自分の手で触れたことがない。
地上に残された僅かな自然を守るために、人類はある時をもって、人を自然から隔離したから。汚れ切った海が、森林が、全ての自然が、やがて元の姿を取り戻すまで、人は巨大なシェルター内での暮らしを余儀なくされたから。
生まれた時からそんな暮らしが当たり前だった禰豆子にとっては、疑問に思ったことすらないこの閉ざされた世界を、炭治郎と義勇は、どんな思いで受け入れ見つめてきたのだろう。
そして今、炭治郎たちが知る遥か昔の姿を取り戻す前に、この星は、明日の朝日と共に終わりを告げる。この世の終わりが来る。
「ねぇ、パパ。隕石群は朝日が昇りだす頃に堕ちてくるんでしょ?」
「計測ではそうなってるね」
「夜と朝の狭間だね……」
スペースポートに向かうポッドに乗り込みながら、禰豆子は以前善逸から聞いた言葉を口にした。
夜と朝の狭間に立ち続け、夜と朝の狭間で終わりを迎える二人を思う。
「……夜が鬼で、朝は人?」
ポッドの窓には青空が映し出されている。0と1の羅列で再現されたグラフィックの空だ。
禰豆子は本物の空を見たことがない。炭治郎と義勇が語ってくれた本物の夜空も、本物の朝日も、太陽や月、星々も。禰豆子は窓を模したモニターに映し出された紛いものしか見たことがなかった。それが禰豆子にとっての、多くの人にとっての空だ。
「パパもそれ、さっき炭治郎さんたちがチャットに入る前に訊いちゃった」
善逸の言葉に促されるように、禰豆子は窓から善逸へと視線を移した。善逸は少し居心地悪そうに微笑んでいる。まだ赤い目をしているけれど、眼差しは優しい。
「炭治郎お兄ちゃんたちはなんて答えたの?」
善逸も禰豆子同様、問わずにはいられなかったのかもしれない。最後なら。これが最後ならと、訊いてみたのだろう。
「昔々は炭治郎さんたちもそんな風に思ってたんだって。でもね、物事には善悪があるように、人も鬼も、善悪どちらも持ち合わせているって分かったんだって言ってたよ。人は、悪意だけでも善意だけでも生きられない、どちらかだけの人なんていないんだって。
人は皆、妬みや恨みに負けて悪意に染まらないように、優しさや慈しみに向かって立つんだ。善と悪の──夜と朝の狭間で、しっかりと自分の足で立って生きるのが、人なんだって。どんな身体だろうと、たとえその身が鬼になろうと、それが出来るのが人なんだって」
それならば、二人は。
「二人もね、いっぱいいっぱい迷ったり悩んだり、苦しんで誰かを恨んだり妬んだりしたこともあったんだって言ってた。それでもね、人でいようって一所懸命生きてきたんだ。どんなに呪われた身の上でも、心は優しさや愛を知る人でいよう、悪意だけの鬼にはならないようにって、きっと、ずっと頑張って生きてきたんだよ。
だから、炭治郎さんと義勇さんは、パパや禰豆子となんにも変わらない、夜と朝の狭間で生きてきた、人なんだよ……」
そういう善逸の顔は、どこか誇らしげですらあった。
昔から伝わってきたであろう言葉は、炭治郎と義勇が何者なのかをきちんと伝えてきたのだ。自分たちとなにも変わらない人だよと、ずっと教えてきてくれた言葉だった。
全人類に割り当てられたIDを持たぬ二人は、シェルターの中では暮らせない。人間として与えられる、当たり前の権利を有しない。
それでも、炭治郎と義勇は人だ。
我妻に連なる一族と産屋敷コンツェルンのごく一部の人たちしか、その存在を知らなくとも。人の住めぬシェルターの外でしか、暮らせなくとも。
優しさを、労りを、思い遣りを持ち、愛を知る、ただの人だ。悩みを、苦しさを、恨みや嫉妬を抱え、弱さを知る、ただの人だ。
「パパ、嬉しそう」
禰豆子もちょっと嬉しくなって笑えば、善逸は照れたように肩を竦めて言った。
「そっかな? ……そうかも。
あのね、炭治郎さんと義勇さんが、パパはとても優しいから人に傷つけられることも多いだろうけど、それでも弱さや辛さには負けない人だって知ってるよって、言ってくれたんだ。夜と朝の狭間でしっかり足を踏みしめて、優しさや思い遣りに向かって手を伸ばして立っていられる善逸でい続けてくれって。これからも、与えることを知る人でいてほしいって。
