にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の2

 さまざまな記憶の断面を浮かび上がらせながら、伊黒は思考の海に深く静かに沈んでいく。
 憤りはまだ治まりきらず、絶望の深淵を覗き込んででもいるかのような杏寿郎の横顔やら、ときどき見せる怯えをにじませた笑みを思い出すたび、元凶となった奴らへの憤怒が頭をかき乱して、思考は一向に定まらない。灯台の見えぬ夜の海を泳いでいるかのようだ。
 伊黒が沈思黙考に入ってしまえば、無口な義勇が自ら水を向けるわけもなく、ただただ沈黙ばかりが場を支配している。杏寿郎なり宇髄なりが一緒ならば、いかにも手持ち無沙汰にぼうっとしている義勇を気遣ってもやれただろうが、あいにくとここにいるのは伊黒だけだ。
 せめて誰かの話し声なりが聞こえてきたのなら、伊黒もそちらに意識を向けたろう。だが残念なことに、閑古鳥が鳴く爬虫類ショップには人の声どころか、カエルの鳴き声一つ、聞こえてはこない。

 互いにだんまりを続けたのは、はたして何十分に及んだのか。もしもスマホが鳴りひびかなければ、伊黒と義勇は閉店まで、ひたすら黙りこくったままでいたかもしれない。
 とはいえそんなことは、万が一にもありえぬことだ。
 だって。

「もしもし? 杏寿郎、どうした?」
 伊黒が我に返ると同時に電話に出た義勇が口にした名は、案の定、杏寿郎だ。
 不測の事態とはいえど、杏寿郎が義勇を一人にして呑気でいられるはずがない。家にいるか確認すると同時に、少しでいいから声が聞きたくて電話してきたんだろう。まったくもってマメなことだ。いや、むしろ。
「え? 今は……」
 苦々しく眉間にしわを寄せた伊黒は、チラッと視線を向けてくる義勇に、無言で手を伸ばした。
 キョトンと一つまばたいたものの、義勇はすぐに伊黒の意を悟ったんだろう。素直にスマホを差し出した。
「心配するな。俺と一緒だ。目を離さないようにするから、おまえは伯父上の心配だけしておけ」
『小芭内? じゃあ、宇髄たちもいるのか?』
 杏寿郎の声にどことなく戸惑いが感じられるのは、しかたのないことだろう。宇髄らも一緒かと考えるのも、当然といえば当然だ。
 なにしろ、伊黒が義勇と長時間二人きりでいたことなど、長いつきあいのなかでも一度きりしかない。ひたすら間が持たぬ組み合わせだ。少なくとも伊黒は、学校を出たあとで義勇と二人っきりなんて状況は、こんな場合でもなければ御免こうむる。同族嫌悪だと思い知った今はなおさらだ。
「鏑丸の新しいシェルターを買いに出たら、偶然逢ったのでね。餌もそろそろ買いたかったから、荷物持ちにつきあわせた」
『あぁ、なるほど! あの店か! だが……義勇は大丈夫なのか? 前に一緒に行ったときは、餌を見るのを怖がっていたからな。気分が悪くなってたりしないか? すぐに迎えに行く! 荷物は俺が持とう!』
「……おい、ふざけたことを言ってるんじゃない」
 杏寿郎が義勇に過保護なのは昔からだし、ますますひどくなった理由も重々承知しているが、さすがにこれは心配の方向が明後日すぎる。論外だ。呆れるよりも苛立ったのは、義勇に自分を重ねてしまったからだなどと、絶対に認めはしないけれども。
「前に来たのは小学生のころだぞ。いくらなんでも、高校生にもなって迎えが必要になるほど怯えるわけないだろうが。だいたい、動けない伯父上を放っておく気か? 過干渉もいい加減にしたらどうだ。心配も度が過ぎれば侮辱と変わらないと、俺は思うんだがな。信用していないと言っているも同然じゃないのかね?」
『そんなことは……っ』
 少しの狼狽と、ほんのわずかばかりの口惜しさが伝わる沈黙は短く、すぐに朗らかな声が聞こえてきた。
