流れ星 【加筆修正版】

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 見るともなしに見つめるアヤメに、の人の面影が重なり、恋しさが募る。
 冨岡と逢う日は大概が、お館様の屋敷で行き合ったときだ。いつだって約束はしていない。鬼殺隊士となって以来、人と待ち合わせて会う約束というのはしなくなった。いつなんどき任務の報が入るかもわからず、約束しても果たされぬことのほうが多いのだ。だから冨岡とも、日にちを決めて逢うというのはむずかしい。
 柱同士で任に向かうこともなくはないが、そう多くはない上に、冨岡とはなかなか一緒になれずにいる。だから煉獄は、冨岡と一秒でも長く過ごしたいと、任務のあとで冨岡の担当地区近辺へと足を向けることが多くなった。
 逢える確率はけっして高くはない。お館様の采配に異を唱える気は毛頭ないが、そろそろ共闘できればいいのだがと、思わずにはいられなかった。
 出逢えたときにはともに食事をし、人気ひとけがなければ、ときどき手を繋ぐ。冨岡との逢瀬はそんな具合だ。抱きしめたことはまだ一度もない。
 告白が受け入れられたあの日以来、冨岡の笑顔が向けられるようになったかといえば、そんなこともない。冨岡は相変わらず無表情がすぎ、寡黙にすぎるありさまだ。けれど、好きだという文言を友情ととらえたわけではないのは明白なのだから、今のところはそれだけでよしとするしかない。恋人になれたのだと思っていいかとの問には、どこかオロオロと視線をさまよわせたあと、小さくうなずいてくれた。変化は冨岡のなかでもそれなりにあるのだろう。

 具体的にわかるところでは、距離が一歩離れた。物理的に。

 あれ以来、冨岡は煉獄の隣を歩いていると、気がつけばスススッと一歩分離れることが増えたのだ。冨岡としては一歩どころか、もっと離れたいところなのかもしれないが、できうるかぎり近くにいたい煉獄にすれば、そんなことが許せるわけもない。初めて離れようとする冨岡に気づいたときに、とっさに手を握り問いただしたのは、当然のことだ。
 恋人などいたことがない。どんな顔をしたらいいのかわからない。そう遠回りに言った冨岡を、よく抱きしめてしまわなかったものだと自分でも思う。
 一緒にいるだけでも恥ずかしいのに、離れれば手を繋がれる。それを学習した冨岡が、煉獄から距離を取ろうとするのは、今のところ半半の確率になっている。
 煉獄は知らず識らずクスリと笑った。
 と、そのときだ。思い描いていた彼の人の声が不意に聞こえた。

「煉獄」

 呼びかけに煉獄は即座に振り返ったが、最初は幻聴かと思った。瞳が映し出した冨岡の姿でさえも、逢いたい気持ちが募りすぎたゆえに己の願望が見せた幻覚かと、錯覚しそうになったぐらいだ。
 だが現状認識が素早くなければ柱など務まらない。現実の冨岡だと認識したのと破顔したのは、どちらが早かっただろう。いずれにせよ、思いがけなく出逢えた喜びの前ではどうでもいいことだった。
「冨岡! どうしたんだ? 君のほうから俺に逢いに来てくれるとはめずらしいな!」
「……任務の場所が近かった」
「おぉ、それは僥倖! 鬼もたまには役に立つことがあるものだな!」
 煉獄が駆け寄るより早く、冨岡が足を踏み出すほうがわずかに早かった。本当にめずらしい。
 アヤメを揺らす風は爽やかで、日は明るく照っている。一歩分離れた距離に立ち止まった冨岡は、いつもと変わらず感情の読めぬ顔をしていた。
 さて、近づくか手を取るか。煉獄が選んだのはどちらでもなかった。
「煉獄?」
「貰ってくれ」
 鬼を狩るための刀でアヤメを刈り取るなど、刀鍛冶が聞いたら怒るだろうか。頭の片隅でチラリと思うが、軽んじているわけではないのだからかまわないだろうと決定づける。一閃した日輪刀で、すっぱりと切り落としたアヤメを手に、刀を鞘に収めつつ煉獄は静かに冨岡を見つめた。
 差し出したアヤメは、ほかのものより青みが深い。冨岡の瞳によく似た色合いだ。
 反射的にだろう、受け取ってはくれたものの、冨岡は心持ち戸惑って見える。喜んでくれるとは思っていなかったが、なんだか落ち込んでさえいるように見えるのはどういうわけだろうか。
「すまん。花など渡されても迷惑だったか」
「違う」
 即答だった。安堵よりも歓喜に満たされた胸を弾ませて、煉獄の目が微笑みにたわむ。
「それならよかった! この花を見ていたら君を思い出してな。いずれアヤメかカキツバタというが……うむ! やっぱりアヤメやカキツバタよりも、君の瞳のほうが美しいな!」
 花を、贈ってみたかった。
 いつもは日輪刀を握るその手に花をたずさえた冨岡が、見てみたかった。幼いころにはきっとそうしていたように、きれいな花を手に笑う冨岡が。
 なのに、冨岡の顔にはやはり笑みはない。それどころか、パチリとまばたいたそのあとは、なぜだか瞳に焦りが見える。照れていつも以上にぶっきらぼうになるかとは思ったが、この反応は予想外だ。
 どことなし周章をにじませて、冨岡はなにかを思案しているように見える。眼球がせわしなく動いて、彼が目まぐるしく考え事をしていることを伝えていた。

