流れ星 【加筆修正版】

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 壁に寄りかかり座る冨岡の足に頭を乗せて、煉獄は、見上げる目をパチリとまばたかせた。
「押し花?」
 煉獄を膝枕して髪を撫でてくる冨岡に問うた声は、煉獄自身の耳にも少し幼く聞こえる。
 いつもなら、情事の余韻に浸る穏やかな時間に、包み込むように抱きしめるのは煉獄のほうだ。冨岡も素直に煉獄に寄りかかる。けれども今日はめずらしく、冨岡のほうから膝枕してやると言ってきた。
 子供のようでなんとなく照れくさくはあったが、冨岡の足に頭をあずけ髪を撫でられると、母の膝で眠った子供のころのような安心感が胸に満ちた。
 やわらかく温かかった母の膝とくらべれば、冨岡の太ももは筋肉の固さばかりが伝わってくる。だが、寝心地は悪くない。それどころか、冨岡を見上げる視界までもがなんだか新鮮でときめくし、無骨な手でやさしく髪をすかれると、まどろみそうにさえなってくる。さっきまで荒く息を乱して目合っていたというのに、まるで小さな子供に戻ったようだ。
「煉獄がくれたアヤメが、しおれてしまうのが嫌だったから……女のようだと笑われそうだが」
「笑うものか! あぁ、誰かに笑われたことがあるのか? 級友とか村長の息子とか」
 冨岡の親友はきっとそんなことを聞いても笑うまい。思っていれば、やはり冨岡はコクンとうなずいた。
「姉さんが、花や落ち葉で作ることが多くて……俺も手伝ってよく作った。押し花や押し葉を漉き込んで作った紙を、しおりにしたり襖の穴を塞ぐのに使うんだ。でも、きれいにできたやつをあげようとしたら、女みたいなことしてると笑われて、悲しかった」
 髪を撫でる手を取り、煉獄は指先に口づけた。冨岡の大きく筋張った手は、女性めいたやわらかさなどまるで感じられず、指先も固い。
「雅だとは思うが、女のようだとは思わない。君は立派な剣士だと俺は知っている。それに、俺が贈った花を大事に思って作ってくれたのだろう? うれしいに決まっている!」
 きっと子供のころの冨岡は、自分が楽しいと思うことを、同じ年ごろの子たちに否定されつづけてきたのだろう。少しだけ硬かった顔が、なんとはなし安堵にほころんだように見えた。
「煉獄は、どんな遊びをしていたんだ?」
「俺か?」
 言われ、煉獄はしばし考え、少しだけ呆然とした。
「……記憶にないな」
「ない?」
「うむ。尋常小学校には通ったが、授業が終わればすぐに家に駆け戻って、鍛錬していた。友達と遊んだ覚えがない」
「メンコやコマ回しもしたことがないのか?」
「……ないな」
 今の今まで疑問に思ったこともなかったが、口にしてみれば、なんだかずいぶんと寂しい子供時代を過ごしたような印象だ。まるで一人も友達がいなかったようにすら聞こえるではないか。
 バツ悪さを覚えた煉獄は、冨岡の視線から逃れるように少しだけ顔をそらせた。冨岡の膝にはいたいが、あまり顔を見られたくはない。
 恥じるようなことではないはずだ。鍛錬ばかりの日々への後悔もない。だが、冨岡に呆れられるのは嫌だなと思った。

