夜と朝の狭間で

「私、本当に馬鹿だった。馬鹿で、卑怯だった……なんにも知らないくせに、日柱様たちを恨んで陰で責めることで、鬼に対して一矢報いていると思い込んでた。後藤さんに謝ったら、また自分の馬鹿さ加減を思い知らされた。
 後藤さんにね、謝る理由はなんだって聞かれたの。呪われ者って恨んでごめんなさいってんなら俺に謝るのは筋違いだろうって。ただの噂や陰口を、調べもせずに真実だと思い込んだ浅慮に対して反省の意味での謝罪じゃなきゃ、隠としては失格だ。謝ることで自分が楽になりたいだけの謝罪ならいらない。隠として生きていく覚悟があるなら、謝るより誓え。これより先は自分の目で見て、自分の耳で聞いて、噂や憶測を鵜呑みにせずに裏をとることを誓えって言われた。
 時代が変わった今、隠の仕事の大半は鬼の調査なんだから、胸を張って隠を名乗りたいなら事実以外を軽々しく口にするな。隠は決して憶測や噂話に踊らされるな。俺たちが集めた情報に、隊士たちは命を掛けてることを忘れるなよ、って」
 後藤のその言葉を、花子は深く胸に刻み込んだ。決して忘れまいと誓った。だから、今、事実を語っている。自分の愚かさも包み隠さずに。
「自分が楽になりたいだけの謝罪……」
 ぽつりと呟いた勇治郎の声には、何故だか沈痛な響きがあった。
 それに返す言葉を、花子は見つけられなかった。なにが彼を苦しめているのかは分からないが、慰めるのも理由を問うのも躊躇われる。
 互いの言葉が途切れた。沈黙のなか風にそよぐ木々の葉擦れだけがさやかに響く。藤の花の香りが仄かに流れくる。
「俺が、生まれたから……俺が生まれてくれたから、生きていいんだって思ったって、言われたんだ」
 聞き逃しそうなぐらいに小さな声だった。独り言のような呟きだったが、花子の耳にはしっかりと届いた。
「後藤さんが言った通りだよ。鬼舞辻が最期にかけた呪いの所為で、おじさんたちは年をとることも、死ぬことも出来なくなった。鬼舞辻がおじさんたちに血を継承させた所為で、鬼舞辻に支配されてた鬼は消滅しなかった。
 ……おかしいよね、おじさんたちはちゃんと鬼舞辻を倒したのに。英雄って呼ばれるだけのことをやってのけたのに」

