流れ星 【加筆修正版】

 ともに想いが高まっていることに、間違いはない。体が熱く燃えているのは自分だけではないと、煉獄の隊服の胸元を握りしめる手の小さな震えやもれる息の熱さが、煉獄へと伝えていた。口吸いも次第に大胆に、なめらかになっていく。とはいえ、どちらにも技巧などない。熱情だけに突き動かされる、稚拙な接吻だっただろう。
 それでも、夢中で吸い、互いの舌をなめしゃぶるような接吻は、どんどんと煉獄の欲をたかぶらせていった。
 もはや息は乱れきり、今、任務の報が入ったら走れるだろうかと、しびれるような脳の片隅で、煉獄は思う。気づいた瞬間、知らず呼吸を整えた自分が、少しおかしくて、どこか切ない。神頼みなどしたことはないが、今だけは鴉よ鳴いてくれるなと、神仏に祈らずにはいられなかった。
 鬼殺の一環として、武士の嗜みとしての衆道についてならば、それなりに知識はある。調べもしたので、手順は心得ていた。いつか冨岡と枕をともにする日のためにとの、少しばかりの下心があったのも確かだ。だが、実践は当分先のことになるだろうと思っていただけに、男同士の交合に必要とされる準備など、なにひとつしてはいない。焦りが胸の奥でくすぶっていた。
 会合や商談には縁のなさげなうらびれた蕎麦屋の二階は、逢い引きに使われることだけを前提としているようではある。だがさすがに、男色のために使用されるアレコレなどは、望むべくもないだろう。
 少しだけ苛立つのは、追い立てられるような劣情のせいだろうか。こういう場所ならば、備えぐらいしておいてくれと、言いがかりにも似た不満が頭をかすめた。

 日はまだ高い。薄汚れた窓の外に広がる青空は、乱れた吐息や互いの荒いで甘さを含んだ呻きとは不似合いに、どこまでも爽やかだ。みだらな行為にふけるなど許しがたいと言わんばかりに、明るい五月の日差しが二人を照らしていた。
 昼日中にすべきことではない。そんな思いもあるにはあるが、夜の秘めやかなとばりのなかでこんなふうに互いを求めるなど、どれだけ望んでも果たされるわけもないのだ。今は、まだ。
 いつか鬼の始祖である鬼舞辻無惨を討ち果たすまでは、夜は鬼の時間だ。求めあう恋人たちの逢瀬を、宵闇が隠してくれることはない。闇に蠢く鬼は、こちらの事情などいっさい頓着しないのだ。ならばもう、ここで止まることはできなかった。『今』しか、煉獄にも冨岡にも時間はないのだから。

 必死といっていいほどに、互いの息や唾液を混ぜ合わせ、飲み込む。腰にわだかまっていた重い欲望は、もはや全身に行き渡り、肌にまとわりつく衣服すらが邪魔だ。
 唇や舌だけじゃ、足りない。もっと触れたかった。冨岡を構成するすべてに触れたい。白い肌にも、癖の強い髪にも。手も、足も、胸も、腰も、余すことなく。できることならその体や心の奥深くまで、冨岡のすべてに触れたい。
 布団を。せめて布団を敷かなければ。掃除もろくにしていないような畳に、冨岡を組みしくのは駄目だ。布団もきっと期待できないだろうけれど、ないよりはマシだろう。
 思いながらも唇は一秒たりと離し難く、煉獄は、貪るような接吻はそのままに立ち上がった。突然の行動は予想外で、とっさには反応できなかったのだろう。冨岡の足がおぼつかぬ様子でよろめいた。
「な、に」
「布団を敷く」
 言いながら、押し入れの襖に手をかけ、また唇を合わせる。トンッと、胸元を力ない拳が叩いてきた。それぐらいの間は接吻をやめろと言いたいのだろう。自分でも余裕がないとわかっているだけに、煉獄は軽微な苦笑を浮かべた。
 笑みに震えた息にさえ、冨岡は、耐え忍ぶかのごとき面持ちで眉間をギュッと寄せ、煉獄の隊服を握りしめてくる。一瞬でも視線をそらせたくなくて、近すぎてぼやける冨岡の顔を見つめたまま、煉獄は手だけで押し入れをまさぐり布団を引きずり出した。
