流れ星 【加筆修正版】

 冨岡がなにを言っているのか、とっさには理解できなかった。口をつぐんだ煉獄に、冨岡の手がとまる。肩口に乗せられていた顔がゆっくりと離れて、冨岡は煉獄をじっと見つめてくる。月明かりを受けてきらめく瞳は静かだった。
「俺を水柱だと思っていたから、煉獄は俺なんかを好きになってくれたんだと、わかっている。おまえに好きだと言われたときに、すぐに勘違いだと言うべきだった。なのに、どうしても言えなくて……騙しつづけてしまった。謝って許されるようなことじゃない。喧嘩して、仲直りできるのは信頼と好意があってこそだ。だが煉獄の信頼や好意も俺を水柱だと信じているからだと思うと、本当のことは言えなかった。煉獄に軽蔑されて、もう好きじゃないと言われるのが、怖くて怖くてたまらなくなって……浅ましいな。煉獄の言うとおりだ。嘘ばかりですまなかった。嫌われるのは当然だ」
 冨岡の顔はいつもの無表情だ。瞳も静かで感情は読み取れない。凪いだ湖面のように落ち着き払っている。
 だが。
「柱じゃないと言うなら、俺のほうだろう……? 嫌われて当然なのも、俺のほうだ」
 煉獄の目から、いまだ涙は流れていない。冨岡は泣いていると慰め撫でてくれたが、それは冨岡だって同じだ。涙など見えない瑠璃の瞳の奥で、幼い冨岡が、泣いている。悲しい、悲しいと、膝を抱え声を殺して、泣いている。
 抱きしめる資格などもはやない。断罪されるべきは自分のほうだ。わかっていても、もう止められず、煉獄はとうとう冨岡の背をかき抱いた。
「柱どころか、人として許されぬことをした。炎柱を辞するだけでは済まされない。鬼殺隊にいる資格すら、俺にはもうないじゃないか! 君よりもずっと罪深いのに、なぜ君は俺を責めないんだ!」
 あぁ、泣き出しそうだ。泣く資格すらないというのに。心は乾ききって、涙のひと粒すら落ちることはないのに。いや、もう泣いているのか。冨岡の言うとおりだ。心の奥底に閉じ込めた、幼い自分が泣いている。
 強く生まれた自分には、泣き言やわがままを言うことは許されないと、閉じ込め押し殺してきた、弱くて幼い自分が、泣いている。
 柱でなかったのは、自分だ。冨岡が鬼を見逃したことには理由があるのだろう。隊律に反するのは違いないが、だからこそ冨岡は、柱などではないと己を恥じていたに違いない。自分とは違うと、煉獄は狂おしく唸った。
「君は、ちゃんと柱だ。それに俺が君に惹かれたのは、君が水柱だからというだけじゃない。君の佇まいは、母に似ている。だが惚れた理由はそれだけでもない。一対と呼ばれる水柱だから気になったのも、母に似ていたから惹かれていったのも事実だ。それでも君を好きになったのは、君のやさしさや、努力を知っているからだ。君が抱える悲しさや孤独を、癒やしたいと思った。幼子のように素直な君を知ったら、ますます好きになった。泣き虫な子供のころの君と出逢っても、俺はきっと君に恋していた」
 煉獄の首に回されたままの冨岡の腕が、わずかに揺らいだのが伝わってくる。無意識にだろうか、指先がすがるように煉獄の羽織を掴んでいた。かすかに震える冨岡の背に少し怯え、煉獄はさらに強く冨岡を抱きしめる。
「尊敬する水柱としての君も、幼い子供のような君も、全部好きだ。冨岡義勇という一人の男としての君に、どうしようもなく恋している」
 冨岡は今、どんな顔をしているだろう。いつもの無表情だろうか。ギシリと胸で歯車が軋む音がする。噛み合っていると思いこんでいた歯車は、まだズレたままだ。
「あんなことをしておいて、好きだと言う資格すらないのはわかっている。それでも好きなんだ。君が。君だけが! 好きで、好きで、どうしようもなく好きでたまらない! なにも言ってくれなかった君を、許せないと思ってしまった。子供の駄々と変わらない癇症で、君を傷つけた……嫌わないでくれなど、言える立場じゃない。柱だなどと言えないのは、俺のほうだ」
「なんで……? 煉獄は、ちゃんと柱だ。最初から」
 冨岡の声は、あどけなかった。いかにも不思議そうだから、煉獄は唇を噛みしめる。怒る筋合いなどないのに、また、なんでと喚いてしまいそうだった。

