第一章
任務を終えた煉獄が、ふと足を止めた理由は、見慣れた色が視界に入ったからだ。
彼の人の瞳よりはいくぶん紫がかった青い花。アヤメだ。緑深い草原に凛と咲くアヤメを見つめる煉獄の目が、やわらかくたわみ、口元に薄い微笑みが浮かんだ。
今ごろ彼はどこでなにをしているだろう。
脳裏に浮かんだ不愛想な顔に、想いを馳せる。
彼――水柱、冨岡義勇とは、想いを交わしあったばかりだ。煉獄にとって初めての恋が成就してから、まださほど経ってはいない。想いを告げ、受け入れられたその日は、桜が咲いていた。
それからもう、ひと月。されど、まだひと月。
逢えた日はさほど多くない。恋の進展は、亀の歩みよりも遅かった。
急かすつもりは毛頭ないが、そろそろ接吻ぐらいはさせてもらえるといいのだが。鮮やかに咲き誇るアヤメを見つめながら、煉獄は小さく苦笑した。
冨岡の担当地区と、煉獄が今日受け持った任務の場所は離れている。今日もまた逢えぬままかもしれない。接吻以前に、逢瀬の時間を持つこともままならないのだから、難儀なものだ。
思えばいっそう逢いたくて、それでも煉獄は足を止めたまま、かすかに風に揺れるアヤメを見るともなく見つめつづけた。
炎柱と水柱はどの時代にも必ずいる。火と水。それは人の営みにおいて欠かせぬものだけに、いつの世もともにあるのだと煉獄は思っている。対称的な二つの呼吸の使い手たちが、一対と思われているのも、その証左だろう。
だが、煉獄が冨岡に惹かれた理由は、彼が水柱だからというだけではない。
初対面時からしばらくは、冨岡の印象は薄かった。誰よりも静謐な気配の冨岡は、みなの輪に加わるわけでもなく、誰ともかかわりを持たぬようにしている風情すらあった。
当初、一対と呼ばれるからには親しくできるだろうと煉獄は楽観していたが、冨岡は、煉獄が話しかけても相槌ひとつ打つでもない。無愛想もここに極まれりといった具合で、いつでも取りつく島もなかった。
短気な風柱などは、そんな彼の態度に怒りを隠さないが、煉獄が気を悪くしたことはない。表情に乏しい人というのはいるものだ。お館様の奥方であるあまねもそうだし、煉獄自身の母も、常に冷静さを失わぬ人だった。
はたから見ればそういう人らは冷淡に見られがちだ。だが、母はもちろん、あまねの心根だってやさしく思い遣り深いことを、煉獄は知っている。冨岡にしても、愛想はないが、不死川が言うところの周囲を見下すような言動など、煉獄は見たことがない。
それどころか、注意深く見ていれば、彼が心やさしい青年であることは容易に知れた。
困っている者がいれば、そっと手を差し伸べる。しかも、誰よりも気づくのが早い。周囲の者をよく見ている証拠だ。きっと人が好きなのだろう。けれども、不愛想な上に冨岡はどうにも口下手だ。だから大概の場合、冨岡の気遣いは空回りして、今ひとつ伝わっていないのが常だった。
冨岡の不器用さは煉獄にとってはなんだか微笑ましく、彼のほうが年上であるにもかかわらず、つい、愛らしいと微笑んでしまうことは多々あった。
そしてまた、冨岡はかなりの努力家でもあった。
ほとんどの隊士は努力精進を怠らず、煉獄自身だってそれは変わらない。だが冨岡の奮励は一線を画していた。でなければ、あそこまで呼吸を極め、新たな型を生み出すなど不可能だ。
無駄なものを極限までそぎ落とし、磨いて、磨いて、磨き抜いた先にある境地に冨岡はいる。そこにたどり着くまでの努力は、並々ならぬものであっただろう。彼の戦いを一度でも目にすればわかる。
