ワクワクドキドキときどきプンプン 3日目

 実弥

 スーパー銭湯の手伝いを早上がりした実弥は、はしゃぐ玄弥たちに囲まれ公園を歩きながら、内心で安堵していた。
 オーナーの好意で母の職場であるスーパー銭湯を利用させてもらえるとはいえ、せっかくのゴールデンウィークに毎日銭湯にしか行けないのでは、さすがに玄弥たちがかわいそうだ。金がないから遠出はできないし、入館料金がいるような場所にも行けないけれど、ただの公園でも玄弥たちは、実弥と一緒に出かけられてうれしいと喜んでくれる。
 もっとかまってやれりゃいいんだけどなァ。少しばかりの遣る瀬なさを飲み込んで、実弥は弟妹へと穏やかに笑い返した。玄弥にばかり就也たちの相手をさせるのは申し訳ないし、もっと自由に遊ばせてやりたいと願ってもいる。けれども母の給金と児童扶養手当だけでは、家族八人が食べていくのがやっとなのだからしょうがない。玄弥たちを最低でも高校まで進学させるためには金がいる。雀の涙ほどの小遣いだろうと銭湯の手伝いを辞めるわけにはいかなかった。
 本当なら部活だって出ている場合じゃないが、ボクシングは実弥の将来設計において先行投資だ。少しばかりは、ストレス発散という意味合いもあるけれども。
「兄ちゃん、早くぅ。いっぱいお花摘まなきゃいけないんだから急いでっ。母ちゃんに花冠作ってあげるんだからね」
「あっちにタンポポいっぱい咲いてるとこあるんだよっ。兄ちゃんもいっぱい摘んでね?」
 ことと貞子が急かすのに、わかったわかったと苦笑いしながら、実弥は寿美を抱え直した。
 三歳になる寿美は最近やたらと自分で歩きたがる。突然走り出したりもするから目が離せない。そうなってしまえばまた玄弥の負担が増えるし、実弥自身、日ごろかまってやれないぶんも、こういうときには抱っこしてやりたいと思ってしまう。

 向かっているのは広場の奥にある森めいた場所だ。貞子たちのお気に入りらしい。あまり人がこないというのが、実弥にとってはありがたかった。
 広い場所で散られてしまうと収拾がつかないし、公園には散歩中の犬もいる。うっかり手を出して噛まれでもしたらと思うと、気が気じゃない。人の多い遊具では、自分の風貌のせいで玄弥たちまで白眼視されるかもしれないしと、実弥がためらうのを察したのだろう。玄弥たちは公園に着くなりお気に入りの場所があると、実弥の先に立って歩きだしたものだ。
 弟妹に気を遣わせてしまった不甲斐なさは苦笑でとどめた。せっかくの休日だ。少しでも玄弥たちが楽しめるよう、できるかぎり笑顔でいてやりたい。
 けれど、背後からかけられた声によって、決意は脆くもくずれた。

「よぉ、奇遇だな。ツレが世話になったってのに、昨日は挨拶もしねぇで悪かった。ありがとな」
「あぁん? なんだよ、テメェ」

 とっさに実弥の脳裏に浮かんだのは、水色のウェアを着たポニーテールの女の子の顔だ。ドキリと鼓動が跳ねたのを誤魔化したくて、ことさらドスの利いた声で答えて振り返れば、銀色の髪をしたやけに派手な優男が立っていた。実弥も中学生にしてはかなり体格がいいが、男はさらに大柄で、やたらと愛想のいい笑顔を浮かべている。金髪の男と違いまじまじと見たわけではないが、たしかにあのとき後からきた男に違いなさそうだ。
 奇遇であるのに異論はないが、この男はなぜ声をかけてきたのだろう。具合が悪そうな女の子に声をかけたのは事実だから、礼を言われてもおかしくはないけれど、こいつと顔を合わせたのは一瞬だ。まさかイチャモンでもつける気だろうか。
 知らず鋭くなった実弥の眼光を気にするでもなく、男は貞子とことにニッコリと笑いかけている。妹たちがポッと頬を染めながら男を見上げているさまは、昨日の女の子の件を抜きにしても面白くない。さっきまで兄ちゃん兄ちゃんとはしゃいでたというのに、妹たちの目は男に釘付けだ。