 そうして気づく。あぁ、俺は責められたかったのかと。

「初めて逢ったとき、煉獄はまだ甲だったけど、柱というのはこういう者がなるんだと思った。すぐに、違うとわかったけれど」
「違う……?」
 繰り返す煉獄のつぶやきは、また唸り声になった。
 冨岡の言葉に覚えたかすかな安堵は、ようやく冨岡から糾弾され処罰されることに対してだろう。安堵はすぐに、途方もない悲嘆と幾らかの憤懣に包み隠された。
 責められれば、少しだけ自分が楽になれる。潔く謝罪を口にすれば許されると、心のどこかで馬鹿馬鹿しくも信じていた。なんて愚かなと、煉獄は獣のように唸る。
 冨岡は、謝罪されればきっと許す。自分をこそ卑下し、逆に煉獄に謝りさえするに違いない。たとえ本心では軽蔑し、うんざりだと思っても、冨岡はそれを煉獄には見せまいとする気がした。自分が謝ればきっと、表面上はなにごともなかったかのように、今までと変わらず恋人でいられる。そんな甘えが生んだ安堵だ。見苦しい幻想だ。
 思うけれども、冨岡の好意の上にあぐらをかいた楽観とばかりも言えない。実際、冨岡の口からは己の非と煉獄への寛容ばかりが出てくる。
 底のない後悔に苛まれても、いまだ自分が謝罪を口にできずにいるのは、おそらくはそのせいだ。雀の涙ほどの冷静さで煉獄は考える。どこまでも手前勝手な男だと、自身への怒りが身を焼いた。もはや柱だなどと名乗る資格すらないのに、身についた習性はこんなときでさえ健在なのかと思えば、幾ばくかのあきれを伴い、苛立ちは募る。
 許されざる狼藉だと自覚しているのに、柱ではないと冨岡の口から告げられるのが悲しいなどと、わずかにでも思った自分こそが許しがたい。嫌わないでと心の奥底で泣く幼い子供を、いっそ斬り殺してしまいたかった。幼さも甘えもいらないのだ。こんな弱さを抱えた者が、柱になどなるべきではなかった。
 唸る煉獄の髪を、冨岡の手はまたやさしく撫でた。
「煉獄は、最初から柱だった。階級や立場じゃなく、心が柱なんだ。柱になったんじゃない。煉獄杏寿郎という男こそが、柱という生き物なんだと思った。神様みたいだと思って……煉獄が笑って話しかけてくれるたび、少しだけ、自分を許せる気がした……」
 冨岡の声もやさしい。いつだって心安らぎ喜びに弾んだその声は、けれどもまるでヤスリのように、煉獄の心をザリザリと削っていくようだった。
「どこが……俺のどこが、柱だと言うんだ。自分がなにをされたのかわかっているのかっ、冨岡!」
 やめろと叫ぶ幼い声がまた聞こえる。それでも、冨岡をなじり怒鳴る己を止められず、そのくせ、抱きしめる腕にはすがる強さがこもる。めちゃくちゃだ。意志と行動が伴わない自分など、認めたくないのに、止められない。
「柱たる者が、こんな悪辣な真似をするか? 神様? どこがっ!」
 叫ぶように言った瞬間。スッと煉獄の顔から色が抜けた。