煉獄が恋心を自覚したのも、冨岡の剣技を間近に見た日のことだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
隊士が二十人ほど向かったが壊滅状態。どうか柱の派遣を。
その報を受け、お館様から煉獄と冨岡が指名されたのは、そろそろ雪が降りだしそうな初冬のことだった。
炎柱を襲名して半年ほどの煉獄は、ほかの柱と共闘するのは初めてで、それが水柱である冨岡だったのは、一対の柱に対するお館様の信頼ゆえだろう。冨岡にしても、水柱となってからまだ一年は経っていないころのことだ。
屋敷に呼び出され、二人並んで受けた任務に煉獄は目を輝かせたが、冨岡は冷静そのもので、煉獄と組むことになんの感慨もないように見えた。
ともあれ揃っておもむいた任地で相対した鬼は、下弦に近い力は持ち合わせているようだった。獣を操る術を持つ鬼である。
鬼自体よりも、襲ってくる獣たちを相手にするのに時間を割かれ、決着がついたのは夜明け近くだ。
冬眠中であるはずの熊が襲ってくるのにさえ、操られているだけだと思えば、仕留めるのに多少の躊躇は生まれる。猛禽類や野犬でも同じことだ。本来ならば人に危害をくわえることなどない、穏やかな気性の生き物ならば、なおさらだった。切り捨てることは造作ないが、だからこそためらわれる。
とはいえ攻撃性はすこぶる高い。とにかく数がめっぽう多いのだ。夜目が利かぬ小鳥たちまでが、ガトリング砲さながらに、一斉に襲いかかってくる。何百もいようかという鳥の群れに囲まれては、視界もおぼつかない。操られ、逃げる気配のない生き物たちには、警戒心や怯えはなかった。
力のない小鳥たちでも、無数に飛びかかってこられれば、無傷で済ませてやれるものではない。無辜の命を奪わなければならない戦いは、体よりも精神が疲弊した。
朝焼けに染まりだした草原に、数多の生き物の亡骸が転がっている。踏み荒らされた落ち葉は、血で赤く濡れていた。
峰打ちで済ませられた生き物は少ない。いや、たとえ切り払わずとも、小さく力ない生き物たちは、峰で打ち据えるどころか刃を振るった際の空圧だけで絶命してもいる。見渡した痛ましい光景に、胸の奥がザリザリと削られるようだった。
だからだろうか、言わずともよい言葉が無意識に煉獄の口をついた。
「君の編み出した型はすごいな! その才能が羨ましい」
言ったそばから煉獄はほぞを噛んだ。自分に才がないのなら補うために努力すればよい。努力など無駄だと父は吐き捨てるが、それしか自分にはできないのだ。こんな言葉は、兄上のようになりたいと一心に鍛錬している千寿郎の努力をも、切り捨てるものでしかない。
声音に混じったわずかな嫉みに似た負の感情に、冨岡は気づいただろうか。己の言葉にシンと冷えた脳裏の片隅で、煉獄は危惧した。
もしも冨岡に軽蔑の視線を向けられたら、きっとつらい。心の臓あたりがズキリと痛んだ。
けれども振り向いた冨岡の顔には、不快さなど微塵も見つけられなかった。
人形のように玲瓏な顔には、なんの感情も見いだせない。その表情に安堵を覚えるよりも早く、いっそうの痛みを感じた理由を、そのときはまだ、煉獄は気づいていなかった。
「才能なんてない……俺に才能があれば守れた」
返された声にも抑揚はなく、淡々としていた。言いながら冨岡は、地べたに転がる死体の山へと眼差しを馳せている。横顔は白く、凍りついたように表情は動かなかった。