「それなら、俺が煉獄に教えられることもあるんだな」

 やわらかな声がして、眼差しを冨岡へと戻せば、冨岡は眩しいものを見るように目を細めて煉獄を見下ろしていた。わかりやすい笑みはそこにはないが、なんだか冨岡は笑っているような気がした。
「いつか、教えてやる。メンコやコマ回しなら、俺もできる。ことろことろや、お手玉も……手毬唄は、あまり好きじゃなかったが」
「……いいな。君と遊ぶのは楽しそうだ。君が教えてくれたなら、俺も千寿郎に教えてやれる。手毬唄とは、もしかして学校でみんなが歌っていたやつだろうか。たしか……一列談判破裂して 日露戦争始まった さっさと逃げるはロシヤの兵 死んでも尽くすは日本の兵 だったか?」
 おぼろげに覚えている曲を口ずさめば、冨岡の眉がほんのわずか寄せられて、またコクンとうなずく。
「俺もこの歌は好きじゃないな。たとえ敵国の兵だろうと、人を殺すのを褒め称えるなどまっぴらだ。鬼と変わらん」
「……煉獄も、戦争ごっこは嫌いか」
「当然だ。俺の剣は人を生かし守るためにある。人を斬るためではない。真似事だろうとごめんだ」
 戦況を伝える報に湧く大人たちの顔を覚えているが、なぜ遠い異国の地に赴いてまで争うのかと不思議だったし、焦れったい思いがしたものだ。異国の兵よりももっと身近に、鬼は潜んでいる。鬼のことを友達には語るなと言いつけられていたから、口にはしなかった。鬼のことなど、知らずに済めばそのほうがいいのだ。父や母はそう言った。けれど、級友たちが誇らしげに元帥を褒め称えるたび、もっと立派で名も知られぬ人達がいるのにと、悔しさに似た苛立ちがわいた。
 それこそ死んでも尽くさんと刀を振るい、平穏な夜の眠りを守っている人々。鬼殺隊は――父上は、元帥閣下よりもずっと立派なのだと、胸を張って告げたい気持ちは込み上げた。それは今も変わらない。けれど、尊敬する父の姿は今や煉獄の思い出のなかにしかないのも事実だ。

 ジクジクとした鬱屈めいた感傷を、フッと吐息とともに吐き捨てて、煉獄は笑みを浮かべてごろりと寝返りをうつと、冨岡の腰に抱きついた。
「戦争ごっこよりも、将棋のほうがいい。君と対局したくて覚えたんだ。君が好きだった歌も知りたいし、君が好きなことを俺もしたい。押し花の作り方も教えてくれ。君と一緒に作ってみたい」
 声は我ながら甘えるようだった。
 童心に返って、子供の遊びに興じる。そんな日がいつ訪れるのかはわからない。今よりずっと年をとってからになるかもしれなかった。それこそお互い肌にはしわが刻まれて、髪も白く色が抜けていてもおかしくはない。それでも思い描く光景は、はたから見れば馬鹿馬鹿しくとも、泣き出しそうにやさしい。明日をも知れぬ命だからこそ、遠い約束が心を強くする。

 子供のころから、竹刀を振るうことになんの疑問もなかった。炎柱を輩出する家に生まれ、父も煉獄が生まれたときにはもう、炎柱だった。嫡男として生まれた煉獄に、それ以外の道など、はなから用意されていない。それでかまわなかった。
 不満を覚えたことは一度もない。幼いころから言い聞かされていた炎柱の誇りは、煉獄の胸に熱い決意の炎を燃え上がらせるばかりだ。自身の心に折り合いをつける必要さえなかった。なぜ俺だけが友達と遊ぶ自由すらないのかと駄々をこねて泣くなど、もってのほかだ。母の教えに背き父の名を汚す真似などできようはずもなく、我慢していると感じたことすらなかった。
 けれど、なぜだろう。幼い自分が胸の奥で、冨岡の言葉にうれしげにうなずき、はしゃいでいる気がした。もしかしたら、幼かった自分は心の奥底で、定められた道を歩むのをほんの少し寂しいとでも思っていたんだろうか。
 ありえぬ話だと胸中でわずかばかり苦笑した煉獄は、ふと、いまだ果たせずにいる約束を思い出した。