 放り投げるように床に広げた布団は、予想通り少し湿っていて、カビ臭い。申し訳なさがよぎったが、日を改める余裕などありはしなかった。
 抱きかかえるようにして、薄っぺらな布団に冨岡を組みしく。カビの臭いが鼻をついた。
 やっと解放してやれた冨岡の唇は、長い接吻にしびれているのか頼りなくおののいて、充血し腫れぼったく見えた。紅潮した頬。涙で潤む瑠璃の瞳。荒いだ息。すがるような手は、震えている。目に映る冨岡のなにもかもが、煉獄の熱を煽る。
 止まれない。それでも確認の言葉は煉獄の口をついた。
「冨岡、いいのか?」
 性急なひびきに、内心でほぞを噛む。誘ったからには覚悟はしていたかもしれないが、それでも冨岡のほうがずっと不安だろう。なのに、安心させるような余裕のある態度など、とれそうになかった。
 薄汚れた布団に横たわった冨岡は、一度ゆるりとまばたきし、しがみつくように煉獄の首に腕を回してきた。
 引き寄せられ、逆らうことなく冨岡の上に重なりながら、煉獄は、重くはないだろうかとどこか遠いところでかすかに思う。耳元に落ちたつぶやきは、ひどく静かだった。

「煉獄なら、いい。……煉獄だから、いいんだ」

 泣きそうだと、思ったのはなぜだろう。幸せとは、こんなにも胸が苦しいものだっただろうか。それとも、これが恋だからか。痛いほどの幸せが、煉獄の瞳を濡らす。グッと目を閉じ、涙がこぼれ落ちるのを煉獄はこらえた。感情によって瞳が濡れるなど、いったいどれぐらいぶりだろう。泣きたいと思いはしても、実際に涙が浮かぶことは母の葬式以来一度もなかった。ただ一度こぼした別れの涙。それきり煉獄は泣いたことがない。なのに。
 恋しい。愛おしい。ただそれだけに満たされる胸を、恋が、刺し貫く。痛い。幸せすぎて、恋しすぎて、胸がただ痛い。遠く捨て去ったはずの涙が浮かび上がりそうになるほどに。
 骨も折れよと抱きしめた腕に、冨岡が、小さく息を詰めた。冨岡の手にも力がこもって、その力強さに、また涙を誘われる。
 このまま抱きしめていたい。早く欲しい。やさしくしたい。すべて奪って、なにもかも、暴いてやりたい。痛い。苦しい。だが、こんなにも、幸せだ。
 いくつも浮かぶ言葉は、声にはならない。まだ、抱きしめただけだというのに、こんなことでは先が思いやられるなと、他人事のように思う。こんなときでさえどこか冷静な自分もまた、煉獄のなかには存在している。
 どれだけ感情を揺すぶられようと冷静さを失わぬのは、慣れ親しんだ習慣だ。隊士となったときから、それだけは常に消え去ることがない。
 冨岡もそれは同様だろう。だからこそ余計に乱れて欲しいと望みはするが、柱のままであってくれと願う心もまた、煉獄にとっては真実だ。水柱としての冨岡義勇は、どんなに消沈しようと、どれだけ周章狼狽していようと、冷静さをどこかに残している。そんな冨岡だからこそ、煉獄は尊敬し、恋をした。冨岡が好いてくれたのもまた、炎柱として出逢った煉獄だ。
 柱には、自由な時間などほとんどない。逢瀬に割ける時間は限られている。熱をはらむ互いの瞳のなかには、焦りよりも冷静な判断が浮かんでいた。先を望む心の裏側で、それはたしかに息づいていた。
 身を起こした煉獄の意図を、冨岡も過たず悟ったのだろう。腕をほどき自らも起き上がった冨岡が、羽織をそっと脱ぎ捨てるさまから目が離せない。冨岡を見つめたまま、煉獄もまた無言で羽織を脱ぐと、一瞬の逡巡の後、隊服のボタンに手をかけた。冨岡の手も、わずかなためらいを見せはしたが、金ボタンを外していく。
