◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「冨岡!」
人波の向こうに恋しい人の後ろ姿を見つけ、煉獄は満面に笑みをたたえると、すぐさま駆け寄った。すぐに振り向いてくれた冨岡は、煉獄の姿を認め、ほんの少し目元を和らげていた。逢えてうれしいと、言葉にはせずとも伝えてくれているかのようで、煉獄の胸に喜びが満ちる。
「久しぶりだな! 二週間ほど逢えなかったが、怪我などしていないか?」
言って、煉獄は自分の言葉に思わず頬を染めた。
二週間前、煉獄は初めて、冨岡と肌を重ねた。
それ以来どうにも機会に恵まれず、幾度冨岡の担当地区に足を運ぼうと、冨岡の姿を目にすることはなかった。知らずまじまじと見つめてしまった冨岡の顔は、あの日の乱れて赤く染まった顔とは違い、常日頃の涼やかさをたたえている。凛とした背も眼差しも、清水のように清涼で、冨岡が男を知っているなど、誰も思いやしないだろう。
はからずもゴクリと喉を鳴らしてしまった煉獄の、気まずい周章には気づかぬ様子で、冨岡は小さくうなずくと「煉獄は」と問うてくる。
「無傷だ! 何度か任務にあたったが、君とともに戦ったときほどの手応えはなかった。怪我をするようなヘマはしない!」
増上慢に聞こえただろうか。一瞬ヒヤリとしたが、冨岡はふたたびうなずくと、さすがだなと言ったのみだった。その声音が、いつもよりもやわらかく聞こえたのは気のせいだろうか。なんとなくソワソワとしてしまう。
落ち着かないのは、もしかしたら冨岡も同様かもしれないと気づいたのは、ふと下げた視線の先で隊服をキュッと握り込む冨岡の手を目にしてからだ。
「その……冨岡、体の具合は、どうだろうか……」
「? 俺も怪我はしていないが」
「いやっ、そうではなく! あの日、君は大丈夫だと言っていたが、やはりその、心配で……初めてだったとはいえ、余裕のないところを見せてしまって申し訳なかったと……」
常になくモジモジとためらいながら告げた煉獄に、一度不思議そうにパチリとまばたいた冨岡は、すぐにポカンと口を開け、白い肌に朱を散らした。
「……支障ない」
「そ、そうか」
往来で二人恥じらいモジモジとうつむきあうのを、通りを往く人はどんな目で見ているのだろう。人目を気にしたことなどないが、なんだか妙に気恥ずかしくいたたまれない心地にもなった。
それでも不快感はまるでない。ただただ照れくさく、花恥ずかしげな冨岡の風情に、多幸感が煉獄の胸に満ちる。
「そうだ! 君も飯はまだだろう? 一緒に食おう!」
「あ、あぁ」
面映ゆさを誤魔化すように提案すれば、心なしホッとしたように冨岡も了承してくれる。それがただうれしかった。
「で、では、行くか!」
「……あぁ」
二人並んで歩きだしたものの、足取りは双方どこかぎこちない。いつもなら明るく話しかけつづける煉獄が黙り込んでしまえば、二人のあいだに会話はなくなる。ぎくしゃくとした二人の歩みは、恥ずかしさを取りつくろう如くにだんだんと早まり、なんだか競争でもしているようなありさまだ。すれ違う者みな呆気にとられ、とんでもない速度で歩いていく二人をポカンと見送っていたが、煉獄も冨岡も気づかない。
食事に誘ったからには、どこかの店に入るべきだ。このままでは郊外まで行ってしまいかねない。ようやく煉獄がそれに気づいて周囲を見回したときには、商店が立ち並ぶあたりからは、ずいぶんと離れてしまっていた。
しまったと、慌てて足を止めれば、冨岡もそれに倣い、そろりと煉獄を見つめてくる。
「ここに……するのか?」
チラッとすぐ近くの建物に視線をやった冨岡が、言いながらすぐに眼差しをそらしたのに、煉獄はキョトンと目をしばたたかせた。なんだか恥ずかしげに見えるが気のせいだろうか。
ともあれ、確かめもせず歩みを止めたからなんの店かはわからないが、どうやら運良く飲食店の前だったらしい。幾分ホッとしながら、冨岡と二人ならどこでもかまわない煉獄は、そうしようと笑って答えるべく、自分も店へと視線を向けた。そのとたん、煉獄の唇は、笑みの形のまま固まった。
看板に書かれているのは、どう見ても、蕎麦の二文字だ。
「ち、ちがっ! すまんっ、冨岡! そういうつもりではっ!」