「あぁ、神様のようだと思ったから……君は、俺を受け入れてくれただけだったのか」

 初めて体を重ねたときに、冨岡が抱いていた悲壮なまでの覚悟を思い出す。煉獄はひどく笑いたくなった。
 冨岡が捧げてくれたのは自分と同じ恋心などではなかった。信仰であり、供物としての覚悟だ。恋人なんかじゃなかった。冨岡は、煉獄という紛い物の神を盲従する、信徒でしかなかったのだ。
 そんな憶測は、普段なら下衆の勘繰りでしかないと、笑い飛ばして終わっただろう。どうしてそんな勘違いをしたんだと、冨岡を問い質しもしただろう。
 だが、それらを実行するどころか、思案することさえ煉獄はしなかった。
 煉獄を神と定めたからこそ、冨岡は、あんな暴挙さえも許そうとしている。今、煉獄の腕のなかにいるのは、寛容な恋人ではなく、神の下した罰に粛々としたがった殉教者だ。
 もはやそうとしか思えず、煉獄の唇が歪んだ笑みを刻む。
 激昂が消え去った煉獄の声音はいっそ静かで、日ごろの快活さはどこにもなかった。そんな煉獄の呟きに、冨岡の肩がピクリと揺れたが、言葉はない。落ちた沈黙が、冨岡からの返答だろう。
「否定してもくれないか……」
 掠れた笑い声とともに言った煉獄に、冨岡が息を呑んだ気配がした。もう、終わりなんだなと、不思議に凪いだ心持ちで煉獄は笑った。
 冨岡と自分は、同じ立場ですらなかったのだ。少なくとも、冨岡にとっては違う。恋愛対象としてなど、初めから見られていなかった。歯車が噛み合うことなど、あるわけがないじゃないか。
 なぜ冨岡がそんなことを思ったのかは知らない。知りたくもない。胸元に忍ばせた薄っぺらな紙切れが、ひどく重かった。
 白いアヤメに託す想いは、煉獄にとってはほかのなにものにも代えがたい恋慕でも、冨岡からすれば、深い信仰心の現れでしかなかったのだろう。思えば、冨岡の口から好きだと告げられたことはない。
 好きだと煉獄が言えば、俺もと答えてはくれる。大事だ、大切だと、言ってもくれた。けれどそれだけだ。恋愛感情だという明確な意思を、冨岡は一度も口にしてなどいない。
 気づいてしまった事実に、煉獄はただ静かに笑う。涙はやはり出なかった。
 たとえ信仰心だろうと、冨岡は俺のことを大事に、大切に想ってくれていた。恋でなくとも、冨岡にとって俺が特別な相手だったことに違いはない。己に言い聞かせてみても、煉獄の心の奥では真っ正直で利かん気な子供が、それじゃ嫌だ、俺と同じ心を返してくれと、地団駄踏んで喚く。まつろわぬ本心である子を、煉獄は黙れと踏みつけた。
 なんで好きになってくれないんだと、冨岡を責めるのは筋違いだ。自分が望むたぐいのものではなくとも、冨岡の好意はたしかに煉獄に向けられていた。燃える心の奥底でひっそりと生き残っていた幼さも、もう殺してしまおう。こんなものはいらないのだ。
 もう、終わるべきだ。終わらせる。煉獄は神どころか柱ですらなかったと、いい加減冨岡も認めざるを得ないだろう。冨岡にとって自分は、恋愛の入り口にすら立ててはいなかった。互いの歯車はどこまでも噛み合わぬまま、動きを止めたのだ。
 責めたててはもらえぬのなら、せめて、潔く受け入れろ。悲壮というには虚ろすぎる覚悟で、煉獄は冨岡の言葉を待った。

「最初は……そうだったかもしれない」

 煉獄の耳に届いた声は、かすかに震え、聞き逃しそうなほどに小さい。耳元で囁かれたのでなければ、聞かぬふりもできただろう。そんなことができるはずもないが。
 ギュッと羽織の背を掴みしめる冨岡の手に、なんとはなし安堵すらして、煉獄はいっそ鷹揚な大人めいた笑みを浮かべてうなずいた。やけっぱちと言うには煉獄の心境は穏やかで、むしろ空虚と言い換えてよかった。
 冨岡の信仰を盾に関係を続ければ、いつか自分はまた冨岡を苛む。どれだけ自分を律しようとしても、冨岡への恋心は、煉獄自身にも抑えが利かないと実証された。どうしたって消えない恋情は苛烈すぎて、きっといつか自分は冨岡を焼き尽くす。閉じ込め、俺だけを見ろ俺と同じ想いを返せと、責めたてる自分がたやすく想像できてしまう。
 誰よりも大事にしたいのに、冨岡を誰よりも傷つけるのが自分だなんて、とんだ笑い話だ。温かく幸せだと思っていた恋は、こんなにも醜悪だった。
 きれいな、どこまでもきれいな冨岡に、こんな恋は似合わない。
 静かに断罪の言葉を待つ煉獄に、けれども、聞こえてきた冨岡の声はまたもや予想外なものだった。