 冨岡という男は即断即決、状況判断の素早さは類を見ないと、初めて同じ任にあたった折に感心したものだが……。

 こんなにも迷っているように見えるのはめずらしい。花など渡したのは失敗だったかと、煉獄がちょっとばかり切なく謝罪を口にしようとしたその瞬間に、冨岡の顔がキッと煉獄を真っ向から見据えてきた。
「飯に行こう」
「は?」
「もう、食べてしまったか?」
「いや、まだだが」
 なら行こうと冨岡の左手が伸びて、自分の手を取るのを、煉獄はやや呆然として見つめた。
 冨岡は煉獄の答えを聞く前にさっさと歩きだしている。煉獄の手を握ったままでだ。
 手を繋ぐのはいつだって煉獄からで、冨岡が自ら煉獄に触れてきたことはない。食事の誘いも、いつでも煉獄が誘い、冨岡がうなずく、それが二人の常だ。恋を自覚する前から、片恋を経て恋仲に至った今日まで、一度として冨岡の方からなにかに誘ってくれたことなどなかった。
 それなのに、これはどうしたことだろう。
 うれしげに見えるのならば、やっと冨岡も触れ合うことに慣れてくれたのだと、喜びもしよう。だが冨岡は、まるで任務に向かうかのような無表情のままだ。いや、それどころか、任務よりもなお、どこか鬼気迫るものを感じる。
 問う言葉をかけても、冨岡は短く急かすだけで、答えをくれない。声音にもなんとはなし焦りが感じられた。
 なにがなにやらわからないが、それでも、冨岡の右手にはアヤメが一輪握られたままだ。いらぬものなら打ち捨ててくれてもかまわないのだがと、悲しさを押し殺して煉獄が言えば、「嫌だ!」とそのときばかりは振り返り、キッパリ言い切りもした。
 しまいには煉獄ももう、口をつぐむよりなかった。ほんの一、二分ではあるけれど。
 なんともなれば、煉獄はもちろんのこと、冨岡も歩みは早い。足早にともなれば、市井の人が走るよりも、よっぽど早いぐらいだ。人気のない草原から人通りのある往来までの道行きは、そう長くはかからなかった。