 どれだけ交わることを強く望もうと、鴉が鳴けばすぐにも飛び出せるよう、衣服をすべて脱ぎ捨ててしまうわけにはいかない。それでも、シャツ一枚となった冨岡の姿は、いつか見た男娼の真似事のときよりもなお、色香をたたえ、なんだかひどく眩しく見えた。
 互いを隔てるのは、木綿のシャツ一枚。布地一枚がやけに口惜しいが、異を唱えることはない。柱、なのだから。柱として、恋する一人の男として、ギリギリの境界線がここにある。
 刀は、手の届く場所にある。恋しい人と初めて目合まぐわうこのときでさえ、大義をゆめゆめ忘れるなと、己を戒めるがごとくに。
 見つめ合ったまま、引き寄せられるように、ふたたび唇が重なった。
 今度の接吻は、触れ合うだけの穏やかさだった。けれど、シャツに覆われた冨岡の体をまさぐる煉獄の手は、溢れ出しそうな欲望にせっつかれ、性急なものとなっている。
 何度も小さな音を立てて唇を触れ合わせながら、煉獄は、冨岡のシャツのボタンに手をかけた。冨岡の手も、倣うように煉獄のシャツに触れてくる。
 すべて外し終えるのは、煉獄のほうが早かった。中途半端にボタンの外されたシャツはそのままに、煉獄は冨岡の手を止めさせると、あらわになった白い胸元に唇を落とした。
「まだ、ボタン」
「すまないが、限界だ。触れさせてくれ」
 応えはなかった。口元を手の甲で隠すようにして、冨岡の顔が恥じらいの仕草でそむけられる。肌に唇を触れさせたままの言葉にピクリと波打った胸が、いじらしく思えて、確かめるようになめらかな肌をそっと吸う。冨岡の鍛えられた体が、小さく震えた。
 うっすらと傷跡が残る白い肌に、幾度も煉獄は唇を落とした。傷跡はどれも古い。古傷に、痛ましさよりも感嘆する。新たな傷を見いだせぬ肌は、冨岡の努力の証だ。
 じわりじわりと紅潮していく肌のなかで、浮かび上がってくる古傷は、どこかしら艶かしくもあった。
 淡く色づいていく肌のなかで、ひときわ目を引くのは薄桃色の小さな粒。小豆あずきよりも小さなその尖りは、やわらかなふくらみなどない胸でかすかに震えている。なめたい。欲求に逆らうことなく唇を寄せれば、戸惑う気配がした。
「れ、煉獄? その、俺に乳房はないんだが……それに、なんだかくすぐったい」
「それはすまない。だが少し我慢してくれないか。もっと愛でてみたい……駄目か?」
「…………わかった」
 了承されてなによりだ。断られても素直にやめられたか、煉獄にもわからないのだから。口に含んだまま思わず忍び笑えば、冨岡の腹がうねるように跳ねた。
 身をすくめるのにかまわず、吸い上げ、歯先で甘噛してみる。ビクビクと震える胸や腹に、ひどく興奮した。感じているのか。思うけれども、よくわからない。愛撫など煉獄はしたことがない。だから冨岡の反応が快感によるものなのか、煉獄には判断がつかなかった。
 反応があるだけでも良しとしようか。思いつつ、尖らせた舌先でねぶり続けていると、スゥゥと深く呼吸する音がした。
 チロリと視線だけでうかがえば、冨岡が目を閉じ息を整えている。口元はまだ隠したままだが、恥じらいなどそこにはなく、すでに落ち着きはらった表情だ。

 心頭滅却すれば火もまた涼し。そんな文言が冨岡の脳裏にあるのは明白だ。

 思わず煉獄は動きを止めた。唸らなかったのがマシだと思えるほどに、冨岡の態度には愕然ともしたし、少々気落ちもする。冨岡の気持ちはわからぬでもないし、冷静沈着を心がける習性も煉獄とて同様だ。どんなときでも柱としてある冨岡だからこそ、恋しいとも思ってもいる。そこに嘘はないのだ。だから咎めるつもりはない。ないが、いかんせんこういった場においては、いささか難ありな態度ではないだろうか。
 呆気にとられるとはまさにこのことだ。柱としての責任感が冨岡の反応の源流だとは思うのだが、いくらなんでも、それはない。がっくりと肩も落ちるというものだ。
