東の空がうっすらと白みだした枯野を、煉獄と冨岡は手をつなぎ歩く。
もう誰もいない枯れた草原を照らすのは、それでもまだ月明かりだ。紫がかりだした夜明け前の空では星々が、チカリチカリとまたたき、囁きを交わし合っているかのようだった。常になくゆっくりと歩む二人の足元で、カサリ、カサリと、枯れ葉が音を立てる。虫がどこかで小さく鳴いていた。晩秋の野に遠くひびくかそけき虫の声は、なにがなし悲しい。この声をかぎりに息絶えるのだろうか、だんだんと遠間に消えていく虫の音は、それでも、まだ終わらぬと生にしがみつく強さを秘めている。
静かな、秋の夜明け前。自然、常には大きな声で話す煉獄の声音も、静かなものとなっていた。快活で朗らかな声は、こんな星月夜には似合わない。
「……そういえば、さっきの隊士には悪いことをした」
「さっき? あぁ、佐分利隊士か。君はなにもしていないだろう?」
唐突な冨岡の発言は、いかにも申し訳なさげで、少しだけ煉獄はふてくされた気分になる。二人きり手をつなぎ、甘い余韻を抱いて歩いているのに、恋人に秋波を送る者の話などしたくはない。
「いや……思い出したが、彼女には少しばかり借りがある」
「借り? いったいなんの?」
冨岡が誰かに借りを作るなど、すぐには信じられない。ましてや相手は接点などまるでないだろう新任隊士だ。なにがあったのかと眉を寄せる煉獄の小さな不機嫌を感じ取ったか、冨岡がわずかに言いよどむ気配を見せた。
「義勇?」
「……名前を呼ぶのは、蕎麦屋で逢うときだけにしようと決めただろう」
「ふむ、たしかに約束したな。俺としてはいつでも君に名前で呼ばれたいが」
「思い出すから駄目だ」
夜目にも赤らんだ頬をして、冨岡は煉獄以上にすねた様子を見せるから、煉獄はつい苦笑してしまう。甘ったれな子供めいた自分を見せることを認めはしたが、冨岡の生粋の弟気質には負ける。長男の自分はどうしたって甘やかしてしまう側なのだと、へそを曲げてしまったらしい冨岡を見つめながら実感が煉獄の身に染み渡った。
「だが、いつかは許してくれるだろう? それを楽しみにするとしよう。で? 佐分利隊士となにがあった?」
ごまかされないぞと、じっと見つめれば、圧に負けたか冨岡は小さな声でせわしなく言った。
「蝶屋敷に傷薬の補充に行ったときに、あの隊士がほかの者達と話しているところに出くわした。ボッカチオという浅草オペラを見たとかなんとか話をしていて、恋しい人と聞きたいと歌いだしたんだが……その、それが気になって、声をかけた。俺は覚えていなかったが、救援に向かった際に助けたことがあるらしい。今の歌を教えて欲しいと頼んだら、礼にだろうが快く歌ってくれた。……煉獄? あの、やはりこういうのはよくなかっただろうか。柱の威を振りかざしたようなものかもしれないが、彼女もなんだかうれしそうだったから……つい、これぐらいは大丈夫だろうと思ってしまった」
ムゥッと不機嫌さをあらわにしてしまった煉獄に、冨岡がしょんぼりと肩を落とす。いかんと内心慌てもしたが、どうにも先までのわがままな自分を抑えきれない。とはいえ、冨岡には自分が彼女から好意をもたれている自覚などないのだから、責めるのは酷というものだ。
小さく溜息をつくと、冨岡は首をすくめて煉獄の様子を上目遣いにうかがってくる。
「冨岡、どんな曲なんだ?」
努めて穏やかに笑いかければ、冨岡は幾分ホッとした様子で、それでもなんだかまだ逡巡しているようだ。
「冨岡?」
ん? と顔を覗き込んで促せば、冨岡も溜息をもらし、いかにも不承不承につぶやいた。
「その……『恋はやさし野辺の花よ』とかいう曲で、聞いたとき、なんとなく煉獄を思い出して……」
「俺を?」
曲名からして恋歌のようだが、それを聞いて思い出すのが自分だとは。不機嫌さなど吹き飛んで、思わず声を弾ませた煉獄に、冨岡は羞恥をにじませコクンと幼い仕草でうなずいた。