『いやっ、小芭内の言うとおりだ! すまない。義勇を臆病者呼ばわりする気はなかった。小芭内、諌めてくれて感謝する!』
 本音はいくら心配してもしたりないぐらいだろうが、杏寿郎は、相手が正しいと判断すれば素直に自分の非を認める。だからまぁ、謝罪は予想どおりだけれども、礼まで言われるのは、なんだか落ち着かない。
「……ふん、わかればいいんだ。冨岡に代わるぞ」
 杏寿郎のてらいのない感謝に、ちょっぴりいたたまれなさをおぼえて、伊黒は、常よりぶっきらぼうに返した。
 おべんちゃらなら気にもとめないが、杏寿郎は本心から礼を言ってるのだから、気恥ずかしいったらありゃしない。こういうところは、杏寿郎と義勇はなんとなし似ている。夫婦は似てくるなんて言葉がうっかり浮かんで、伊黒はげんなりと肩を落とした。
「杏寿郎? うん。久しぶりに鏑丸に逢ってくる。あぁ、ほら、瑠火さんが呼んでるぞ。うん。また明日」
「うちに来るなど聞いてないが?」
 義勇が電話を切ると同時に、少々もてあますきまり悪さをごまかすように、文句が口をついた。
 ジロリとねめつける伊黒の視線は、呪われると噂になるほど陰性な剣呑さを含んでいる。けれども義勇は、まったく意に介さないばかりか、さも意外なことを聞いたふうに目を丸くしていた。
「え? だって荷物持ちするんだろう?」
「その場しのぎのいいわけを鵜呑みにするんじゃないっ」
「でも、まだ話も終わってないし」
 今度は伊黒がキョトンとする番だ。そういえば、うっかり考え込んでしまっていたが、義勇の真意についてまだ問いただしきってなかった。
 自分の失態に気づき、伊黒は知らず舌打ちした。
「……なんか、ごめん」
「なぜ謝る」
「いや、べつに……」
 わざとらしく視線をそらせるんじゃない。この天然ボケに指摘されるまで忘れていたとは、一世一代の不覚だ。
「……それで? 杏寿郎のリミッターがまた外れる懸念があるのはわかったがね、それならなおさら、貴様が離れるのは愚策でしかないだろう。そばにいてさえ、あれだけ過保護になるんだぞ。杏寿郎が了承したことも理解できないが、貴様の考えもどうせ突拍子もないに決まっている」
 それこそ、本気でぎっくり腰で寝込んでいる伯父を背負って、迎えに来かねないありさまなぐらいだ。杏寿郎のことだから、義勇の進学先を受け入れた理由など、自分も転校する気満々だからと言いだす気すらする。案外、本当にそれが正解かもしれないと、ちょっと遠い目になりかけもするが、今は義勇の真意を探るほうが先決だ。
 伊黒はふんぞり返って、尊大に言い放った。大部分が八つ当たりだと自覚してはいるが、素直に恥じるようなちゃちな鎧は着こんじゃいない。そんな伊黒に、義勇は気にした様子もなく、小さく首を振った。
「言っただろう? それじゃ俺の欲しいものは手に入らない」
「欲しいものが杏寿郎だというなら、もうとっくに貴様のものだろうが。これ以上なにを欲しがる必要があるのか、俺にはさっぱりわからん」
「違う。杏寿郎はたしかに俺を愛してくれてるけど、今のままじゃ、俺を手に入れようとしてくれない」
 義勇の声は静かだが、ほんの少し苦さを含んでいた。伊黒も思わず言葉に詰まる。
 あの日まで、杏寿郎はきっと義勇に告白するつもりでいたはずだ。誰もがそれを疑わなかった。きっと、義勇自身も。けれど今は。
 それまでと同じく、義勇が一番好きだという態度は隠さぬものの、杏寿郎の義勇への接し方は、兄弟同然な幼馴染に対するそれだと、周囲に見せつけてでもいるかのようだ。
「……言ってやればいい。貴様から告白すれば、杏寿郎だって安心して応えられるだろう」
「無理だ。今のままじゃ杏寿郎は断るに決まってる。杏寿郎から言い出すようにしないと、アイツは俺のことを諦める」
