「頭痛い……」
「俺も……絶対に目赤くなってるよなぁ。あー、父さんに揶揄われるぅ」
二人揃ってひとしきり泣いて、しゃくりあげる声が自然と小さくなった時には、もう月は大分西に傾いていた。
泣きすぎて頭は痛いし、声だって鼻声だ。きっと自分の目も真っ赤になっているだろうし、瞼もかなり腫れていることだろう。朝になって皆の前に顔を出すのが恥ずかしい。
「でも、すっきりした……」
「うん、俺も」
フフッと小さく笑い合う。
「ねぇ、花ちゃん、誕生日に買ってもらったリボンって、まだ持ってる?」
唐突な問いに、花子はきょとんと目を瞬かせた。
「うん、なんで?」
「今度それ結んで一緒にどこか行こうよ。えー、あの、さ、桃色のリボンつけて、俺とランデブー、しませんか……なんて」
「ふへっ!?」
変な声が出た。
ランデブー、ランデブーってなんだっけ。きっと敵性語だ。官憲に聞き咎められたら……いや、違う。それは今はどうでもいい。ランデブーはあれだ、あれ。逢い引き。逢い引き!? 勇治郎さんと!?
「え? えっと、あのっ」
「駄目? 俺もっと花ちゃんのこと知りたいんだけど。さっきもう一つ知ったことはあるけど、もっともっと知りたいなぁって」
「知ったこと? なに?」
泣き声が可愛くないとかだったらどうしようと、少し不安になりながら花子が訊くと、勇治郎はなんだかちょっと躊躇っていたようだがやがてぽつりと言った。
「足が、綺麗」
「足? え、足?」
「うん、凄く綺麗で、その、色っぽかったなぁ、と」
足など見せた覚えはと考えたところで、ふと思い当たった。
「あ! 障子開けた時! 見たの!? 嘘っ!」
「や、だって、見えちゃったから……」
かぁっと顔に熱が集まる。今は見えていないと分かっていても、握られたままの指を引っ込め、裾を正してしまったのは致し方ないだろう。
「やだもうっ、破廉恥! 勇治郎さんの助平! 莫迦っ! もっと知りたいって……なに考えてるのよっ!!」
いや、もっと勇治郎のことを知りたいと花子とて思うのだ。だが、今の話の流れでは、了承したら甚だはしたない方向に進むのではないのか。それはとんでもない話だと、花子はすっかり臍を曲げた。こういった話には、もっとこう、浪漫を求めたいではないか。
「いや、変な意味じゃなくて! 今はそこまで考えてないからっ!」
「当たり前だろっ、そういうところは善逸に似なくていいんだ!」
「うわっ、炭治郎おじさん! え、なんで!?」
勇治郎に続いて聞こえた炭治郎の声に、花子は思わず飛び上がった。まさか聞かれていたのだろうか。いや、これは確実に聞かれていただろう。いつから? あんな破廉恥なやり取りを柱に、あの炭治郎に聞かれた?
恐慌に陥る花子と同じく、勇治郎も盛大に狼狽えているようだ。えっと、あの、と、言葉が見つからずにいるらしい。
「ごめんな、花子。立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、やっぱり夜更けに未婚の男女が二人きりでいるっていうのは、よろしくないからな。勇治郎も花子も、ふしだらな真似をする子じゃないって信じてるけど、間違いがあったらいけないだろ?」
「まさか……最初から、いた……?」
「いたぞ? あ、今義勇さんが手拭い濡らしてきてくれてるからな。あれだけ泣いたんだから、二人とも目を冷やすといい」
「義勇おじさんまで?! ああぁぁぁ、もぉぉぉっ!」