「煉獄は俺なんかにも平等にやさしくしてくれて、本当に神様みたいだった。だから……俺が死んでも、苦しまずにいてくれると思ったんだ」

 冨岡の言葉は、落雷に似た衝撃で煉獄を貫いた。勝手に体が震えだす。なんなのだ、それは。神どころか、煉獄にしてみれば人でなしにしか思えない。
 愕然とする煉獄に、冨岡はますます強くしがみついてくる。煉獄の受けた衝撃などまるで気づく様子もなく、抱きつく腕はどことなし甘えるようでもあった。
「俺ごときが煉獄の特別な相手になんてなれるわけもないし、好きだと言ってくれたのも、俺に順番が回ってきただけなんだと思っていた。俺があんまり不甲斐ないから、博愛精神で救いの手を差し伸べてくれたんだろうと……。俺が死んだとしても、煉獄はきっと、いつまでも苦しまずにいてくれるだろうから、安心してそばにいられた。でも……違った」
 ふと、声が揺れた。耳にかかる吐息が笑んでいる。
「神様じゃ、なかった。初めて抱き合ったときの煉獄は、俺と同じただの男だった。戸惑ったり緊張したりもするし、信じられないことをしようとしたりして、まったく神様なんてとんでもなかったな」
「冨岡っ!? そ、それは……っ」
 深い哀情と絶望のなかでさえ、羞恥をおぼえる自分にあきれもするが、それ以上に冨岡が笑っていることのほうが気にかかる。
 いつかと約束はしたが、煉獄はいまだ冨岡の笑顔を見たことはない。こんなことになった以上は、いくつもの約束は無に帰すはずだ。最後になるならせめて、笑顔を見せてほしいなど、どの面下げて言えるのかと思いもする。だいいち、なぜ冨岡が笑っているのかがわからない。
 幻滅したのなら、今なお煉獄を抱きしめてくる理由などないだろう。神ではないと知ったのならば、なぜ冨岡はそれから今まで、煉獄が差し伸べる手を拒まずにいてくれたのか。
 わからずうろたえる煉獄に、冨岡は頬ずりまでしてくる。まるで愛おしくてならないとでもいうように。
「誰かを特別に思うよりも、誰かの特別になることが怖かった。俺は、誰よりも大切だと思っていた人たちを亡くしている。苦しくて、つらくて、いっそ自分が死ねばよかったと今も思う。……大切な人に同じ思いをさせるぐらいなら、誰もいらないと思ってたんだ。俺には柱となる資格などない。誰かの盾となり死ぬ日も遠くないはずだ。一人で生きて鬼を一匹でも多く殺し一人で死ぬ……それぐらいしかできないし、それでいいと思ってた」
 笑みの気配は消えず、冨岡の手に力がこもったのを感じる。
 そんな悲しいことを言わないでくれと、いつもの煉獄ならば、すぐにも否定し言い聞かせただろう。冨岡が自身を卑下するたび、何度だって煉獄は、君は立派な柱だと繰り返し告げてきた。常の言葉が出てこなかったのは、届かない諦めよりも、もっとずっと即物的な理由からだった。
 不意に背から離れた冨岡の手が、するりと煉獄の頬に触れてきて、まばたきするまもなくやわらかい感触が唇に触れた。
 それは一瞬の触れ合いで、すぐに冨岡はまた煉獄の肩口に顔をうずめてしまった。
「冨岡」
「煉獄は神様なんかじゃなかった。俺と同じ……俺より年下の普通の男だった。神様なんかじゃないただの男として、俺のことを好いてくれてるんだとわかったとき、俺も自分の本当の気持ちがわかった」
「本当の、気持ち……?」
 幻滅し、それでも煉獄に伝えることができず、惰性でつづけただけの関係だったのか。それとも自分がなじったとおり、性欲処理として都合がいいとでも思われていたか。
 諦めのなかで思い浮かべた煉獄の想像は、どれも裏切られた。

「好きだ……煉獄。俺に甘えたりふてくされたりする、子供みたいなおまえも、堂々とした誰よりも柱らしいおまえも、全部……おまえだから、好きなんだ」

 信じられない。まず浮かんだのは否定だ。だってそんなの好かれる理由にならない。弱く幼い子供が柱になどなれるものか。誰よりも強く、誰をも守れる者が、柱と呼ばれるべきだ。自分じゃない。
 たった一人の特別を作れば、人は弱くなるのだろう。父がそうであるように。だから父は柱ではなくなってしまった。愛する妻を失って、父は強さを手放してしまったに違いない。自分もきっと同じだ。冨岡という唯一を得たから弱くなり、柱の資格どころか隊士ですらいられなくなった。今の自分は誰よりも弱い。
 なのに冨岡は言うのだ。
「俺を、おまえの特別にしてくれてありがとう。もう二度と特別な人を得てはいけないと思っていた俺の、特別な人になってくれて、ありがとう。好きだ、煉獄。誰かとともに歩みたいと、もう一度思わせてくれたのは、おまえのやさしさだ。俺に恋を教えてくれた。おまえは、本当にすごい」
 ポタリ、ポタリと、雫が煉獄の心に降ってくる。乾いた大地を潤す慈雨が降る。
 必死に求め飲み込みたがる己を、煉獄はどうにか律した。
「どこが、やさしいと言うんだ……こんなことをした俺のどこが! 柱なんかであるものか! 俺の弱さが、みっともなく弱い幼さが君を傷つけたんじゃないか!」
「羽織、汚れないようにしてくれた」
「馬鹿な! そんなことで」
「そんなことじゃない。俺はうれしかった」
 それに、と続けた冨岡が、フッともらした忍び笑いは、自嘲のひびきがしていた。
「軽蔑されることを最初にしていたのは、俺のほうだろう? おまえが怒るのは当然のことだ。俺が水柱を名乗るなどおこがましい。嫌われ、情け容赦なく打ち捨てられても文句を言う権利すらない。なのに、おまえは俺が拠り所とする羽織を尊重してくれた。おまえは弱くなんてない。誰よりもやさしいおまえが、弱いわけがないだろう?」

