実弥
足早に歩く実弥の後ろから、闘気に満ちた気配が近づいてくる。振り返るまでもない。前を見据えたまま歩く実弥の横に並んだのは、予想どおりの人物だ。
「素手で大丈夫か?」
竹刀を手に問いかけてきた男の声は、おおらかにすら聞こえる。気負いのない声だ。だが、実弥同様にまっすぐ前を見据える男の闘気は、隠しようなく実弥の肌をチリリと刺していた。実弥がまとう殺気めいた気配を、男も感じとっていることだろう。
たしか煉獄といったか。金と赤の髪をなびかせて竹刀を手に堂々と歩む姿は、なんとなく百獣の王ライオンを思わせた。威風堂々という言葉がこれほど似合う男もいるまいと、素直に思わせる風情だ。
「誰に言ってやがんだァ? テメェこそ、荒事に慣れてねぇならやめとけや。試合と違って審判なんざいやしねぇんだからなァ、反則だなんだは通用しねぇぞ」
「ふむ、なるほど。助言感謝する! 気をつけることにしよう!」
いや、ずれてるずれてる。話の核心はそこじゃねぇ。
思わず実弥の肩から力が抜けた。自分が得物を持っている有利さから、徒手空拳の実弥を小馬鹿にしてのセリフかと思いきや、煉獄は純粋に心配していただけのようだ。ずいぶんと人のいいやつらしい。
こんな場合でなければ好感を持っただろうけれど、なんとなく面白くない。その理由を、実弥はあえて探るのをやめた。
煉獄の精悍な横顔を目にすれば、連鎖反応で脳裏に浮かぶのは清楚な風情の少女の姿。無理にも頭から追い出して、実弥は、フンと鼻を鳴らすと不敵な笑みを浮かべてみせた。
「足手まといになるんじゃねぇぞォ」
「無論だ! 数をたのんでの蛮行だけでも許しがたいと言うのに、元をたどれば冨岡への謂れのない逆恨み。しかも子供たちに累が及ぶ可能性もあるのだからな、負けるわけにはいかん!」
気合十分。みなぎる覇気が目に見えるようだ。
頼もしい。そう言い切ってしまってもいいのだろうけれど、それでも実弥の胸には苛立ちが少し。反発を覚える理由なんて一つきりだけれど、実弥はそれを考えないようにした。
不良連中などとはなじみがなさそうな煉獄が、ろくでもないやつらにかかわる理由は、実弥にもすんなりと呑みこめる。義侠心に富んだ男なんだろう。実弥も多勢に無勢の弱い者いじめなど大嫌いだ。ましてや逆恨みなど言語道断はなはだしい。おまけに、今向かっている先にいるやつらは、金で集められたと言うではないか。金は実弥だって欲しい。切実に。けれども金のためにプライドを売り払うなどまっぴらだし、誰かを非道に傷つけて得る金など御免被る。
くだらねェ。馬鹿ばっかりだ。
苛立つ理由はそれだけでいい。そんな馬鹿なやつらが嫌いだから。玄弥たちを危ない目に遭わせたくないから。自分が加勢する理由など、それだけでいい。
あの子を守ってやりたいとか。そんなの考えちゃいねぇ。あの子だからだなんて、とんでもない。恋愛なんてガラでもないし、今はそんなものにかかずらっている場合じゃ……。
「違ぇよっ! そうじゃねぇだろォッ!!」
「し、不死川? どうした?」
突然叫んだ実弥に、ビクッと肩を跳ね上げた煉獄が驚きをあらわに聞いてくる。なんでもねぇよと怒鳴り返して、実弥は舌打ちした。
まったくもって調子が狂う。あの子と出会ってからどうにも自分はおかしい。無意識に浮かんだ一言に、理由は込められているともうわかりかけているが、認めるわけにはいかなかった。
父に殴られ蹴られて泣く母が、実弥の脳裏に浮かぶ。ギュッと搾り上げられるように胸が痛み、実弥は我知らず眉を寄せた。
実弥の血の半分は父だ。実弥がどんなにか弱い者に手をあげないよう誓っても、あのくそ親父の血は、実弥に恋した女の子へ暴力を振るわせるかもしれないのだ。
女は弱いから。俺がもし手をあげたら……。
知らず実弥はブルリと身を震わせた。あの華奢な女の子――冨岡のきれいな顔に痛々しい痣が浮かぶさまなど、ゾッとする。考えただけで泣きだしたくなるなんて、認めはしないけれども。