「勇治郎、煩いぞ。夜中なんだから静かにしないかっ」
魂消るとはこういうことをいうのか。まさしく魂が消え失せそうだと、花子は顔を覆って蹲った。もう、魂だけでなく全て消えてしまいたい。それぐらい恥ずかしい。
「俺たちだけじゃなくて、きっと善逸も聞いてたと思うよ? ここには来てないみたいだけど」
「……聞いてたよ。聞こうと思わなくても聞こえたよ! 俺の耳舐めんじゃねぇぞ! あと俺に似なくていいってなに、炭治郎! ていうか俺じゃなくたって聞こえるに決まってるでしょ!? あんな大声で泣いてたらさぁ!!」
やだもううちの息子恥ずかしい! あ、でも花ちゃんがうちにお嫁さんにきてくれるのは嬉しいなぁ、花ちゃんが俺の娘になるのかぁ。けど俺、元々花ちゃんのお父さん代わりのつもりだからさ、やっぱり娘と結婚したいなら俺を倒してからにしろって勇治郎に言ったほうがいいよね! 花ちゃんに格好良くて綺麗って言ってもらっちゃったし、頑張っちゃおっと。あー、でも俺にぼこぼこにされたらまた勇治郎泣いちゃうかも……などと。
襖の向こうから聞こえてきた騒がしい声に、花子は完全に撃沈したが、勇治郎はそうもいかなかったようだ。
「泣かねぇよ! ていうか返討ちだし! 大体父さんまでなんでいるんだよ、こういう時は空気読めよぉ!!」
「それじゃ善逸の次は俺だな。花子はもう俺の妹みたいなもんだから。嫁に出すなら俺に勝てる男じゃなくちゃ駄目だ!」
「はぁ!? 炭治郎おじさん自分の歳考えて! 百歩譲って娘なら分かるけど花ちゃんみたいな若い子に妹はない……ヒィッ、冷たっ!」
「炭治郎はまだ若い。炭治郎の次は俺だ。鍛錬を怠るなよ」
そんな言葉と共に唐突に開けられた障子に、もはや驚く気力もなく花子は、お前も冷やしておけとでも言うように義勇が無言で差し出した手拭いを、よろよろと受け取った。
「ありがとうございます……」
「なんで義勇おじさんまで参戦しようとしてんの……」
勇治郎もすでに声を張り上げる余裕はないらしい。ぼやく声には疲れが滲んでいた。
「炭治郎の妹は俺の妹だ。生半可な男にはやらん」
「うん、分かってた。義勇おじさんがそういう人だって知ってた。……花ちゃんをお嫁さんに貰うまでに柱三人撃退……なんなの、その過酷すぎる柱稽古」
とても気になる言葉が先ほどから飛び交っているが、とりあえず。
「あの、勇治郎さん? 元柱も追加で……」
浪漫はないけれど、なんだかとっても嬉しい気持ちがするので、とりあえず。
「私に求婚するなら先生を倒せるぐらいじゃないと駄目だって、先生言ってましたから」
「……そんな予感はしてた。これ絶対に自分がやりたいだけで嘴平さんも参戦するよね!? 下手したら他の柱も全員くるんだろ! あー、もうっ! 絶対に強くなってやる!」
「とっとと強くなれよぉ。花ちゃん、勇治郎が強くなるまで待てないと思ったら、きっぱり袖にしちゃっていいからね? 大体さぁ、女の子誘うのにあれはないよねぇ」
いつの間にやら隣に来ていた善逸にケラケラと笑いながら言われ、花子は精々顔を顰め頷いてみせる。
浮かび上がりそうになる笑みを堪えた唇がうずうずするけれど、とりあえず。
「そうですよね。破廉恥なのはいけません」
「ほんとにね。勇治郎、後でお説教よ?
はいっ、ということで全員そろそろ部屋に戻って。ご近所には聞こえなくとも時間を考えてくださいね。夜中にギャーギャーと煩くするんじゃありません! ほらっ、解散!
