勇治郎が泣くのを必死に堪えていることは、容易に分かった。
抱き締めてあげたい。生まれて初めて、男の人に対してそう思った。
不意に浮かんだそんな言葉に、常ならばはしたないと狼狽えたかもしれない。けれど確かに今、花子は勇治郎を抱き締めたいと、冷えた肌身を、辛い苦しいと震える身体を、温めてあげたいと思ったのだ。
でもきっと、勇治郎はそれを望んではいないだろう。今、勇治郎を抱き締め慰めることは簡単だけれど、それではなにも救われない。
私と同じだ。花子は思った。勇治郎もきっと断罪されたいのだ。自分の愚かな狭量さを、身勝手な恨みを、鬼になりかけた人の心が責めてほしいと願っている。生まれや育ちが違ったって、なにも変わらない。自分と勇治郎になんの違いがあるというのだろう。
「俺、言っちゃったんだよ。炭治郎おじさんに。生まれたくなんかなかった、生まれたばっかりにこんな目に遭うって。炭治郎おじさんたちや母さんのこと、恨んだけどやっぱり好きで、死ねば良かったのにとは言えなくてさ。俺が生まれないのが一番良かったのにって思ったんだ」
生まれてこなければ良かった。兄の妹が自分でなければ良かったのに。そうしたら、きっと兄は死ななかった。花子が抱いた自責の念が、勇治郎のそれに重なる。
「おじさん、そんなこと言うなって泣いちゃってさ。泣きながら、ごめんって謝るんだ。死ねなくてごめんなって。でも嬉しかったんだって、抱き締められた。俺が生まれて、呪いにかかってから初めて、生きてて良かったって思ったんだって。生きていていいんだって思えたんだって、泣いたんだ。
俺ね、震災の日に生まれたんだよ。いよいよ生まれるって時に地震が来て、屋敷が崩れてく中で母さんは俺を生んだんだって。父さんとおじさんたちと、見舞いに来てた獣柱の嘴平さんで、必死に技出しまくって落ちてくる瓦礫に母さんが潰されないようにしたんだってさ。嘴平さんと一緒に来てたカナヲさんが、あちこちから飛んでくる火の粉を払いながら、どうにか俺を取り上げてくれたんだって聞いた。
皆が力を合わせて誕生させてくれた命なんだよって、昔から母さんや父さんによく言われたなぁ。
男の子だから名前は勇治郎。義勇おじさんと炭治郎おじさんから貰ったんだ、俺の名前。父さんと母さんは俺がお腹にいる時から、男の子だったら勇治郎って付けようって決めてたんだって。義勇おじさんが鬼になった母さんを殺さずに、炭治郎おじさんに進む道を示してくれたから。炭治郎おじさんが、母さんが心まで全部鬼になるのを必死に抑えて、守り抜いてくれたから。そして、二人で鬼舞辻を斃して、母さんを人に戻してくれたから。だからこの子は生まれてきた。この子は二人が生ませてくれた子。二人の子供でもあるんだって母さんが言ったら、二人ともぼろぼろ泣いちゃったんだよって、母さん笑ってた。義勇おじさんの泣き顔なんて、その時しか見たことないって言ってね」
勇治郎の声は酷く掠れて詰まって、彼が泣きだす寸前であることを伝えていた。その声が、勇治郎の苦しみが、花子の胸を締め付ける。
「俺は、そんな風に生んでもらったのに……生まれたくなかったなんて、すげぇ酷いこと、言った。けど俺、炭治郎おじさんに謝ってないんだ。だって、だってさぁ、謝ったら絶対おじさん許してくれんだもん。おじさんは絶対に気にしてないって笑うんだ。悪いのは酷いこと言った俺のほうなのに、きっとまた、ごめんなっておじさんのほうが謝るんだ。怒ってくれていいのに。叱ってほしいのに。
父さんには初めてぶん殴られたけど、それじゃ駄目なんだ。他の人じゃ駄目なんだよ。炭治郎おじさんに叱られなきゃ、俺は俺を許せない。だけどそれも、結局は俺が楽になりたいだけの甘えだって……本当は、分かってるんだよ……」
ああ、同じだ。この人の苦しみは、私と同じだ。花子は、ぐっと咽喉の奥からせり上がるなにかに、喘ぐように唇を戦慄かせた。
「ねぇ、花ちゃん……泣いてよ」
「え……?」
「さっき泣かないって誓ったって言ってたけど、俺、花ちゃんに一緒に泣いてほしい」
狡い人だと思った。優しくて、ひたすらに優しくて、狡い人だと。