 そうして着いたのは、一軒の蕎麦屋だ。

「なんだ、蕎麦が食いたかったのか?」
 この店を特別目指したわけではないだろう。往来を行く間、冨岡の目はせわしなく周辺の店構えを確認していた。
 いきなりだったのは驚いたが、飯に行こうとの誘いは空腹だったからだと考えれば、一応の筋は通る。不興を買ったわけではないなら安堵もしよう。けれども視線をやった冨岡の横顔は、なんだか悲壮なまでの覚悟が見える気がした。
 覚悟? 蕎麦を食うのに? なんともチグハグで、煉獄の疑問は募るばかりだ。
 うん、と一つうなずいた冨岡の顔は、やはりどこか険しい。まさか任務なのだろうか。鬼の気配はまるでないし、今は昼も近づいた時刻だが、油断はならない。思い気を引きしめたとたんに、煉獄の冷静さにヒビを入れる一言が聞こえた。
「破ってない」
「ん?」
 煉獄の手握る冨岡の左手に、痛いほどの力が込められた。彼の緊張が伝わってくるようだ。だが、緊張するようなことなのか? だって蕎麦屋だ。やはりこれは任務なのだろうか。けれども、破ってないの一言が解せない。いったいどういう意味だろう。
 答えはいらっしゃいませとかけられた声と同時に、消え入るような声で返ってきた。
「これは、俺が誘った。だから約束は破っていない」
 約束の一言で、即座に煉獄の脳裏によみがえったのは、冨岡と恋仲となれたあの日、己が口にした言葉だ。
「店主、二階にたぬき蕎麦、二つ」
「へい、毎度」
 店に客はいなかった。昼時も近いのに、あまり繁盛していないのだろう。人目がなくて幸いだと思う端から、冨岡は蕎麦屋の二階へ行く意味などわかっていないのだとの思いもわく。
「冨岡」
「……やっぱり、約束を破ったことになるか?」
 先に階段を登る冨岡の手が、離れる素振りを見せた。させじと煉獄はその手を握り返す。冨岡が振り返った。白く秀麗なその顔は、先までの硬さはそのままに、どこか頑是がんぜない子供のようでもある。
「いや、大丈夫だ! 君からの誘いだ。うれしいに決まっている!」
 笑いかけてやると、冨岡の肩から心なし力が抜けて見えた。
 きっと冨岡は、贈り物をされたのだからお返しをとでも考えたのだろう。他人行儀なと思わなくもないが、冨岡の生真面目さは微笑ましくも好ましい。
 それに、他意などないのだ、冨岡には。蕎麦屋の二階へいざなう意味など、きっとわかっていない。
 並んで歩くだけで恥ずかしがり、手を繋げば少しうつむく冨岡が、自分から手を繋いでくれた。それだけでも滅多にない僥倖だ。
 目の前の背中を見つめ、煉獄は自身に言い聞かせる。場所が場所だけに鼓動が勝手に騒ぎ出すが、勘違いしてはならない。欲はきっとまだ己の身のうちだけのものだ。それが証拠に、冨岡は二人分の注文もしている。飯を食おうという言に他意はなく、そのままの意味に違いない。
 冨岡とてれっきとした成人男性ではあるが、色恋については、尋常小学校に通う子供よりも純情に見えた。男同士での性行為についてなど、一度として考えたこともないに違いない。
 なんだか切なくなってくるが、これ幸いと強引に事を進める気にはなれなかった。無理強いしたいわけではないのだ。冨岡自身にも望んでほしい。冨岡にも以前そう伝えた。
 逢えないと思っていたのに、冨岡のほうから逢いにきてくれた。ようやく花を贈れた。冨岡から手を繋いでくれてもいる。充分じゃないか。亀の歩みより遅い恋の進展が、また一歩前へ進んだのだから。
 思っていれば、二階へ上がった冨岡は、ためらいなく部屋へと入っていく。手を引かれたまま煉獄もあとに続いた。