 顔か。顔なのか、おい。

 色男に微笑まれたらわずか五歳の妹たちであってもこうなるのかと、実弥はムカつきを隠すことなく男をねめつけた。
「おいおい、怖ぇなぁ。べつに文句をつけようってわけじゃねぇよ、そんなに睨むなって。あぁ、そういや玄弥っつったか? 昨日は禰豆子がありがとな」
 軽い調子で笑いながら玄弥に声をかける男に驚いた実弥が視線を移すと、玄弥はとまどいをあらわにチラチラと男を見ていた。
「玄弥、こいつのこと知ってんのかァ?」
「あ、うん。就也たちの友達が迷子になってたって昨日言ったろ? その子と一緒に銭湯にきてた人だよ」
「そうそう。自分で言うのもなんだが、悪いやつじゃねぇから。そんな警戒すんなって」
 そうはいっても、愛想よく笑う目の前の男が礼を言うためだけに呼び止めてきたとは思えず、実弥の警戒心は解けない。
 実弥の怪訝な視線を意に介さぬ様子の男は、味方になりそうだと見定めたのか、ことと貞子に向かって「ちょっと兄ちゃん借りていいか?」と笑いかけている。
「いいよっ! 兄ちゃん貸してあげるっ!」
「この人、実弥兄ちゃんと玄弥兄ちゃんのお友達なの? 兄ちゃんたち、こんなかっこいいお兄ちゃんと友達だったの!?」
 大興奮で優男に迎合する妹たちを、実弥は呆然と見ていることしかできなかった。

 顔か。やっぱり顔なのか、おまえら。顔がよければ兄を売るのか、おいっ。

 思わず遠い目をしてしまったけれど、玄弥が袖を引いて心配そうに見上げてくるのに気づいてしまえば、落ち込んでばかりもいられない。実弥は兄の威厳を取り戻すべく、男を見据える目に力を込めた。
 大概のやつは慌てて目を逸らす実弥の眼光にも、男はまるで動じていない。チッと一つ舌打ちして、実弥は玄弥に寿美を預けた。
「勝手に動かねぇでここで待ってろよ?」
「うん……兄ちゃん、早く戻ってくれよな」
 素直にうなずいたものの玄弥はまだ心配顔だ。安心させるよう笑ってうなずき、実弥はすぐに笑みを消すと男を顎でうながした。なにが目的かは知らないが、内容次第では幼い玄弥たちには聞かせるのはまずいかもしれない。それでもあまり離れるのも不安が残る。立ち止まった実弥が玄弥たちが目に入るのを視線だけで確認すると、男は先ほどまでより柔和な笑みを見せた。
「あんた、いい兄貴なんだな……冨岡にも気ぃ遣ってくれたみたいだし」
「あ? べつに……客が具合悪くしてたら、声かけるぐらい普通だろうがァ。冨岡ってやつだけ特別ってわけじゃねぇ」
 笑みはくずさないが、男の目の奥には探るような色がある。実弥は自分の声がことさらぶっきらぼうになるのを感じた。
 最初に現れた男はただの友達でも、こいつはあの子の彼氏なのかもと思ってしまったら、なぜだか無性にイライラするし胸も痛い。

 あれだけきれいなら、そりゃ彼氏の一人や二人いるだろう。いや、あの子がそんな尻軽だなんてまったく思っちゃいないけれども!

