ワクワクドキドキときどきプンプン 3日目

 錆兎

 本当は、事故現場に行くのは錆兎にとっても恐怖だった。
 錆兎がこの道を通るのは、あれ以来二度目だ。一度目は、義勇の病院帰りにタクシーで。そのときは、事故現場に差しかかる前に蒼白になった義勇が吐き気をこらえきれずに、車を止めてもらって引き返したから、実際にその場所を目にしたのは、じつのところ初めてだ。
 錆兎も、真菰も、義勇同様にこの道を通ることができずにいたから。
 葬式で蔦子の死に顔を見た。墓参りにだって行っている。けれど、もう二度と逢えないと頭ではわかっていても、蔦子と婚約者の死を胸に迫って実感していたかといえば、少しばかりあやしい。わんわんと声をあげて泣いても、心のどこかで信じていなかった。いつか、蔦子と気のいい婚約者がいつものように、元気にしてる? と笑いながらヒョイッと現れてくれるんじゃないかとの期待が、どうしても消えてくれない。
 義勇の状態が不安で、蔦子の死を深く考える時間がなかったのは確かだ。前日までやさしく笑ってくれていた人がもうどこにもいないのだと言われても、幼い心がその事実を呑みこむのはむずかしかった。
 もし、事故現場を見てしまったら……もう二度と蔦子には逢えないのだと、完全に理解してしまう。それが怖かったのかもしれない。いつまでも怯えて立ちすくんでなどいられないのに、義勇が心配だからと自分に言い訳をしていただけだ。本当は、錆兎自身が怖がっていた。もう、それを認めなければならない。

 ここを通るのが、今でよかった。事故の爪あとも生々しいころでなく、けれどすっかり忘れ去られたあとでもなく、みんな一緒にいるこのときで、よかった。

 口を開けば泣きそうで、錆兎はグッと唇を噛んだ。視線は義勇から外さない。少しでも義勇の体に異変があれば、すぐにでも駆けつけなければならないのだから。
 真菰も錆兎と同じような顔をしていることだろう。見なくてもわかる。
「……あそこか?」
 錆兎たちだけに聞こえる声で、宇髄が小さく言った。うん、とうなずき言った錆兎の声も小さい。道端の花束を宇髄も見たのだろう。宇髄は「そうか」とだけ答え、錆兎たちをからかう言葉は口にはしなかった。
 たいへんしゃくではあるが、やっぱりこいつはイイ男だなと、錆兎はちょっぴり唇をとがらせる。認めるのは悔しいけれども、宇髄天元という男は錆兎にとって、一つの理想形であるのは否めない。
 見事な体躯といい豪胆さといい、抜け目のなさも含めて、宇髄は中学生とは思えないほど大人びている。自分がこんなふうであればもっと義勇を守ってやれるのにと、錆兎に思わせるのだ。それは煉獄に対しても言えることではあるけれど、より憧れるのはどちらかと聞かれたなら、世慣れた宇髄に軍配はあがる。
 もちろん、そんなこと口が裂けても言ってはやらない。こんなところがまだガキなのだと自覚はしているが、男の意地だ。不言実行あるのみ。
「宇髄さん、煉獄さん! このまま道なりにまっすぐ行って!」
 真菰が声をあげると、先を行く煉獄がわかったと答える声が響いた。それでいいんでしょう? とたずねる真菰の視線に、義勇が息を切らしながら目顔でうなずいた。