 呪われ者として蔑まれ、恨まれてる。

 ザァッと強く風が吹いて、勇治郎の声を掻き消した。それでも花子には確かに聞こえた。苦しさを堪える声だった。哀しみに揺らぐ声だった。
「俺さ、花ちゃんより酷いんだ。だって花ちゃんは知らなかったから、おじさんたちを恨んだんでしょ? でも俺は知ってた。知ってて、それでもおじさんたちを恨んで責めたこと、あるんだ。
 小さい頃から父さんや母さんたちが教えてくれてたし、隊士や柱の人たちがうちに来ることもあるからさ、宇髄さんや他の柱の人たちと父さんが、うちで話してるのが聞こえたりするんだ。だから俺は他の人より色々知ってる。大勢の隊士が死んだほどの凄まじい戦いだったことも、呪いにかからなければ、きっと義勇おじさんはそのまま死んでたことも。二人が互いの頚を刎ねたことだって、それでも死ねずに苦しんでたことだって聞いてた。
 鬼狩りの最中に、鬼から庇った隊士に炭治郎おじさんが背中から刺されたこともあるんだよ。隊士の村田さんって人が、父さんや義勇おじさんに言ってた。炭治郎おじさんは、心臓を刺し貫かれたまま、それでもその隊士を庇って鬼たちと戦い続けてたって」
 淡々と、けれど苦しげに語られた言葉に、花子は愕然と目を見開いた。
「まさか、そんなこと……」
 そこまでするのか。そんな馬鹿なことをする輩までいたのか。言葉を失った花子に、炭治郎は密やかに苦笑を漏らしたようだった。
「あったんだよ。村田さんが酷いあんまりだって泣きながら怒ってた。俺、庭で遊んでたんだけど聞こえちゃってさ。鬼殺隊の人が来てる時は、呼ばれない限り部屋に行っちゃいけないって言われてたんだけど、びっくりして我慢できなくて、おじさん大丈夫なのって部屋に飛び込んじゃった。父さんには叱られたけど、義勇おじさんが知らないままはかえって辛いだろうって言ってくれて、村田さんが教えてくれたんだ。
 その隊士は入ったばかりの癸で、鬼に向かってくどころか、へたり込んで震えるばっかりだったって。
 隠が持ってきた情報より鬼の数が多かったらしいんだ。他の鬼を分裂させる血鬼術持った奴がいたみたいでね。一体一体は弱いけど増えてく鬼に、早々に戦意喪失したんだろって村田さんが言ってた。炭治郎おじさんが割り込んで庇わなければ、なに一つせずに確実に鬼に殺されてた筈だって。
 村田さんがね、そいつが炭治郎おじさんを刺した時になにやってんだって怒鳴ったら、そいつ、こいつが死ねば鬼は消えるんだろ、こいつの所為で今俺は殺されかけたんだ、こいつこそ鬼だって叫んだんだってさ。
 おじさんは……それを聞きながら、心臓を刺されたまま鬼を斬り続けてたって。刀を抜かないとっておじさんに走り寄ろうとした村田さんに、俺のことはいいから鬼を狩ってくださいって言って……」
 怖い。そんな言葉が咄嗟に浮かんで、花子は知らず身体を震わせた。
 炭治郎の温かい笑顔が脳裏を過る。あの優しい人に何故そんな真似ができるのか。知らないから、炭治郎たちのことを悪意でもってばらまかれる噂でしか知らないから、そんなことが出来るのか。
 もしも……もしも知らないままだったら、いつか自分もそうなっていたのだろうか。
 心底怖いと思う。そんなことまで出来てしまう『人』が。なにかが一つでも違っていたら、そうなっていたかもしれない、自分が、怖い。
 花子の中で、鬼と人に対する根源的な認識が揺らぐ。人とはなんなのだろう。なにをもって人と呼ばれるのだろう。昼間出会ったあの男のように、炭治郎を刺したという隊士のように、他者を害することに躊躇を覚えぬ者でさえ、人の身体をしてさえいればいいのだろうか。人を助け、人を守っていてさえ、鬼の身体であるだけで、非道な仕打ちに耐えなければならないのだろうか。
「ねぇ、花ちゃん、知ってる? 斬られればおじさんたちだって痛いんだよ。すぐに治るけど、俺たちと同じように、おじさんたちだって痛いんだよ。苦しいんだよ。それでもおじさんたちは、どんな目に遭ってもいつだって俺の前ではにこにこしてるんだ。
 俺は父さんたちからどんなにおじさんたちが凄いことをしたのか、どんなに強いかばっかり聞いてた。二人が頚を刎ね合ったことを聞いた後でも、きっと今は皆に尊敬されて誰からも頼りにされてるんだって思ってた。おじさんたちは俺のこと凄く可愛がってくれてる。稽古をつけてくれる時は絶対に甘やかしてなんてくれないけどさ。優しくて、おっきくて、強い、大好きなおじさんたちだよ。炭治郎おじさんに抱っこされたり、義勇おじさんに肩車されたりするたびに、嬉しくて楽しくて。他の人からおじさんたちの任務の話を聞くたびに、俺のおじさんたち凄いだろ、格好いいでしょって、自慢に思ってた。いつかおじさんたちみたいに俺も皆に尊敬される柱になるんだって思ってた。
 それなのに……俺は、俺が苛められるのはおじさんたちの所為だって、恨んで責めた」
 勇治郎の優しい高めの声が、苦しそうに掠れている。その声に花子の胸はきりりと痛んだ。
 それは幸せな家族の光景だ。肉体を構成する細胞の違いなど関係ない。勇治郎と炭治郎たちの間にあるものは、慈しみに溢れた家族の情愛だけだった筈だ。
 そんな思い遣りに満ちた家族を壊そうとしたのは、鬼ではなく、人だ。炭治郎たちが必死に守ってきた、人なのだ。花子と同じ、人。
 花子の上官が後藤でなければ、もしかしたら、花子自身がそうなっていたかもしれない、歪で恐ろしい未来像。
「炭治郎おじさんを刺した隊士は、隊律違反で粛清されたって聞いた。でも俺は、今まで信じてたものが全部嘘だったんじゃないかって疑っちゃって……隊士や隠の人たちが話してるのをこっそり聞いて回ったんだ。俺が入り込めるようなところは階級が下の人ばっかりだったけど……いや、だからこそかな、酷いこと言ってる奴らも多かったよ。父さんやおじさんたちと仲のいい柱のことや、俺のことも、色々言ってた。本当に、色々ね。たまに見つかって脅されたりもしたし。
 育手の宇髄さんやカナヲさんのところでは、隊士希望の俺よりちょっと年上の子に苛められたりもしたよ。そういう奴らは選別を受ける前にいなくなっちゃってたし、隠にもなれなかったみたいだけど。でも他の育手の……おじさんたちのことよく知らない育手のとこから鬼殺隊に入った人には、今も色々言われるし、嫌がらせもされる。
 俺がただのガキだった頃は、今よりもっと酷かった。鬼の子、呪われ者の血筋って、こそこそ言われ続けてさ。母さんはもうちゃんと人に戻ってたのに。炭治郎おじさんにかけられた鬼舞辻の呪いと母さんは、なんの関係もないのに。それでも皆言うんだよね。鬼の子だ、呪われ者の甥っ子だって……お前なんか生まれてくる資格ないんだって。柱の子だからっていい気になるなよ、鬼から生まれたお前は鬼と同じなんだからって。
 だから俺……いつの間にか、おじさんたちや母さんを恨んでた。恨んだんだ、俺はちゃんと知ってたのに。おじさんたちや母さんが苦しんできたこと、ちゃんと分かってた筈なのに……。なんにも知らないでおじさんたちに純粋に懐いてる弟たちのことも、あんなにおじさんたちを嫌ってる奴らを放っておく父さんやお館様のことまで、恨まずにいられなかった」