 実弥のいら立ちや焦燥の理由に気づくはずもない男は、なおも探る視線をそらさない。それにますますいら立って、実弥もきつく男の目を睨み据えた。その視線をどう受け取ったものか、男は不意に玄弥たちに瞳を向けて苦笑した。
「あんたはキメ中では一匹狼だって聞いてるぜ、不死川実弥さんよ。事実かい?」
「……なんで俺の名前まで知ってやがんだァ? まさか調べたのかよ」
 嫉妬深い彼氏。そんな言葉が即座に浮かび、あの子のうつむいた横顔と重なった。
 あんなことぐらいであの子を責めたりしてねぇだろうなと、内心でヒヤリとしながら実弥が低い声で問い返せば、男はなぜだか愉快げに笑いだした。
「べつにあんたやあっちのチビッ子どもに含みがあるわけじゃねぇよ。今のとこな」
「そりゃあ、俺の返答次第ってことかァ?」
 ピクンと男の柳眉が小さく跳ねて、笑みが深まる。
「察しがいいな。まぁ、そういうこった。金で雇われたキメ中の馬鹿どもに、俺のツレが狙われてる。雑魚だけならまだしも、あんたがくるなら骨が折れそうだからな。ツレになんかあれば、こっちもチビどもが泣くからよ」
「ツレってなぁ、昨日の金髪かァ? 馬鹿に狙われるタイプにゃ見えなかったが……」
 あの女の子にワッと走り寄っていた子供たちを実弥は思い出す。泣くチビどもとはあの子らのことだろう。関係性は読めないが、冨岡という女の子は子供たちが泣けば悲しみそうだ。
「あいつもツレに変わりはねぇが、今回は黒髪のほうだな」
 言われた瞬間、実弥は思い切り目を見開いた。
 あの子が狙われている? なぜだ。理由がわからない。あんなにガキどもに慕われてそうな子が、馬鹿なやつらからなんの恨みを買うってんだ?
 実弥の疑問と憤りを悟ったのだろう、男はこともなげに逆恨みの八つ当たりだと口にした。
「冨岡は去年キメ学に転入してくるまではキサ中だったんだが、かなり優等生だったみたいでさ。テメェの努力が足りねぇのを棚に上げて、冨岡が転校した後も自分が褒められねぇのはアイツのせいだって、恨んでるやつがいんだよ」
「ハァ!? おい、どこのどいつだ、その性根が腐りきったやつァ!」

 そんなくだらないことで、あの子を狙うだと? ふざけるな!

 思わず詰め寄った実弥に、男はすっかり相好をくずした。
「あんた、いいやつだな。気に入ったわ。そのぶんじゃ冨岡の件にゃ関わってねぇみたいだし」
「ったりめぇだァ! いくら金を積まれようが、そんなくだらねぇ理由で人を襲おうって馬鹿の言いなりになるわきゃねぇだろうがァ!」
 怒鳴った実弥に笑い、男はふたたび視線を玄弥たちに向けた。
「大声出すとチビどもが心配するぜ、お兄ちゃん?」
「テメェ……からかってやがんのかァ?」
「まさか。家族を大事にできるやつを尊敬してんだ、俺は」
 飄々としてつかみどころがなかった男が不意に浮かべた静かな笑みは、どことなし自嘲の色が滲んで見えた。
「冨岡に手を出さないってんなら、あんたに文句はねぇよ。ただ、あっちの木立の奥に行くのは控えてもらいてぇけどな。冨岡をヒロインにした映画のロケ中なもんでよ、悪いが外野は立ち入り禁止だ」
「は……? え、映画のヒロイン?」
 ついポカンとしてしまった実弥の驚愕をどうとらえたのか、男は苦笑しながら頭を掻いている。
「冨岡は乗り気じゃなかったんだが、チビッ子親衛隊がなぁ……冨岡と一緒に映画出演ってのに派手に舞い上がっちまってさ。ま、そういうわけで今はちっと取り込み中だ。悪いがほかに行ってもらえるか?」
 苦笑する男の声がやけにやさしく聞こえて、実弥は知らず眉間にしわを寄せた。
 やっぱりこいつと付き合ってるんだろうか。胸の奥がズキンズキンと痛む自分にいら立ってしかたがない。こんなことは初めてで、自分の感情がよくわからなかった。

