にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の2

 苛立ちを隠しもせず奴らへの侮蔑を口にする伊黒を、今度は義勇もとがめなかった。小さく肩をすくめる仕草には、同意の気配さえ感じられる。
 実際、義勇が次に口にした文言には、奴らに対する思慮はなかった。
「どっちにしろ、アイツラが俺たちの人生に関わってくることはない。死んでようが生きてようが、杏寿郎や伊黒たちに面倒をかけなきゃそれでいいんだ。あんな奴らのことを恨む時間がもったいないだけだろ」
 義勇にしてはめずらしい言葉だ。奴らのことを考えるのでさえ、無駄な労力だと、本気で思っているんだろう。奴らへの怒りは義勇にもあるのだ。
 腹立たしさは抑えがたいが、少しばかり溜飲が下がった気がした刹那、続いた義勇の弁が、伊黒を凍りつかせた。

「それに……アイツラが言ったセリフにも、一つだけ本当のことがあった」

 信じられないなんてものではない。気でも狂ったかと不安にすらなる言葉だ。
「あんな吐き気がする言葉のどこに、そんなものがあったというのかね。日本語だとすら認めがたい理解不能な戯言ばかりだ」
 なにからなにまで、奴らの言葉には汚らしい妄想からくる責任転嫁と、自己弁護しかなかったではないか。
 憤懣をかろうじて飲みこみ聞いた伊黒に、義勇の笑みがどことなし色を変えた。

「杏寿郎が刺したのと同じだ」

 静かな声で紡がれた言葉は、にわかには理解できなかった。なぜ秀麗なその顔に、薄い笑みがまだ浮かんでいるのかも。
「……なにを」
「奴らの馬鹿馬鹿しい言い分のうちで、あれだけは正しかった。杏寿郎が刺したも同然だ」
 カッと伊黒の全身を怒りの炎が焼いた。激昂のままに義勇の胸ぐらへ伸ばした伊黒の手を、義勇は拒まなかった。
「貴様、自分がなにを言ったか、わかっているのか? 杏寿郎が刺されればよかったとでも言うつもりか!」
 立ち上がりざまに、揺れた椅子がガタンと大きな音を立てた。重なりひびいた伊黒の怒声に、義勇の顔から笑みは消えたものの、そこに動揺はない。伊黒を見つめる瞳は静かなままだ。
「でも事実だ。杏寿郎が刺されるわけないけど」
 声音もまるで揺るがない。続けられた言葉に、伊黒は凍りついたかのように動きを止めた。