 義勇が近づけなくなった場所は、事故現場だけじゃない。義勇の家もだ。

 蔦子がいたころには、錆兎や真菰もしょっちゅう遊びに行っていた、義勇の家。内装は現代風にリフォームされているけれど、錆兎たちの家よりもさらに古い日本家屋で、お屋敷といっていいほどに大きな家だ。実際、昔々には水屋敷と呼ばれていたと、聞いたことがある。
 たしかに川はそれなりに近くを流れているけれど、隣接しているわけでもないし、庭に池だってないのになんでかしらね。そんなことを言って、蔦子が笑っていたのを覚えている。
 義勇は、入院して以来一度も家に帰っていない。帰れなかった。思い出がありすぎて近づけないのだ。
 錆兎にとっても馴染み深く思い出の多い家だけれど、生まれ育った義勇がかかえる思い出は錆兎の比じゃない。穏やかでやさしい思い出は、いまだ生々しく耐え難い喪失の痛みを呼び起こすに違いなかった。
 義勇にはとうてい不可能だったから、家の管理は鱗滝が代わりに行っている。掃除や修繕の手伝いには、錆兎か真菰のどちらかがついていくのが常だ。義勇を一人にするのも不安だったから、どちらかが義勇に付き添って留守番し、手伝いに行くのは交代でというのが、暗黙の了解になっている。
 そんなふうだから、家にはしっかりと鍵がかかっている。空き巣やら浮浪者やらに入り込まれてはかなわないので、戸締りはかなり厳重にしてあるのだ。
 だから、義勇が目指しているのは家の裏手だ。

 疾走する宇髄の肩で揺られながら、錆兎は、かすかに聞こえてきた潮騒に似た音に目を細めた。
 あぁ、水の音がする。そよ風には川のせせらぎのように、疾風には荒ぶる波のように、音立てて揺れる、それは……。
「そこ! その竹林に入って!」

 その昔は、千年竹林と呼ばれていたという場所へ。

「ここは……?」
 真菰に言われるままに竹林に飛び込んだ煉獄につづき、錆兎たちを担いだ宇髄も竹林へと入り込んだ。ムッとむせ返るほどの竹の香りに、錆兎はほぅっと小さく息をつく。
「義勇んちで所有してる竹林で庭みたいなもんだ。おい、天元。もういいぞ、降ろしてくれ」
「ここじゃ担がれてるより自分で歩くほうが早いよ」
 へいへいとぼやく声で言いつつも、素直に地面に降ろしてくれた宇髄に、会釈だけで礼をする。先に立つ煉獄を見れば、煉獄もまた、禰豆子を肩から降ろしているところだった。
「真菰ちゃんっ!」
「禰豆子ちゃん、怪我とかしてない?」
 駆け寄ってきた禰豆子が「うんっ。真菰ちゃんたちは平気?」と元気に答えるのに真菰がうなずいたのと、炭治郎を抱いた義勇が竹林に入ってきたのは、同時だった。
「よし、そろったな。もっと奥に行くぞ」
 歩き出す錆兎に、禰豆子と手をつないだ真菰がつづく。すぐにも義勇を休ませてやりたいところだが、通りに近いここでは追手に見つかってしまう。

 錆兎の歩みに迷いはない。勝手知ったる他人の家。何度もおとずれ、駆けまわった場所だ。竹林の手入れも鱗滝がしているから、今もよくきている。ここは、以前と変わらない。
 いくら掃除しても人が住まない家は死んでいく。蔦子の笑顔や義勇の笑い声がなくなった家は、とても寂しい場所になってしまった。蔦子が丹精込めていた庭の家庭菜園や花壇も、毎日世話をしてやれるわけじゃないから潰さざるをえなくて、今では雑草が生い茂るばかりだ。
 変わってしまったものが多すぎるなかで、この竹林だけは、今も変わらぬ水音に似た葉擦れを響かせている。知らない者にはどこを見まわしても同じように見えるだろうけれど、錆兎や真菰、それに、義勇がここで迷うことはない。馴染んだままの姿で、この竹林だけは変わらずここにある。

