囁きは、唇が触れ合いそうな距離で紡がれた。
その場に留まる冨岡の唇に、煉獄は知らず飢えた獣の唸り声をあげる。たまらず噛みつくように唇を噛み合わせれば、すぐに冨岡は舌を差し入れてきた。
空はいまだ暗く、またたく星に埋め尽くされている。ほぼ半円な月は先よりも西へとかたむいてきていたが、空の支配を日輪へと譲り渡すまでいくらか時間はある。
とはいえ、いつ何時鴉が鳴くかわからないのは、常の逢瀬と同じことだ。余裕などありはしない。
鬼を斃したらそれでおしまいとはいかぬのが鬼狩りである。怪我がないのならすぐにも警邏を再開するか、次の任務に向かう。それが柱の務めだ。だというのに、よくもまぁあんな仕儀に出られたものだ。
心底呆れた男だと己をなじっても、口吸いを止められぬのに、嫌気がさす。絡みついてくる冨岡の舌に応えつつも、煉獄は胸中で苦く呻いた。
これでは柱などと名乗るわけにはいかないとの後ろめたさは、まだ煉獄の腹のうちでくすぶっている。激流のような欲情は、煉獄を飲み込みさらおうとするが、これ以上醜態は晒せないと理性が囁いてもいた。
いつもよりもためらいがちな煉獄の舌に、冨岡はといえば、じれた様子もない。煉獄のよりも薄い舌は、どこか楽しげに動いている。それでも常日頃の逢瀬とくらべれば、煉獄の口中でうごめく舌はたどたどしかった。
慣れて久しい行為だが、初めて自分から舌を差し入れてきた冨岡にしてみれば、勝手が違うのだろう。常ならば、舌を遊ばせ合うのは冨岡の口内だし、積極的に先導するのは煉獄のほうだ。大概の逢瀬では煉獄の我慢が効かずに、そそくさと冨岡の甘い口へと舌を差し入れるのだから、それも当然かも知れないが。
「……興が乗らないか?」
「君から誘われているのだ、抱き潰したいぐらいに決まっている! ……だがその、こんなことをしている場合では」
唇が離れるなり熱い吐息まじりに囁かれた文言に、煉獄は慌てて首を振った。心ならずも眉がへにゃりと下がる。どの口が言うとねめつけられてもしかたのない発言だ。煉獄は内心でほぞを噛む。だがしかし、我ながら正論であるのに違いはない。さすがにこれ以上はまずいだろう。
なのに冨岡は、淡々と「抱き潰されるのは困るな」とつぶやいて、あまつさえ、むき出しになったままの煉獄の雄に触れてくるではないか。あぁ、目眩がする。煉獄は思わず天を仰いだ。
「……固くなってるな。よかった」
「なにがっ!?」
「ナニがだが?」
「説明してくれと言っているわけではないのだがっ!? そうじゃなく、固くなってはいかんだろうと言っているんだがっ!」
「触ってるのに固くならなかったら、そのほうが問題じゃないか?」
「うむ! それはそのとおりだな! いや、そうでなく!」
流されてしまうには先の後悔は深すぎた。慣らしもせずに挿入した挙げ句に、配慮などまるでない激しさで犯したばかりだ。任務への責任感もさることながら、冨岡の体への心配がまさった。
「ごちゃごちゃとうるさい。喧嘩両成敗だ。互いに痛い思いをしたら、謝って仲直り。おまえも大人しく抱かれとけ」
「よもやっ!?」
抱いてくれと言われたはずだが、まさか自分が抱かれる立場になるのだろうか。それもまたやむなしと思いはするし、冨岡が望むのならばとの覚悟もなくはない。だが心の準備などまるでできていなかった。自分が抱かれることなど一度たりと煉獄は考えたことがないのだ。とはいえ……。煉獄はうぐぐと喉の奥で唸った。