 だって、おまえの強さは、守りたいっていうやさしさだから。

「柱とは、どれだけ鬼を倒せたかではなく、人を守りたいと願いそれを果たせる者の名だと、おまえと出逢って知った。やさしいからこそ、おまえは強いんだ。おまえは、誰よりも柱にふさわしい男だ、煉獄」
 決意の焔に、やさしく温かな雨が降り注ぐ。火を消すことなく、焦土の如き乾いた心を潤していく。
「……それは、みんな同じだろう。柱でなくとも、隊士ならば、みなそうだ」
 弱気な煉獄の声に、常の闊達さはない。甘えをにじませた子供の声だ。けれどももう、煉獄は抑えようとはしなかった。
「うん。でも、違う。煉獄は、大切な人を鬼に殺されたわけではないだろう? なのに、こうして戦って、守り続けている」
「……甘露寺だって同じだ。彼女は俺とは違って、普通の家庭に生まれているのに鬼殺の道を選んだんだ。俺よりよっぽど柱らしいじゃないか」
「そうだな。甘露寺も立派な柱だ。だが甘露寺にはおまえがいただろう? 進むべき道を指し示し、励ましてくれる人がいた。甘露寺の育手は煉獄だと聞いた。おまえがいたから、甘露寺は柱になれたんだ。煉獄は、指南書だけで最終試験に臨んだと言っていたじゃないか。諦めたってよかったんだ。なのに、おまえは諦めなかった。やさしいから、強いから、できたことだ。それができるのが柱なんだと俺は思う」
「でも、俺は煉獄の家に生まれた……鬼殺の家だ。ほかに進むべき道などなかった。ただそれだけだ」
 でもでもだってと、まるでむずがる子供だ。思うけれども、もう幼い弱さを隠す気にはなれなかった。できなかった。
 弱く幼い自分をさらけ出しても、冨岡は抱きしめる腕を離さずにいてくれる。やさしいのは君だろうと、泣きたくなる。目の奥が熱い。涙はまだ、浮かんではこないけれど。
 心はまだ、涙など浮かびようなく乾いている。けれど。
「ただ生きるなら、家を飛び出したってどうにでもなる。おまえの父上が育手を降りたのなら、やめるという選択肢だってあった。でもおまえはそうしなかった。……煉獄はやさしいから、できなかったんだ。守ることを選んだ。俺やほかの者のような怒りでもなく、鬼殺の家に生まれただけでもなく、やさしいから諦めなかった。強いな……おまえは。初めから、柱だったんだ」
 やさしい雨が降る。ポツリ、ポツリと、乾いた心にしみてくる。冨岡という慈雨が降る。
「母上が……守ることは、強く生まれた者の責務だと……。俺はそれに従っただけだ」
「そうか……。おまえの母上は、とてもやさしい人だったんだな。やさしくて、強い人だ。おまえと同じだな」
「母上がやさしくて強いのは認める。でも俺はっ」
 フフッと、小さな笑い声がした。
「でもでもだってと聞き分けがない煉獄なんて、初めてだ。まるで駄々っ子だな」
 ヒヤリと背が冷えて、体を固くした煉獄を、冨岡はやさしく撫でる。肩口に乗る顔は見えない。笑う声と気配だけがする。
「可愛いな……煉獄。煉獄の特別になれてよかった。こんな煉獄を見られるのは俺だけだなんて、得をした」
 顔を見せてはくれないくせに、冨岡はとびきりやさしい声で笑って言うから――とうとう煉獄は陥落した。

 もういいか。だって乾いているのだ。どうしようもなく。このまま乾き続ければ、立ち上がることもできないほどに。だからもういいじゃないか。欲しいのだ、これが。どんなにみっともない様をさらそうと、矜持などかなぐり捨てて手を伸ばさずにいられない。