「見事な竹林だな」
「こりゃ、派手に維持費が大変そうだ。冨岡、お坊ちゃんだったのかよ」
 少しからかい交じりの宇髄の声に返事をする余裕は、まだ義勇にはないようだ。ハァハァと荒い息を吐いて、少しよろめき気味に歩いている。腕にはしっかりと炭治郎を抱いたままだ。
 炭治郎を降ろせばいいのに、とは、言わずにおく。義勇の気力と体力をギリギリ保たせているのは、腕のなかの炭治郎だ。みんなそれを理解しているんだろう。宇髄や煉獄もいらぬ忠告をする気はないらしい。
 というよりも、さしもの煉獄と宇髄でも、軽口をつづけられるほどの余裕はないのかもしれない。ちらりと振り返った錆兎は、二人が肩で息しているのを見てとり、クスリと笑った。
 体力お化けのように見えても、さすがにこの追いかけっこは宇髄たちにもこたえているようだ。なんとはなし安心している自分に気づいて、思わず小さな咳ばらいを一つ。

 定期的に間引きしているから、竹林には適度な陽光が差し込み、地面にはやわらかな下草が生えている。真竹だからタケノコが顔を出すには少しばかり早い。義勇がここへきても平気になったら、炭治郎と禰豆子をタケノコ掘りに誘ってみようかな。炭治郎たちは地面から生えているタケノコなんて見たことがないだろう。きっと喜ぶに違いない。そんなことを考えながら錆兎は下草を踏みしめ歩く。いくらも行かぬうちに、眩しい日射しが一行を照らした。
 ひらけたそこは、竹の壁に囲まれた中庭めいている。日射しは当たるが風通りはよく、竹に囲まれているせいもあってか、夏場でも涼しい場所だ。
 真夏にはここにシートを敷いて、三人で昼寝した。鬼ごっこやかくれんぼして遊びまくった懐かしい記憶。竹の香りに混じる蚊取り線香の匂いと、そろそろ起きなさいと笑う蔦子姉さんのやさしい声。全部、全部、覚えている。
「ここならあいつらもわからないだろ」
 振り返り一同を見まわした錆兎の声と、ガラの悪い怒鳴り声が重なった。やつらがまだ一行を探しているのは明白だ。本当にしつこいったらありゃしない。だが、そろそろ鬼ごっこも攻守交代の頃合いだ。今度の鬼はきっと警察官。やつらが追いかけ回されて逃げ惑うさまを見物できないのがちょっぴり残念だ。
 罵声は止まることなく遠ざかっていく。道に面した竹は一見すると密集して見えるから、まさか奥に入り込んでいるとは思いもしないだろう。
 全員無意識に息を殺していたのか、声が聞えなくなった途端に気が緩み、誰かがはぁぁっと深く息を吐いた。
 緊張の糸がプツリと切れたのか、義勇が、つづいて煉獄と宇髄が、地面にへたり込んだ。
「あー……しばらく動きたくねぇ」
「情けないが同感だ。いや、いい鍛錬にはなったが」
 げんなりと言いながらなにやらスマホをいじりだす宇髄と、やせ我慢でもなく本気で言ってそうな煉獄に、真菰と顔を見あわせた錆兎は、思わず肩をすくめた。やっぱりこいつらは体力おばけだ。自分だって大きくなれば二人にも負ける気はないし、義勇も元気さえ取り戻せば煉獄たちと同じくらいタフに決まっているけど。

「義勇さん、大丈夫ですか!? 俺、ずっと抱っこしてもらっちゃって……重かったですよね、ごめんなさいっ!」
 明らかに疲労困憊、青息吐息な義勇に、炭治郎が泣きだしそうにすがっている。義勇はといえば、安心させる言葉すら口にできる状況じゃないんだろう。座っているのもつらいに違いない。掛かり稽古さえできずにいるぐらいだ。以前よりかなり体力が低下している。だというのに、大立ち回りを演じた挙句、炭治郎を抱えてそれなりの距離を全力疾走したのだ。それこそ倒れたっておかしくない。義勇をギリギリで支えているものは、炭治郎を守り抜くという使命感と根性だけだろう。
 場合によってはじいちゃんに車で迎えにきてもらわなきゃならないかもな。焦燥と不安を抑え込みつつ、錆兎はその場に腰をおろした。
 昨日までなら、いや、事故現場をとおる前までならば、錆兎も炭治郎と一緒になって義勇に取りすがり案じただろう。けれど、それじゃきっと駄目なのだ。