冨岡とてれっきとした成人男性なのだから、男としての本懐を遂げたいと願うこともあっただろうに、煉獄との恋に落ちたばかりに抱かれる側に甘んじてくれているのだ。ここは潔く尻を明け渡すしかなかろう。だがしかし、初めて抱かれるのがこんな場所なのはいかがなものか。それこそ、おまえが言うなと睨まれそうだけれど、初めて冨岡を抱いた日のてんやわんやな一幕を思い出すと、煉獄の背には冷や汗だって流れる。
盛大にうろたえる煉獄をしりめに、冨岡は愛撫の手を止めない。タコのできた固い手のひらでやんわりと揉み込んだかと思えば、早くも濡れだした先端をグリグリと指でこすってくる。いつもよりもいささか無造作な刺激は、興奮を掻き立てながらも不安も生んで、煉獄は我知らず目を閉じ奥歯を噛みしめた。
もはややけくそ気味に、恋しい人の望みに見事応えてこそ男だろうと腹を決め、煉獄は、そろりと冨岡の肩に手を置いた。無意識に冨岡のいつもの仕草を真似ていることには気づかぬまま、煉獄が呼吸を整え冨岡の肩に額を落とすと、クスリと笑う気配がする。
とっさに視線をあげたが、冨岡はもうしれっとした無表情だ。笑みを消すのが早すぎる。よくよく見られたくないらしい。少々呆れるほど、冨岡は徹底して煉獄に笑みを見せまいとしているようだ。
約束したからには、次の機会に冨岡は必ず笑いかけてくれるはずだが、今宵は絶対に見せてなどやるものかと思い定めているに違いない。それだけ怒っているのだと思えば、煉獄もしょんぼりと肩を落とすよりほかなかった。
「安心しろ。やさしくしてやる」
「……お手柔らかに頼む」
我ながら情けのない声だ。チロッと見上げてみた冨岡の顔は、常と変わらぬ冷静さだが、それでも唇の端がピクピクと痙攣している。笑いたいのならいっそゲラゲラと大笑いでもしてくれと、煉獄の眉尻は下がる一方だ。
恋人たちの情事とは思えぬ悲壮感を振り払おうとするあまり、しかつめらしく顔をしかめた煉獄を、冨岡は無表情なのに笑っているのが筒抜けな顔で見つめてきた。器用なものである。いろいろと不器用がすぎるくせにと子供じみてふてくされそうになる端から、わかるのは俺だからだという優越感も湧くのだから、己のことながら度し難い。
体をずらした冨岡が、羽織をするりと脱ぎ捨てた。奉仕してくれるつもりなのだろう。四つん這いになった冨岡の、油にまみれた白い尻がぷるんとさらけ出され、煉獄はギクリと肩を強張らせた。
そういえば安否ばかりが気にかかり、処理や身じまいをしてやることなどすっかり頭から抜け落ちていた。座り込んだままの煉獄は、洋袴の前立てこそ外され昂りがさらけ出されているが、着衣の乱れはさほどない。けれども冨岡の下半身はむき出しのままだ。完全に脱がせてやることもせず、膝のあたりまでおろしただけの洋袴のせいで、動きづらそうにしている。引き締まった太ももには、垂れ落ちた欲液がこびりついていた。凝視しているあいだにも、ツッと白濁がまた一筋腿を伝っていく。
「さっきよりも大きくなったぞ? ……期待してくれているのか」
「違う! いや、違うとばかりも言えんが、君が思うような理由じゃないっ!」
しかたないではないか。目の毒としか言いようのない光景が目の前にあるのだから。本心では受け入れる側になりたかったのかなどと誤解され、立場を入れ替えようかとでも言い出されては、どうしたらいいのかわからない。嫌だ、抱きたいと、泣きわめいてしまいそうだ。
男としての自負や矜持を持ち出せば、今まで折れてくれていた冨岡を愚弄することになる。抱かれるのは勘弁してくれなど言えやしないのは事実だが、それでも冨岡との目合いは、できることなら抱く立場でありたい。腕のなかで甘え乱れる冨岡を見るのは、煉獄にとっては肉体の快楽以上に法悦の極みなのだ。手放すのは耐え難い。