不死川や伊黒あたりならば、嫌味な謙遜ととらえたかもしれない。けれど煉獄は気づいた。冨岡の眉根がほんのわずか寄せられて、悔恨と悲しみの色が瞳に宿っていることに。動物たちを悼んでの言葉かとも思ったが、それにしては冨岡の瞳の昏さは深い。寒そうだ。ふと、そんなことを思った。
「誰か、守れなかった人がいるのか?」
隊士の大半は、鬼に家族や親しい人を奪われた者だ。聞いたことはないが冨岡も同様だろう。亡くした人を思い出したかと思い、問うてみたが、答えはない。だが、引き下がる気にはなれなかった。
なぜそんなにも知りたがったのか。そのときもまだ、煉獄は自分の行動の意味がわからずにいた。それでも苛立ちと周章は、幾ばくかの痛みを伴っていたように思う。
話はおしまいとばかりに歩き出そうとした冨岡の手を取り、煉獄はつめ寄った。
「冨岡、言ってくれなければわからない。俺は君をもっと知りたいんだ。君を不快にさせたのなら、その理由をきちんと知って謝罪したい」
冨岡の整った顔が、今度ははっきりと怪訝な表情を浮かべた。
「……怒ってない」
「そうか、それはよかった! だが、謝罪の理由がなくとも、君のことを知りたいのは変わらん! 俺は、君のことをなにも知らない……なにがあって鬼殺隊に入ったのか、君がどんな子供時代を送ったのかも、俺は知りたい。君はなにが好きなのか、なにに悲しむのかすら、俺はまだなにひとつ知らないのだからな。だから、君ともっと話がしたい。冨岡、君のことをもっと知りたいんだ」
言って煉獄は、内心わずかに愕然とした。なぜ自分はこんなにも必死になっているのだろう。
仲間の好物や過去に深く関心を寄せたことなど一度もない。悪鬼滅殺の願い。それだけ胸に強くいだいているのなら、ほかの事どもなど知らずともよかった。
けれど足りないのだ。十把ひとからげに、かまうなと切り捨てられるのはごめんだ。もっと知りたかった。冨岡だけは、どれだけ知ってもまだ足りない。すべて知りたい。
いや、それどころではない。
不意に心に湧きあがった熱情に、煉獄は、刹那息を飲んだ。
暴きたい。――欲しい。
身を焼くような執着は、信じがたい劣情を伴っていた。自分の好意が欲を孕んでいたことに、煉獄が気づいたのはそのときだ。
思わずまじまじと冨岡を見つめた煉獄に、当の冨岡はなぜだかカチンと固まっている。丸く見開かれた目は、いたずらされ驚く子猫のようだ。なんならふるふると小さく震えてもいる。
なんと愛らしい。そんな言葉が即座に浮かんでしまえば、もうこれは誤魔化しようがない。
どうやら知らぬまに、俺は冨岡を恋い慕っていたようだ。
迷いなく導き出された結論に、煉獄は、わずかな驚きとそれを上回る納得に、知らず破顔した。
気づいてしまえばなんのことはない。惚れていたから誰よりも彼を見ていたのだし、彼を知るたび、ますます心惹かれ、もっと知りたいと思うようになっていたのだ。冨岡からの軽蔑が身を切るようにつらいと感じるのも、そのためだ。
恋したきっかけなど覚えていない。けれども自覚してしまえば、冨岡への恋心はしっくりと煉獄の胸に馴染んだ。
麗しく、強く、どこか寂しげでありながらも凛と立つ人。そんな冨岡に惚れるのは、至極自然なことのように思う。
彼は、どことなし母に似ている。
面差しではなく、静かな佇まいと清廉な眼差しが、ありしの母を思い起こさせるのだ。目が吸い寄せられたのはそのせいかもしれない。
けれど、恋が生まれた理由はそれだけではないだろう。思い出の母の姿に、子猫のような愛らしさはない。少なくとも煉獄にとって母は、いつでも気高く温かく、どれだけ痩せ細ろうと大きく見えた。