「我が心の……ただ一人、と……」
冨岡の頬を染めた赤は、もはや首筋にまでおよんでいる。歓喜と衝撃が胸を貫いて、煉獄の顔も冨岡に負けず劣らず熱くなっていた。
「……いい曲だったのか?」
「そうだな……いつか、煉獄と舞台を見に行けたらいいと思った」
少しだけ頬を緩めて言う冨岡の雰囲気は、落ち込みが消えホワリとしている。はっきりとした笑みこそ浮かべぬものの、なんだかうれしそうだ。
「いいなっ。いつか必ず行こう。だが、その前に君が歌ってみてくれないか? 君の好きな歌を知りたいと言ったことがあっただろう? ちょうどいい機会だ」
ピッと肩を跳ね上げブンブンと首を振る冨岡に、煉獄は稚気を抑えられず、笑って冨岡の顔をなおも覗き込む。駄目か? と視線でねだれば、諦めたのか冨岡は下手だぞと言いおき、小さく口ずさみだした。
――恋はやさしい 野辺の花よ 夏の日のもとに 朽ちぬ花よ
初めて聞く冨岡の歌声は小さく、ためらいがちではあったが、やわらかくやさしい。
夜明けが近づく星月夜に流れる恋のうた。やさしく甘い冨岡の声。歩みは止めぬままに。
――熱い思いを 胸にこめて 疑いの霜を 冬にもおかせぬ
満たされていく心には、疑いはもう欠片もなく。ただ甘やかな愛おしさが募る。
冨岡という水を注がれて、恋の花が匂い立ち咲き誇る。
――わが心の ただひとりよ
「……おしまいだ。二番は、あの隊士もまだ覚えていなかったから、俺も知らない」
歌いやみ、照れ隠しにか少しばかりそっけなく冨岡は言う。
なんだか胸が詰まって、煉獄はすぐには返事ができなかった。甘い恋の歌だ。たった一人を想う曲。それを聞いて冨岡は、自分を思い浮かべてくれたのだ。幸せの波にさらわれて、また煉獄の瞳に涙が浮かびそうになる。
「……いつか、一緒に舞台を見に行ったときに、覚えればいい。レコードが出ていたら、それも買おう。君と聞きたい。そうだ。歌舞伎に興味はないか? いつか、二人で観に行けたらと思っていたんだ」
「……うん。歌舞伎もオペラも、煉獄となら楽しいと思う。いつか行こう。約束だ」
「あぁ」
次に逢うときには、冨岡は笑ってくれる。いつか、冨岡にコマ回しやメンコを教えてもらうのだ。名前で呼びあう日だっていつかくる。押し花だって作ろう。いくつもの約束は、いつと定かにはできずとも、冨岡は必ず叶えてくれるはずだ。
二人の顔がしわだらけになり、刀を握ることすらできなくなってからになったとしても。
死は常に互いの傍らにあり、ともすれば一つも果たされぬまま、明日、終わるとしても。
いつかと、煉獄も冨岡も、はたから見ればくだらなく他愛ない約束を、何度も口にする。
語る言葉は、ポツリ、ポツリと、交わされる。短な言葉の応答は、星のまたたきに似て、穏やかでやさしい。
ふと煉獄が足を止めた。
「煉獄?」
冨岡の呼びかけに応えず、煉獄は冨岡の手を引いたまま、また歩きだした。横にそれた進行方向に、冨岡は当惑した様子でパチパチとまばたきしているが、重ねて問うことなく素直についてくる。
「一つ、約束を守れるな」
ふたたび足を止めた煉獄が振り返り笑うと、冨岡の頸がコテンとかしげられた。
幼い仕草にクスリと笑い、煉獄はその場にしゃがみ込んだ。手を繋いでいる冨岡も、自然、膝を折る。
更待月の青白い光だけを頼みとしていた先程よりも明るくなってきているとはいえ、まだまだ薄闇が枯野を支配している。だというのに、我ながらよく見つけられたものだと、煉獄は小さく微笑んだ。
子供のように二人でしゃがみ込んだ視線の先、ひそりと佇む一輪は、夜明け前の今、いくつかついた蕾も固く閉じている。日の下でしか咲かぬ花、竜胆だ。