 交合に必要な知識はあれど、閨での技巧など煉獄は知らない。性技に長けているなど、口が裂けても言えないのは事実だ。初めての経験なのだから、手練しゅれんなどとうてい言えぬ己の性技で、最初から冨岡が我を忘れるほど乱れるなど、思い上がりも甚だしいだろう。わかっている。わかっているとも。だがしかし、頭ではわかってはいても、さすがにここまで自制心を発揮されると、男としての矜持を刺激されるのは致し方ない。
 むくりと身を起こし、煉獄は、横たわり目を閉じたまま精神統一しているらしい冨岡の肩を、ガシリと掴んだ。
 とたんにパチリと開かれた目を見つめ、真剣な顔で言う。
「冨岡、こういうときにそれはやめてもらえないだろうか」
「それ……とは?」
 まじまじと見つめる煉獄に、冨岡の眉が怪訝そうに寄せられた。自分たちが置かれている状況は、いかに冨岡だろうと理解しているだろうに、本当はなにもわかっていなかったりするんだろうか。
 思わず眉尻が下がり、幾分情けない面持ちとなった煉獄だが、ここで落ち込んでも始まらない。気を取り直し、煉獄は冨岡に言い聞かせるべく口を開いた。
「今、俺たちは初めて枕をともにしているんだ。鍛錬しているわけではない」
「枕は……ないが?」
「うむ、そうだな! だが、実際に枕を使うかどうかは問題ではない。今まさに目合おうというときに、鍛錬のような反応はいかがなものかと言いたかった」
「ま、まぐっ……あ、うん……。そうだな。枕は関係なかった」
 羞恥をあらわにほわりと頬を染める冨岡は、いかにも初々しくて、煉獄の胸がドキリとときめく。なにをしているのかぐらいは、冨岡もちゃんと理解しているようなのに、ほんの少し安堵もした。
 ついまた唇を奪いたくもなるが、このまま再開しても、冨岡はまた精神統一を計るだけだろう。それは勘弁願いたい。最悪の場合、冨岡は座禅でも組みそうだ。そこまでいかずとも、人形を抱いているわけでもあるまいし、なんの反応も返されないのではやるせないことこの上ない。
「こういうときは、もっと、こう、自分の感覚に素直になるものだと思うのだが?」
「断る」
「なぜっ!!」
「……煉獄に見苦しいところを見られるのは嫌だ」
 見苦しい。そうきたか。
 男ならば相手が乱れるさまに興奮しこそすれ、見苦しいと思う者などいないだろうに、冨岡は違うらしい。煉獄としては、冨岡のみだらな声だってぜひとも聞きたいところだ。
「……冨岡、君は見苦しいと言うが」
「見苦しいだろう? くすぐられてゲラゲラ笑ったりしたら」
「うん?」
「くすぐったがりではないと思っていたが、胸というのは意外とくすぐったい。ただでさえはしたない真似をしてしまった。これ以上みっともない姿を煉獄に見られたくはない」
「……そっちか」
「そっち?」
 キョトリと見つめてくる冨岡に、なんだか脱力してしまう。それでもまったく衰える気配のない自身に、ちょっとばかり笑えてもきた。
「いや、爆笑する君はぜひとも見てみたいが、それはともかく。見苦しいなど思うわけがないだろう? まぁ、快感を得るよりも先に笑われるのでは、俺の愛撫の下手くそさを思い知らされはするだろうが」
「へ、下手じゃ、ない……」
 煉獄の言葉をさえぎるように、少し口ごもりながら言う冨岡の顔が、わずかにまたそらされた。
「接吻など、俺は初めてだったから、ほかとくらべることはできないが……その、苦しかったけれど、こ、こんなに気持ちのいいものなのかと驚いた……だから、煉獄は下手じゃない、と、思う」

 本当に、何度爆弾を落とせば気が済むのだろう、この男は。

 真っ赤になって固まった煉獄に、冨岡は自分の言葉の威力などまるで気づきもせず、なおも攻撃を仕掛けてくる。
