にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の2

 口中がなんだか苦い。いつもなら少し怯む、店長お手製の得体の知れぬハーブティーが、やけに恋しかった。
 けれども、店長がこちらにくる気配はまるでない。声帯を持たぬ生き物が多数を占める爬虫類ショップは、ひどく静かだ。
 伊黒の沈黙をどうとらえたものか、義勇は唇にかすかな笑みを浮かべた。

「姉さんのオマケだった俺は、今は杏寿郎のオマケだと思われてる」

 一瞬、カッと脳髄が熱くなった気がしたのは、腹立ち故かそれとも羞恥がまさったか。伊黒自身にも判断がつかない。いずれにしても伊黒にとっては、隠した本音を突きつけられたようなものだ。
 ドラマなどであれば、そんなこと誰も思っていないと、即座に言ってやる場面だ。けれども否定の言葉は、声になる前に飲み込まれた。口中と言わず喉の奥まで、苦さが広がった気がする。というよりも、なんだか痛い。亀たちにやる餌の残りで淹れられたハーブティーが、こんなにも恋しくなったのは初めてだ。
 杏寿郎のオマケ。ついでに貴様も。胸中で自分だって幾度も繰り返した。義勇自身の価値を、かたくなに認めようとしなかった。
 大部分は幼稚な嫉妬だと伊黒だって自覚している。ヤキモチだなどと思いたくなくて、オマケ扱いしてごまかしていた。そんな自分になにが言える。
 ギリッと奥歯を噛みしめた伊黒を見つめる義勇は、どことなし菩薩像を思わせる笑みを浮かべたまま、静かに座っていた。アルカイックな笑みは、どうにも真意をとらえがたい。
 義勇の静かな青い瞳は、すべてを見抜いた上での達観にも、茫漠としてなにも考えていないかのようにも見えた。

 笑っているのに、どこか心は遠くにある。そんなふうにすら、感じさせる義勇の瞳。無表情だったり、こんなふうに真意が見えぬ笑みを浮かべると、なおさらだ。

 感情の読めぬ目は、ときに白痴めいてすら感じられるのか、謂れのない嘲りを向けられることだってあるのを、伊黒は知っている。選択授業の教室に義勇と向かっているときに、すれ違いざまにボソリと差別的な言葉を吐き捨てた輩の背へと、玉ねぎで作ったゴキブリ誘引剤を塗りつけてやったこともあるのだ。
 足にたかってきたゴキブリに悲鳴を上げて逃げ出す暗愚への腹立ちも込めて、あんなことを言われて黙ってうつむくんじゃないと、伊黒は義勇に説教すらした。
 嫉妬心をごまかして、オマケだなんだといいわけしても、義勇が他人から悪く言われれば腹が立つ。それこそが、ごまかしようのない真実だ。
「杏寿郎が入学してくるまでは、宇髄や不死川の、それから伊黒のオマケとも思われていた。今もそうだ。でも、誤解しないでくれ。伊黒たちがそう思ってると言ってるわけじゃない」
「……当たり前だ。宇髄たちがただのオマケとつきあい続けるわけがない」
 媚を売っているだの腰巾着だのと、影で義勇が言われていることだって、伊黒は知っている。それぐらいには付き合いは長く深い。自分のオマケだとまで言われているとは、思いもしなかったが。
「うん。伊黒たちが俺と一緒にいてくれるのは、誰かのオマケだからじゃないって、ちゃんと知ってる。ありがとう。槇寿郎さんたちや、故郷の友達もだ。だから気にしてない。でも、他人は違う」
 ようやくはっきりと微笑んだ義勇の言葉には、皮肉などまったく感じられない。本心から伊黒らに感謝しているんだろう。だからこそ、なんだかいたたまれない。
 俺だって貴様のことは苦手だが、嫌いだというわけじゃない。放っておけずにかまってしまうのは、けっして、杏寿郎の手前だからじゃないんだ。
 胸中だけの言葉は、言いわけではなく、嘘偽りない伊黒の本心だ。けれども長年培ってきた鎧を脱いで、素直に口にすることはできなかった。
「他人など、放っておけばいい」
 ありきたりな言葉しか言えない。どれだけ語彙が増えたって、言葉は伝えなければ意味がないのに。心の奥で、今も虚ろな目をして膝を抱いてうずくまる子供の伊黒が、だって怒られるのは怖いよ、殴られたら痛いよと、言葉を飲み込んでしまう。
 強気で横柄な言葉の槍を振るうなら、反感も拒絶も当たり前だから気にならない。けれども好意の言葉を拒絶されるのは怖かった。だから伊黒は、素直な好意をそのまま言葉にはできない。いつだって。
 自分の肌と変わらぬほどに馴染んでいるはずのマスクが、やけに息苦しく感じた。