「俺の背丈さ、こないだあった国の身体検査で測ったら、炭治郎おじさんより大きくなってたんだ。昔は見上げてたおじさんの顔が、どんどん目線が近くなって、今はもう少しだけ見下ろしてる。年だって、そのうちに俺のほうが、炭治郎おじさんどころか、義勇おじさんよりもずっと年上に見えるようになる。俺ばっかりおじさんたちを追い越して年をとるんだ。子供みたいに泣いて許しを乞えるのも、俺を叱ってよって我儘言えるのも、きっと今だけだと思う。
でも、俺は謝って叱られて、許されて、そうやって自分が楽になるより、強くなりたい。もうおじさんを泣かせないぐらいに。今度は俺がおじさんたちや母さんたちを守れるくらいに。
刃には純粋な心だけ乗せて振るえ、鬼への怒りや誰かを守りたいという想いだけでいい。迷うな。迷いはいつか刃を曇らせる。義勇おじさんにそう教えられたのに、俺の刃には不純なものが多すぎる。馬鹿な自分への後悔とか、おじさんたちや母さんたちを責める奴らへの憤りとか、楽なほうに逃げたくなる甘えとか……自分が何者なのか、悩んで惑って、恨んで……そういうの、もうしたくないんだ。俺を迷わせて刃を曇らせる全部、涙と一緒に流して捨てちゃいたい。
俺は、我妻善逸と我妻禰豆子の長男で、冨岡義勇と竈門炭治郎の甥っ子で、鬼殺隊隊士の我妻勇治郎。鬼を斃して、人を、大事な人たちを守る為にいる。それだけでいい。名を成して人に褒め称えられる人間になろうとか、酷いこと言った奴らを見返そうなんて思わない。その為に、いらないもの全部、泣いて捨てたい。
でも一人で泣くと、自分が可哀相だって甘えの涙になりそうで怖いから……花ちゃん、俺と一緒に、泣いてよ……」
泣かないと誓ったのは、本当は泣きたかったからだ。子供のように大声で、わんわんと泣いてしまえたらと、いつでも思っていたからだ。けれど泣いたらいけないと、追い詰められながら生きてきた。
なのに、そんなことを言われたら。そんな大義名分を与えられたら。
「私が一緒に泣いたら……勇治郎さん、もっと強くなる……?」
花子も本当は分かっていた。兄に謝りたい、兄から生きることを許されたいと願うのは、自分の甘えでしかないことを。
鍛錬中に心にあったのは、きっと鬼への純粋な怒りなどではなかった。自分はこんなにも頑張っているのだから許される。頑張っているから認めてもらえる。頑張ってみせるだけでいいなんて、そんな甘えがきっとどこかにあった。
おそらくは、宇髄にはそれを見抜かれていた。きっと鳴柱にも。だから自分は隊士にはなれなかった。それでも、隠に推挙してくれた。信じてくれたのだと、思う。隊士にはなれなくても、花子ならばいつか鬼を斃す一振りの刃になれると、信じてくれたから……だから花子は今、ここにいる。
今はまだ、胸を張って自分が何者なのか言える自信はなくとも。
夕刻、炭治郎が男に向かっていった言葉が蘇る。
そうだ、自分も、今は何者か分からなくとも、どんなに迷い惑っても、人であり続けたい。鬼にはならない。それを胸に刻みつけて。それだけを、固く誓って。
「うん、絶対強くなってみせるから」
「鬼……斃してくれる?」
本当に強くなりたいのなら。本当に鬼を許せないと思うのなら。泣いてしまえば良かった。自分を可哀相がって泣くのではなく、お兄ちゃん逢いたいよ、と。お兄ちゃん、ずっと一緒にいたかったよと。思慕の念だけを抱いて、小さい頃のようにわんわんと声を上げて。
そうして、泣いて泣いて泣き尽くして、迷いも甘えも全て流し尽くして。鬼への怒りと自分のような人を増やさぬ決意だけを、心に刻めば良かったのに。
「うん、約束する」
ああ、泣きたい。子供のように。ただ哀しいと。泣いてしまえ。
もう、泣いてしまえ。
ふ、と熱い息が零れ落ちた。同時にずっと我慢していた涙が一粒、ぽろりと落ちた。
「私も……強く、なるから。絶対、いい隠になる、から……勇治郎さん、一緒に、泣いて」
うん、という返答は、しゃくり上げる音に紛れていた。
わんわんと、泣いた。二人で。背中合わせ、指先だけ繋ぎ合って。子供みたいに、ただ泣いた。
哀しいと。辛いよと。でも、強くなるからと。ただ泣いた。
鬼に害されることのない世になるための、刃となれるように。混じりけのない覚悟と決意の刃となれるように。迷いを捨てた心は強く、どこまでも強くなれるよう。
今はただ、二人で、泣いた。