「それに、煉獄に触れられるのは、ドキドキするし、うれしい。興に乗る反応を返せないのは申し訳ないと思うが、せめて見苦しくないよう声だけでも出さぬようにするから……い、嫌になったのでなければ、続きを……その……」
 いかにも一所懸命といった風情で、顔を赤く染めて煉獄を見ずに冨岡は言う。続き? 言われずともするに決まっているだろう。ブルリと知らず身震いして、煉獄は冨岡の頬に手を当てた。
 そっと自分へと顔を向けさせれば、冨岡は存外素直に見つめ返してくる。唇を落とすだけの接吻を一つ。ほぅっと小さく吐息をもらした冨岡に、コツンと額を合わせて、煉獄は囁いた。
「続きはする。やめるわけがないだろう? だが、呼吸を整えようとするのは、できれば最低限にしてくれ。見苦しいなど思わない」
「……最低限なら、いいのか?」
「それはもうお互い身についた性分だからなっ。呼吸さえ忘れるほど乱れさせてもみたいが、今後の楽しみにとっておくことにする」
 クスリとほのかな笑みさえ浮かべて言った煉獄に、冨岡は戸惑っているようだ。けれども異を唱えることはなく、どこかうれしそうにさえ見えるほど目を細め、コクリとうなずいてくれた。
「今後が、あるんだな」
「当然だろう? 君に死んじゃうと言われるぐらいうまくなってみせるから、期待してくれ。あぁ、君を殺そうとしているわけじゃないぞ。そこは誤解しないでくれ」
 ちょっとばかり茶目っ気めかして言えば、冨岡はピッと肩を跳ね上げ、火がついたように真っ赤になった。なんだ、ちゃんと素直な反応を示してくれているんじゃないかと、煉獄の微笑みが深まる。
「わ、わかっているっ。もう……わかる」
「うん。じゃあ、続きをしようか」
 時間は有限なのだ。会話も大切だが、今は、触れ合うことのほうが重要だ。オズオズと冨岡の手が上がり、煉獄の頬に触れた。冨岡の手は、まだ緊張しているのか少し冷たい。けれども満々とした水をたたえたような瞳は、ひどく熱く見えた。
 もう一度唇を重ね、煉獄は、そっと手を滑らせると、髪に隠れていた冨岡の耳に触れてみた。指先で耳殻をたどれば、冨岡は息を詰め首をすくめた。
「れ、煉獄っ。そこも、くすぐったい。んんっ、おい! 息を吹きかけるなっ」
「くすぐったがりではないと言うが、本当か? 君がくすぐったくない場所を探すほうがむずかしそうだ。悪いが少しだけ我慢してくれ。呼吸は、整えすぎないように」
「……わかった」
 生真面目に答える冨岡が愛おしい。わかったとは言うものの、望みは薄い。それはもうお互い変えようのない習性なのだ。嘆くことではない。冨岡が我をなくすほどには感じられないというのならば、それは煉獄自身の手腕にも問題がある。けれどもそれもまた、嘆き落ち込むことはないだろう。むしろ。
 お互い初めて人肌に触れ、初めて繋がり合おうとしている。たどたどしくても当たり前だ。初めて触れる相手が冨岡であることが誇らしく、冨岡にとっても自分が初めてであるのが、ただうれしい。
 くすぐったいというのは本当なのだろう。ギュッと目を閉じ、冨岡は耳をくすぐる指先や、首筋を吸う唇に耐えている。煉獄の言葉に健気に従って、ときおり、んっ、と小さく息を詰め体を固くするが、呼吸を意識すまいと努めているようだ。
 ふたたび胸元にも触れてみたが、反応は大差ない。今はまだ、冨岡が煉獄の手や唇に感じ取る感覚は、くすぐったいの一言なのだろう。
 なにも知らないまっさらな冨岡に喜悦もわくが、その反応は、ならば意地でも感じさせてやろうではないかと、煉獄の負けん気魂に火をつけもした。
 とはいえど、意地を張って胸ばかりを弄る余裕は煉獄にもなく、いつなんどき鴉が鳴くかと思えば、時間をかけるわけにもいかない。
 我ながら即物的すぎるなと思いつつ、煉獄は思い切って冨岡のベルトに手をかけた。ギョッと見開かれた冨岡の目が、少しだけ怯えを見せた。けれどもなだめてやる余裕は煉獄にもない。