「期待に応えられるかはわからないが、頑張る」
「いやだから……くぅっ。と、冨岡……っ!」
されることは予想がついていたけれど、それでも薄くてやわらかな舌に舐めあげられると、煉獄の息は詰まった。
冨岡の舌技はいまだぎこちない。煉獄の施す愛撫を、たどたどしくも実直に模倣する動きだ。それは煉獄の愛撫で得ている冨岡の快感を、如実に煉獄に知らしめてきているのと変わらない。気持ちがいいから煉獄にも。そんな少し子供っぽい理由が透けて見える。
それはいい。むしろうれしい。だが、この先の行為への快感も教えてやろうと思われるのは、少々困る。覚悟を決めたつもりでも、いかんせん怯えは拭えなかった。
冨岡が煉獄に身を明け渡したのは、信仰心もあったのかもしれないが、おそらくその覚悟は並々ならぬものだっただろう。自然の摂理から外れる行為に及ぶことが、こんなにも覚悟のいるものだったとは。男として生きてきた自分の常識やら矜持を抑え込み、潔く足を開いてくれた冨岡はすごい。尊敬する。するけれども……ならば俺もと、冨岡を喜ばせるべく媚態を見せることはできそうになかった。というか、冨岡だからこそ喘ぎ乱れる様が艶めかしいのであって、俺が乱れたところでそれこそ見苦しいだけなのでは? との不安もわく。
痛みだけなら我慢ができる。耐えきってみせようとも。だけれども、もしも受け入れる快感を得て乱れてしまったらと思うと、なんだか肝が冷える。冨岡が見せてくれる萌え立つような色香を思い起こすにつけ、自分にあんな艶やかさを求められるのは無理難題がすぎると、煉獄は遠い目をしそうにさえなった。
抱かれるどころか、途中で冨岡が萎える可能性のほうがよっぽど高いのではなかろうか。そうなったらはたして自分は立ち直れるだろうか。いや、そこまでならば、やっぱりいつもどおりが一番だなと笑えるかもしれない。けれどももしも冨岡が、こんなみっともない男と抱き合っていたのかと幻滅し、恋人としての付き合いは精神的なものだけにしようなどと言い出したら、どうしたらよいのやら。
もしそうなったら、本気で泣くかもしれない。情けない見苦しさに、冨岡が引くほど号泣する自信がある。そんなことで涙を流すのはどうかと思うが、幼くわがままな自分を認め、あまつさえ受け入れられてしまった以上、冨岡の前では、煉獄は自分を二度と取り繕えはしないだろう。冨岡にすべてさらけ出してしまう自分は想像に難くない。むしろ、どんな弱さも愚かしさも、冨岡にはあまさず見せてしまいたくなるに違いないのだ。そんなふうにさせておいて、嫌厭されてはかなわない。
どうにも及び腰になり、煉獄は、快感へと素直に身を委ねることすらできずにいた。
とはいえど、若い肉体は慣れた快感がもたらす期待にか、はたまた未知の快楽への興奮を無意識におぼえるものか、萎える気配は一向にない。怒張はいつもと変わらずドクドクと脈打ち、固くそびえている。己のものでありながら、まったくもって自分の意志など汲んではくれぬ身勝手な息子に、なんだかぼやきたくすらなってきた。
噛みしめた歯の隙間からもれ溢れる熱い喘ぎに、冨岡はどこか満足げにますます舌をうごめかせ、キュウッときつく吸い上げてきさえする。日ごろの逢瀬ならば、焦らさず挿れさせてくれと懇願する頃合いだ。だというのに、冨岡はまだ煉獄の足から洋袴を引き抜こうとはしてこない。初めてのときに煉獄が言った言葉を覚えているからだろうか。一度果てれば緊張も薄れるだろうと思っているのかもしれなかった。残念ながらいっそう緊張が募るだけだろうけれども、冨岡を責める筋合いはない。煉獄はただ呻くのみだ。
