午後4時のパンオショコラ

 義勇はネットで同衾相手を探したことがない。相手を求める場所を探すのにネットを使用することはあるが、出逢いをネットに頼ることはなく、常に現地調達だ。
 ネットに自分の情報を落としていくなど、そんな危険なことができるものか。記憶だけなら言い逃れできても、記録はごまかせない。ゲイ専用の出逢い系サイトなどもってのほかだ。
 真滝勇兎はそれほど売れっ子ではないが、それでも妙な噂は今後にひびく恐れがある。なによりも、万が一写真などが流出したら、錆兎の目に留まる可能性だってなくはない。どれだけピンボケだろうと、錆兎や真菰は義勇だと一目でわかるだろう。それを知っているから、記録に残せる形での男漁りはいっさいしてこなかった。
 どんなに世間がゲイに寛容になろうとも、今後もカミングアウトなどする気はないし、バレるのも真っ平だ。人目を気にするたちではないが、特別視されるのは勘弁願いたい。
 侮蔑や嫌悪は自虐的な納得が先立ち、さほど気にならない。気を遣われるほうがよっぽど、おまえは異質な存在だと言われている気がして、据わりが悪いだろうことは予測できた。
 そのため、見た目と違って日常生活は結構ポンコツだと錆兎や真菰に心配込みで笑われる義勇だが、溝浚いに関してだけは慎重に慎重を重ねている。

 コインパーキングに愛車を停めて、駅へと向かった義勇は、いくつか思い浮かぶ場所の内、一番近い駅までの切符を買った。
 車での移動は、ナンバーを控えられる恐れがある。以前一度だけ、その場限りのはずの相手にナンバーから住所を知られかけたことがあった。実際には、相手が動く前に車を買い替えていたので、つきまとわれることはなかったのだが、偶然再会したときにそれを口走った男に怖気が走った。
 若葉マークなんだから中古で十分、運転に慣れるまでだけのつもりで車検の近い安物にでも乗っとけと、錆兎に言われて選んだ義勇の初めての愛車だった。ちょうど車検が近づいていた折で、この際買い替えと廃車にしたのが功を奏した。
 義勇のなにが気に入ったのか、その男は、最初はセフレでいいから自分を特定の相手にしてほしいとしつこかった。同じ相手とは絶対に寝ないと突っぱねて、しまいには恫喝めいた脅し文句まで言わざるを得なかったのは苦い思い出だ。錆兎の忠告に従っていなかったらどうなっていたことか。やっぱり錆兎は凄いと、決して錆兎自身へは伝えられない感謝をしたのは、記憶から拭い難い。
 それ以来、義勇はハッテン場に行くのに車を使うことはない。

 ゲイが多く集まるそのバーは、駅裏からホテル街を抜けた場所にあった。心得たもので男同士でも入室可能なホテルがそこそこあって、即寝て即別れるのには都合がいい。
 ずいぶんと足が遠のいていたが、マスター──ママと呼ぶべきか──は義勇を覚えていた。
「あらぁ、お久し振りぃ。長いことお見限りだったから、片想いにとうとう踏ん切りつけて、パートナー見つけたのかと思ってたんだけど……その顔じゃそういうわけでもない感じ?」
「……ジンライム」
 義勇の不愛想っぷりにももう慣れっこなマスターは、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
 べつに話をしたくて来ているわけではないが、自分の性的指向を隠さずに済むという気楽さは、義勇の口も多少は軽くする。名前や職業を明かしたことはないが、長くノンケに片想いしていることは以前口を滑らせていた。
 ヤリ目オンリーの客が多いこの店は義勇にとっても都合がよく、二十歳を超えるまで義勇は溝浚いのたびこの店を訪れていた。いらぬ説教やアドバイスなどはしてこないが、それでもマスターは、少しばかり義勇を気にかけていたのだろう。義勇が顔を出すたびマスターは少しだけ困ったように笑い、質の悪い客が義勇に声をかけると、それとなく躱してくれることがたびたびあった。
 それを意識したときに、訝しげに視線で問うた義勇にマスターは、初めてうちに来たときのあんたの顔を見ちゃったらねぇと、どこか慈しむように苦笑した。
 おそらくは、連れの男に促され恐る恐る店に入った十八歳の義勇の顔は、荒んだ心と悲壮な覚悟が相まって、ひどい有り様だったのだろう。
 未成年であることはすぐバレて、酒は出してはくれなかった。それでも店にいることを許し、義勇に群がってくる男たちを牽制し散らしたマスターは、義勇の不満げな目に笑い、初めての男は慎重に選ばないとえらい目に遭うわよなどとうそぶいたものだ。
 義勇に声をかけこの店に連れてきた男ですら、マスターの審判対象の例外ではなかった。それでも、ほかの男よりは格段にマシだとマスターが太鼓判を押し、結局はその男が義勇の初めての男になった。
 マスターの目は確かだったらしく、なにもわからなかった義勇にすべての手解きをしたその男は、多分、優しい男だったのだろう。抱かれながら泣き続ける義勇になにも聞かず、二度目に逢ったときには義勇の望みどおり、声をかけてはこなかった。もう顔も覚えていないが、初めてがその男で良かったとは思っている。
 その後もしばらくは、マスターの許可が出なければ店の客たちは義勇へ声をかけることはできず、いつの間にか義勇に声をかけたければマスターに気に入られることが第一条件という、奇妙な不文律が生まれていた。
 とはいえ、それはまだ義勇が未成年の間だけで、今では義勇の自由意思にすべて委ねられている。マスターもなにも言わない。今日もカウンターに座ってジンライムを傾ける義勇に、値踏みする視線がいくつも向けられていることに気づきながら、無関心を装っている。