 燃え上がっていた怒気は、まだ煉獄の心でくすぶっている。許され難い行為に及んだ自分の狭量さを、いっそ憎んでもいた。
 けれど、度量の広い大人の男でなくとも、冨岡が好きだと言ってくれるのなら。わがままで弱い子供の自分すら、冨岡が好きだと言ってくれるならば。
 怒りは決意へと変わる。今まで以上に燃えてなお、乾くことなく心は潤おっていく。だから煉獄も冨岡の肩に顔をうずめ、自分よりも幾分薄い冨岡の背をギュウッと抱いた。グリグリと額を肩にこすりつけて、生まれて初めてのわがままを口にしてみる。
「……君の生死が俺の知らぬところで決まるなんて、嫌だ。俺にも君の命を背負わせてほしいのに、どうして話してくれなかったんだ」
「知ればおまえも俺たちと名を連ねることになる。これ以上俺のせいで大切な人が死ぬのはまっぴらだ」
「君の育手は知ってたじゃないか。鬼を連れた少年もだ。自分が鬼舞辻を斃すと言える気概は認めるが、君と一蓮托生だなんてズルい。恋人なのに俺だけ仲間はずれなんて嫌だ」
 めちゃくちゃなことを言っている自覚はある。しょせん本音はそんなものだったかと、子供な己の分別のなさに辟易もした。
 けれど煉獄自身が厭う子供じみた文言や態度にも、やっぱり冨岡は離れようとはしないでくれた。よしよしと頭を撫でてさえくれる。
「炭治郎はしょうがないだろう? 先生には悪いことをしたと思っているが、後悔はしていない。炭治郎は水柱を継げる可能性があった。禰豆子だって今まで見てきた鬼とは違う。先を見据えれば、生かすことが鬼殺隊を勝利へ導く光になると思った。先生も信じてくれたのだと思う」
「俺だって、ちゃんと話してくれれば信じた! だって君が信じる者たちなのだから!」
「知ってる。だから言えなかった」
「知ってる……?」
 そろりと顔を上げれば、冨岡も煉獄の肩から顔を離す。ほんの少し空いた距離は、けれどももう寂しくはなかった。だが不安はある。煉獄は鬼を許すような発言などした覚えはない。たとえ冨岡が容認したとはいえ、鬼は存在自体が煉獄の許容範囲外だ。
 冨岡が是と言えば、許されざることでも是。冨岡が白といえば黒いものも白だと、追従するような男だと思われているのだろうか。それはそれで、なんだか口惜しいし悲しい。
 不満は煉獄の顔に現れていたのだろう。冨岡は少しだけ目を細めて言った。
「煉獄は、人に嫌われているというだけで、コウモリを嫌うような男ではないから、きっと禰豆子のことも認めてくれる。俺は知ってる」
 コウモリとはなんのことだ。思った端からすぐに煉獄の頭脳は、冨岡の発言の所以を記憶から引き出した。告白したあの日の会話だ。
「鬼とコウモリを同列にはできないだろう。コウモリは人を食い殺したりはしない」
 苛立ちよりもむしろ呆気にとられた煉獄の声音は、どこかすねた響きになった。
 正論ではあるが、冨岡が話せば信じるという前言を翻す発言だ。言いがかりに近いと思いもする。煉獄の脳は冷静さを失わない。自分の発言は幼い思考からだと理解していた。これでは、なんでもかんでもイヤイヤと駄々をこねる、幼児の発言と変わらないではないか。それでも冨岡は言うのだ。
「そのとおりだ。だからこそ煉獄は、禰豆子と炭治郎をちゃんと知れば認めてくれると思った。禰豆子は鬼だが、炭治郎を守ろうとした。俺と出逢ったとき禰豆子は鬼になったばかりで、理性などひとかけらも残っていなかっただろう。それでも禰豆子は、すぐかたわらに意識を失った炭治郎がいるのに、炭治郎を食うどころか守ろうとして俺に立ち向かってきた」
「鬼が!? よもや、そんなことがあるとは思えんが……いや、君の言葉を疑っているわけではない。だが、すぐには信じられん」
「知ってる。おまえは公明正大な男だ。俺ごときの発言だけですべてを判ずることなどしない。だから信頼できる。でも同時に、コウモリのような生き物にさえ、公正な目を持ってる。神様のようだと、ますます思ったんだ。……神様だから特別視しても許されると、思いたかっただけかもしれない」
 冨岡の声はどこまでも静かでやさしいが、それでも煉獄の眉はへにゃりと下がった。
