流れ星 【加筆修正版】

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「君の言葉足らずの理由が、だいぶわかってきたぞ!」
 言ってクスリと笑った煉獄に、腕のなかで冨岡が怪訝そうに小首をかしげた。

 今日の店は当たりだ。蕎麦はうまかったし、部屋は掃除が行き届いている。布団はやわらかく二人の体を受け止め、お日様の匂いがした。
 夏の苛烈な陽射し差す窓辺に寄りかかり、冨岡を背後からやんわりと抱きかかえていた煉獄の手が、ゆるりと持ち上がり、冨岡の唇に触れた。トンッと指の腹で唇を軽く叩く仕草は、どことなし悪戯めいている。
 ミーンミンミンと蝉が鳴く声がする。盛夏を迎えようとする八月の陽射しは熱い。呼吸を極めた二人の肌は、すでに乾いていた。
 布団の上で交わりあっている最中は、そうもいかない。陽を遮るものもない締め切った部屋だ。最低限の呼吸は保つものの、二人とも全身汗みずくで、乾いて心地よかった布団は悲惨なありさまとなっている。
 房事のあいだは気が急き、いつでも慌ただしい。脱ぎ捨てることのできない隊服も、たっぷりと汗を吸い湿っている。二人とも交わるときは必死で、甘やかな睦言を交わす時間もろくになかった。
 欲は晴らしたとはいえ、若く健康であり、冨岡を熱愛する煉獄にとっては、一度きりの交合ではまったくもって足りやしない。できることならば、幾度でも挑みかかりたいところではあった。だが、逢瀬に使える時間は悲しいほど短い。ともに高みに昇りつめたあとは、未練を残しつつも身支度をするのが常だ。
 けれども離れがたさはいかんともしがたい。鴉が鳴くまで、最低限の睡眠を取れる時刻までと、いつでも飛び出せるようにしつつも、つい長居をするのが二人の逢瀬のお定まりとなっていた。

 トントンと悪戯に叩く指先に冨岡は、少しばかり機嫌を損ねたようだ。わずかに尖らせた唇がすねている。けれども、背を預けた煉獄の胸から離れようとはしない。
 もう少しこのままでとの切ない願いは、冨岡の胸にもあるのだと思えば、煉獄の顔はとろけんばかりの笑みで埋め尽くされる。
 情事のあとの会話は、主に冨岡の昔話だ。冨岡が自ら口を開くことは滅多にないので、煉獄がねだって聞かせてもらっている。隊士となってからの話はごく少ない。後輩の柱としては任務の経験談も聞きたいところではあるが、それ以上に幼い日々のなかにある冨岡が知りたかった。
 今日の逢瀬も、会話は子供のころの冨岡の話だ。どうやら言葉足らずも遠回りが過ぎる説明も、幼いころから変わらぬらしい。いや、幼いままと言うべきか。

「君は本当に姉上に愛されていたのだな」

 煉獄を振り返り見て、また冨岡はコテリと首をかたむけた。煉獄の悪戯な指に叩かれつづけている唇を、会話に開くつもりはないようだ。ここから先は駄目だと牽制しているようにも見える。
「君の口下手の原因は、周りの大人が先回りして意を汲んでくれたり、辛抱強く話を聞いてくれることへの違和感がなかったからだな。君の姉上は君のことが可愛くてたまらなかったとみえる」
 冨岡の口下手は、実のところ信頼や甘えが発露になっていると、煉獄は思っている。両親を幼くして亡くした弟を、冨岡の姉は溺愛していたのだろう。幼児のようなままの話をうまく汲み取り、不都合を与えなかったのに違いない。
 子供のころの冨岡に友人が少なかったことも、煉獄はもう知っている。同じ年ごろの子らと話す機会が少なければ、口下手にも拍車がかかったことだろう。
 子供というのは残酷なまでに口さがなかったりするものだ。歯に衣を着せない。おまえの言うことはわからないと、切り捨てられたり怒られたりすれば、冨岡もうまく伝えようと努めていただろう。裕福な家庭であったようだし、冨岡にはそんな経験が少なかったに違いない。
 おまけに育手はずいぶんと鼻が利くという。感情の機微までをも嗅ぎ取れるというのだから、恐れ入るばかりだ。そんな育手であれば、冨岡の言葉足らずも問題がなかっただろう。矯正する機会はなかったのだろうなと、煉獄は胸のうちだけで思い、フフッと笑みを深めた。
「君の親友は怒らなかったのか? 竹を割ったような性格で、男らしいんだろう? もっとシャッキリ喋れと怒りだしそうなものだが」
 トントンと唇を叩きながら問えば、冨岡の眉間がムゥッと寄せられた。唐突に開いた唇が、パクリと煉獄の指を食んだ。
「はひほはほんなほほひああひ」
「うむっ、なにを言ってるんだかさっぱりわからん!」
 冨岡はカプカプと指を噛んでくるものの、まったく痛くはない。甘噛みする歯先は文字どおり甘えを含んでいた。
 駄目だとかたくなに口を閉ざしていたくせに、チュッと吸い付き、上目遣いにチロリと見つめながら舌先で指をくすぐってくる冨岡に、煉獄の腰がズクンとうずいた。意趣返しの効果は抜群だ。まったくいつのまにこんなことを覚えたのだろう。
 だが、やられっぱなしは性に合わない。すぐに煉獄は反撃に出た。
「ふっ、ぅん」
 指を押し入れ、上顎をそっと撫でさすってやると、冨岡が鼻にかかった声をもらした。たちまち瑠璃色の目は潤んだが、流される気はないらしい。キッと睨んでくる瞳に苦笑して、煉獄はそろりと指先を引いた。
「人の口に指など入れるな」
「噛んできたのは君だろう? 接吻は許してくれないだろうからな、これぐらいはさせてほしい」
「……駄目だ」
 ほんの少し言いよどみながらも拒絶を口にする冨岡に、煉獄は軽く肩をすくめた。冨岡の生真面目さは好ましい。煉獄にしても恋人らしいやり取りがしたいだけで、本気で接吻する気はなかった。唇をあわせてしまえば、また簡単に欲に火がつく。どんなに強固な理性と自制心を駆使しても、官能を知った若い肉体を抑えるのは苦労するのだ。次はいつ逢えるのか、約束などできやしないからこそ余計に、触れてしまえば熱は抑えがたい。

「……接吻したら、離れたくなくなる」

 ポツリと聞こえたつぶやきは、蚊の羽ばたきよりもなお小さく感じたが、煉獄が聞きもらすわけもない。けれどもすぐには、冨岡の発言だとは思えなかった。
「まったく同じことを考えていた。俺がうっかり口を滑らせてしまったのかと思ったぞ。離したくないのが俺だけでなくてよかった」
「……馬鹿」
 またカプリと指を噛んできた冨岡に、煉獄はやわらかく相好を崩した。我ながらだらしのない顔になっていることだろう。内心で思い、少しだけ自重しようとしたが、上目遣いにすねた眼差しを向けられ小さくつぶやかれては、笑みを消すことなど不可能だ。
「俺だって、同じに決まっている」
 強引に唇を奪ってしまわなかっただけでも、褒めてもらいたいぐらいだ。
「うん……うれしい、冨岡」
「ん……」
 ギュッと抱きしめ冨岡の肩口に顔を埋めれば、スリッとあどけない仕草で頬ずりしてくる。
 生を謳歌する蝉の鳴き声がする夏の昼下がり。窓を締め切られた室内には、青臭い性と汗の匂いが満ち、眩しすぎる陽射しが二人を照らしている。煉獄のかけがえのない幸せは、腕のなかにあった。

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