花子ちゃんも少しでいいから寝なさい。明日もお仕事なんでしょう?」
いつ来たのやら、善逸の襟首を猫の子を持ち上げるように摘まんで言い放った禰豆子に、花子も男性陣ともども首を竦めた。禰豆子最強、と頭の中で後藤が言う声を聞いた気がした。
禰豆子ちゃんごめんと詫びながら連れ出されていく善逸を見送り、そろそろと庭へと視線を移すと、義勇が禰豆子と同じように勇治郎の襟首を摘まみ上げていた。炭治郎はそれを苦笑しながら見ている。
「えっと、それじゃ花ちゃん、また明日ね。おやすみ」
「あ、はい。おやすみなさい」
気恥ずかしそうに言う勇治郎に、花子も恥じらいつつ応えると、不意に義勇が口を開いた。
「ありがとうだ」
「え? なにが?」
「ありがとうと言ってやれ。きっと喜ぶ」
それだけ言って勇治郎を引きずっていく義勇に、勇治郎が頭の中を疑問符だらけにしているのが手に取るようにわかる。花子も意味が分からずきょとんとするしかない。
「義勇さんは言葉が足りないから……後で注意しとくな?」
歩み去る義勇と勇治郎の背を見遣りながら、クスクスと笑う炭治郎は、今の言葉の意味が分かっているのだろうか。
「勇治郎には自分で考えさせるから、内緒だぞ? 花子にだけ教えてあげる。
あのな、花子のお兄ちゃんは、きっと花子に謝られるより、守ってくれてありがとうって言われたいはずだよ」
俺は六人兄弟の長男だから分かるんだと、炭治郎が胸を張る。
「謝ることは勿論大切だけど、それよりも鬼から守ってくれてありがとうって、お兄ちゃんのお陰で元気に暮らしてるよありがとうって、花子にお礼を言われるほうが、お兄ちゃんはきっと喜ぶよ。俺ならそのほうが嬉しい。花子にずっと後悔させるより、笑って礼を言われるほうが、ずっとずっと嬉しい」
いっぱい泣いたからもう笑えるよな、と。優しく微笑まれて頭を撫でられた。ずっと前に兄にそうされたように。
そうか。そうなのか。すとんと心の奥にはまり込んだ言葉に、花子は炭治郎の優しい瞳を見つめ返した。
花子が兄にありがとうと笑うと、いつも兄は嬉しそうに笑い返してくれた。いつだってそうだった。何故忘れていたのだろう。花子の笑った顔が大好きだと、兄はいつも言ってくれていたのに。
「日柱様も、勇治郎さんにありがとうと言われたいですか……?」
「……恨まれたり責められたりしても、仕方ないって思ってる。でも、勇治郎が後悔したり自分を卑下して生きてくのは、嫌なんだ。だから……そうだな、いつかありがとうって笑ってくれたら、すごく嬉しいな」
勇治郎がお日様みたいな顔で笑ってるのが、俺も義勇さんも好きなんだ。そう微笑む炭治郎の顔は、兄の微笑みを思い出させる。
「ありがとう……お兄ちゃん」
「うん、そう言って笑ってあげな?」
「いえ、今のは日柱様にです。もう私は日柱様の妹みたいなものなんでしょう?」
ぽかんと目を丸くする炭治郎に、花子は温かい涙が瞳に沸き上がるのを感じた。
ああ、そうだ。ごめんなさいよりも強く、心から言いたい言葉は、心の底から言うべき言葉は、それだった。
「勇治郎さんが生まれたのが水柱様と日柱様のお陰なら、私が今日勇治郎さんに出逢えたのも、お二人のお陰です。だから……生きていてくれてありがとう、お兄ちゃん」
はらりと落ちた一粒の涙と共に紡がれたその言葉は、心の奥深く、いや、もしかしたら魂の奥底から湧き上がってきた言葉だった。
柱である炭治郎をお兄ちゃんなどと呼ぶことは、本当なら不敬に当たるのだろう。いつもの花子なら決して口には出せなかったろう。
けれど今その言葉は、花子自身が驚くほど自然に口をつき、しっくりと馴染んだ。だから花子は流れる涙はそのままに笑った。お兄ちゃん、生きていてくれてありがとう、と。
ぽろりと、炭治郎の大きな目から涙が零れて落ちた。くしゃりと顔を歪めた炭治郎の、ぎゅっと抱き締めてくる腕に、花子は素直に身を任せる。
やがて泣き止み気恥ずかしそうに炭治郎が離れるまで、花子はそっと、逞しいけれどまだ幼さの残る炭治郎の背を、抱き返していた。花子と涙声で呼ばれるたび、お兄ちゃんと微笑み囁き返しながら、ずっと。
その日の出来事の全てを、花子は生涯決して忘れなかった。
今日この時から、その後の我妻花子として生きた全ての時間の中で、その記憶は薄れることなく花子の心に常にあった。
辛く苦しい戦火の中でも、生まれたばかりの子を抱いて皆に祝福された時でも。
迷い、戸惑い、心が鬼へと成り下がりかけた時にも。必死に引きとどめ、人であり続けるために自分の足でしっかりと立ち続けようと決意を新たにした時にも。
宇髄をはじめとする、親しく優しい人たちとの永の別れの時にも、善逸を、勇治郎を、禰豆子や炭治郎たちとともに看取った時にも、ずっと。
禰豆子や炭治郎たちに看取られ、静かに瞳を閉じるまで、ずっと、ずっと、忘れなかった。