 部屋は以前行った店よりも狭かった。窓の汚れは大差ない。ほかには客は入っていないようだ。部屋には大きくもない卓が一つ。六畳もない狭い部屋だが半間の押し入れがあった。おそらくは、布団がしまわれているのだろう。ここがどういう場所なのか、改めて思い知らされるようで、心ならずも煉獄の喉がゴクリと鳴った。
 卓の向こう側に座した冨岡が、刀を傍らに置いた。片手にはまだアヤメが一輪、握られたままだ。煉獄も冨岡に倣い腰を下ろすと、刀を外す。腰を落ち着けたものの、心は落ち着かぬままだ。
 冨岡は口を開かない。積極性はここまでのようだ。煉獄は思わず苦笑した。冨岡にしてはがんばったほうだなと、諦めに慣れた甘い恋心に混じるほろ苦さに笑う。
 ともあれ、逢いにきてくれたことに礼を言い、自分がどれほどうれしかったかを伝えておこうか。
 だが、開きかけた煉獄の口は、襖の向こうで聞こえた声で閉ざされた。
「ご注文の品をお持ちしました。置いておきますんで、ごゆっくり」
 どうにもうまくいかないなと、煉獄の顔にまた苦笑が浮かぶ。
 店主の声は陽気さからほど遠い。客の入りが少ないのは、立地が良くないせいばかりではなさそうだ。
 期待薄ではあるが、ともかく食事を先に済ませるしかないか。煉獄が立ち上がり襖に向かっても、冨岡はやはり黙りこくったままだ。
 なんだかいつもと違う展開が続いて、我知らず期待がふくらみすぎていたのは否めない。けれども普段と異なる状況もここまでだろう。冨岡の意外性は今に始まったことではないが、今日のはちょっと面食らったと笑ってやれば、きっといつもと変わりない空気が戻ってくる。それを煉獄は疑わなかった。

 二人分の丼が乗った盆を手に卓へと戻れば、冨岡の視線がちらりと煉獄に向けられた。
 最近流行りのたぬき蕎麦は、以前冨岡と行った店と同じく揚げ玉が浮いている。だが、やけにつゆの色が濃い。おまけに、天かすの油切れが悪いのか、ずいぶんと油も浮いている。具は先の店より少ないくらいなのに、なんともはや。胃もたれしそうにさえ見える。
 思いがけない幸運続きではあったけれど、蕎麦はどうやら外れのようだ。煉獄の苦笑が深まった。
「のびる前に食べてしまおう!」
「……煉獄」
 箸を手にして言った煉獄に、冨岡が呼びかけた。まだアヤメを手にしたままだ。静かな声は、どことなし緊張しているように聞こえた。
「うん? なんだ、冨岡」
「その……誕生日、おめでとう」
 パチリと煉獄の目がまばたく。
「誕生日? あぁ、そういえば、今日は俺の誕生日か」
 暦などあまり意識したことがないから、すっかり忘れていたが、たしかに今日は煉獄が生まれた日だ。だが、まさか祝いの言葉をかけられるとは思いもしなかった。
 十年ほど前に年齢計算に関する法が発布施行されてから、満年齢で自分の歳を認識するようにはなった。それでも依然として生まれた日など意識したことがない。一つ年をとったと感じるのはやはり新年だ。市井の人々も、いまだ数え年を口にする。
 鬼殺隊では、育手のもとにいる子供たちが数え年では体格に差が出るということで、以前から満年齢が使用されてはいる。だがそれも、隊士自身にはあまり意識されることのない習慣だ。
 自分が世に生まれた日というのは、それなりに大事ではあるのだろうけれども、七つの節句をすぎればさして祝うほどのことでもない。煉獄だって誕生日などとくに祝うことはなかった。
 いや、ずっと幼いころ、それこそまだ襁褓むつきを着けていたころならば、祝ってもらいもしたのだろう。千寿郎だって五歳の節句までは、赤飯を炊いた。
「そうか! 俺の誕生日を祝うために君はきてくれたのか!」
 それならば、アヤメを手渡されたときの周章も、なんとなく理解できる。祝いにきたはずが、逆に贈り物などもらってしまったのだ。動かない表情の裏では、ずいぶんと泡を食っていたことだろう。思えばなんとも楽しくなって、冨岡の気持ちもうれしく、煉獄は満面の笑みを浮かべた。
「……誕生日を祝うなど、お大尽か子供のようだと言われそうだが……俺の家では、毎年、誕生日を祝っていたから」
「そうなのか! そういえば、異国では誕生日を祝うと聞いたことがある。君のご家族は先進的だったのだな!」
 冨岡の父は、ドイツに留学経験がある医師だったと聞いたことがある。洋風な習慣に、幼い冨岡は馴染んでいたのだろう。また一つ知った冨岡のことに、煉獄の笑みは深まるばかりだ。だが、疑問がないわけではない。
「なぜ、俺の誕生日のことを知っていたんだ?」
 自分でも意識したことがないのだ。冨岡にそんなことを伝えた覚えはない。答えはいつもながら思いがけない言葉で返ってきた。
「昨日は、風が強かったから」
「うん?」
 さて。今回はどう話がつながるのだろう。思っていれば、手にしたアヤメに眼差しを落とした冨岡は、不意にグッと顔つきを引きしめ腰を浮かせた。
 どうしたと問うより早く、怒ってでもいるのかと聞きたいほどに真剣な顔が、近づいて。

