流れ星 【加筆修正版】

 それからの日々はといえば、特別なことなどなにもない。残念ながら同じ任務に就いたのは、あの日以来、たったの一度きりだ。それすら、結果として共闘することにはなったが、そもそもは冨岡の単独任務で、煉獄は後方支援を任されたにすぎない。
 けれどもその任務は、ひどく印象的だった。
 男娼のフリをした冨岡を、買い求めようとする客から助け出す。そんな任務だ。
 せっせと話しかけ食事に誘っては断られをつづけていた煉獄に、冨岡が応えてくれるようになってきたのは、その日以降のことである。とはいえ、食事の誘いは、三度に一度でもうなずいてくれれば御の字というところではあったが。
 それでも少しずつ縮まる距離のなかで、口が重い冨岡も、いくらか話をしてくれるようになった。
 姉とふたりきりで暮らしてきたこと。ともに隊士を目指して鍛錬した親友がいたこと。それぞれの思い出話や好物のことなど、話す内容は彼の孤独に寄り添うものから、他愛ないものまで、さまざまだ。
 雨上がりに枝先からポツリポツリと落ちてくる雫に似て、冨岡の言葉は、決して多くはなかった。けれども小さな雫のごとき言葉はゆっくりと、けれど確実に、煉獄の心に染みわたっていった。
 冨岡の話し方は独特というか、どこか幼児めいていて、核心に至るまでやけに遠回りだったり、かと思えばはしょりすぎて結論だけ口にしたりする。冨岡は、誠実に答えねばとの気負いゆえに、頭にあるものをすべて伝えようとして、幼子めくのかもしれない。それは人慣れしていない証左にも思われる。姉さん子だったというし、親友以外には友人の思い出話は出てこないから、人見知りする子供だったのだろうか。
 話し方は幼子のそれでも、語彙はれっきとした成人のものだから、人によっては小馬鹿にされているように感じられるのだろう。不死川や伊黒などは、冨岡の言葉にいつも怒りだすが、煉獄からすれば冨岡らしい可愛い癖としか思えない。もっと幼いころの千寿郎もこんな感じだったなと思えば、つたない話し方にさえ頬も緩む。

「今日も不死川を怒らせてしまったようだな。君の口下手も大概だが、不死川も短気が過ぎる。だが君も、任務や報告のときは問題なく説明できているだろう? 不思議なものだな」
 語りかけても冨岡の返事はない。もう慣れっこだ。煉獄は気を悪くすることもなく、箸を進めた。
 目についた蕎麦屋にふらりと入り、ともに食事をとりながらの会話だった。たぬき蕎麦とかいう物めずらしい名称の蕎麦が有名だそうで、店内はそれなりに盛況だ。人の多い場所は嫌だろうかと思いきや、冨岡に気にした様子はなかった。話の種に食べてみようと注文した揚げ玉入りのたぬき蕎麦を、ズルズルとすする様にも、人目を厭う空気はない。

 こんなふうに、柱合会議のあとでどことも決めずに連れ立ち、ともに食事するのも何度目だろう。
 初めて冨岡が食事の誘いにうなずいてくれたときには、舞い上がっていつも以上に話しかけたものだ。しかし、当の冨岡は相槌すら返してくれず、本当は迷惑だったのだろうかと落ち込みかけたのも、もはや懐かしい。わかってしまえばなんのことはない、冨岡は食べながら話すことができないだけだった。
 手先は器用なほうなのに、本当に不思議なものだ。不器用なのは食べ方もで、気がつくと頬やら唇に、飯粒がついている。今日もこじんまりとした形のいい唇には、天かすがついていた。本当に幼子のようだと、煉獄の顔には至極上機嫌な笑みだけがあった。
 いろいろと不器用が過ぎる冨岡の習性は、冨岡を冷淡だとか高飛車だとか判ずる者では、気づきもしないだろう。同じ柱であっても自分だけがこんな冨岡を知っていると思えば、煉獄は、黙々と蕎麦をすすっている冨岡を見つめながら、優越感すら覚えもした。それぐらいは自慢に思ってもいいだろう。煉獄は優越の笑みを隠さない。
 とはいえ残念ながら、煉獄は冨岡の笑顔を見たことがない。渾身の冗談は心配されて終わってしまった。胡蝶は、以前に好物を前にした冨岡の笑顔を見たことがあるそうだが、煉獄はまだその機会に恵まれずにいる。まったくもって羨ましいかぎりだ。
 冨岡について知らないことはまだまだ多いのだ。笑顔ひとつすら見せてもらえていない。ささやかな優越感を積み重ねていくのだけが、冨岡との心の距離を測る術だった。