飲みたかったのにとすねる冨岡をなだめすかして押し倒し、果てるのならここがいいと、初めて目にしたときとは少し形を変えた蕾を、やさしく突きたい。いつものように。けれど、今日はそういうわけにはいかない。これは罰だ。こんな甘やかな罰があるものかと思いはするが、冨岡が望んでいるのだから異を唱えてはならない。
抱きしめ暴きたがる体を律し、煉獄は乱れる息を我知らず整えだしていた。なるほど、これは呼吸を使いたくもなる。あの日の冨岡に、無茶な要求をしてすまなかったと謝りたいぐらいだ。
煉獄の口からもれた呼吸音に気づいたか、冨岡の舌が止まった。
甘い苛みから解放された煉獄が恐る恐る薄目でうかがえば、冨岡は、無言で右足だけを洋袴から引き抜いている。打ち捨てられた脚絆に気づき、我知らずブルリと煉獄の背が震えた。
いよいよか。内心の怯えを押し隠して深く呼吸した煉獄に、気配だけで苦笑をたたえ、冨岡はトンッと煉獄の胸を軽く押してきた。逆らわず体を横たえれば、落ち葉がカシャカシャと音を立てた。冨岡の指が煉獄の足をツッとたどってくる。煉獄はまだ洋袴を履いたままだ。怖気づいていることに気づいているのか、冨岡はすぐに脱がせようとはしてこない。
また目を閉じ、煉獄は努めて落ち着いた声で言った。
「ひと思いにやってくれ。見苦しくわめかぬように気をつけるが、嫌だのなんのと言ってしまったら殴ってくれてもかまわん」
「……なんでおまえを殴らなきゃいけないんだ。煉獄はよくわけがわからないことを言うが、今のは一番わからない」
呆れた声に思わず煉獄が目を開ければ、そこには予想とはまるで異なる光景があった。
「冨岡っ!?」
「駄々っ子でしょうがないから、いつもみたいにここで抱っこしてやると言ってるんだ。おとなしくしとけ。……やさしくしてやると言っただろう?」
己の腰にまたがり、今まさに屹立の上に尻をおろそうとしている冨岡に、ギョッと見開かれた煉獄の目は釘付けになった。
冨岡の雄も天を向いて濡れている。暗がりでも目を焼く白い肌に、目眩がしそうだ。見下ろしてくる瑠璃の瞳は楽しげに揺れて、煉獄の腹に手をついた冨岡は、躊躇することなく静かに腰をおろしてきた。先端にチュッと接吻するように触れた、慣れた感触。注ぎ込まれた白濁のぬめりのせいか、すぐにそれは煉獄の熱を飲み込んでいく。赤黒い自分の肉棒が白い双丘に飲まれていく様から目が離せない。
「冨岡……」
「んっ、いい子だな、煉獄。可愛い」
笑みのひびきをにじませて言いながら、冨岡の手が伸びてきて煉獄の頬をなでた。
「いいのか……? 君は俺を抱きたいのかと思った」
「抱いているだろう? ここで」
まだ半分ほども飲み込んでいない淫熱をキュッと絞り上げ、小さく腰を回した冨岡に、煉獄の口からうめき声のような喘ぎがもれた。今までこんな体勢で交わったことはない。主導権をすべて冨岡に譲り渡すかのような体位だ。冨岡の顔も結合部もすべて煉獄の眼前にさらけ出されている。ゴクリと知らず喉が鳴った。
望んだことがないとは言わないが、いつもより深く入り込むのを思えば、冨岡にねだるにはためらいがあった。後背位でおよんだときの怯えて泣きじゃくる冨岡が頭にちらついてしまえば、乗ってくれなど煉獄が言えるわけもない。
腰を下ろしきってしまえば、きっと冨岡が拒む場所まで入ってしまう。これ以上泣かせたくなくて、煉獄は、慌てて冨岡の腰を掴んだ。
「冨岡、これ以上は駄目だっ」
「なんで?」
「なんでって……君は、この奥が嫌いだろう?」