もう考えるなと自分に言い聞かせ、実弥は肩をいからせ歩いた。胸に満ちるいら立ちや、認めたくない切なさは、暴れることで晴らしてやろう。八つ当たりは承知の上だ。大義名分を振りかざそうと、暴力沙汰には違いないことぐらい自覚している。
実弥に対して怯えた様子を一切見せない冨岡だって、実際に拳をふるっている姿を見てしまえば、怯えた視線を向けるに違いない。澄んだ瑠璃色の瞳に嫌悪や怯えを宿して、実弥を見るのだ。わかりきっているから、もう考えない。守ってやるなんて、言えるわけもない。あの子を守る男はちゃんといるのだ。
「不死川……心配なら俺と宇髄だけでどうにかする。冨岡たちのもとに戻ってくれ」
「あぁん? 俺がビビってるとでも思ってんのかァ?」
「そうじゃない。だが、君は部外者だろう? 冨岡の友人である俺たちならばともかく、君は弟たちを第一に守らねばならんだろう?」
「……馬鹿やらかしてんなぁ、うちの中学のやつらだろうがァ。関係あんだろォ」
詭弁だと自分でも思うが、煉獄は素直に受け止めたようだ。そうかと明るくうなずく顔を見るに、もう止める気はないらしい。
「では、頼りにさせてもらおう! どうやら予想以上に数が多いようだからな。俺と宇髄だけでは少々手を焼きそうだ」
聞こえてくる喧騒に、実弥も顔を引きしめうなずき返した。どれだけ集まっているものか、ガラの悪いことこの上ない怒鳴り声に、知らず不敵な笑みが口元に浮かぶ。
「安心しなァ。テメェらの手助けなしでも、俺が蹴散らしてやらァ」
助っ人は実弥のほうだが、まぁいい。煉獄も気にした様子はなく、頼もしいなとカラリと笑っただけだった。
木立を抜けると宇髄とやらの大柄な背中が真っ先に目に入った。蛍光イエローの服が目に痛い。どういうセンスだよ。場違いなあきれに実弥は我知らず肩をすくめた。
服装のセンスはともかくとして、宇髄もそれなりにヤルのは動きでわかる。手にした竹刀からも煉獄は剣道、宇髄はまた別の武術を身につけているんだろう。さりげない仕草にも隙がない。
周囲をざっと見渡せば、遊んでいた人たちはガラの悪い集団に怯え退散したようだ。喧嘩が始まれば公園の管理人あたりがすっ飛んでくるだろうが、今のところ、厄介ごとに首を突っ込もうという者は見当たらない。
「だから、この先は自主制作映画の撮影で立ち入り禁止だって。あんたらは人を探してんだろ? 俺らは関係ねぇよ」
「関係ねぇかどうかは、俺らが決めるって言ってんだろうがっ! いいからどけよ、この人数相手にやる気か?」
いかにもげんなりとした様子な宇髄をせせら笑う男には、見覚えがあった。転校初日に絡んできた馬鹿の一人だ。タイマンすら張れないくせに口先だけの大言壮語な輩は、実弥の唾棄するところである。
「こんなくだらないことに、よくもまぁこれだけ集まったものだ」
「見たとこ三十人ちょいってとこかァ」
パキリと指を鳴らしながら実弥が宇髄の背後から姿をあらわすと、居並ぶ有象無象に動揺の波が広がった。
「し、不死川っ!?」
「あいつがなんでいんだよっ!」
早くも及び腰な輩を目にして、宇髄が軽い口笛を吹いた。
「さすがは有名人。最初からあんたにお出まし願えばよかったな」
「今からでも遅くねぇぞォ。テメェらは戻ってろ。俺だけで十分だァ」
そうだろう? と言わんばかりに雑魚の群れを睥睨すれば、怯えの波がますます広がっていく。
「ふむ。たしかにこのままこいつらが引いて、今後うちの学校の者への手出し無用となるなら、それが一番だが……さて、どうする」
宇髄へ問いかけた煉獄の言葉に、先頭に立っている男が気色ばんだ。
「やっぱりテメェら、キメ学か。不死川、キメ学のやつらとつるんでるなんて聞いてねぇぞ!」
「つるんでるわけじゃねぇよ。テメェらと一緒にすんじゃねェ。だが、弱い者いじめを見過ごすわけにはいかねぇなァ」
「おい、弱い者いじめだとよ」
「むぅ。見くびられたものだ」
実弥の言葉じりをとらえて呑気に会話する宇髄と煉獄に、思わず脱力しそうになる。そんな場合ではなかろうにと睨みつければ、宇髄は飄々とした笑みで肩をすくめ、煉獄は不快げに顔をしかめていた。