 値踏みが終わるまでのわずかな時間が、義勇はあまり好きではない。マスターに言わせるとあんたは見た目高根の花だからねぇとのことだが、たかが一晩限りのセックスに高根の花もないものだ。
 店内の男たちによる生々しい値踏みと馬鹿馬鹿しい牽制が終わるまで、義勇はいくつもの嘗めまわすような視線に晒されながら、とっとと声をかけてこいと舌打ちしたくなるのをどうにか堪えた。
 自分から声をかけることはない。あんたが自分から声なんてかけたら誤解させるでしょという忠告は、理解しにくい部分は多々あるが、マスターの忠告に従って悪い方向に転がることはまずないと承知している。だから忠告通り素直に、義勇は男たちが近づいてくるのをじっと待つ。
 まるで自分が食虫植物にでもなったようで、気分はあまり良くないが、忠告以前に義勇の性格上、自ら誘いをかけるのはハードルが高い。口下手も不愛想も、こういう場でさえ健在だ。イエスかノーですべてが済むなら、待っているだけのほうが楽だ。

「ねぇ、お兄さん凄くきれいだね」
 ようやく牽制を掻い潜った奴が現れ、義勇は、傍らにすり寄ってきた男を視線だけで流し見た。
 大人びてはいるが、おそらくまだ未成年。手にしたグラスの中身がソフトドリンクなのは、当時の義勇同様、マスターが酒を許可しないからだろう。
 きっと、ネコ。それはかまわないが、この子は駄目だ。未成年うんぬんを言うつもりはない。天に唾するようなものだ。
 可愛らしい顔立ちも、健康的な肌色も、義勇の興を削ぐものではない。以前なら断る理由などない少年だった。
 だが、今は駄目だ。どうしても耳のピアスが気にかかる。炭治郎のように大ぶりなものではないが、それでも咄嗟に思い浮かんだのは炭治郎の顔だ。
 義勇のセックス相手の条件は至極単純だ。アブノーマルなプレイを好む輩や、一晩だけの不文律を守りそうにない恋人探し目的での男。そして、一つでも錆兎を思い起こさせる要素を持つ者。そういった男たちは、どれだけ見目が良かろうと絶対にNGだ。
 錆兎への想いを穢したくないがゆえに溝浚いに来ているのに、錆兎を思い出すのでは意味がない。それと同様に、炭治郎を思い起こさせる要素は、ひとかけらもあってはならない。

 スッと視線を外すことでノーを伝えたが、少年は諦めがたいのか離れようとしない。甘えるように義勇の腕に自分の腕を絡めてくるのが鬱陶しい。眉を寄せキツイ眼差しを送ると、少し怯んだようだったが、それでも少年は腕を離しはしなかった。
 きっぱりと断らなければならないかと、義勇が溜息をつきかけたとき、新たに声をかけてきた男がいた。
「なぁ、俺ならどうだ? 楽しませてやるよ」
 ワイルドさを気取っているのだろうが、義勇の目からすれば下卑ているとしか見えない笑みで、男は馴れ馴れしく肩を抱いてくる。泥酔まではいかないまでも、そうとう聞し召しているのだろう。酒臭い息が不快だ。
 こいつも駄目だ。即、思った。これは質が悪い。マスターの判断も同様らしく、口を挟むことはないが目線でやめろと言っている。
 だが、義勇はそれをあえて無視した。駄目だからこそ、乗る気になった。質が悪いぐらいが今はちょうどいい。

 残ったジンライムを呷ると、義勇は無言で立ち上がった。
 マスターがぎょっと目をむくのがわかったが、今はただ、なにも考えられなくなりたかった。
 絡めた腕を離した少年が不機嫌そうに唇を尖らせるのを、ニヤニヤと見下ろし自慢げに鼻を鳴らす男は、性格もそうとう悪いようだ。人に不快感を与える為に生まれてきたとしか思えない。
 でもそれでもいい。どうせ一晩限りだ。せいぜい張り切ってくれ。たかがセックスだ。ただの溝浚い。性格なんてどうでもいい。どうせこいつも、自分のちょっとばかり小綺麗に見える顔だけしか見ちゃいない。今までだってそうだった。極論、穴か棒でしかないのだ、セックスの相手なんて。
 錆兎は元より、炭治郎の面影などどこを探しても見つけられない男なら、それでいい。

 物言いたげなマスターの視線も、耳に吹き込まれる男の下品な言葉も、なにもかもがどこか遠くて。
 いっそ、いたぶられてしまいたい。そんな夜の相手には、これぐらいがお似合いだ。そう思った。