「そうだな。言葉だけなら、言いたいだけ言ってろって俺も思う。でも、杏寿郎にとって俺が、悪影響にしかならないオマケだと思われているなら、大人は俺と杏寿郎を引き離そうとするだろう? 俺たちが子供であるうちなら、実際にそうするだろうな」

 義勇が自己卑下する理由は知れた。愛情だけを受けてきた幼子に、突然手のひらを返して降り注いだ拒絶は、やわらかな心の深部にまで傷を作ったのに違いない。誰からも愛される素直な子供だったからこそ、義勇はそれを真実だと思いこんでいる。トラウマを覆すのはきっと厳しいだろう。したくもないが理解できる。たぶん、伊黒には誰よりも深く。
 けれど看過はできない。

 杏寿郎は優等生だ。誰からも好かれる。自分はそんな杏寿郎の瑕疵になると、義勇が思い込んでいるのなら、見過ごすわけにはいかない。それこそが杏寿郎を傷つけると、わからないわけでもあるまいに、なぜ義勇はそんなことを言うのか。
 羞恥や自己嫌悪を凌駕した苛立ちに、伊黒は思わず声を荒げた。
「悪影響、だと……? まさか、貴様もそんな戯言を真に受けているのか!」
「今のままなら。三年前、杏寿郎がなにをしたか覚えてるだろう?」
 伊黒の激昂など予想済みだったらしい。義勇はこともなげに口にした。伊黒がヒュッと息を呑むなり唇を噛むのを、微笑んだまま見つめている。
 まるで、昨日の夕飯なんだった? とでも聞くかのような気軽さで放たれた言葉と笑みに、伊黒の動揺はますます深まった。
 覚えているに決まっているだろう。忘れたくとも忘れられない。埃とアルコールの臭い。うめき声。床に散った真紅の血。……杏寿郎の、感情を失ったかのような横顔。
 全部忘れられないからこそ、こうして後悔しつづけている。
「七人だ。相手は二人が重傷。腹を刺された奴と、パイプ椅子で頭を殴られた奴。残りは軽傷だったけど、無傷な奴は一人もいなかった」
「……重傷だった奴らは、仲間にやられたんだろうが。杏寿郎がやったんじゃない」
 凶器からは、杏寿郎の指紋は一つも出なかった。
 中学生同士のただの喧嘩ではすまされない状況に、警察も慎重に捜査したのだろう。伊黒たちへの事情聴取だって長かった。
 奴らの言い分は、杏寿郎が突然殴り込んできて自分たちを刺しただ殴っただのと、反吐が出そうに空々しく、身勝手だ。信じた者は誰もいなかった。同時に、七人もの凶器を振りかざす相手を杏寿郎一人で叩きのめしたと、すぐに信じた者もまた、いなかった。
 ましてや、杏寿郎自身が自分が勝手にやったと言い張ったのであれば、なおさらだ。

『俺が一人で勝手にやりました。周りに迷惑ばかりかけているあいつらに、腹が立ったから。義勇たちは止めに来てくれただけです。関係ない』

 馬鹿が。今でも伊黒は思い出すたび舌打ちしたくなる。そんな言葉を鵜呑みにする者など、それこそ誰一人としているわけないだろうに。だというのに、警察官に声をかけられた瞬間、杏寿郎はパッと自失から覚めた顔でそう言い放った。
 尻馬に乗ってそうだと喚く奴らに、白々しい嘘こいてんじゃねぇぞと不死川が怒鳴っても、義勇が蒼白な顔で首を振っても、杏寿郎は壊れたレコードみたいに警官に向かって誰も関係ないんだと繰り返していた。

 『冨岡がコイツラ全員に囲まれて、連れ拐われるのを見ました。こいつらがなにをしていたのか、外で録音もしてあります』

 そう言って伊黒がスマホを掲げたときに、真っ先に青ざめたのは、応急手当を受けている奴らではなく、杏寿郎だ。
 あんな見え見えの嘘をついてまで、義勇の名誉を守ろうとする気概は買うし、気持ちは理解できる。それでも杏寿郎一人が罪を背負えば済むというものではない。ここで真実を明らかにしなければ、コイツラが笠に着るのは明らかだ。下手をすれば、また誰かが被害に遭う可能性は充分あった。
 たとえ杏寿郎から恨まれようとも、奴らをのさばらせておくわけにはいかない。伊黒の決意は、義勇も同様だったんだろう。スマホを受け取った警官の前に進み出た義勇の顔にも、覚悟が見えた。

『乱暴されそうになりました。記念に録画してやるって笑ってたけど、スマホは踏み潰したのでデータが残っているかはわかりません。調べてみてください』
『黙れ! 俺が勝手にやったと言ってるだろう! 義勇は関係ないっ、俺だ! 俺が勝手にやったんだ!』