『冨岡が決めたんだろうがっ! 甘やかしてんじゃねぇ!!』

 宇髄の怒鳴り声が耳によみがえる。どんなに大人ぶっても、自分はまだ幼い子供でしかないのだと思い知る一言だった。
 甘やかして、なにものからも守っているつもりでいた。思い上がりだとすら気づかずに、義勇の決意を踏みにじるところだった。そんな自分の未熟さが、胸に痛い。
 そうだ。義勇は小さな子供じゃない。どんなに頼りなくやせ細ってしまっても、義勇は……錆兎の弟弟子は、立派な剣士で、男なのだ。
 だから、ほら。義勇は震える手で、荒い息を吐き汗まみれの顔で、それでも炭治郎をやさしくなでてどうにか笑ってみせている。安心しろと言い聞かせるみたいに。大事なものを守り抜いた男の顔で。炭治郎の、ヒーローとして。
 わかっているようで、なにもわかっちゃいなかった。苦い悔恨を錆兎は噛みしめる。すとんと傍らに腰をおろした真菰が、小さく笑った。その顔はどこか泣き笑いめいていて、真菰も錆兎と同じ痛みを抱えていることが知れた。
 ふと、小さな忍び笑いが聞えた。ククッと肩を震わせて宇髄が笑っている。と、煉獄の背も震えだした。こらえきれぬ忍び笑いはだんだん大きくなっていき、真菰と目を見あわせた錆兎の顔も、知らず頬が緩みだし唇が笑んだ。

 後悔している。反省もしてる。でも、今は。今だけは。

「――ッシャア!! 派手に逃げ切り成功、俺らの勝ちだ、オラァ!」
 とうとう笑い交じりに咆哮し拳を突き上げた宇髄につづき、錆兎も真菰と一緒に高く拳を突き上げた。そして吼える。大きく声を張り上げて勝ちどきを響かせる。
「オォ――ッ!!」
 そうだ。今は素直に喜んでしまえ。勝利を。義勇の新たな一歩を。それは今この瞬間にしかできないんだから。
 パァッと顔をかがやかせた炭治郎と禰豆子も、そろって「おーっ!」と拳をあげた。込み上げてくるうれしさのまま、パンッと真菰と両手をたたき合わせれば、禰豆子と炭治郎も笑いながら両手を差しだしてくるから、ハイタッチしあう。なんだかもう、とにかく笑いたい。
 見れば、義勇もうつむいたまま小さく拳をにぎりしめていた。ささやかで控えめなガッツポーズ。あぁ、本当に、どうしようもなく今はただ、それがうれしい。
 宇髄と煉獄も、義勇の小さな勝利宣言に気づいたのだろう。二人して顔を見あわせると、ズイッと身を乗り出し義勇に笑いかけた。

「冨岡っ!」
「おらっ、手ぇ上げろ!」

 掲げられた二人の手のひらを見上げる義勇の瞳が揺れた。おずおずと震えながら上げられた義勇の手が、二人に叩かれパァンッと音高く鳴る。義勇は信じられないものを目にした如くにどこか呆然とした顔で、二人とハイタッチした自分の手を見ていた。
 戸惑ってる。義勇のその戸惑いが、錆兎には少し悲しくて、でも、心の底からうれしい。
 蔦子の死をすべて自分の責任だと思い込んでいる義勇は、自分を価値のないものだとみなしている。それを承知していてなお、錆兎も真菰も、正してやることはできなかった。いくらそんなことはないと言い募っても、義勇にしてみれば慰めとしか受け止められないんだろう。もはや家族同然の錆兎たちでは、駄目だった。
 爺ちゃんは、やっぱり正しい。
 鱗滝が言ったとおりだ。今の義勇に必要なのは、新しい出会いと信頼しあえる友人だ。贔屓目など持ち得ない他人からの好意の積み重ねこそが、義勇には必要だったんだろう。最初に与えてくれたのは炭治郎だけれど、それだけじゃ足りなかった。だって炭治郎からすれば、義勇はヒーローだ。対等じゃない。この先はわからないけれども、今はまだ。
 義勇。もう認めろよ。胸の奥で錆兎は語りかける。
 杏寿郎と天元はいいやつだ。おまえのこと、ちゃんと友達だと思ってるって、もうわかるだろ? 信じられるだろ? この二人なら大丈夫、もう認めちまえ。