 チュッと、なんだかやけに可愛らしい音とともに、煉獄の頬に触れて離れていったそれは。

 温かかった。いや、冷えていたか? なんだかよくわからない。状況判断どころか、自分の感覚すらおぼつかないなんて、こんなことは初めてだ。混乱している。柱としてあってはならぬことだというのに。
 やわらかかった。それだけが、ハッキリと自分の頬に感触として残っている。熱い。なにかが触れた頬が、ただやたらと熱くて。熱はまたたくまに広がって、きっと自分の顔は火がついたように真っ赤に染まっていることだろう。
 呆然と目を見開き見つめる先で、冨岡の顔は対照的に白い。けれど、目元が。涼やかな目元だけが、やけに赤くて。小ぶりな形のいい唇は、キュッと閉じられていた。いつもよりも、少し赤みが強く感じられる、その唇。冨岡の。おそらく、今、自分の頬に触れたやわらかな感触は。
「すまない」
 赤い唇がそんな言葉をつづったのが、熱い頬よりも信じられなかった。
 なぜ詫びる。先までとは違う意味合いで、煉獄の脳がカッと燃えた。
「謝罪される意味がわからない、冨岡」
「勝手にカルテを見てしまった」

 うん?

 冨岡は、なにを言い出したのだろう。寸時言葉が見つけられず、煉獄は黙り込んだ。沈黙を責めと受け取ったのだろう。冨岡は悄然と肩を落としている。
「……カルテ?」
 唐突なその一言がどこからくるのかがわからず、ポツリと繰り返せば、冨岡の首がわずかにすくめられた。
「傷薬を補充しに、蝶屋敷へ行った。そうしたら、風が強かったから胡蝶が整理していたカルテが部屋中に舞って……おまえのカルテが、目に入ってしまった」
 風。頭のなかで煉獄は繰り返す。そうか、これは先の言葉の続きだったのか。煉獄の誕生日をなぜ知っているのかという話だ。なんで途中にあんな愛らしい接吻が挟まれたのかは、さっぱりわからないけれど。
「誕生日だと知ったから、その、俺に祝われても迷惑かもしれないが、どうしてもありがとうと伝えたくて」
「迷惑などであるものか!」
 冨岡の言葉をさえぎり怒鳴った煉獄に、冨岡の肩が跳ねた。丸く見開かれた目はどこか幼くて愛らしいが、迷惑という言葉は二度と聞きたくない。
 小さな卓を押しやり、煉獄は冨岡へと膝を進めた。パシャリと水音がして、汁がこぼれたのには気づいたが、そんなことはどうでもいい。
 アヤメを握ったままの冨岡の手を、強く包み込む。まっすぐに見つめる眼差しを、冨岡も見つめ返してくれた。瑠璃の瞳に映る自分の顔は、少し怒っているように見える。煉獄は、穏やかな声でと念じながら、口を開いた。
「ありがとうとは?」
「……誕生日を祝うのは、生まれてきてくれてありがとうと、大好きな人に伝えるためだと姉や両親が……。生まれてきてくれてありがとう。一年、生きてそばにいてくれてありがとう。出逢ってくれてありがとう。そういう気持ちを、大事な人に伝えられる日が、誕生日だと……そう教えてくれて、毎年、俺の誕生日を祝ってくれた」
 訥々と語られる言葉が、煉獄の耳から脳へと送られていく。そして、心へと。
 冨岡の声はほんのわずかに逡巡するようでもあり、けれども、胸に湧いてやまぬ郷愁と愛おしさからか、そこはかとなく誇らしげでもあった。