「そういえば、また贈ると言ったのに、君に花を贈れたのは五月のあの日だけだな。なかなか機会に恵まれん。どうしても、花ならなんでもいいという気にはなれないんだ。もう少し待ってくれないだろうか。君に贈りたいと心から思える花を見つけたら、必ず贈る」
 ちょっぴり眉尻を下げつつ言うと、なぜだか冨岡の目が、ためらうようにそらされた。キョトリと見上げる煉獄から顔までそらせて、冨岡は、隊服のポケットを探り出した。
「冨岡?」
「俺からも、おまえに贈りたい花がある……生花ではないし、必要でなければ誰かにやってくれ」
 差し出されたのは一枚の葉書大の紙だ。ザラリとした手触りの和紙には、瑠璃色の花弁と白くて根本が黄色い花弁があしらわれていた。アヤメの花びらを押し花にして漉き込んだ紙だ。さきほど冨岡が言っていたのはこれのことらしい。
「俺が贈ったものはわかるが、この白い花は……アヤメに見えるが白はめずらしいな。これが冨岡が俺に贈りたいと思った花なのか?」
「アヤメをもらった翌日に、白いのを見かけたから……煉獄に渡したくて刈ったのはいいが、次にいつ逢えるかわからなかった。枯れてしまうよりはと思って……」
 紙のなかで仲良く並んだ花弁は、なんだか自分と冨岡のようだ。白い花弁は煉獄が誇りとする炎柱の羽織を思い起こさせる。だから冨岡も贈る気になったのかもしれない。
 歓喜が沸き起こり、煉獄は手にした紙にそっと口づけた。冨岡の指にしたのと同じだけ、愛おしさをこめて。
「ほかの誰にも渡すわけがないだろう? 大事にする」
 宣言したとたんになぜだか冨岡の頬がポンッと赤くなった。
「煉獄も、花言葉を……いや、なんでもないっ」
「花言葉?」
 聞き慣れぬ文言に、冨岡の腰に抱きついたまま首をかしげれば、冨岡は少し慌てた風情でなんでもないから忘れろとそっぽを向いた。
 目をそらさないで、俺を見て。もっとかまって。小さな子供が大人たちの会話に入れずにむくれ、駄々をこねるような、そんな不満が不意に浮かび上がって、煉獄は我知らずグリグリと冨岡の腰に頭をこすりつけた。
「君だけ知っているなんてズルいぞ。なんで教えてくれないんだ?」
「隠し事をするつもりはないが……今日の煉獄は甘えっ子だ。可愛いな」
 フッと笑う気配がして、慌てて顔を上げる。冨岡はもう笑みをおさめ、またそっぽを向いていた。
「今、笑っていなかったか? 見たい! 君の笑顔をまだ見たことがない。見せてくれ!」
「恥ずかしいから、駄目だ。今の言葉も……笑うのも」
 どうしてと喚くよりも先に、ギュッと寄せた眉間をツンと突かれ、ゆっくりと冨岡の顔が近づいてきた。
 髪に落とされた口づけはやさしくて。しかめた眉根はすぐさまほどけた。
「笑うのは自信がないが、いつか……」
 囁く声がした。母に抱きしめられたときと同じ、やさしく温かな安堵が胸に満ち、煉獄は面映ゆく笑うと、うんとうなずいた。
「笑うのに自信などいるのか?」
「……俺は、いる」
 クスクス笑いながら言えば、冨岡はすねて唇をとがらせた。
 冨岡は、ときどき子供のようになるけれど、煉獄のことも、なんの憂いも苦しみも知らなかった子供に戻させる。悔しいとか恥ずかしいだとかは、不思議と思わなかった。
 いつか、冨岡になら言えるだろうか。父の酒量が増えていくことへの不安や、隊士になれる望みが薄い千寿郎を憐憫してしまうことへの葛藤も。
 考えても同しようもない事どもに対する焦りや不安は、常ならば忘れていられる。己の意思で抑え込める。弱音など口にしたくはなかった。けれども冨岡になら、さらけ出してもいい気がした。冨岡はきっと、幻滅などしないでくれるだろう。やさしく笑って、こうして髪を撫でてくれるに違いない。
 それでもおそらく、自分が不安を口にするのは、すべてが終わったそのときなのだろうけれど。

 冨岡の首に腕を回し引き寄せて、とがらせた唇に自分の唇を重ねたら、大好きと、胸のなかで子供が笑う声がした。

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