試すようにそろっと腰を突き上げれば、切っ先がしこりを掠めた。たちまち冨岡の白い喉がのけぞる。流れた血の痕もあらわな歯型が目にとまり、煉獄の胸がズキリと痛んだ。
致し方のないことだったとはいえ、冨岡を自分が傷つけた事実は変わらないと、傷跡が、おまえの仕儀だと、煉獄に突きつけてくる。甘やかさを取り戻しても、己の愚挙がなかったことになるわけではないのだ。
知らず識らず眉間にしわを刻み、泣き出しそうに顔を歪めた煉獄の頬を、冨岡はやんわりと撫でてきた。よしよしと泣く子をあやすかのように。
ドキリと高鳴った煉獄の胸が治まる間すらおかず、冨岡の腰がぐっと沈み込む。
「あぁ――っ!!」
「冨岡っ!」
絶叫めいた嬌声とともに仰け反り倒れそうになる冨岡の体に泡を食い、煉獄はとっさに起き上がると冨岡の背を抱いた。
「んぅっ、あ、深い……あ、あぁっ!」
「大丈夫かっ? まったく無茶をする……これは怖くて嫌なんだろう? いつもみたいにしよう」
甘やかされるのはおしまいだ。常のように甘やかし尽くす情交へと転換すべく、背を抱いたまま冨岡の体を横たえようとした煉獄は、イヤイヤと首を振る冨岡に動きを止めた。
「煉獄だって、ちゃんとわかるから平気だ。怖いけど、怖くない。煉獄だから……いいんだ」
「冨岡……」
結合は先よりも浅い。安堵があらわな息をもらしたくせに、冨岡は煉獄の首にしがみついて、なおも尻を煉獄に押し付けようとしてくる。過ぎる快感にブルブルと痙攣までしているというのに、離れまいとするから、煉獄はたまらず冨岡の背をかき抱く腕に力を込めた。それでも問わずにはいられない。
「さっきだって、怖がっていただろう……? 大丈夫なのか?」
「後ろからだったからだ、馬鹿。おまえが見えないのは嫌だと、最初にされたときも俺はちゃんと言った。なのに顔を見せてくれないから怖いんじゃないか。煉獄だとわかるなら、なにをされても怖くないのに」
フゥフゥと息を乱しながら甘くなじって、むずがる子供みたいにしがみつくから、苦しいだろうにと思いつつも腕の力を緩めてやることもできない。ハァッと煉獄の口からもれた吐息は、ひどく熱かった。
噛み合っていると思いこんでいたころから、二人の心の歯車には、齟齬があったらしい。それでも先ほどまでの嘆きはなかった。
「理性が飛ぶのが怖いのだと思っていた」
「それもあるが……煉獄になら、なにをされても信じられるから平気だ。……煉獄?」
「……俺は、君のことをわかったつもりでわかっていなかったようだ。不甲斐なくて穴があったら入りたい」
「もう入ってるが?」
「そうだけれども、そうではないな!」
思わず大きな声で言って顔を起こせば、腕をゆるめた冨岡と視線があった。パチリとまばたいたのは同時。覚えずクスリと笑えば、冨岡の唇がヒクッと震えてへの字になった。笑いそうになったのをこらえているのがみえみえだ。意地っ張りだなと煉獄はますます笑みを深くする。
「もっと君のことをわかりたいのに、ままならん。いっそ一つに溶け合ってしまえたらいいのにな」
「わからなくて当然だろう? すべてわかっていたら、理解しようと努力することさえなくなるし、一つの存在なら寄り添う意味もない。おまえと一つになってしまったら、抱き合えなくなる。違う人間だから、一緒にいたいんじゃないのか? 喧嘩するのも仲直りできるのも、こうして抱き合えることだって、二人だからできることだろう?」
なんでそんなことを言うのかわからないと言わんばかりに、キョトンと小首をかしげる冨岡を見つめ、煉獄の笑みがわずかに歪む。なぜだか泣きたくてしょうがなかった。