「神様なんかじゃない……」
「うん。煉獄は、神様じゃなかった。だから、もっとずっと好きになった。一人の男としての煉獄が好きなんだと……自分でも認められた。立派な柱で、神様のようで……でも、俺とその、ああいうことをするのにいろいろ調べたり、とんでもないことをしようとしてきたり」
「あれは忘れてくれっ!」
 思わず冨岡の言葉をさえぎりわめけば、冨岡はまた抱きついてくる。ムフフと稚気に富んだ笑い声がした。
「忘れられるわけがないだろう? 煉獄を想う気持ちは恋なのだと、ちゃんと自覚させてくれた大切な思い出だ」
「怒ったくせに……」
「怒るに決まっているだろう! あ、あんなものを使われてたまるか! 二度と蕎麦が食えなくなる!」
 すねた煉獄の言葉に、冨岡もめずらしく大きな声でがなる。なのに空気は常の甘やかさを取り戻しつつあった。
「うむ、たしかにそれは俺も同意する。とろろ蕎麦は食えなくなってくれたほうがいいかもしれんが」
「……なんで?」
「君のあれは駄目だ。理性が飛ぶ」
「なんで!?」
 しみじみと言った煉獄に、冨岡がまた腕をゆるめて顔を見合わせてくる。いかにも心外と言いたげな表情だ。わけがわからないと言わんばかりの顔に笑みはもうない。
 煉獄がつい唇をとがらせると、ますます怪訝そうに冨岡の首がかしげられた。
「俺こそ聞きたい。どうして笑顔を見せてくれないんだ。今、笑っていただろう?」
「……駄目だ」
「なんでっ!」
 口にした瞬間に、ふと煉獄の頭に浮かんだのは、夫婦は似てくるなんていう、少しこの場にはそぐわない喜びだ。似たところのない自分と冨岡だからこそ、対として成り立つのだと思っていたが、ともに過ごす時間が増えれば存外似てくるらしい。常のように「なぜ」とは言わず、とっさに出た言葉が冨岡が口にする「なんで」だったことに、冨岡は気づいただろうか。
 だが煉獄のささやかな喜悦を、冨岡が気づいた様子はない。すねたようにとがらせた唇は、幾度も噛みしめたからだろうか、いつもより少し赤かった。痛々しいと思いながらも、にじむ色香にドキリとする。
「まだ自信がない」
「笑うのに自信などいるか?」
「俺はいると言った」
「うむ! 覚えているとも! だが、わけがわからん。……もしかして、笑いそうになるたび君は俺に抱きついてないか?」
 思い返してみると、冨岡がギュッと抱きついてくるときは大概、笑みの気配がしていた。
「煉獄に嫌そうな顔をされたり、顔をそらされたりしたら……当分立ち直れない」
「そんなことをするわけがない! 君の笑顔はきっと見惚れるほど美しいに決まっている!」
 冨岡の容姿はめったに見ないほど整っている。笑みともなれば光り輝くようだろうに、なぜそんなことを思うのか、煉獄には不思議でならない。
 駄々っ子ついでとばかりに、冨岡の背をギュウギュウと抱きしめて、煉獄は冨岡の肩に額をこすりつけた。
「見せてくれ。決して目をそらしたり嫌な顔などしないと誓う。胡蝶は君の笑顔を見たことがあるのだろう? ズルい! 俺だって君の笑った顔が見たい!」
 フゥッと溜息が聞こえ、次いで冨岡の唇が煉獄の耳元に寄せられた。
「……駄目だ。俺が笑うと、みんなギョッとした顔をする。真っ赤な顔をして目をそらされたことも、一度や二度じゃない。きっと俺の顔があまりにも見苦しくて、みんな怒ったんだろう。そんな顔をおまえに見せてたまるか」
 それは冨岡が考えているのとは真逆の理由なのでは? 煉獄が思う間もなく、冨岡はなおも囁いてくる。耳をくすぐる息にゾクリと震えた背は、次の文言にたちまちこわばった。
「それに……煉獄、おまえが俺を嫌わずにいてくれたのはうれしいが、俺だってちょっとは怒っている」
 ギクリと硬直した煉獄に、冨岡はなおも静かな声で言う。
「二度としないと約束したのに、後ろからされるし、嫌だと何度も言ったのに、やめてくれなかった」
 責められたいと願っていたくせに、いざ冨岡の口から立腹を告げられると、たちまち不安と嘆きに襲われる。冨岡は好きだと言ってくれたが、やはり別れるしかないのだろうか。恐慌状態と言っていいほどにうろたえて、煉獄は唇を噛みしめた。