 それでも、相棒の座はわたさないけどなっ。

 くふんと隣で笑う真菰には、密かな錆兎の宣言などお見通しなのだろう。ちょっと照れくさくなってコホンと咳払いした錆兎の耳が、かすれ声の呟きを拾った。
「どうして……」
「あぁん? 勝利を喜ぶのに理由がいるかよ」
 宇髄に向かってふるふると小さく首を振る義勇は、なんだか泣きだしそうにすら見える。
「なにも……返せない」
 困惑する義勇を見つめ、馬鹿だなぁと、錆兎は思わず眉尻を下げた。貸し借りじゃないだろう、友情は。
 煉獄も錆兎と似たような感慨をいだいているのだろうか。眉根を寄せ少々険しくも見える顔つきで、なんと言ったものか考えているようだ。
「……不死川にならうわけじゃねぇが、なにも貸してなんざいねぇよ。返す必要なんてありゃしねぇ。感謝もしなくていい。こりゃあ俺のエゴだ」
 常になく静かな宇髄の声に気づき、キャッキャとはしゃいでいた炭治郎と禰豆子が、少し不安そうに黙りこんだ。
 じっと見つめる義勇のまなざしに耐えかねたのか、宇髄が、はぁっと大きくため息をつき頭をかく。
「ったく、話す気はなかったのによ。まぁ、なんだ。俺にとっちゃ冨岡をかまうのは、昔のツケを払ってるみたいなもんだ。ガキのころにはできなかったことを、おまえでさせてもらってんだよ。感謝される筋合いなんてねぇんだ」