愛おしすぎて、胸が苦しい。息すら止まりそうなほどに。苦しくて、好きで好きでたまらなくて、胸が痛い。
愚かな自分を許し受け入れるだけにとどまらず、冨岡は求めさえしてくれる。神様のようだというなら、それは冨岡のほうだ。
腹のうちから、大きな塊が込み上げてくる。今度のそれは嘔吐感ではなかった。抑え込み、自分にはいらぬものと打ち捨てていた涙が塊となって、せり上がってきているような気がする。
泣きたいと思うことはあっても、煉獄が実際に涙を流したことなど、ほんの幼いころだけだ。まだ母が存命で、父もよく笑っていて、日々はキラキラと輝くばかりだったころの思い出にしか、涙はない。
今では泣きたくとも泣けず、涙は枯れ果てたままだと思っていたのに。
喉の奥が、目の裏側が、熱い。愛おしすぎて枯れた涙が浮かび上がってくる。冨岡という呼び水に誘われるように。
「冨岡……好きだ。ひどいことをしてごめん。二度としないから、俺を嫌いにならないでくれ。俺を捨てないで」
幼子めいた文言をつづる煉獄の声は震えて、小さい。自分でも己の声だとは信じられないぐらいだ。ほかの誰が聞いても煉獄の言葉だなど思いもしないだろう。冨岡のほかには、誰も。
冨岡にだから見せられる。冨岡にだから、なにもかもさらけ出せる。弱さも、幼さも。きっとそんな自分を見ても、冨岡はやっぱり煉獄は強いとやさしく言ってくれるのに違いない。慰めではなく俺はちゃんと知っているんだと、確かな信頼を言の葉に乗せて伝えてくれる。わかるから、枯れたはずの涙が、とうとう一滴、煉獄の瞳から溢れて落ちた。
「俺も好きだと言っただろう?」
「うん。でも足りない。もっと」
「本当に、今日の煉獄は駄々っ子だ」
苦笑をにじませた声で言い、冨岡の唇が煉獄の眦に寄せられた。チュッと愛らしい音を立てて浮かんだ涙を吸い取られ、スンと鼻を鳴らす。涙はとまるどころか、堰を切ったようにポロポロとあふれて落ちた。自分が我慢していることにすら気づかずに生きてきた子供の涙が、大人になった煉獄の瞳から流れていく。
「好きだ」
「……もっと」
「煉獄が、好きだ。誰よりも」
「もっと。冨岡、もっと聞きたい」
「甘えん坊だな。錆兎のほうが今の煉獄よりずっと大人だったぞ」
こんなときにほかの男とくらべられるのは、あんまりじゃなかろうか。泣きながらも唇をとがらせ視線で不満を訴えれば、冨岡の唇がチョンとついばんでくる。
「ホラ、もう泣くな。可愛いが、あんまり泣かれるとどうしたらいいのかわからなくなる」
「こんなときにほかの男の名なんか聞きたくない。それに」
「それに、なんだ?」
きっと今自分の顔は、千寿郎よりも幼く見えるに違いない。すねた甘えん坊な幼子の顔をしているはずだ。年上ぶりたい冨岡が甘くなるのは、こういう顔だと、煉獄はもう知っている。
「俺のことは名前で呼んでくれないくせに、親友ばかり君に名前で呼ばれていてズルい。鬼連れの少年だってそうだ。俺も名前で呼んでほしい」
膝に乗っているから、冨岡が身を起こすと煉獄は少し見上げることになる。上目遣いに涙がこぼれ続ける瞳で見上げれば、冨岡の目がゆるりと細まった。
「……杏寿郎」
囁きは途方もなく甘い。蜜のような甘さは、なおも与えられた。
「おいで。杏寿郎の好きなようにしていい。抱っこしててやるから……俺のことも、ギュッて抱っこして」
年上の余裕を見せたかと思えば、幼子のように冨岡は甘えてもくる。逆らうすべなどあるはずなかった。
「……義勇」
「んぅっ! あ、杏寿郎、好き……っ」
「俺も、好きだ。義勇が、誰よりも」