「……違うのか」
そうか、と、どこか寂しげにションボリと肩を落とされて、違うなどと言える男がいれば見てみたいものだ。少なくとも煉獄にはできっこない。
「違わない! と、冨岡、君が嫌でなければ……その」
「……嫌じゃ、ない」
消え入りそうな声で、そんなことを言われてしまえば、期待するなと言っても無理な相談だ。ガシリと冨岡の手を握り、煉獄は、無言で店へと足を進めた。
初めて入るその蕎麦屋は、それなりに盛況だった。近くでどこぞの造成でもしているものか、土木作業員らしい者が多い。引き戸を開けたとたんに上がったガラの悪い笑い声に、煉獄は、失敗しただろうかと、わずかばかり眉尻を下げた。冨岡を誘うには、あまりふさわしくない店だったかもしれない。
「へい、らっしゃい!」
店主の声がかけられ、煉獄は、さらに躊躇した。
ここは食事を済ませてから二階へ誘うべきだろうか。それとも、二階へ蕎麦を運んでもらうか。だが、初めての日のように、また伸びきった蕎麦を冨岡に食わせるのは忍びない。店主にも申し訳がないだろう。それに、即座に二階へ上がるのでは、まるで冨岡を抱くことしか考えていないように思われやしないだろうか。
戦闘では流れたことのない冷や汗が、煉獄の背を伝った。
期待がなかったとは言わない。だってもう、煉獄は知っているのだ。冨岡に包み込まれる温かさも、絡みつき締めつけられる快感も。唇や舌の甘さ、感極まってこぼれ落とされる涙のきらめき。あえかな吐息と、かすれる喘ぎ声。全部、焼き付くように煉獄の脳裏に刻み込まれていた。
正直言えば、あれから毎日、思い返しては熱を昂ぶらせてもいる。抱けるものなら抱きたい。何度でも。できることなら毎日だって。掛け値なしの煉獄の本音はそれだ。
けれども、冨岡はどうだろう。あまり日を置かずにことに及ぶのは、受け入れる冨岡の体に負担を強いてしまうのではないだろうか。
二週間というのは、初めて男を受け入れてから二度目に至るまでの期間として、どうなのだろう。ちょうどいいのか、まだ早いのか。それともすでに機を逃してしまっているのか。そんなことまではどんな指南書にも書かれてはいなかったから、さっぱりわからない。恥を忍んで宇髄あたりに聞いておくべきだった。思っても、宇髄にだって逢えてやしないのだから、言ってもしかたのないことだけれども。
ついでに、一発殴ろうとの決意はちっとも揺らいでいないので、殴られたあとではさすがの宇髄も親切に教えてくれるものかわからないのだが、それはともかくとして。
「お客さん? さっさと座ってくんな」
「あ、あぁ、すまん!」
しかたない。二階へ上がるかどうかは、成り行きに任せるしかなかろう。思いつつ冨岡を振り向き見れば、冨岡はまた、どこか頼りなげな瞳をして、上目遣いに煉獄をうかがっていた。
「……上がらないのか?」
「店主! 二階を借りる! 部屋にたぬき蕎麦を二つ頼む!」
大きな声で言った煉獄に、一瞬静まり返った店内が、ドッと沸いた。
「男前な兄ちゃん、お盛んだねぇ」
「えらくシャンな兄ちゃんじゃねぇか、うらやましいね、こりゃ。俺も一度でいいから、お連れさんほどのべっぴんさんにお相手願いてぇや」
「アホ抜かせ、テメェのツラ見てから言えってんだよ」
「ちげぇねぇ」
ワハハと上がる声は、ガラは悪いが快活だ。冨岡への揶揄かと険しく寄せられた煉獄の眉がほどけ、男たち以上に明るい笑みが浮かぶ。
「うむ! 冨岡はたいそう麗しい人だから、光栄の極みだ! 悪いが俺以外の誰にも触れさせる気はない! すまないな!」
「れ、煉獄っ!?」
慌てる冨岡の目元が淡く染まっている。花のような赤い色は冨岡の白い肌に映えて、あぁ、本当に冨岡は麗しい人だと、煉獄は胸のなかで繰り返した。
「行こう、冨岡」
そっと手を引き笑えば、冨岡は小さくうなずき、そのままうつむいた。煉獄の手を拒む気配はまるでない。
「ごっそうさん」
「頑張んなよ、男前の兄ちゃん」
ヤンヤと囃し立てる声を背に、ギシギシと軋む階段を登る。廊下の両側にある部屋は、襖が閉められていた。どちらも空いているようだ。人の気配はまるでない。
