夜と朝の狭間で

 パチリと音立てて、囲炉裏で小さく火が爆ぜた。粗末な造りの古びた山小屋は、やたらと隙間風が吹き込みひどく寒い。晩秋の山奥である。囲炉裏で揺れる火に当たっていてさえ、冷え冷えとした空気は衣服を透かして肌身を刺し、まだ少女と言っていいほどに若い女の体温を奪っていく。
 およそ十畳ほどの広さの小さな小屋だった。板の間の隅に並べられた古めかしい大小の柳行李、その傍らには畳まれた寝具。それらが小屋の住人の持ち物全てであるようだ。
 二畳ばかりの土間に幾つも下げられた干し肉の大きな塊だけが少しばかり異質な気もするが、それ以外には特筆すべきこともないうら寂しい山小屋だ。
 小屋自体の傷み具合から鑑みるに、住人と言っても元々住んでいたわけではないのだろう。打ち捨てられていたこの小屋を仮宿として使っているという印象を受ける。
 白髪の男は土間に降り立ち茶の支度をしている。女は男の背を眺めながら、我知らずカチカチと音立てる歯の根を抑えようと、ぐっと唇を引き結んだ。だがそれでも身体の震えは如何ともしがたい。
「いやいや、お待たせしてしまってすいませんねぇ。こんな山奥じゃ碌なもてなしもできませんが、どうぞ。生姜をちょいと垂らしてますんで、少しばかりぴりりとするかもしれませんけども、温まりますからね」
 にこにこと笑いながら湯飲みを差し出す男に礼を述べ、女は湯飲みを受け取った。
 じわりと掌に伝わる熱に、僅かに肩の力が抜けるのを感じた。それでも微かに揺れる液体は、未だ収まらぬ震えを可視化している。それに気づき眉根を寄せかけたが、女は辛うじて堪えた。
 静かに深く、深く、息を吐く。強張る顔にようよう笑みを浮かべた女は、頂きますと茶を口に含んだ。
「さて……聞きたいのは鬼の話でしたかね。取材依頼とやらの電報を受け取った時にゃ、まさかこんなに若くて可愛らしいお嬢さんが来るとは思いませんでしたよ。こんな山奥くんだりまで剣呑な鬼の話を聞きにとはねぇ……随分とまぁ酔狂なことだ」
「よく言われます。女だてらに怪奇もの雑誌の記者なぞ酔狂にもほどがあると。それでなくてもこんな時勢ですから、我が社のような娯楽雑誌はお上に睨まれていますし、就職した折には女の勤める先じゃないだろうと、知り合いはみんな眉を顰めてました」
 苦笑を浮かべてみせた女に、あぁこりゃ失礼、馬鹿にしているつもりはないんですよと、にこやかな笑みはそのままに男が頭をかく。
 囲炉裏の向こうに腰を下ろした男は、如何にも楽しげな様子で一人得心したように頻りに頷いた。
「怪奇もの、いいじゃあないですか。いやいや、立派な仕事だと思いますよ。あたしも乱歩なんかはよく読みました。でもまぁ、あれですね。職業婦人だぁなんだ言ったって、やっぱり世間様ってのは未だに女は家で花嫁修業に励めと言いたくなるもんなんですかねぇ。働くにしてもね、お嬢さんぐらい可愛らしけりゃ、もっとこう、デパートガールだとか……ああ、こりゃ敵性語か。とにかく、若いお嬢さんなら華やかな仕事に憧れるもんでしょ。
 お嬢さんなら、ほら、あれだ、あれ。宝塚の少女歌劇。あれにだって入れそうじゃあないですか。いやいや謙遜はいりませんや。そんだけ綺麗なら活動写真の女優さんにもなれそうだもの。あたしもねぇ、去年少女歌劇の活動写真を観に行きましたよ。今は映画っていうのかな。若くて綺麗なお嬢さんたちを見ているだけで、こっちも華やいだ気分になったもんです。巷もじわじわときな臭くなってきちゃあいるが、ああいうのを見ると日本が負けるわきゃあないって思えますね。
 そういや、先頃松岡外相の肝煎りで三国同盟が締結しましたでしょう? メリケンは屑鉄の全面禁輸なんぞ打ち出してきやがってますけども、そんなもんで皇紀二千六百年の大日本帝国が、そうそうへこたれるわきゃないのにねぇ」
 淀みなく軽口を叩き続ける男に辟易しつつも、女は、おや、と一つ瞬いた。