「つるむ云々はともかくだ。映画のカメラマンを務める生徒たちから、君らに絡まれたと聞いている。おかげで撮影がおしているんだ。ヒロイン役は俺たちの友人なのでな、気疲れさせたくない。ここは引いてくれないだろうか。それこそ俺の剣は、弱い者いじめをするためにあるわけではないのでな」
力みのない立ち姿だが、煉獄の姿勢に隙はない。挑発とも聞こえる言葉にも、気負った響きは感じとれなかった。言葉はともかく臨戦態勢なのは間違いがない。ちらりと見やれば、宇髄も何気なく立っているようでいながらも、いつでも動きだせる状態でいるのがわかる。
なるほど。この場を治めるだけでなく、今後の憂いを断ち切っておきたいというのが本音か。
だとすれば、この人数はかえって好都合というわけだ。これだけの人数を集めてさえ勝てない。そんなあきらめと怯えを徹底的に植えつける、格好の機会だ。引いてくれとは口先ばかり。叩きのめす気満々でいるのに違いない。
悟った実弥も小さく息を吸い込むと、ギンッと集団を見まわした。
こいつらの警戒心は実弥にしか向いていない。ということは、宇髄と煉獄は不良連中どもに名が知られているわけじゃないんだろう。転校してきて日が浅い不死川が知らないだけではなく、正真正銘、ごく普通の一般生徒だ。二人ともそれなりに手練れなのは伝わってくるが、煉獄にも言ったとおり喧嘩と試合は違う。二人を庇いながら、さらには奥に逃げるやつがいないよう気を配る必要もある。
こりゃ、ちぃっとばかり骨が折れるかもしれねェ。
だが、実弥の懸念はすぐさま霧散した。
「うるせぇ!! おいっ、たった三人だ! やっちまぇ!!」
一人が怒鳴った途端、一斉に襲い掛かってくる。ほとほと己の意思のない輩ばかりだ。
拳を振り上げむかってくる集団は、わずかばかり不死川に向かう人数のほうが多い。さもあらん。十人がかりでも俺一人に叩きのめされたのを、忘れていないのは褒めてやろう。実弥はニヤリと笑い、向かってきた男のみぞおちに鋭く拳をたたき込んだ。
狙うならみぞおちか顎先。一発で動けなくさせる箇所。ただし、内臓や骨を傷つけない程度に。過剰防衛に気をつけてってなもんだ。
馴染んだ感覚に高揚する闘気とは裏腹に、実弥の頭は冷静だ。
不安要素があるとすれば宇髄や煉獄を盾にとられることだがと、飛んでくる蹴りを避けつつうかがえば、宇髄が一人を投げ飛ばし、煉獄もまた、殴りかかってきたやつの腹に胴打ちをたたき込んだところだった。倒れ込んだ敵を一顧だにせず、二人とも息つく間もなく襲ってくる次の敵に対峙している。
次の相手の顎先にアッパーを決めながら、実弥は少しばかり感嘆した。なるほど、こいつらは口先だけの馬鹿じゃない。
竹刀を振るう煉獄の姿は、こんな場であるにもかかわらず、実弥の胸に郷愁を呼び起こす。殺陣は多勢に無勢のほうが、見せ甲斐があるもんだ。芝居ではないのに、なんとなくそんなことを思う。
小手から面へ、返す刀で次の相手の胴へ。流れるような煉獄の剣さばきは苛烈で、まるで襲いかかる猛火のようだ。
思わず見惚れたのは、実弥の落ち度であろう。不意に背後から襟首をつかまれ息がつまった。しまった、と思った瞬間。
悲鳴とともに首が解放され、酸素が肺に流れ込む。即座に体勢を整えファイティングポーズをとった実弥の目がとらえたものは、白いサマーニットの背に揺れる長い黒髪。腕まくりした姿は勇ましいが、のぞく腕は細く、いかにも華奢だ。
「は……?」
ポカンと自失したのは、致し方ないだろう。まじまじと見つめる実弥の視線の先で、突然現れた味方は凛と背を伸ばして竹刀をかまえている。
「冨岡っ!?」
驚きで無意識に出てしまったらしい煉獄の呼びかけに、ざわついたのは敵のほうだった。
「冨岡って……あれが賞金首か?」
「は? まさか、あのネエちゃんなわけねぇだろ。探してんのは野郎だぞ」
「どっちだってかまわねぇよっ! 女人質にとりゃあ、こっちのもんだ!」
そんな会話も、実弥の耳には遠い。ただもう呆然と白く細い背中を見つめるばかりだ。
「馬鹿っ! なんで来たっ!!」