 ――だって、杏寿郎は、奴らが同士討ちになるよう動いてたから。

 利他的な傾向が強い義勇にしては珍しく、伊黒が受けた衝撃への配慮は、そこにはなかった。義勇は淡々とした声でなおも言う。
「アイツラは、杏寿郎の誘導にまんまとはまって、お互いに殴ったり切りつけたりしてたにすぎない。あぁ、もちろん杏寿郎自身が叩きのめした奴のほうが多かったのは確かだ。杏寿郎は強かった、本当に。誰も杏寿郎にはまともに触れられすらしなかった」
 こいつは、なにを言ってるんだ? ドクドクとこめかみを流れる血流がやけにうるさくて、義勇の小さな声は聞き取りにくい。
 けれど不思議にはっきりとしていて、伊黒の脳髄に直接注ぎ込まれるかのようだった。
「大怪我を負った奴は、どっちも杏寿郎がやったのと同じことだ。杏寿郎がそうなるように仕向けたんだから」
 義勇がなにを言っているのか、言葉の意味はわかる。だが理解はそこまでだ。文言の意味はわかっても、内容への理解が追いつかない。
 襟元を掴み上げた手に、そっと義勇の手が重なり促すのにも、逆らう気力すらわかず、伊黒はまた椅子に腰かけた。よろけた先に椅子があっただけとも言えるだろう。
「……どういうことだ?」
「言葉のままだ。杏寿郎はずっと、アイツラが仲間同士でぶつかりあうように動いていた。どんなタイミングで避ければ、自分の背後にいる奴に凶器が向かうか、立ち位置もタイミングも、ちゃんと計算してた」
「まさか……そんなこと、できるわけが」
「あるんだ。杏寿郎にはできる。できたんだ。あのとき、杏寿郎はきっと、相手に最大限のダメージを与えながら、自分のダメージは最小限に、奴らが俺に意識を向けないようにと考えて動いてた。我を忘れるぐらい怒ってたけど、そんなときでさえ……いや、ああいう状況だったからこそ、杏寿郎は冷静に計算してた。剣道のおかげかもしれない。観見かんけんの目付けってやつかな。奴らの動きは、杏寿郎には先の先までお見通しだったと思う。それどころか、わざと隙を作ってみせて、視線だけで相手を呼び込んでた。後ろに迫ってくる奴がいるのを、承知の上で」
 そんな馬鹿なこと、あるわけがない。咄嗟に伊黒の脳裏を占めたのは、困惑と不審だ。だってありえないだろう。杏寿郎はまだ中学一年だった。ほんの数ヶ月前までランドセルを背負った小学生だったのだ。
 幼稚園のころから始めた剣道でならば、たしかにその年ごろとしては相当強かった。今と変わらず同年代ならば敵なしだ。
 義勇の言う観見の目付けとやらも、伊黒は知っている。槇寿郎に稽古をつけてもらっている杏寿郎を、義勇と一緒に道場で見学したことはそれなりに多いのだ。相手の一部の動きにとらわれず、全体像を見ろ。心の目を磨き、相手の心の動きこそを読め。槇寿郎はそう杏寿郎に教えていた。
 槇寿郎ほどともなれば、相手の目線や息づかいで、次の動きを予測するらしい。逆に己の目線は動じない。視線で次の手を気取られることがないよう、心は常に冷静に保つ。わずかな瞳の動き一つで、相手の動きを誘えもする。
 知っているとも。長いつきあいだ。伊黒自身は剣道などしたことがなくたって、可能なことは理解できる。
 杏寿郎は、まだまだ父上にはおよばないと悔しそうだが、あの年であれだけ観の目に優れている者はそうそういない。大会でも口をそろえて称賛されていることも、伊黒は承知している。
 けれどそれは、あくまでも試合であればの話だ。喧嘩とは違う。相手の動きに定められた型などなく、ましてや相手が手にしているのは竹刀ではない。それだけでも、相当に勝手が違うだろう。ルールだってない。
 喧嘩慣れしている不死川なら、そういうこともありえるかもしれない。だが、杏寿郎はそれまで、殴り合いなどしたことがなかったはずだ。しかも、あの状況下である。そんなことができるだけの理性が残っていたかすらあやしい。
 だというのに、すべてが計算ずくの行動だというのか。信じがたい。けれど実際にはたしかに、あれほどの重傷者を出した乱闘騒ぎだったにもかかわらず、杏寿郎だけは無傷だった。
 小さな傷や打ち身はもちろんあった。それでも、身動きさえできずに床をのたうち回るだけとなった奴らとくらべれば、ささくれ程度にしか思えぬものばかりだったのは、間違いがない。
 しかも、相手は凶器を振りかざしてきたのだ。理性もなく、後先などまるで考えもせずに、殺意を込めて。だからこそ、杏寿郎へのおとがめもなかったのだが。

 義勇の言が事実だとしたら。想像しようとしても、うまくいかなかった。日ごろのお日様のように朗らかな杏寿郎とは、どうしても重ならない。
 すべて理解した上での計算だというなら、それはもはや、冷静なんて言葉では生ぬるい。冷酷非情。杏寿郎からもっとも遠いそんな言葉が、知らず伊黒の四肢を震わせた。
「中一、だぞ……。喧嘩なんかしたこともない」
「うん。杏寿郎は、喧嘩をふっかけられても、絶対に自分は殴ったりしなかったからな。殴られても受け流して、自分は手をあげないのがすごい。やろうと思えば、杏寿郎は誰にも負けないのに、喧嘩ではなく試合でなら相手になろうって、いつも笑っておしまいだった」

 なんでうれしそうなんだ、貴様は。声を弾ませてる場合か。

 義勇はいっそ、うっとりととしか形容できぬほどに微笑んで、目を輝かせている。そんな義勇の様子もまた、伊黒には信じられない。
 杏寿郎がいっぱしの武道家らしく、自分の力を暴力沙汰に使わないことが、喜ばしく誇らしいのは、伊黒だって同様だ。深刻な会話内容だったにもかかわらず、惚気へと自然にシフトチェンジする義勇の神経こそが、信じられない。けれども。