冨岡の怪訝そうな眼差しを横顔に感じながら、煉獄は竜胆に手を伸ばした。花の時期はいくぶん過ぎている。それでも健気に咲こうとしているものを手折ることに、少しのためらいをおぼえぬでもなかった。それでも、今このときに、この花を見つけたのも縁だろう。思い定め摘み取った花は、常日頃握る日輪刀とは比べ物にならぬほどに細く、頼りない。けれど、不思議と重く感じられる。
「本当は、君に告白するときにはこの花を手渡して、好きだと告げようと思っていたんだ」
「……竜胆を?」
「覚えているか?」
なにを? と、冨岡は聞かなかった。まばたき一つのあいだに記憶を辿ったらしい冨岡は、ほんのわずか憮然とした気配をただよわせ、小さくうなずいた。煉獄はフフッと忍び笑う。
「君に竜胆と名付けた人は見る目がある」
「……目の色だけだろう」
潜入任務で男娼のフリをしていた際に、冨岡は竜胆の君と呼ばれていた。煉獄は冨岡に似合いの綽名だと得心したが、冨岡自身にはなんの感慨もないらしい。声はいかにもそっけない。
「たしかに竜胆の花は、アヤメ同様、君の瞳の色を思い出す。だが、君が竜胆と呼ばれたわけはそれだけではないと、俺は思うがな」
手折った竜胆を見つめる眼差しを、静かに冨岡へと向け、煉獄はほのかに笑った。
「竜胆の花言葉を知っているか?」
「花言葉? アヤメ以外も調べたのか」
竜胆と煉獄を軽く見比べた冨岡が、少しばかり呆れを増した顔をする。煉獄は笑んだままうなずいた。
「うむ! 君に贈る花に、悪い意味があってはいけないからな。君だけ知っているというのも悔しかった」
素直に言えば、冨岡は心なしバツ悪げに視線をそらせた。ささやかな反応の意味を図りかね、煉獄がじっと見つめていると、冨岡はどこか諦めに似た溜息をついた。
「白いアヤメしか知らない」
「あの花だけなのか。なぜ?」
「……姉さんが教えてくれた。求婚された日に、大事そうに抱え帰った白いアヤメをうれしそうに活けながら」
冨岡の姉は、婚礼の前日に鬼に殺されたと聞いた。きっと求婚の言葉は白いアヤメの花言葉だったに違いない。冨岡の義兄となるはずだった人は、ずいぶんと伊達者だったのだろう。
「……俺も、そうしようと思った。姉さんがこんなにも喜ぶのだから、俺も、大事な人ができたのなら、必ず白いアヤメを贈ろうと……」
ボソボソと独り言めいた呟きは、いかにも恥ずかしげだ。声も小さすぎる。けれどもその告白は、煉獄の胸を稲妻のように貫いた。全身が歓喜に震える、乾いたはずの瞳がふたたび濡れそうになった。
白いアヤメを押し花にしたそのとき、冨岡の想いはまだ信仰心が勝っていたかもしれない。それでも、紛れもなく深い想いを煉獄に対して抱いてくれていたのだ。求婚の花を、煉獄に送ってくれた。
あなたを大事にしますと告げる花を、煉獄はまだ冨岡に贈れていない。今その手にあるのは、冨岡に似た一輪の竜胆だ。
「……竜胆の花言葉は『正義』だそうだ」
「正義……」
「君の名だな。正義と勇気、君にふさわしい名だ」
無表情のまま、冨岡の瞳が揺れた。少しふせられた瞳の意味は、煉獄にはわからない。一つではないから、冨岡の心をすべて悟ることはできない。けれど二人だから抱き合えるのだと、冨岡は言ってくれた。だから煉獄の笑みが消えることはない。
「それと、もう一つ」
蕾のままの竜胆をそっと差し出し、煉獄は言った。
「『悲しんでいるあなたを愛す』……冨岡、君の悲しみや苦悩も丸ごと全部、俺は愛したい。君を、誰よりも愛している」
息を呑む冨岡を見つめ、煉獄は軽やかに笑った。
「君が悲しむ様を見たいわけじゃない。君には笑っていてほしい。だが、悲しみのなかでも凛と立つ君も、その悲しみごと抱きしめたいんだ。ともに走り、戦い、笑って泣いて、同じ時を生きたい。いつか、君が自分を卑下する理由を教えてくれ。俺にも一緒に背負わせてほしい」