 恋仲にはなった。煉獄の想いを、冨岡は受け入れてくれはした。けれど、同じだけの深さや重みは、そこにはない。煉獄はそう思っていた。諦めではない。自分でもせっかちな質だと思っているけれども、冨岡との恋に焦りは禁物だと自分を戒めてきた。
 冨岡の心に芽生えた恋はきっと、煉獄に一歩も二歩も遅れて成長する花なのだ。早く咲いてくれと手を出せば、咲き誇る前に枯れ落ちるかもしれない花だ。ずっと、心の奥でそんなことを思い、だからこそ煉獄は、自分を抑えてきた。
 だが、もう駄目だ。心に染み渡っていく冨岡の言葉は、煉獄の身をうち震わせる。大きな声で快哉を叫び、冨岡を抱き上げてしまいたい。上流階級の家で行われるという舞踏会みたいに、冨岡の手を取りクルクルと、踊りだしてしまいそうだ。いや、それよりも。

 抱きしめたい。強く、強く、一寸たりと隙間なく。

 冨岡は、煉獄の恋の言葉に俺もだと答えてくれたし、うなずきもしてくれる。けれど、一度も好きだと返ってきたことはない。冨岡は気づいているだろうか。自分が今、煉獄のことを大好きだと、大事な人だと言ったのだということに。煉獄が生まれた日を寿ぎ、出逢ってくれてありがとうと、どんな睦言よりもやさしく温かく、甘やかな言葉で、煉獄に伝えてくれたことを、ちゃんと自覚しているんだろうか。
 いや、無意識の言葉でもいい。冨岡の口で、冨岡の意思で、煉獄に対する想いが綴られたことに違いはない。嘘偽りなどひとかけらもない冨岡のまごころを、今自分は受け取ったのだ。
 湧き上がる感動と欣幸きんこうに、煉獄の手に力がこもる。こらえていないと泣き出しそうで、グッと唇を引きしめた煉獄に、冨岡は、少し悲しげな顔でかすかに目を伏せた。
「……煉獄が怒るのも当然だ。勝手にカルテを見た挙げ句に、誕生日だというのにごちそうをふるまうどころか、まともな贈り物さえ準備できなかっ……煉獄っ?」
 もう我慢などできるはずもなく、しゃにむに抱きしめた。いらぬ誤解も、ここらで勘弁してもらいたい。やっとだ。やっと、冨岡の心をたしかに感じられた。煉獄はすべてに感謝する。冨岡が存在するこの世に、この時代に、己を産み落としてくれた母に。父に。今の自分を作り上げたすべてに。
「怒っているわけが、ないだろう……? 幸せでどうにかなりそうなぐらいだというのに」
「……そうか。ならいい……だが、あの、すまないが、少し離れてくれ」
「悪いが断る! 今は、一瞬でも君を離したくない」
 なお強く抱きしめれば、腕のなかで冨岡が慌てる気配がした。
「一瞬だけでも駄目なのか!? アヤメが潰れてしまうっ」
 グイグイと押しやろうとする手とともに、焦る声がそんな言葉を伝えてきたが、煉獄は腕を緩めることができなかった。
「……せっかく、煉獄がくれたのに」
「花ぐらい、いくらだって贈る」
 背丈がそう変わらない冨岡の顔は、強く抱きしめてしまうと見つめられない。煉獄の肩口に乗る冨岡の顔は、今、どんな表情を浮かべているのだろう。確かめたいけれど、少しでも離れるのは嫌だ。