泣き虫な俺を、二人は絶対に馬鹿にしたり見捨てたりしないでくれた。いつも優しくて、でも時々厳しくて、俺のこといつだって見守ってくれてた。だから俺は、今の俺になれたんだと思う。
ずっと、ずっと、大好きだったんだ、二人のこと。小さい頃から、ずっと。
そんな二人と約束したんだから、新しい暮らしがどんなに大変でも、頑張らなくちゃなぁって。炭治郎さんと義勇さんが信じてくれた自分でい続けなくちゃって思ってさ」
禰豆子と話しているときに、善逸が自分のことを俺と称するのは珍しい。いや、禰豆子の記憶違いでなければ初めてだ。
いつだって禰豆子と話すとき善逸は、自分のことをパパと言う。どんなときでも禰豆子のパパという立場でいるからだろう。
けれど今、善逸は、禰豆子の父としてではなく、なんの肩書もつかぬ我妻善逸として話している気がした。他の何者でもない、炭治郎と義勇が慈しんでくれた自分を誇りとして立つ、ただの我妻善逸として。
善逸の誇らしげな微笑みを見つめながら、禰豆子は思う。自分も人に問われたときに、これが私と胸を張って言えるなにかになれるだろうかと。
炭治郎たちだけでなく、禰豆子を知る大人たちは皆、禰豆子のことを優しくていい子だと言う。なら、それが私、我妻禰豆子なのか。誰かに問われて、優しくていい子なのが私と答えるのか。
気恥ずかしさはともかく、それは答えではないような気がした。
「さっきね、私も炭治郎お兄ちゃんたちに訊いちゃったの。お兄ちゃんたちは何者なのって」
「そっか……」
「うん。パパにだけ、お兄ちゃんたちがなんて答えてくれたか教えてあげてもいいよ?」
「教えてくれるの? 聞きたい聞きたい! 炭治郎さんたちなんて言ってた?」
ぱっと顔を明るくして悪戯っ子のように笑う善逸に、禰豆子も目を細めると善逸の耳元に顔を寄せた。二人しかいないポッドの中で、それでも内緒話のように小さな声で言う。
「あのね、炭治郎お兄ちゃんは……」
俺はね……竈門炭治郎は、この世で一番冨岡義勇さんを愛する者だよ。
それ以上でも、それ以下でもないと、誇らしげに。誰に問われてもきっと炭治郎は、胸を張って応えるのだろう。
なにがあっても揺らぐことない心の芯、魂の核となるものは、たった一つの愛だと。それを大切に抱えて生きるのが自分だと。
善逸が目をぱちくりとさせるのを、禰豆子もまた誇らしく見上げる。パパが大好きな竈門炭治郎という人は、そんな愛を知る人だよと伝えるように。そんな炭治郎に慈しまれて育った善逸もまた、愛を知る人であることを、禰豆子は知っている。
「なんて言うか、炭治郎さんらしいね」
クスクスと笑いだした善逸は、たいそう幸せそうだ。禰豆子もとても幸せな気分になる。
「それでね、義勇お兄ちゃんは」
なにが起ころうとこの世で一番、竈門炭治郎を愛し、愛される者であり続ける。それが、俺、冨岡義勇だ。
「……って言ってたの」
問いの答えであり、まるで宣誓のようでもあった義勇の言葉に、禰豆子も嬉しく思ったが、善逸もそれはそれは楽しそうに、幸せそうに、声を上げて笑ってくれた。
「それ、炭治郎さんが聞いたら狡いって拗ねそうだなぁ。もしかしたら今頃、俺だってこの世で一番義勇さんと愛し愛される者って言えばよかったって、悔しがってるかもよ?」
「そうかも。炭治郎お兄ちゃん意外と負けず嫌いなとこあるものね」
「義勇さんに関することだけ、ね。義勇さんも、炭治郎さんに関することだけはすっごく負けず嫌いだし」
二人で顔を見合わせ笑い合う。
ポッドがスペースポートに到着したことをAIが告げるまで、二人は笑い続けた。炭治郎と義勇が、どれだけ想い合っているかの思い出話に興じながら。
いつだって気が付けば無意識に惚気合う二人に、周りの人たちはといえば、時々は困って、大体は幸せで。思い出話が多すぎて、笑い声は尽きることがない。
それでも、終わりは来る。静かにポッドが停止し、スペースポートに降り立った禰豆子と善逸は、いつもなら活気に溢れたロビーが静まり返っていることに気づき、揃って口を噤んだ。
地球に残っている人はもう殆どいない。動き回っているのはアンドロイドやロボットばかりだ。