力いっぱい抱きしめ腰を揺すったとたんにあがった喘ぎも、たとえようもなく甘くて。激しい抽挿はできずとも腰をわずかに動かすだけで、根本まで冨岡曰く抱っこされた自身から、快感が脳天まで走り抜ける。冨岡も、深く咥えこんでいる熱棒で、弱い部分をすべて刺激されているのだろう。蕎麦屋の二階では隣室や階下を気にして控えめな喘ぎ声を、惜しげもなくあげ、こらえきれぬと言わんばかりに腰をくねらせていた。
肉体が得る快感だけなら感情はいらない。こんなにも恍惚感に満たされるのは、たしかに二人をつなぎ合わせているのが恋情だからだ。目を見合わせ、名を呼びあって、ときおり口を吸い舌を絡めて交わす情は、体だけの快感よりもずっと深い喜悦を生んでいた。
それでも、先とは違い、お互い脳裏の片隅には冷静さを残している。夜明けまではもう少し間がある。まだ鬼の時間は終わっていない。
恋人たちの仲直りの時間ですら、ただひたすらに甘さに酔うことはできぬ因果な身の上だ。それでも嘆きは互いになかった。子供のように泣きながら、恋慕に満たされた交合にふける。今はただ、短い時を惜しむように高みを目指す。柱としての責任と矜持を背負ったまま。
「あっ、あぁっ! きょうじゅ、ろ! 出る、もう出るからぁ!」
うわ言のように切羽詰まった声で喘いだ冨岡に、煉獄はとっさに体を倒そうとした。自分も限界が近い。このままではまた冨岡のなかで達してしまう。
煉獄のためらいを悟ったのか、冨岡はギュッとしがみつき、なかでと口走った。
「だが、なかに出してしまっては君が困るだろう?」
「今さら、だ……あんっ! いいから早く、なかにくれっ」
とんでもない誘い文句にグッと息を呑み、煉獄は強く冨岡の腰を掴み揺さぶった。
「あぁぁっ! くるっ! 杏寿郎……杏寿郎っ、好き、あぁ!!」
「義勇っ!」
白く視界が弾ける。チカチカと火花が散る。クラリと酩酊したように揺れる目で、煉獄は白い軌跡が夜空に描かれるのを見た。
「あ……」
知らずこぼれた声は我ながら幼い。コトリと煉獄の肩に頭をあずけてきた冨岡が、なに? と問うた声には甘やかな気だるさがあった。
「今、星が流れた」
「流れ星?」
つぶやき返しながら後ろを振り向き見た冨岡は、小さな溜息をもらすと、すぐにまた煉獄に身をもたせかけてきた。
「また見られなかった」
「また?」
癖の強い黒髪を撫でながら問えば、コクンとうなずく。処理してやらなければと思うのだが、離れがたさがまさった。
「一度も流れ星を見たことがない。姉さんや錆兎が、星が流れるたび教えてくれたけれど、俺が視線を向けたときにはいつも消えてた」
「流れ星はすぐに消えるからな。さっきのも一瞬だった。次には一緒に願いごとをできるといいな」
「願いごとは、三回言わなければ叶わないと聞いている。願いごとをするのは無理じゃないか?」
冨岡の声は、甘やかな倦怠感も相まって、どことなくふてくされているようにも聞こえる。
「それなら、俺が君の願いを叶える星になろう。君が願いを言い終えるまで、いくらだって天を駆け続けてみせようじゃないか」
「馬鹿」
呆れよりも多分に甘さを含んだ声に、煉獄は相好を崩した。今宵の己をなかったことになどできはしないが、追い詰められるが如き鬱屈はもうない。
噛み合わぬ歯車に、焦れることはまだこれからもあるのだろう。それでもよかった。同じじゃないから、話をして、理解しようと頑張りもする。一つじゃないから、抱きしめあえる。
これから何度も喧嘩するかもしれない。けれどもそのたび、仲直りするのだ。何度だって。
いつか、命果てるその日まで。