 なぜ言い切れるなどと、問うのは無意味だ。伊黒だって杏寿郎の答えぐらい想像がつく。だってもう、杏寿郎は知っているのだ。奴らが義勇に手を出そうとしたのは、自分が入学してきたからだということを。

 義勇が不死川や宇髄の所有物だと信じ込んでいるうちは、アイツラが実際に義勇へと手を出そうとする気配はなかった。弱い者には我が物顔にふるまうが、強者に対しては陰で馬鹿にするのがせいぜいの奴らだ。不死川たちにはそんなつもりはなくとも、現実には、義勇は二人の威光に守られていたも同然である。
 ところが、杏寿郎が入学してきて、義勇に対する不名誉な憶測の形が変わった。
 不死川たちに捨てられたからって、このあいだまで小学生だった奴に鞍替えかよ。見境ねぇな。あんなガキのチンポでも欲しいってか。淫乱。そんな言葉で、奴らは義勇と杏寿郎を愚弄しゲラゲラと嗤っていた。
 当時の杏寿郎は義勇より背も低く、まだまだ小学生で通用したのも、きっと奴らの妄想に拍車をかけたんだろう。奴らは杏寿郎を侮りきっていた。
 あんなチビじゃ満足させてやれねぇだろうから、俺らが相手してやるよ。うれしいだろ? 俺らの靴の裏でも舐めるんなら、アイツにもちょっとぐらいはおすそ分けしてやってもいいけどな。あのガキ、コイツにかなり惚れこんでるみてぇだし、それぐらいはしそうじゃねぇ? そう言って嗤う奴らに、杏寿郎を侮辱するなと義勇が怒鳴った声が、伊黒の耳によみがえる。
 自分への侮蔑も嘲笑も、きっと義勇は、歯を食いしばり耐えていただろう。それまで義勇の声はろくに聞こえてはこなかった。それも当然だろう。相手は大人数だ。下手な手を打てば、状況が悪化する。最悪、義勇は乱暴されることを覚悟すらしていたかもしれない。
 杏寿郎が到着したのは、義勇の怒声に奴らがいきり立ったときだった。あの日のことに一つでも救いがあるとしたら、杏寿郎の耳に、奴らの言葉も義勇の怒声も入らなかったことかもしれない。

 当時の伊黒のスマホに残された奴らの言葉だって、杏寿郎は耳にしていない。あれを聞いたのは、当の義勇と怯えながら録音していた伊黒。そして、警察官たちだけだ。
 返ってきたスマホは、すぐに処分した。あんなものが入っていたと思うだけで、踏みつぶしたい衝動にかられたのは言うまでもなく、持っていることすらが腹立たしかった。
 スマホを買い替えたい。伊黒が両親に初めて口にしたわがままだ。二人はなにも言わずうなずいてくれた。
 だから、スマホに残された侮蔑の言葉を、杏寿郎は聞いてはいない。それでも察するものはあったのだろう。警戒心が強まったことで、今までは気にもとめなかった噂話にも、注意を払うようになったせいかもしれない。
 義勇を取り巻く不埒な噂は、どれもこれも嘘っぱちだ。少なくとも今は。不死川や宇髄との関係はもちろん、杏寿郎とだって、義勇は恋愛関係にはない。感情はともあれ、外面的にはただの友人だ。杏寿郎が恋を諦めるのならば、噂はどこまでも噂のままで終わる。
 だから杏寿郎はもう、義勇にそういう意味で手を伸ばすことはない。義勇が望んでも、義勇のほうから手を差し伸べても、杏寿郎は困ったように笑うだけだろう。
 義勇と俺は兄弟同然の幼馴染で、一番仲良しな友達だ。義勇がふさわしい誰かと幸せになるのを、誰よりも願ってる。そう言って、きっと笑うのだ。

 伊黒の口からはからずもこぼれ落ちた嘆息は、深く重い。
「……貴様が離れれば、状況が変わるとでも?」
「うん。杏寿郎はきっと、離ればなれになるのを機に、完全に俺にふられるつもりでいると思う。引っ越す前に告白してくるに決まってる。俺が合格すればの話だが。不合格だったら格好つかないな」
「ふん、殊勝なふりをするな。貴様のことだ、意地でも合格するに決まっている」