 手早くベルトや脚絆を外しズボンを脱がせるに至り、冨岡の目がとうとう咎める色を浮かべた。
「汚してしまうわけにはいかないから」
 言い訳じみた言説だ。自分でも思うが、冨岡は異を唱えなかった。万が一呼び出しがあったときのことを考えれば、完全に脱がされるのは心もとない。そんな不安はあっただろうが、咎めて時間をとることのほうを懸念している。わかるから煉獄も手を止めなかった。

 初めて目にした冨岡の素足は、成人男性らしくすね毛も生えているが、煉獄に比べたらうっすらとしている。日にさらさぬ部位だけに肌はなお白く、知らず煉獄は息を呑んだ。張りのある筋肉のついた脚はスラリとしなやかだ。女性の脚のようなやわらかさは望めぬ男のものなのに、その白さはどうにも艶かしく、煉獄を誘う。
 冨岡が身につけているのは、はだけたシャツと褌だけだ。白いそれらは淡く染まった冨岡の肌に映えて、やけに眩しく見える。
 ふと、この褌を初めて手にとったとき冨岡はどんな顔をしたんだろうと考え、煉獄はクスリと笑った。
 越中や六尺とは違い、隊士に推奨されるもっこ褌は、巷で目にすることはほぼないに等しい。締めるというよりも、履くというほうがしっくりくる形状だ。入隊したばかりの隊士はたいがいが面食らう代物である。
 歌舞伎の女形が身につけることで知られる下着だとまでは知らなかっただろうが、冨岡も見慣れぬ下着には、相当戸惑ったことだろう。慣れてしまえば、腰で紐を結ぶだけのもっこ褌は素早く身につけられ、合理的だと納得もいく。推奨でとどまるのは下級隊士ぐらいなもので、男性の柱はみなこれだ。恥ずかしいだのみっともないだのと言う者などいない。少なくとも表立っては。
 代々炎柱を排出してきた鬼殺の家系である煉獄はといえば、幼いころからもっこ褌に慣れている。おかげに新米のころにみなが恥ずかしがる理由がよくわからなかった。だが、慣れ親しんだもっこ褌も、冨岡がそれを身に着けている姿はやけに扇情的に見えた。越中などと違い、指先一つで脱がせられるというのは、時間のない情交に特化しているんじゃないかとさえ思えてくる。
 わずかに喉を鳴らし、煉獄は、まだ兆しを感じられぬそこにそっと手を当ててみた。冨岡の顔を見下ろすと、眉間が少し寄っている。見上げてきた眼差しは、責めるよりもたじろぐ風情だ。
 無言のまま揉むように握ってやれば、木綿の手触りを透かして、冨岡の体温が感じられた。そこはまだやわらかい。
 フッ、と幾分鋭く吐き出された息に、冨岡が興奮を鎮めようとしていることを知る。けれども言いつけに従い呼吸に集中することはない。
 それに満足して煉獄は、眼差しを冨岡の顔に据えたまま、揉み込むような愛撫を与え続けた。行為に慣れた者に言わせれば、こんなものは愛撫とさえ呼べないかもしれないと自分でも思うほど、手付きはぎこちなく即物的だ。早く。その一語に押されて、高めることにばかり意識が向いた動きだった。
 煉獄の口からもれる息も、ふたたびせわしなくなっていく。冨岡は、初めて他人に施される感覚に得だした快感と自制の狭間で、揺れているように見えた。そのさまに、煉獄はなぜだかひどく興奮した。
 我を忘れて乱れる、素のままの冨岡が知りたい。触れたい。思いながらも、理性を失わぬ冨岡の姿に、今自分は柱としてある冨岡を抱いているのだという、深い感慨もある。責務を忘れぬのは己も同様だ。だが、だからこそ、それでも抑えきれぬ恋慕や欲情を冨岡もいだいていると、冨岡の戸惑いが煉獄へと伝えていた。実感を伴い重なる心にこそ、煉獄の欲もまた、いっそう昂ぶっているのかもしれなかった。