 ――弟がいるんだ。

 少し黙り込んだあと、ポツリと宇髄は言った。いつでも飄々とした態度を崩さない宇髄らしからぬ、小さな小さな声だった。
「親父の操り人形みたいなやつでな……感情なんてどっかに置き忘れた顔で、傲慢な親父の意のままに動くロボットみたいでよ。今じゃまるっきり親父のコピーだ。けど、最初からそんなだったわけじゃねぇ。禰豆子ぐらいのときには兄ちゃんって……俺に笑ってくれてたんだ。けど……助けてやれなかった。変わってくあいつを、俺は見て見ぬ振りした。親父そっくりで反吐へどが出るなんて、蔑んでもいた。なにもしてやらずに見捨てたくせにな。……似てると思ったんだよ。最初に、なんにも映してねぇおまえの目を見たとき」
 ピクリと義勇の肩が揺れた。とっさにわき上がった宇髄に食ってかかりたい衝動を、錆兎は懸命にこらえる。ギュッと錆兎の手を握りしめてきた真菰の手が、小さく震えていた。
 錆兎を止めたんじゃない。真菰も錆兎にすがることで、詰め寄りそうな自分を抑えているんだろう。わかるから、錆兎は黙って真菰に肩を寄せ、手を取り握りかえした。
「あいつと同じだって言ってるわけじゃねぇ、誤解すんなよ? ……って言っても、無理だわな。でも、マジでおまえは違うってすぐに思ったんだぜ? あいつは自分の意思で感情を捨てたうえ、まったく不満なんて持っちゃいねぇけど、冨岡はそうじゃないってわかったからな。とくに、教室で授業受けるようになってからは、さ。変わろうとしてんのが、ちゃんとわかんだよ。頑張ってんのがな」
 そう言って宇髄が浮かべた笑みには、自嘲の色が濃い。それでも、紫紺の瞳には慈しむようなやわらかさがあった。握りあう錆兎と真菰の手に力がこもる。
「……やり直せるって、思ったんだ。もしあのころ俺がはやばやと諦めなけりゃ、あいつも冨岡みたいに昔の自分を取り戻せたんじゃねぇかって……たぶん俺は、心のどっかで後悔してたんだろうな。今度は諦めんのはやめよう、今度こそ派手に取り戻させてやろうじゃねぇかって、そう思った。おまえをかまって、おまえのために動くのは、全部、俺の都合でしかねぇ。だから、おまえはむしろ怒っていい。勝手に弟の身代わりにすんなって、俺に怒っていいんだ。それでも俺ぁ、やめる気はねぇけどな。おまえが怒って俺を嫌っても望むところだ。そんぐらい自分の感情をむき出しにしてくれりゃ、俺はそれで救われる。……ただのエゴだ。感謝する必要なんざどこにもねぇよ。恩を返すなんて言われたら、かえって立つ瀬がねぇや。勘弁しろっての」
 大きな宇髄の手のひらが、そっと義勇の頭に触れた。グシャグシャとかき乱しているだけみたいないささか雑な撫で方になったのは、宇髄なりの照れ隠しだろうか。
 エゴだと宇髄は言う。怒っても嫌ってもいいと言う。それは、見返りを求めぬ友情と、なにが違うというんだろう。宇髄は誰よりも大人びていると思っていたけれど、中学生のガキには違いないんだなと、錆兎は胸のなかで独り言ちた。顔にはわれ知らず苦笑が浮かぶ。
 なんでも器用にこなすように見える宇髄も、好意のあらわしかたは存外不器用だ。おまえが気に入っているからだと、素直に言ってしまえばいいものを。
「嫌うわけ、ない」
 手を払うことなく撫でられていた義勇が返した言葉に、うん? と宇髄の首がかしげられた。
「……宇髄が、勝手に俺のために動くなら、俺も、勝手に宇髄に感謝する」
 これでおあいこだ。言って義勇は、子供っぽくムフフと笑った。まるっきり想定外の返しだったんだろう。ぽかんとした宇髄に、錆兎は唇を引き結び、吹き出すのをどうにかこらえた。
 まだまだわかってないな。義勇がそんなことぐらいで手助けしてくれたやつを嫌うもんか。胸にこみ上げるのは優越感か、はたまた呆れか。いずれにしてもひどく愉快な気持ちになっているのは否定できない。

「俺も、宇髄さんにはありがとうございますって言いたいです! えっと、宇髄さんのお話はむずかしくってよくわかんなかったけど……でも俺、宇髄さんがいい人なのは知ってます! 義勇さんのこと助けてくれて、ありがとうございます!」
「禰豆子も! 禰豆子も宇髄さんいい人だから好きっ。ありがとう宇髄さん!」
 炭治郎に真剣な顔で詰め寄られたうえ、ギュッと抱きついてきた禰豆子から無邪気に笑いかけられて、宇髄はめずらしくうろたえていた。目を白黒させて視線が泳ぐ宇髄を見るのは、本日二度目だ。
 とうとうこらえきれずに錆兎が噴き出したのは、真菰と同時だった。
「宇髄さんの負け。そんな小難しい理屈こねまわして、悪ぶったって無駄だよぉ」
「義勇たちは、ひねくれもんの天元の理解の範疇を越えて素直だからな。本当は単純に義勇が気に入ってるからだって、素直に言ったほうがいいぞ、天元。ま、俺もおまえが気に入ってるけどな」
 ニンマリ笑って言ってやれば、宇髄はあんぐりと口を開け、ついで眉尻をさげると困り顔めいた笑みを浮かべた。少しばかり切なさを含んでいたけれど、偽りなくやさしい笑みだった。