宇髄の怒鳴り声で我に返り、実弥もふたたび戦闘態勢をとる。とにかく冨岡だけはなんとしても守らなければ。狙われている身でノコノコやってきた冨岡に怒りもわくけれど、それを当人にぶつける暇はない。
しまったという顔で煉獄が冨岡に駆け寄ろうとするのが見えた。しかし、雑魚だらけといえどもやすやすと加勢を許すはずもなく、煉獄は襲いかかってくる輩を打ちのめすのがやっとの体だ。宇髄も大差はない。焦る気持ちは実弥とて同様だ。冨岡の一番近くにいる自分がどうにかしなければならないだろう。
冨岡も剣道の嗜みがあるのは見て取れるが、実弥にしてみればそれがどうしたとしか言えなかった。試合ならばともかく、これは喧嘩だ。女の出る幕などない。
相手は女を人質にするのを恥とも思わぬやつらだ。冨岡を庇いながら戦うにはこの人数は分が悪い。足手まといは勘弁願いたいといういら立ちよりも、冨岡の身に危険が及ぶことにこそ実弥は焦る。こいつらが人質に紳士的な態度をとるなど、太陽が西から昇るよりもありえないだろう。捕まればいったいなにをされることかと、実弥の背にヒヤリとした汗が流れた。
逃げろと怒鳴ろうとした実弥は、ニヤニヤと笑いながら冨岡を捕まえようとしたやつらがそろって地べたに転がったのを見て、はくりと喘ぐにとどまった。
まさかこんなに華奢で可憐な風情の少女が、二人同時に襲いかかる敵を一刀のもとにたたきのめすなど、誰が思うものか。流れるような竹刀の軌道は、煉獄の苛烈さとくらべれば優美と言っていい。洗練されたなめらかな剣さばきだ。まるで滔々と流れる川を思わせる剣だった。
的確に相手を倒していく冨岡の剣に躊躇はない。足手まといなんてとんでもなかった。この子は十分戦力になる。
儚げできれいな女の子。だけど、強い。きっと、殴られ蹴られるままに泣くなんてこの子はしないと、信じられるほどに。
むやみやたらとうれしい気持ちが湧いてくるのはなぜだろう。冨岡ならば絶対に、実弥に怯えることはないし、理不尽な暴力にも負けやしない。そう信じられた。
「加勢はいらねぇなァッ?」
敵のみぞおちにフックをたたき込み、振り返りざまに次の相手の脇腹へと左ストレートを繰り出しつつ冨岡に言えば、横目で実弥を見た冨岡が小さくうなずいた。華奢な体躯がふわりと沈み、つぎの瞬間には敵の懐に飛び込み、胴を打ち据える。止まることなく手首を返し、冨岡は次の相手の腕をしたたかに打ち払った。無駄な動きは一切ない。一撃で決めるところは、実弥と同様だ。
なんだかもう、笑いたくなってくる。ムズムズする唇を抑えきれず、実弥はとうとう笑った。
「そっちは任せるぜェ!!」
「……了解した」
初めて聞く冨岡の声は、女の子にしては低い。愛想なんてひとかけらもない不愛想な声だ。けれども、冨岡らしいと思った。きっと冨岡は、甲高い声でキィキィとヒステリックにわめいたり、メソメソぶりっ子めいた泣き声なんてあげないのだ。喋る言葉はきっといつでも落ち着いていて、低いけれどもやわらかく甘いのだろう。
とてもきれいで、子供たちに心底慕われるほどやさしくて、とんでもなく強い冨岡。こんな女は初めてだ。
あぁ、この子なら。冨岡だったら、大丈夫だ。俺が好きになっても、きっと、大丈夫。
だからもう、認めてしまえ。惚れてる。きっと一目惚れだった。ライバルだらけは重々承知。冨岡の周りにはやたらと整った顔の男だの、いかにも男気溢れる獅子のような男だの、実弥の目にもイイ男だと認めるしかないやつらがそろっている。学校だって違うし、そうそう逢えない自分に勝ち目があるとは思えないけれども、それがどうした。困難だからこそ燃えるってもんだろ。
浮き立つ心のままに拳を振るう実弥の目には、長い髪を揺らして戦う華奢な、けれども勇ましい背中ばかりが焼きついて、ただもうワクワクとしていた。
常になく浮かれていた。気がゆるんだとは言わない。けれども、すっかり忘れていたのだ。あまりにもうれしすぎて、忘れていた。
この手の馬鹿は、どうしようもなく、馬鹿極まりないのだということを。