 もっと食って、もっと大きくならねば。心の片隅で、そんなことを誓う。

「なら、それも大事にする。これも、それも、煉獄がくれた花なら、潰してしまうのは嫌だ」
「ん゛ん゛っ」
 なんてことだ。煉獄はいっそ天を仰ぎたくなる。なんて愛いことを言うのだろう、この男は。こんな冨岡を、誰かに見られては一大事だ。やはり一瞬たりと離れるのは駄目だ。
 思うけれども、あまりに狭量がすぎるところなど見せて、幻滅されるのもまっぴらである。意を決し、煉獄は意思に反して渋る体を叱咤すると、心もち束縛を緩めてみせた。
 ホッと小さな安堵の吐息が耳元をくすぐる。身じろいだ冨岡は、煉獄から離れることなくそっと腕を伸ばし、卓に少し潰れたアヤメの花を静かに置いた。わずかに距離ができた二人の顔が、向きあった。
 冨岡の顔はいつもどおりの無表情だ。けれど、やはり目元は赤い。唇はかすかに震えていた。
「……一つ、聞いてもいいだろうか」
 コテリと小さくかたむけられた首を了承の証ととって、煉獄は、コクンと喉を鳴らした。こんなことを聞くのは無粋がすぎるかもしれない。けれど、どうにも気になることがあった。
「君は……誕生日の者には、その、いつも頬に接吻を贈っていたのか?」
 うれしくて舞い上がりそうではあったけれど、もしもほかの誰かもあのやわらかな感触を知っていたとしたら。考えただけで、自分がどうにかなりそうだ。
「あぁ。姉や両親もしてくれたし、俺も家族にしていたが?」
「ご家族だけかっ? ほ、ほかにはっ!? 親友とか、村長の息子とか……」
 冨岡にはもっと余裕のあるところを見せたいと思うのに、声は煉獄自身にも焦りがあらわで余裕など微塵もない。だが、冨岡の周章はそれ以上だったようだ。
「そんなことするわけないだろうっ。ほ、頬にだろうと、その、接吻など……いや、すまない。あんなものが贈り物代わりだなど、呆れられてもしかたがない。慎みのない男だと、嫌われてもしょうがないことをした……」
「なんでそうなるんだ!? 幸せだと言っただろう! とてもうれしかった!」
「そう……なのか?」
 キッパリと言い切ってやっても、冨岡はまだ不安そうだ。煉獄は冨岡の純粋さを好んでいるが、さすがにこれではつらくもなる。
 接吻する意味は理解しているようだが、さて。
 悩んだのはほんの数秒だった。まだ己の想いの丈が伝わりきっていないのなら、わかってもらうだけのこと。冨岡の気持ちも確認できた。我慢するのは、もう、やめだ。

「煉獄?」
「黙って……」

 怪訝に見つめてくる冨岡に囁いて、煉獄は、静かに顔を寄せた。
 ゆっくりと閉じていく煉獄の瞳に、最後に映ったものは、薄く開かれた赤い唇だった。
 視界が完全に閉ざされたと同時にふわりと唇に触れた感触は、やはりやわらかい。刹那、背筋に走った電流に似た衝撃は、煉獄の体を甘くしびれさせた。
 温かく、やわらかな、冨岡の唇。触れ合うだけの接吻は、それでも途方もない愉悦と泣きたくなるよな幸福感を煉獄にもたらした。
 愛おしい。何度も浮かべたその一言が、強く、激しく、心を揺さぶる。腕のなかの冨岡の体は、緊張からか固くこわばっていた。それに気づいたとたん、心に湧き上がった甘やかでやさしいくせに、どこか凶暴な衝動を、どう言い表せばいいのだろう。

 やさしくしたい。誰よりも。けれども、滅茶苦茶にしてやりたいとも思う。かけらも自分の想いを疑うことなどなくなるように。初めての冨岡をいくつも見てきた。でも足りない。まだ足りない。知りたかった。暴いてやりたい。すべて。冨岡自身も知らない、冨岡のすべてを、余さずこの目に映したい。ほかの誰にも見せてなるものか。

 飢えは唇を触れ合わせるだけでは治まらず、むしろますます飢えていく。煉獄はほんのわずかに唇を離した。息苦しさからの解放にハフッと吐き出された冨岡の息が、唇をくすぐって、煉獄はすぐにまた己の唇を重ねた。
 もれる吐息一つでさえ、自分のものにしてしまいたかった。接吻は、先までよりも深い。煉獄にも初めての経験だ。本能が促すままに滑り込ませた舌は、我ながら少しぎこちない。怯えたように奥へと逃げようとする冨岡の舌に、強引に己の舌を絡ませた。
 甘い。冨岡の舌も、唾液も、蜜のように甘く感じる。脳髄を溶かしてしまいそうなほどに。
「んっ!」
 鼻に抜けてくぐもる冨岡の声に、腰のあたりがズンと重くなった。
 ここまでだ。頭の片隅で誰かが言う。これ以上は、冨岡が怖がる。もっと先になるだろうと思っていた行為だ。なんの準備もしていない。ましてや冨岡はなにも知らないのだ。
 衆道ならば、年下である煉獄が手ほどきを受けるのが筋だ。だが、煉獄は、冨岡を抱きたいと願っている。冨岡が受け入れてくれるとしても、男に、しかも年下である煉獄に抱かれるには、相当な覚悟がいるだろう。
 理性は終われと命じている。けれど、舌も、腕も、まだ離しがたかった。だってもっと欲しいのだ。どんどん欲張りになる。足りない、よこせと、本能が叫んでいた。