通りに面していない側の部屋に決め、煉獄は、はやる心を抑えて襖を開いた。部屋は、以前の蕎麦屋よりも清潔に見えるが、広さ的には大差がない。客層からしてこの前よりも汚れた部屋かもしれないとの危惧は、杞憂で済んだようだ。それはいいのだけれども。
「煉獄?」
襖を開いたとたんにピタリと動きを止めた煉獄に、少し後ろをついてきていた冨岡が、ちょっと不安げな声をかけてきた。ヒョイと煉獄の背から顔を出し、部屋を覗き込んだ冨岡の口も、目にした光景に煉獄同様つぐまれた。
部屋には、今までのような卓はなかった。ガランとした部屋にあるものは、真ん中に敷かれた布団だけだ。はなからそういう目的で使用するためにある部屋だと言わんばかりである。
無言のまま立ちすくんでいたのは、実際のところ数秒もなかっただろう。よし、と意を決して煉獄が部屋へと足を踏み入れれば、冨岡は無言でついてくる。だが、すぐに布団に向かう気にはなれなかった。さすがにそれは、あからさますぎて恥ずかしい。
「布団を、少し向こうに寄せよう。邪魔だろう?」
「あ、あぁ。そうだな……」
冨岡の手から離れ、布団へと伸ばした煉獄の手が、同じように布団をつかもうとした冨岡の手とコツンとぶつかった。
「すまんっ!」
「いや、俺も……すまなかった」
パッと手を離しあってしまったのは、なぜだろう。今の今まで手を繋いでいたのだし、それどころか体を繋げあったことだってあるのに、なぜだか無性に照れくさい。
コホンとガラでもない空咳などして、煉獄は、改めて布団を部屋の隅に寄せた。狭い部屋だ。あまり意味はないが、布団に座り込むよりはマシだろう。
思いつつも、腰を下ろすのは妙にためらわれた。二人を隔てる卓が、ここにはないのだ。手を伸ばせばすぐさま抱き寄せてしまえる。冨岡も座ることなく立ち尽くしている。また沈黙が流れた。
「お客さん、蕎麦置いとくよ。食ったら丼は部屋の外に出しといてくんな」
店主の声は、いっそ天の助けにも聞こえた。
急いで礼を言いながら襖を開ければ、すでに店主は階段を降りていた。廊下に置かれた盆に乗った丼に目を向け、煉獄は、ん? と小首をかしげた。
「煉獄?」
「ん、あぁ、すまない。いや、蕎麦なんだが、つゆが……」
盆を手に戻り、冨岡に見せれば、冨岡もパチリと目をまたたかせた。
丼のなかには茹で上がった蕎麦と揚げ玉や葱だけで、つゆが入っていない。いかにも場末の店であるのに湯桶が添えられているのは、蕎麦湯ではなくつゆを入れてあるようだ。
「めずらしい出し方をする店だな」
「うむ、初めて見るな……あ」
言いながら、ふと、理由に思い至り煉獄の顔が赤く染まった。
「煉獄? どうしたんだ?」
「いや、その……おそらくだが、二階の客には、こういうふうに出すのだと思う。これなら伸びずにすむという、気遣いじゃないかと思うんだが……」
またぞろ気恥ずかしさがよみがえり、落ち着かぬ声で答えると、冨岡の顔もじわりと赤らんだ。
「な、なるほど……」
二人そろって丼を見つめ、思わず黙り込む。なんてことだ。これでは蕎麦を食べるのは優先事項から外れてしまう。卓もないから手を伸ばすだけで抱きしめられる。おまけに布団だってすでに敷いてある。なんてことだ。お膳立てはすっかり整っているではないか。
チラリと目線を上げて冨岡の様子をうかがえば、冨岡もまったく同じ瞬間に、目線を上げてきた。
カチンと歯車が噛み合う音が脳裏に聞こえた気がして……煉獄は盆を襖の前に置くと、そっと手を伸ばしていた。
言葉はなかった。いいかと聞く必要などない。互いが望むものは同じだと、出逢った眼差しが訴えている。
押し当てるような口づけをしたら、もう止まる手立てはなくなった。布団へと一歩進んだのは、どちらが先だっただろう。抱きしめあう腕も、同時に伸ばされた。
強く抱き合い、唇を離す。息継ぎも一緒だった。足りないと、唇を開くのも。
部屋が狭くてよかったと、舌を絡ませ合いながら、煉獄はふと思う。抱きしめたまま体を倒せば、すぐに布団に転がり込むことができる。
接吻はまだお互いぎこちない。それでも初めてのときよりも、官能がかきたてられるのは早かった。ズクリと腰が重くうずく。背筋をゾクゾクと電流のような快感が走る。離した唇からもれた吐息は、どちらも熱い。