 皮肉でも揶揄でもなく、伊黒は言った。杏寿郎を手に入れるためだというのなら、義勇が負ける勝負をするはずがない。杏寿郎の執着度合いが生半可でないせいで目立たないが、義勇の杏寿郎への執着だって並大抵ではないのだ。
 ふたたび伊黒がついたため息は、今度は軽かった。
「アイツのことだから、貴様の進学に合わせて自分も転校するぐらいは言い出しかねないが?」
「……だとしても、槇寿郎さんたちが許すわけないし」
 義勇も否定はしきれなかったんだろう。心なし視線を泳がせ言う様に、フン、と鼻を鳴らした伊黒は、ふと思い浮かんだ疑問に心持ち身を乗り出した。
「まぁ、いいだろう。貴様が進学先を地方に決めた理由はわかった。杏寿郎が告白の覚悟を決めるのも、ありえん話じゃないだろう。だが、そのあとはどうする。杏寿郎が貴様と離れて、おとなしくしていられると思うのかね?」
 なまじ恋人になってしまえば、杏寿郎の警戒や心配は、よりいっそうひどくなるのではないだろうか。自分では精一杯隠しているつもりだろうが、杏寿郎は義勇に関してだけは嫉妬深い。義勇が絡むと、針穴のほうがよっぽどマシなほど狭量になりがちだ。伊黒たちに対してはそのかぎりではないのが、救いではあるけれども。
 詰め寄るようにして聞けば、義勇はわずかに面持ちを引き締めた。
「おとなしくさせる。これから先も俺たちが一緒にいられるようにするためには、実績が必要だと思う。俺がいなくなっても杏寿郎が優等生のままで変わりがないなら、俺たちの仲があの事件の元凶だと疑う奴もいなくなるだろうし」
「他人など放っておけ……と、言いたいところだがな」
 たった一度の乱闘騒ぎで、杏寿郎の評価が一気に下がったのは確かだ。
 杏寿郎は優等生なだけに、教師の期待も大きい。中学時代もそうだった。小学生時分から剣道で名を馳せていた杏寿郎は、勉強でも上位をキープしている。絵に描いたような文武両道っぷりだ。
 その理由を知っているだけに、伊黒はつい遠い目をしそうになるけれども、それはともあれ。
 事件の被害が相当なものだっただけに、キレたら手がつけられないと杏寿郎を危険視するむきは、たしかにある。中学の教師はもちろんのこと、警察のなかにもいまだに、杏寿郎がなにか問題を起こすのではないかと疑う者はいるようだ。
 そんな大人たちが、義勇と杏寿郎を引き離せばいいと安直に考えるのは、あり得ぬことではない。実際にそんな提案もあったようだ。顔を合わせずにいれば、思春期特有の同性への疑似恋愛的な感情も薄れる。二人の想いの深さを知らぬ大人は、そう考えたのに違いない。
 浅薄なことこの上ないと、伊黒は鼻で笑いそうになった。
 蔦子へと義勇の転校を勧める声が大きくなかったのは、義勇が三年生だったからだろう。卒業すれば学校が分かれることに違いはなく、そうなれば、杏寿郎も周囲の女子に目を向けるに決まっている。そんな楽観と事なかれ主義から、口をつぐんだにすぎない。
 ところが、杏寿郎が希望する高校は、義勇の進学先だった。教師たちの思惑は、完全に外れだ。またぞろ不安をかき立てられたか、教師は何度も変更を促したらしいが肝心の杏寿郎の決意は固く、槇寿郎たちも教師の苦言を意に介さなかった結果、無事、杏寿郎は同じ高校へとやってきた。
 噂ばかりが先走っていたのか、高校の教師たちのなかにも、当初は杏寿郎を警戒する様子を隠さぬ者もいたぐらいだった。なにしろ義勇も、目立つほどではないが成績優秀だ。運動神経だってよく、教師への反抗など皆無な生徒である。将来有望な二人にとって、ともにいることは悪影響にしかならないと、考える大人はたしかにいるのだ。
「あっちが放っておいてくれない。俺たちのことを……杏寿郎のことをなんにも知らないくせに、勝手なことばかり言って決めつける」
 だから実績が必要なのだと、義勇は静かに笑った。