「不死川は悪くない」

 食べ終えた冨岡は、ようやく口を開いたかと思えば、そんなことを言う。いつも通りの無表情に見えるが、声は少し勢い込んでいるように感じられた。
「ふむ。たしかに俺はちょうど席を外していたから、きっかけがなんなのか知らん。なのに不死川の短気のせいにしてはいかんな。冨岡、なにがあったんだ?」
 いつものように冨岡にはなんの悪気もなく、ゆえに、いつものごとく理由もわからぬまま怒られたと冨岡も思っているものだと、煉獄は考えていた。だというのに、これだけはっきりと不死川をかばうとは。少々妬けるなと、胸のなか独りち、煉獄はじっと冨岡の目を見据えた。
 煉獄の視線を真っ向から受けても、冨岡は目をそらさない。
「余計な世話を焼いた」
「君が?」
 思わず食い気味に言った煉獄に、責められたとでも思ったのだろう。冨岡の肩が心なし落ちた。そんな冨岡の様子にこそ、煉獄は少しばかり慌ててしまう。
「責めたように聞こえたのならすまない! 君が不死川の世話を焼くとは、めずらしいこともあるものだなと、思っただけだ」
 冨岡がやさしい男だということは承知している。けれどもそれは、自ら積極的に関わっていくたぐいのものではない。ましてや、相手は冨岡を避けがちな不死川だ。本音を言えば、少々だった悋気が、かなりに変わるぐらいには、不死川が羨ましい。
 だが、それを冨岡に伝えたところで、煉獄の好意の意味合いを、冨岡が理解してくれるとはとうてい思えなかった。
 冨岡はどうにも色恋にはうといようなのだ。ありていに言ってしまえば鈍感だ。隊士のなかには、冨岡への憧れを隠さぬ者だっているというのに、自分に向かう秋波に冨岡はちっとも気づきやしない。
 よくもまあ、男娼役など引き受けたものだ。堂に入ったあの夜の冨岡を思い出すと、普段との落差に思わず苦笑しそうになる。
 とはいえど、煉獄とて物心ついたころから悪鬼滅殺の道を邁進するばかりで、男女の仲など意識したことはない。実際のところ、冨岡が初恋でもある。恋人になりたいなどと願うほど、特別に誰かを想うのは、冨岡が初めてだった。
 恋愛の駆け引きなど、得手ではない。というよりも、よくわからない。けれど、自分以上に初心うぶに見える冨岡を、怯えさせるのも避けられるのもまっぴらならば、多少は戦術も要さねばならないだろう。恋敵になりそうな御仁がいないわけでもないのだ。
 あちらは冨岡を苦手としているようだが、不死川や伊黒のことを、冨岡が気にしているように見受けられることは、ときおりあった。同じ年齢だからだろうか。それが冨岡が二人を意識する理由なら、たった一つの年齢差が恨めしくもある。

 冨岡にはさとられぬよう笑みを浮かべたまま、内心では「『鳥刺しは端を狙え』と言うそうだからな。危険な芽は早めにどうにかしなければ」などと、少々剣呑なことを煉獄は考える。