「に、兄ちゃんっ! どうしたんだよ、なんかこいつに言われたのか!?」

 玄弥の声に我に返って振り向けば、寿美を抱えた玄弥を筆頭に、就也たちが走り寄ってきていた。先ほどまで男に熱を上げていたはずのことと貞子まで、すっかり心配げな顔をしている。一瞬言葉を失って答えられなかった実弥になにを思ったのか、玄弥たちが男を睨みつけた。
「おまえ、兄ちゃんになんかしたのかっ!?」
「おいおい、言いがかりだって。今、あっちで禰豆子や炭治郎が俺のツレと映画撮ってるから、あっちは立ち入り禁止だって教えてただけだよ」
 男が言った途端に、就也たちがワッと声を上げた。
「えっ!? 竈門が映画に出んのっ!?」
「すげぇ、芸能人じゃん! テレビにも出んのかな!?」
「実弥兄ちゃんっ、ことも禰豆子ちゃんとこ行きたいよぉ」
「貞子も禰豆子ちゃんが映画するの見たいよぉ。ね、行っちゃ駄目?」
 わぁわぁと大騒ぎになったチビッ子たちには、さすがに飄々とした優男も形無しとなったか、目を白黒とさせている。実弥はいい気味だとちょっぴり思い溜飲を下げた。
「どこのチビッ子も変わんねぇなぁ……おいっ、いっぺんにしゃべんなって! 禰豆子たちはヒロインと一緒に遊ぶエキストラだ。セリフだってねぇよ。そもそも映画って言っても、中学生の自主制作だしな。映画館でやるようなもんじゃないぞ?」
「それでもすげぇよ。炭治郎と禰豆子がいるなら、錆兎や真菰も一緒なのか?」
 玄弥も顔を輝かせている。興奮気味の姿に実弥はパチリとまばたいた。
 ゴールデンウィークだというのに、玄弥たちは家族旅行もできない。もしかしたらこれはチャンスなんじゃないのか。映画の撮影を見たとなれば、玄弥たちも学校でクラスメートに自慢できるかもしれない。いや、あの子にまた逢えるとか、そんなことは考えちゃいないけれど。あくまでも玄弥たちのためだ、うん。
「おい、テメェ」
「あん? あぁ、自己紹介してなかったな。宇髄だ。キメ学三年。冨岡と煉獄って金髪の同クラだ」
「……宇髄さんよォ、その、映画の撮影ってのは見学しちゃまずいか? 静かにさせっからよォ、こいつらに見せてやりてぇんだが……」
 実弥の言葉に、バッとそろって顔を宇髄に向けた就也たちの目が期待にきらめいた。
 せめてなにかひとつでもいいから、思い出になることを。実弥自身が与えてやれるものでなくていいから、玄弥たちが楽しいと思ってくれるものを与えてやりたいと思う。自分が見たいわけではない。断じてない。
 宇髄が小さく苦笑しスマホを取り出すのを見守る。なにやら操作していた宇髄は、やがてニヤリと笑い「OKだってよ」と、軽くウィンクした。

 うわ、チャレェ……。

 実弥が思わず顔をしかめると、目ざとく気づいたか宇髄は少しばかりムッとした様子で眉を寄せたが、それも一瞬だ。大喜びではしゃぐ就也たちに、いかにもいい兄貴然として笑いかけると「近くまで行ったら静かにしろよ」とうながしてくる。玄弥から寿美を受け取り歩き出した実弥の隣に並び、宇髄は小さな声で話しかけてきた。
「金で動いた馬鹿どもが冨岡を探してる真っ最中だ。まさかこんなとこまで来るこたぁないと思うが、万が一のときは派手に頼りにしてるぜ、一匹狼の不死川さんよ」
「……玄弥たちもいるんだ、守るに決まってんだろうがァ」
 少女の苦しげに少しふせられた横顔を思い出して、寿美を抱く実弥の腕に力がこもる。
「にいちゃ、たいよっ」
「お、おぉ、悪ぃっ!」
 寿美のプンとふくらませたほっぺたと、宇髄の忍び笑いに、実弥は調子が狂うとバツ悪く舌打ちした。