「なぁ……まだ、仲直りはできないのか? 俺はちゃんと謝ったぞ。柱としても、恋人としても、煉獄を信頼しているし、好きだ。煉獄は、もう俺を信用してくれないし、好きじゃない……?」
 冨岡の声はからかうように笑っている。なのに、泣きだしそうに震えて聞こえた。
 嫌われてもしょうがない。別れを告げられてもしかたがない。いつでもそんな諦観をにじませていた冨岡の、心の底からの本音がにじむ声だ。
 嫌わないで。そばにいて。お願い、好きだと笑って囁いて。煉獄となにも変わりのない、恋する愚か者の声。弱さを隠せぬ臆病な子供の声だ。
「ごめん……ごめん、冨岡」
 煉獄の声もどこかつたなく、幼い子供のようだった。
 ひどいことをしてごめん。話を聞こうとしなくてごめん。約束を破ってごめん。どれだけ謝っても足りやしない後悔が、煉獄の声を弱々しく震わせる。
 冨岡はまだ顔を見せてくれない。けれどもなんだかうれしそうな気配がした。
 喧嘩なんて煉獄は一度もしたことがない。それでもあんな一方的な暴挙を、喧嘩などという言葉で済ませていいはずがないことはわかる。なのに冨岡は笑うのだ。これで喧嘩はおしまい。仲直りだと。
「笑顔、見たい」
「……調子に乗るな」
 ポカリと頭を叩く手すら、どことはなし甘くやさしい。泣きたくなるほどに。それでも涙はまだ出ないから、煉獄は代わりに甘えてみせた。もっと甘い水をちょうだいと、ねだる子供のように。冨岡は年下の顔をして甘えられるのに弱いから。
「どうしても駄目か? 親友はまだしも、胡蝶だって君の笑顔を見ているのに、俺だけ見られないのは悔しい」
「…………次に逢うときまで、おあずけだ」
 しばしの沈黙のあとで聞こえた小さな声に、煉獄の目がカッと見開く。
「本当か! 本当に次に逢ったら笑ってくれるんだな!」
 喧嘩のあとで仲直りできるのも、信頼と好意あってこそ。約束したのなら、冨岡は必ず守ってくれる。信じられるから煉獄の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「ちゃんと笑えるかわからないが……楽しくもないのに笑うのはむずかしい」
「なら俺が笑わせてみせるとも! 君が笑ってくれるなら、なんだってする! 君が願うなら、なんだって叶えてみせよう!」
 歓喜のままに強く抱きしめて宣言すれば、冨岡はまた小さく笑ったようだった。
「願いごとなんて、とくにない。おまえがいてくれたらそれでいい」
「それじゃ俺の気が済まん! 今日のことだって、ごめんの一言で済ませていいものではない。もっとちゃんと侘びがしたい。なんでも言ってくれ! 君に笑ってほしいんだ!」
 ふと、空気が変わった気がした。冨岡は大人しく抱きしめられたままだ。けれど、なんとはなし気配が切り替わったのが感じられる。
「冨岡?」
「……侘びは、いらない。欲を発散させるだけの処理も、いらない」
 聞こえる声音に責めるひびきは微塵もない。だが煉獄の肝を冷やすには充分すぎた。
 絶句した煉獄の首から、するりと冨岡の腕が外された。煉獄の顔を見つめてくる冨岡は、いつもの無表情だ。無意識に煉獄の腕も緩み、怯えがまたぞろ頭をもたげる。
 じっと見つめてくる瑠璃の瞳が、心なしか妖しく揺らめいて見えるのは気のせいだろうか。
 冨岡はどれだけ抱いても無垢で、自ら奉仕してくるときでさえ、性の匂いよりも無邪気な稚さを感じられた。だというのに、なぜだか今の冨岡は、妙にみだりがましくさえ見える。それでも下品な感じは一切しない。匂い立つような色香を身にまといながらも、清純さは消えずにいる。
 まるで悪い酒でも飲んだみたいだ。脳髄がグラグラと揺れている心地がした。騒ぎ出す鼓動は、暴れ馬が身のうちを疾走しているかのようで、どうにも抑えがたい。はからずもゴクリと喉を鳴らした煉獄に、冨岡は、ゆっくりと顔を近づけてくる。
 
「詫びだのなんだのではなく……抱いてくれ。もっとちゃんと、仲直りしよう」