マメに手入れされているのか、布団からカビの臭いはしなかった。今日もよく晴れている。磨かれた窓から差し込む日射しが明るい。組みしいた冨岡を見下ろせば、瑠璃の瞳がとろけていた。抗いがたい磁力に引き寄せられるように、煉獄は黒髪に隠れた耳へと唇を落とした。
「んっ、煉獄、くすぐったい」
「うん……ごめん、ちょっと我慢してくれ」
言って、桜貝のような耳殻に煉獄は軽く歯を当てた。ビクビクと震える冨岡は、呼吸を深くし、くすぐったさに耐えている。まだ愛撫からすぐに快感を拾い上げるのはむずかしいのだろう。二週間前のたった一度の交合で、劇的に体が変化することはないらしい。
落胆よりもむしろ、煉獄はなぜだか少し安堵した。鼓動は以前と変わらず激しいが、初めてのときよりも心は安らかだった。冨岡は変わらない。衆道でもない男同士の情交で冨岡が変質することを、心のどこかで煉獄は、不安に思っていたのかもしれなかった。
どんな冨岡でも愛おしい。けれども自分が無理やり変えてしまうのは違う。煉獄が欲しいのは、冨岡が冨岡らしくあるままのすべてだ。冨岡を自分の色に塗り替えるのではなく、包み込み受け入れる。そんな愛し方をしたい。
いつまでもくすぐったがられるのは、少々困りものではあるが、大事にしたいのだ。不満はない。
恋を知ってからずっと、月をとってくれろと泣く子のように、届かぬ星に手を伸ばしていた。駄々をこねて泣くことはなくとも、決して手に入らぬものを欲しがっているのではないかと、ふとやりきれない悲しさが胸を刺すことは、煉獄にだってあったのだ。けれども、冨岡は煉獄の手のなかに落ちてきてくれた。冨岡らしさをちっとも損なうことなく、あるがままの心でもって煉獄を受け入れ、与えてくれた。
大切に、大事に、手のなかの星を守ってゆきたい。冨岡義勇という名の、煉獄にとってたった一つのきらめく星を、その輝きを損なうことなく自由なままで。
決して、壊したり穢したりしてしまわぬように。
願う心が煉獄の手をやさしくする。急く体は余裕などまるでなく性急に繋がりたがるが、冨岡に触れる手も唇も、官能を高めることよりもずっと、慈しむやさしさで触れた。生まれたばかりの千寿郎に触れたときに似て、はだけさせた胸にすべらせる手はおっかなびっくりだったかもしれない。
初めてではないのに、おかしなものだ。二度目の今日のほうが、なぜだか初めての日より慎重になった。冨岡のつらそうな顔を、すでに見ているからかもしれない。そうそう艶本のようにはいかないと、思い知ってもいる。経験値はすこぶる低く、現実はまだ理想には遠く及ばない自覚があった。自分の期待よりも、今目の前にいる現実の冨岡を怯えさせないことこそが、煉獄にとっては最も重要だ。
ボタンを外すあいだも、煉獄は何度も冨岡の頬に唇を落とした。幼子のような口づけに、冨岡もむずがる子供めいた仕草で首をすくめて恥じらうから、胸の奥には愛おしさばかりが満ちる。
やさしくするのだ。暖かなひだまりでまどろむ子猫を撫でるように、冨岡には触れたい。どれだけ体を重ねようと、いつまでだって初めてのときのように慎重に。冨岡を決して傷つけぬように。
口を吸い飲み込む冨岡の唾液や吐息が、煉獄の心を潤していく。
昨夜、警邏の前に見た父は、泥酔しだらしなく高鼾をかいていた。鍛錬の手を止めた千寿郎が流した悔し涙を見た。そんな日常となった光景を見るたび、母が生きてさえいてくれればなどという、埒もない言葉が浮かびそうになる。
考えるな、自分ではどうしようもないことに惑うな。何度も言い聞かせては押し殺す焦燥や悲しみは、覆い尽くさんばかりの決意の炎に消えていくが、代わりに心は乾いていく。
冨岡に触れるたび、涙すらもう浮かばぬ心が、冨岡という水で潤っていく心地がした。冨岡がいるから、己を焼き尽くすことなく、強く心を燃やしつづけることができる。そんな気がしていた。
冨岡の舌は甘く、水の呼吸には慈悲の型があったなと、頭の片隅で煉獄は思う。冨岡は、まさしく干天に嘆き苦しむ者へと与えられる、やさしい慈雨だ。煉獄の心を潤し、酔わせる、極上の甘露。
少しずつ乱れてくる冨岡の呼吸を聞き、自分も息をわずかに荒げながら、煉獄は幸せで満ち足りた恋に酔っていた。
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