恋はやさしい野辺の花。であれば、この花こそが我が恋だ。冨岡の瞳を思わせる花。冨岡の生き様を示す花。日の下でしか咲かぬこの花を、君に。我が心の一人である、君に贈ろう。君の笑顔を咲かせる日輪に、なってみせるとの誓いを込めて。
差し出された竜胆を、冨岡はじっと見つめている。繋いだままの手に、わずかに力が込められたのを感じた。そっと竜胆を受け取った冨岡の手は、少しだけ震えていた。それでも。
「俺も……おまえの悲しみも、つらさも、全部受け止めたい。ともに背負いたい。煉獄……好きだ」
煉獄を見返す冨岡の瞳はまっすぐで、声は小さくとも、強かった。
あぁ、笑ってほしい。いつか、平穏な日々のなかで。晴れやかな空の下でも、安穏とした夜の帳のなかでも。できることなら、傍らで。
けれど。
「なぁ、冨岡……」
ゆっくりと立ち上がり、静かに呼びかけた煉獄に、冨岡もコトリと小首をかしげながら立ち上がった。竜胆をぎゅっと胸元で握りしめる、幼い仕草が愛おしかった。
言うべきではないかもしれない。それでも、煉獄はやさしく冨岡を見つめたまま、握った手に少しだけ力を込めた。
「もし俺が先に死ぬことがあっても、君はまた恋をしてくれ。幸せだと笑える恋をしてくれ。一途に思われればそれは俺にとっては誇らしく幸せなことだが、どうにも心配でならぬのでな。……いや、すまん。少し嘘だ。君が幸せであることが、俺にとってはこの上ない幸せなのだ。俺とでなくてもいい。君には幸せな恋をしてほしい。これからも、俺がいなくなっても、ずっと」
大きく見開かれた冨岡の瞳に、わずかに切なく煉獄は苦笑する。
「……なんで」
ただ一人と歌に込めた想いを聞き、愛を囁き交わした今、なぜ、そんなことを口にするのか。冨岡の瞳が雄弁に語りかけてくる。
煉獄とて、こんなことをかねてから思っていたわけではない。けれども、ふと思ってしまったのだ。もしも自分が先に逝くことになったのなら、冨岡はまた、誰とも関わるまいとするのではないかと不安になった。
ゆめゆめ鬼に後れをとるつもりはない。けれど、鬼との戦いに絶対はないのだ。
「俺もそうする。もしも君に先立たれることがあったとしても、悲しみ続けたりはしないと約束する。君を想うことはやめられないだろう。君への恋を抱いたままでいることを許してくれる人でもなければ、きっと恋仲になどなってはくれないだろうな。それでも、俺はちゃんとまた恋をすると約束する。神様だからじゃないぞ? 君に、笑っていてほしいからだ。俺が鬱々と嘆き悲しんで暮せば、君は自分が先に死んだからだと、彼岸でも自分を卑下して過ごしてしまいそうだからなっ。それは俺も悲しい!」
笑う煉獄に、冨岡は悲しげに眉を寄せたが、それでもやがてそっとうなずいた。
「よし! それじゃこの話はおしまいだ! ……あぁ、夜が明けるな」
気がつけば東の空が赤らんでいる。冨岡の瞳を思わせる夜空と、煉獄の瞳に似た朝日が、溶け合い混じり合う時刻だ。
また、命を賭けた一日が始まる。
しばらく二人無言で昇る朝日を見つめていた。フッと息をついたのは、どちらが先だっただろう。
「冨岡は一休みしたらまた警邏か?」
「あぁ……煉獄は?」
「俺はお館様に呼ばれている。夜が明けたら屋敷にとの仰せだ。新しい任務だろう」
煉獄の口調は何気なかったが、冨岡の表情はてきめんに険しさをたたえた。
「……上弦か?」
「かもしれん」
お館様直々の命であれば、上弦ならずともそれなりに厄介な鬼であるのに違いはなかろう。冨岡の手にも力がこもって、言葉もなくどちらともなく二人は向き合った。
ゆっくりと閉じられていくまぶたに合わせて、顔を近づけあう。接吻は、ほんの一瞬の触れ合いだった。
「では、またな!」
「あぁ……また」
恋人同士の甘さをその場に残し、タンッと同時に地を蹴った二人は、別方向へと走り出す。
また、と、いつものように次を約束する言葉をかわして。