 冨岡の息が、だんだんと乱れていく。また、冨岡の手の甲は口に当てられて、冨岡曰く見苦しい顔をせめて見られまいとしているかのようだ。
 手に伝わる肉魂の感触が、冨岡も兆しだしていることを知らせる。煉獄自身も張り詰めているのが、隊服の盛り上がりで冨岡に悟られそうだ。
 煉獄は名残惜しく手を離すと、自分のベルトを性急に外した。身を起こした煉獄に向けられた冨岡の目は、見てはならないと思いながらも好奇心が抑えられぬとでも言うように、わずかに細められていた。口元はまだ右手の甲で覆い隠されたままだ。左手は薄い布団を握りしめていた。
 ズボンをくつろげた煉獄は、知らず安堵に近い吐息をもらした。冨岡と違い直接的な刺激は一つもないのに、遜色なく高まった熱が少し気恥ずかしかったが、かすかな当惑は冨岡の声で霧散した。
「俺が相手でも、勃つんだな」
「当然だろう? 君に触れているんだから、こうなるのは当たり前だ」
「そうか……よかった」
 口元を隠したままつぶやかれた声は小さい。細められたままの目には、羞恥よりも安堵があった。冨岡の言葉で煉獄の胸にこみ上げたのは、健気さに対する愛おしさでもあり、幾ばくかの苛立ちでもあった。
 不死川は冨岡のことを高慢ちきだというが、そんな男がする反応ではない。多くもないささやかな逢瀬の繰り返しで知った冨岡の為人ひととなりは、真逆だ。冨岡は自分に対して自信がまるでないようなことを、たびたび口にする。そのたび煉獄は切なくもなったし、腹立ちもした。
 なぜ冨岡は自分を卑下するような態度を取るんだろう。問い質してみたいし、君は素晴らしい人だし立派な柱ではないかと、言い聞かせてやりたくもある。だが今は、そんな余裕は煉獄にもない。
 冨岡の腰を、手のひらでそっとたどる。ビクビクと震える肌は、くすぐったいからなのか、それとも、直接的な快感を得たことで肌が鋭敏に愉悦を拾うようになったからなのか。まだ煉獄にはわからない。だが、行為に慣れれば、冨岡の些細な反応一つひとつの意味も、悟れるようになるだろう。それぐらいには肌を重ねることを、確定事項として煉獄は心に刻んでいる。決して手放してなどやれないのだ。何度だって、それこそ飽きがくるほどに繰り返すつもりだ。冨岡の肌に飽きることなどありはしないから、きっとそれは、互いの命果てるその日まで。

 誇らしい決意の奥底に潜む、身を引き絞られるような悲しい予感に、煉獄は気づかない。煉獄は二十歳になったばかりの若者であり、気力も体力も満ちみちている。命果てるまで。その決意が示すのは、体が衰え、枯れた穏やかな笑みを見交わせる日を送った先にある終わりではないのだと。煉獄はまだ、気づかない。それでも、日輪刀を握り隊服に身を包んだその日から、己の命が尽きる日は遠くはないとの予感は心のどこか遠く、けれども碑に刻み込まれた銘のごとくに、強くハッキリと記されている。
 覚悟はあった。臆する気持ちはどこにもない。多くの隊士が死んでいくのを見てきた。死は、いつでも煉獄の傍らにあった。冨岡にも。

 けれども今、煉獄は生の喜びに満ちている。煉獄の手は冨岡に触れている。鼓動や熱を伝える冨岡の体。生きている。それを感じさせる熱は、煉獄の身のうちに灯る火を吹き上げんばかりに燃え上がらせていた。しかも歓喜には続きがあるのだ。まだ触れただけ。生の喜び、恋の歓喜には、まだ続きがある。
 始まったばかりの行為は、指南書とはずいぶんと異なる。書物に記された誰かの記録どおりになど、進みやしない。それでいいと、煉獄は思う。自分が恋し、触れているのは、冨岡だ。書物に記された見知らぬ誰かではない。こんな初めても自分たちらしいではないかと、煉獄は興奮に荒ぐ自身の呼吸を整えつつ思った。
 どうしたって冷静であろうとすることはやめられないのだ。最初から『普通』であるわけがなかった。