 唇を離すのには、かなりの意思を要した。

 離れていく舌と舌を繋ぐ銀糸が、プツリと切れた。ハァハァと息が乱れている。あまりにも夢中になりすぎていたのか、常中が解けていた。
 冨岡の息も荒い。無我夢中で貪った唇は、充血したように赤く染まり、痙攣めいて震えていた。
飲み込みきれなかった唾液が、唇の端から一筋、ツッと伝い落ちていくのが、どうにも目に毒だ。
 ゴクリと知らず喉が鳴り、ふたたび唇を合わせてしまいたい衝動が、煉獄を襲う。だが煉獄は、強靭な意志でもってそれを抑えつけた。
 それでも、かける言葉はすぐには見つけられなかった。謝るのは嫌だ。どうしてもしたかったのだ。謝るぐらいなら、最初から接吻などしない。
 だがそれなら、こういうとき、なんと声をかければいいのだろう。経験がないから、なにが最適なのかわからない。
 無言で見つめ続ける煉獄を、涙の膜をまとった瑠璃の瞳が、ゆらゆらと揺れながらもまっすぐに見つめ返している。

「……続きは、しないのか?」

 ポツリとつぶやかれた言葉は、幻聴だろうか。まさか、冨岡がそんなことを言うはずもない。まじまじと凝視する視線に、冨岡の頬の赤みが増した。
「すまない。煉獄もそのつもりで、二階に上がるのを拒まなかったのかと」
「よもや!? と、冨岡っ、ここがどういう意図で使われるか、知っていたのか!? 誰に教わったんだっ!?」
 泡を食ったのも致し方ないところだと思いたい。だって以前には、喘ぎ声すら理解できずにいた冨岡だ。よもや承知の上で煉獄を誘ってきたなんて、予想などつくものか。いったい誰が冨岡にそんなことを吹き込んだのかと、焦りだって生まれようものだ。
「やっぱり心配だったから、その、偶然宇髄に会ったときに、蕎麦屋で死ぬなどと言うことはよくあるのかと聞いてみた。そうしたら、その……蕎麦屋の二階は、あ、逢い引きにも使われると」
「……なるほど、宇髄か」
 意外と面倒見のいい男だとは思っていたが、なんともはや。相手が宇髄だったのは、不幸中の幸いと言っていいのやら。思わず煉獄が天を仰ぐと、冨岡は、しゅんと肩を落としてしまった。
「……やはり、はしたないな。約束だって、俺から誘ったなどと詭弁にすぎない。すまなかった。宇髄も呆れていたし、俺は本当に未熟で不甲斐ない」
「うれしいと、何度言えば君は信じてくれるんだろう。それと……こういうときに、ほかの男の名はあまり聞きたいものではないな」
「……聞いてきたのは煉獄だろう」
 少しムッと唇を尖らせるさまが、どこか子供っぽかった。なのにその唇は、婀娜めいて赤い。チグハグさが冨岡らしくて、煉獄の顔に笑みが浮かぶ。
 コツリと額を合わせ、ほのかに笑ってみせれば、冨岡の頬がまた赤く染まった。
「たしかにそれはすまなかった。だが、ここから先は、勘弁してくれ。呼ぶのなら、俺の名だけにしてくれないか」
 ほの笑いながら囁けば、冨岡の声が、望む音をそっとつづった。
「……煉獄」
「うん」
「煉獄」
「うん、冨岡」
 密やかに名を呼ぶ声は、常の冨岡の声よりも、甘く聞こえた。
「生まれてきてくれて……うれしい。俺と、出逢ってくれたことに、感謝する。ありがとう、煉獄。誕生日、おめでとう」

 二度目の接吻は、先よりも穏やかでやさしかった。