冨岡に目が向かったのは、母の印象と重なる部分ゆえだろうが、恋したのはそれが理由ではない。
冷淡とすら見える面差しのなかに気づいた寂寥、孤独、けれども消えない情の深さ。思いがけぬ子供っぽさ。そんな彼の諸々すべてが、煉獄のなかで恋を育てたのだ。
恋はするものではなく落ちるものとの言説もあるそうだが、煉獄の冨岡への恋は、知らぬまにゆっくりと育っていった恋だった。風に運ばれ道端に落ちた種が、いつしか芽吹き花を咲かせ、ようやくその存在を人に知らせるように、煉獄の心に植え付けられた恋の種は、煉獄自身も気づかぬうちにひっそりと育ち、今、花開いた。
片恋で終わらせるつもりは毛頭ない。気づいたからには冨岡にも自分に想いを寄せてほしかった。
だが……。
恋心を彼に告げるのは、きっと時機尚早だろう。恋を自覚した舞い上がるような心持ちのなかで、煉獄は冷静に考える。
冨岡は人慣れていない。自ら人との交流を避けるようなそぶりをする。いきなり君が好きだと告げたところで、驚いて逃げてしまうかもしれない。そう、それこそ人に慣れていない子猫のようにだ。
尊敬する柱であり先輩でもある冨岡に、こんなことを思うのは不遜だろうか。けれどもひとたび恋する者の視線で見てしまえば、冨岡の言動が、みな愛らしく思えてしまうのだからしょうがない。
「……姉さん子で、その、泣き虫だった……かもしれない」
唐突な冨岡の発言に、煉獄は、ん? とまばたきした。
冨岡はいったいなにを突然言い出したのだろう。答えはすぐに出た。
「そうか! 君は子供のころは泣き虫だったのか!」
変化に乏しい冨岡の顔が、煉獄の笑みに恥らう色を浮かべた。目尻がうっすらと赤く染まり、視線がわずかにそらされている。それはほんのささいな変化で、よくよく見ていなければ気づけなかったかもしれない。
もっとずっと注意深く見ていれば、こんなちょっとした冨岡の表情の違いを早くから堪能できただろうに、もったいないことをしていたものだ。
「……泣いてばかりいたわけじゃない」
「おぉ、すまん! だが、馬鹿にしたわけじゃない。冨岡に嫌われるのはかなわないからなっ、誤解はしないでくれ!」
真面目に言えば、冨岡はひとつまばたきし、不思議そうに首をわずかにかたむけた。
「嫌わない」
声もいつもと同じく淡々としているが、かすかに驚いているような気配がある。冨岡は心にもないことを言う質ではないと思うけれども、この言葉の真意はどこからくるのだろう。
せめてもう一言くらいほしいところだが。煉獄が無言で見つめていれば、願いが通じたか、めずらしく冨岡がまた口を開いた。
「煉獄を嫌うわけがない」
それ以上は聞けなかった。飛んできた二羽の鴉が伝令と叫び、それぞれに新たな任務を告げたので。
「やれやれ、息つく暇もないな。途中まで一緒にと言いたいところだが、任地も真逆の方向ときている。人の事情など露ほども斟酌しないのだから、本当に鬼という奴は憤ろしい」
ぼやく言葉を口にしながらも、煉獄の声には気迫がこもる。冨岡はもう走り出していた。
ひるがえる独特な羽織の背に向かい、煉獄は声を張り上げた。
「冨岡っ! また今度話を聞かせてくれ、俺はもっと君を知りたい!」
聞えぬわけもないだろうが、冨岡は振り返りもしない。煉獄は落胆しなかった。次の瞬間には煉獄も走り出している。柱としての責任と矜持を投げ出すような真似など論外だ。
次はいつ冨岡に逢えるだろう。食事をともにするぐらいは了承してくれるだろうか。
恋心を自覚した煉獄の胸は熱く高鳴り、朝日のなかを駆ける足には力がみなぎっていた。