 もちろん、不死川たちに敵意を向けるつもりは微塵もない。二人が万が一にも冨岡に懸想などせぬよう、そろそろ自分の恋心を二人にも打ち明けてみようかと、思ってみただけのことだ。
 宇髄にはなぜだか筒抜けだったようだが、ほかの柱たちには、己の恋心はまだバレてはいないらしい。身なりは派手だが宇髄は口が堅い。知られたのが宇髄でよかったと煉獄は安堵していた。
 冨岡に想いを告げる前に人に知られるのは、少々気恥ずかしい。なにせ、恋をしてからというもの、冨岡と親しくなろうとしてきた努力は、我ながら涙ぐましい気がするのだ。さして興味もなかったのに、冨岡が好んでいると知ったその日に将棋盤を買い込み、有名な対局だの将棋指しの言葉などまで頭に叩き込むぐらいだ。ときおり、さすがにこれは的はずれな努力だろうかと、首をひねることさえある。自身でさえそんなことを思うぐらいだ。人に知られればそれなりに恥ずかしさだって覚える。
 人を通じて冨岡に自分の想いが伝わってしまうのも、いささか困る。告白は男らしく己の口でしたい。冨岡の瞳を見つめて、想いの丈を余さず己の言葉で伝えたいものだ。
 だが、恥ずかしいのなんのと言ってもいられない。冨岡の心がほかの誰かに向かってしまってからでは遅いのだ。
 胸中で、さて不死川たちにどのように話をもっていくかと、つらつらと考えていた煉獄は、唐突な冨岡の言葉に思わずポカンと目を見開いた。

「煉獄のようにできたら……こうして一緒にいても、煉獄に恥ずかしい思いをさせずにすむかと思ったんだが……」

 今、冨岡はなんと言ったのだろう。すぐには意味が飲み込めず、めずらしく自失した煉獄に、冨岡は誤解を深めたようだ。
「すまない。せめてもう少しマシになれれば、煉獄に迷惑をかけることもなくなるだろうと、がんばってみたんだが……俺には無理だったらしい」
「迷惑とはなんのことだ? 俺は一度だって君を迷惑がったことなどない! 恥ずかしいなど思ったことは一度もない!」
 あまりにも思いがけず、煉獄にしてみれば素っ頓狂すっとんきょうとしか言いようのない発言に、泡を食ってつめ寄れば、冨岡の眉尻がいかにも悲しげに下がった。だが常にはない表情を目にしても、喜ぶどころではない。誤解されるのは勘弁願いたいし、悲しい顔では喜べやしないではないか。
「迷惑だろう? 煉獄はやさしいから、俺にも話しかけてくれるし、こうして飯に誘ってもくれる。だが、ただでさえ忙しい身だ。俺と過ごして時間を無駄にするなど」
「無駄なわけがないだろうっ!」

 店内のざわめきが、ピタリと止まった。

 煉獄は元来声が大きい。怒鳴り声ともなれば、店内の壁がビリッと震えたかと思うほどだ。客の視線が一斉に驚きや不安をあらわに注がれるのも、致し方ないことかもしれなかった。
 二人とも食事は済んでいる。人目を気にするたちではないが、込み入った話をするのに衆目は邪魔だ。

 そういえば、ここは蕎麦屋だった。蕎麦屋といえば……。

 チラリと煉獄は店内に視線を走らせた。目の端に留まった階段に下した決断は素早い。立ち上がり冨岡の腕を取る。
「行こう。話がしたい。主人! 二階の部屋を借りる!」
「煉獄?」
 ピュウッと口笛を吹いたのは誰だろう。なんだ男同士で痴話喧嘩かと呟く声が聞こえた。残念ながら外れだと、煉獄は内心で苦く笑う。

 痴話喧嘩など、まだまだ先の話だ。冨岡との仲には、少なくとも冨岡には、まだ色恋の気配などない。悲しいことに。
 いっそ痴話喧嘩ならいいのにと、思ってしまうほどには、まだなにもないのだ。