 そうだ。こいつは繊細なところもあるが、それ以上に、変なところで大雑把で呑気なんだった。

 一気に脱力して、伊黒は痛むこめかみを思わず押さえた。伊黒の呆れに気づいたのか、義勇の眦がほわりと赤く染まった。
 ちょっぴり首をすくめて視線をそらす義勇に、伊黒は、ぐったりと背もたれに体をあずける。羞恥心がかけらでも残っていてなによりだ。一人で花が舞い飛ぶ惚気を浴びるなど、御免こうむりたい。不死川今すぐこいと、叫んでしまいそうだ。不死川には迷惑極まりないだろうけれど。
「あの……」
「それで? 惚気はいいから続きを話せ」
「惚気?」
 なんのこと? と言わんばかりに首をかしげるんじゃない。恥ずかしそうにしていたくせに無自覚か。
 皮肉を言うのも馬鹿らしく、伊黒はジロリと義勇をキツくねめつけた。理由は思い至らぬまでも、眼差しの剣呑さは疑いようがなかったんだろう。義勇はピッと肩を小さく跳ね上げると、バツ悪げに居住まいを正した。
「……ともかく、あのとき刺されたり椅子で殴られたりした奴が、杏寿郎の策にしてやられたのは間違いない。誰も気づかなかったと思うが。でも、これから先も気づかれないなんて、楽観はできない」
 それはたしかにそうだろう。むしろ、伊黒ばかりか不死川や宇髄までもが、杏寿郎が無傷だった理由を訝しまずにいたほうが、不思議なぐらいだ。それほど、あの日の杏寿郎が、痛々しかったということではあるが。
 しかし、気になるのは別の点だ。
「この先とは、どういう意味だ?」
 あの事件をほじくり返す者がいるとは思えない。杏寿郎のバレバレな嘘を真に受けた大人など一人もおらず、杏寿郎の必死の抵抗虚しく提出した伊黒のスマホも揺るがぬ証拠となった。
 義勇の言葉が事実だとしても、もう事件は決着がついている。今さら蒸し返したところで、奴らの非がくつがえることもない。
「杏寿郎は、絶対に今まで以上に俺を守ろうとするから。実際、しばらくは俺が伊黒たち以外と話すのすら、警戒してただろう? リミッターが外れるハードルが、かなり低くなってたと思う。あのころほどじゃなくても、今もたぶん……きっかけ次第で、杏寿郎はあのときと同じことをする」
 きっと事実だから、伊黒は、なにも言えない。
 あのころの杏寿郎は、義勇の半径一メートル内に誰かが近づこうものなら、手負いの獣のように全神経を研ぎ澄ませていた。周りの空気がピリッと放電した気すらするありさまで、伊黒や不死川もまた、そのたび杏寿郎の挙動を警戒する羽目になっていた。
 唯一の救いは、夏休みが近づいていたことだ。
 詳細は箝口令が敷かれていたものの、人の口に戸は立てられない。学校では乱闘事件はかなりの噂になっていた。義勇や杏寿郎をチラチラと窺う不躾な視線や、ひそひそ話に、伊黒と不死川はかなり神経をとがらせていたのだ。時期が違えば噂が立ち消えるまでに、杏寿郎のリミッターがまた外れる事態になっていたかもしれない。

 そんななかで、以前と変わらぬまま笑っていたのは、義勇だけだ。

 幼いころみたいに大好きと口にはしないまでも、杏寿郎へのバグった距離感も相変わらずで、これっぽっちも傷ついた様子などなかった。自分がなにをされかけたか、わかってないんじゃないのか? と、わりあい本気で、伊黒と不死川は訝しんだものだ。

『煉獄をあからさまに気遣ったり、罪悪感を丸出しにすりゃ、派手に煉獄を苦しませるだけだからだろ』

 宇髄に言われぬまでもなく、伊黒たちだってそれぐらいの察しはつく。けれども義勇の態度は、あまりにも変わらなすぎた。
 義勇に笑いかけられて、一瞬の戸惑いを浮かべるのは、杏寿郎も伊黒たちと大差はなかった。
 頭では理解し納得もしていたが、どうしても、なぜ笑えると義勇を責めそうになる。被害者は義勇だとわかっている。笑みを浮かべる健気な理由も、承知していた。それでも、笑いかけられたときの、一拍未満の沈黙を、しばらくのあいだ伊黒はどうしてもつくろえなかった。不死川も似たようなものだ。
 たぶん、自分たち以上に戸惑っていたのは、杏寿郎に違いない。
 後悔し、自分を責めてやまないから、なぜ責めてくれないと、当の義勇を責めそうになる。
 なんでもっと早くこなかった。なんで一人にした。責められたところで、もしもの話に意味などない。杏寿郎の到着はけっして遅くはなく、むしろ、状況からすれば最速だ。幼児じゃあるまいし、義勇が一人で行動することぐらい、それまでもいくらだってあった。責める理由がないと笑われたら、なにも返せやしない。
 それでも。責められたかった。伊黒や不死川でさえ、ついつい思ってしまうのだ。杏寿郎はなおさらだろう。
 だが、そんなことができるわけもない。義勇の一挙手一投足に敏感な反応を見せ、わずかに怯みが浮かぶ目を、無理やり笑みにたわめる。そんな杏寿郎の表情に、義勇はそれでも変わらぬ態度をとりつづけていた。
 今ならば、義勇にとっても綱渡りめいた日々だったろうと、伊黒にも理解できる。
 自分の笑みに杏寿郎が不安がるなど、義勇にしてみれば、それこそどうしてと泣いてなじりたくすらなったのではないだろうか。

 たった三つとはいえ、年の功とはよく言ったものだ。仲間内で義勇となんのてらいも見せずに笑いあえたのは、あのころは宇髄だけだった。
 杏寿郎に対しても同じことだ。それに倣ってか、ついで不死川が。伊黒がようやくためらいを見せずに義勇と接するようになれたころ、やっと杏寿郎の瞳から怯えが消えた。
 いや、隠されたのだ。ひと夏をかけて、やっと。