 男の身形は如何にも粗末で、よく見れば国民服の裾や袖には解れが見えるし、どうにも垢じみている。見た目で判断するのは恥ずべきかもしれないが、およそ学があるようには思えない様相であった。
 であるにも関わらず、こんな山奥の打ち捨てられた小屋で侘しいばかりの生活を送っているらしい男の軽口には、世情に通じ政策などにも明るい様子が見て取れる。
 男の言が事実なら映画を鑑賞する余裕すらあると言うのだから、身形のみすぼらしさに反して生活に困っているわけでもないのだろうが、一体どうやって糊口を凌いでいるのだろう。
 ここを訪れる前に男の素性は調べてはみたのだが、人手不足の折、満足のいく結果は得られず仕舞いで、結局行き当たりばったりの対面になってしまった。事ここに至ってまで愚痴を言うつもりもないが、優秀な諸先輩方を戦争にとられたのはやぱり痛いと、女は思わず嘆息しそうになる。
 ともあれ、もう引き返せはしないのだ。己の責務を全うしなければと、女は居住まいを正すと曖昧な微笑みで相槌を打ちながら、改めて男に視線を這わせた。
 女を迎え入れた時から笑みを崩さない男の顔は凡庸で、特に目を引くものはない。男の顔立ちを尋ねられたなら、誰もが口を揃えて人が好さそうだとか、いつも笑っているなど、印象でしか伝えることが出来ないのではなかろうか。
 だがそれも顔に限った話だ。顔や所作だけならば壮年に見えるにも関わらず、その髪は一筋残らず白く、どう見ても老爺のそれなのだ。それは強烈な違和感を醸し出し、男の平凡さを裏切って余りある。
 自分が知らぬだけでそういった病があるのかとも思うが、男は十二分に健康そうだ。調査の中でも通院などの記録は見つけ出せなかった。そもそも、男の名前すら本名なのか怪しい。
 昨今この付近で噂の失踪事件。この数か月で消えた男女が数人、いずれもまだ若く、容貌に優れた者が多いと聞く。それだけならば徴兵逃れや駆け落ちなど、巷では珍しくもない話だ。女の勤め先にその噂が齎されたのは、これらは全て鬼の仕業と嘯く男がいるとの情報故だ。
 眉唾ものと笑い捨てることは職業柄出来ず。男の素性が知れぬ以上は看過も出来ぬと判断されたものの、今のところ人死に騒ぎになっているわけでもないことから、与太話の裏を取る程度の心積もりでいれば良かろうと、まだまだ新米でしかない女が任に当たることとなった。
 にこやかさを装ってはいても、疑心は無意識に視線を明け透けにしていたようだ。男の笑みに僅かばかり揶揄いの色が漂った。
「やはり気になりますかね、この髪」
「いえ、あの……すいません」
 慌てて恐縮する女に男は呵々大笑し、いやいやと手を振る。
「まぁねぇ、不思議に思うのは無理もありません。あたしゃね、まだ五十になったばかりなんですけどね、頭だけ見りゃもう喜寿は過ぎてるように見えるでしょう。以前はもっと都会のほうにいたんだけども、この頭のせいで色々と口さがなく言われたりもしましてねぇ。だからね、一つ所に腰を落ち着けることも出来ないまま、何年もあちらこちらの山ン中を移り住んでるわけでして。ああ、そんな顔をしなさんな。もうこんな暮らしにも慣れましたし、人目がないほうが気楽だと今じゃ思っておりますよ」
「いえ、でも、不躾な態度であったことに変わりありませんし……」
「人の好いお嬢さんだねぇ。雑誌の記者さんなんてぇもんは、もっと図々しいかと思ってたけども……うん、あたしゃお嬢さんが気に入りましたよ。なにより、里での騒ぎを知りながら一人こんな山奥まで乗り込んできた勇敢さがいい。なんでもお話ししましょう。ここいらで人を攫っている鬼のことも、あたしが出会ったこの髪の原因になった鬼のことも、全部ね」
 その言葉に思わず息を飲み前のめりになる女に、鷹揚に一つ頷き男が立ち上がる。
「茶を淹れなおしましょう。長い話になりますから……」
 日暮れが近づいている。表で鴉がカァと鳴いた。