 義勇自身が口にした言葉を、誰よりも強く否定したのもまた、杏寿郎だ。義勇を怒鳴りつけ、警官に詰め寄る杏寿郎の必死な形相や声を、今も伊黒は忘れられない。
 義勇に対していつだって、杏寿郎は大好きな気持ちを隠さず笑っていたのに。義勇を怒鳴り否定する杏寿郎など、伊黒はあのとき以外、一度も見たことがない。

「でも、伊黒だって聞いただろう? アイツラがなんて言ったか」
「あれのどこに正当性がある! 仲間に刺されたのは杏寿郎が避けたせいだと言ったんだぞ! 杏寿郎が刺したのと同じだなど、よく言える! ……いっそ、死ねばよかったものをっ。あんな奴らは殺されて当然だ!」
 補導され、更生施設に収容されるぐらいじゃ生ぬるい。手厚い看護を受ける権利など、あんな輩のどこにある。なにより信じがたいのは、奴らはその理不尽極まりない言い分こそが正しいと、本気で思っていたことだ。

 義勇に不埒な行いをしようとしたのは、義勇が犯してほしいと誘う目で見たから。男なんて気色悪いのに相手をしてやろうとしたんだから、むしろ感謝されるべきだ。それなのにこんな目に遭った自分たちこそが被害者だ。あの気違いが避けなければ、刺されたりしなかった。おとなしく引き下がればいいのに、スマホを壊したから殴りかかったのは当然だ。反撃なんかするのが悪い。刺そうとしたのも、凶器で殴り飛ばそうとしたのも、当然の権利。それなのに避けたあの気違いこそが、加害者だ。

 言い分などというのもおこがましい。いっそ吐き気をもよおすほどに、自己愛だけで吐き出される論理だ。一斉に喚きたてたその口に、ありとあらゆる汚物を詰め込んでやりたいと、伊黒が憤怒したのは言うまでもない。不死川や宇髄だって、激昂を抑えがたかったことだろう。
 警官の前で黙れと実力行使に出なかったのは、三人がかりでなければ、杏寿郎をとめられなかったからだ。

 杏寿郎は、無言だった。奴らが義勇のことを口にした途端に、獲物をとらえる肉食獣さながらに音もなく奴らに飛びかかろうとした。黙れともふざけるなとも言わず、獰猛な獣の唸りに似た音をもらした口を引き結び、大きく見開いた目には明らかな殺意が込められていた。
 警官よりも素早く伊黒たちが動けたのは、どれだけ憤怒に身を焼かれても、意識の片隅に絶望に彩られた杏寿郎の横顔がこびりついて離れなかったからだろう。一緒になって奴らに殴りかかりたい衝動よりも、杏寿郎が怪我人に拳をふるう姿を、警官たちにさらすことへの危惧が勝っただけにすぎない。

 いっそあんな輩は死ねばよかったのだ。ありありと思い出せてしまう奴らの言葉とあの日の憤りに、伊黒は知らず身を震わせた。どうせ生きていたって周囲に迷惑を撒き散らし、被害者を増やすだけだ。杏寿郎や仲間の手を汚さずに殺されるなら、誰にとっても大歓迎の結末だっただろうに。

「駄目だ。伊黒がそんなことを言ったら、おばさんたちも杏寿郎も悲しむ」

 シィッと口に指を立てて微笑む義勇に、伊黒ははからずも泣きたくなった。
 あの日の被害者は義勇だ。なのに、なぜ笑えるのかと、八つ当たりにも似た苛立ちもわく。
 伊黒の不満を感じ取ったんだろう。義勇の笑みが少し色を変えた。
「それに、死んだら反省も後悔もしない。ちゃんと生きて、自分の罪や馬鹿さ加減を自覚してもらわないと。死んでおしまいじゃ、こっちの後味が悪いだけじゃないか?」
 ニッとどこか人の悪い笑みを浮かべた義勇に、毒気を抜かれて、伊黒は一瞬呆けた。呆れはすぐに苛立ちにとってかわられたけれど。
「アイツラが反省なんかするタマかっ。人がいいにもほどがあるんじゃないかね?」
 流されやすいのは自己卑下によるものばかりでもなく、義勇は情が深い。ぼうっと腑抜けて見えもする風情でありながら、深謀遠慮はもしかしたら仲間内随一かもしれないと思うこともあった。
 怒りや不満を覚えても、相手の真意を慮る。一度思い込んでしまったら自己の結論にとらわれがちなくせに、視点は多角的で、俯瞰で物事を見定める。それは杏寿郎の博愛に少し似ていた。