それは十二月に入ったばかりのとある朝のことだ。着信音とともにスマホに表示された名に、伊黒は思わずスマホを二度見し、ついで眉をひそめた。
画面に映っている名は『冨岡』という名字のみ。フルネームは冨岡義勇。下の名で呼んだことは一度もない。
即座に伊黒が思ったのは、めずらしさへの驚愕。そして、なにがあった? という不安だ。
冨岡義勇は、伊黒の従弟の幼馴染であり、恋人でもある男だ。伊黒自身との関係はといえば、単純かつ少々複雑である。体面的には単純明快、中高の同窓生。出逢いはもっと昔だ。母に連れられ伯母の家に行くたび、必ずといっていいほど従弟の杏寿郎と一緒にいて、三人一緒に遊ばされたから、伊黒にとっても幼馴染と言えなくもない。伊黒とは同い年でもあり、友人と呼んでも差し支えないのはたしかだ。
現在はといえば、義勇は少し離れた地方都市の大学に進学し、たまにこちらに帰ってくるときぐらいしか、顔を見ることはない。
一人暮らしは伊黒も同様だが、実家からそう離れておらず、三日と空けずに母は様子を見にやってくる。母の姉であり、杏寿郎の母でもある凛とした伯母と違い、母は少し心が弱い。伊黒の顔を見ずにいると心配で、眠れなくなるのだと言う。
伊黒は大学生だし成人だってした。自分の生活費どころか、父や母だって養える程度には収入もある。けれども、母の目にはいまだに伊黒が、うつろな目をして部屋の隅で膝を抱える幼子に見えているのかもしれなかった。
育ててもらった感謝は尽きず、母が過保護になる理由も理解できるだけに、文句をつけたことはない。焦ったところでいい結果にはならないだろう。ゆっくりと子離れさせてやってくれと苦笑する父の言に、素直に従うよりない。
そんな両親との関係以上に、伊黒の胸中にだけ抱え込まれた感情としての冨岡義勇との関係は、我ながらとっちらかっている。今もってすんなりとは言い表せそうにない。
それはともあれ、義勇というのは、日ごろは通信アプリのメッセージしか――しかもたいがいは『わかった』だの『そうか』の一言だ――送ってこない男だ。仲間内で作ったグループの会話にしか参加しないし、伊黒に個人的に連絡してくることなど、ほぼ皆無でもある。九月にある伊黒の誕生日に、おめでとうとのメッセージが送られてくるのが関の山だ。伊黒だって似たようなものなので、文句を言えばやぶ蛇になりかねない。
それに、ほかの友人たちにだってお互い同じことだ。お互いにグループとしてでなく自発的に連絡を取るのは、たった一人。伊黒の従弟であり義勇の恋人である、杏寿郎だけなのだ。伊黒と義勇の共通点はといえば、以前はそれぐらいなものだった。
冨岡と親しい友人という枠でくくられるのに異論はないが、二人で外出したこともない。けれども、一緒にキャンプや旅行に行ったりしてはいる。ハロウィンやらクリスマスといったイベントも、一昨年までは宇髄や不死川といった友人たちと集まるのが当然で、そこに冨岡も常にいた。桜桃みたいに杏寿郎とぴったり寄り添い合って。
伊黒が、杏寿郎や宇髄たちと一切関わりなしに義勇と二人きりで会話したのは、たった一度。高校三年の、秋だった。
スマホはまだ着信音をひびかせている。意外な名につい自失してしまっていた。そしてまた伊黒は考える。なんで電話なんだ?
義勇は激しく無口で口下手だ。メッセージ以上に、電話での連絡など義勇に関してはありえないとすら言える。いや、中学ぐらいまではまだ、電話をしてくることはたまにあった。けれどもお互い悟ったのだ。電話じゃ埒が明かないと。
声でのみ意思疎通する機器だというのに、無言で伝わると思うんじゃない。おまえの沈黙の意味を汲み取れる杏寿郎がとんでもないのだ。俺にそんな能力を求めるな。
義勇本人も電話では話をしなければ始まらないとわかっているのか、伊黒にかぎらずめったに自分から電話をかけることはないようだ。それがわざわざ電話してくるなど、いったいなにがあったというのか。ふたたび最初の疑問に立ち返ったところで、伊黒はとうとうスマホを手にとった。
「もしもし。どうした、貴様が電話とは、槍でも降るんじゃないのか?」
ちょっとだけ伊黒は舌打ちしそうになる。我ながらなんだか少し焦って聞こえる声だ。鏑丸がチロリと頬を舐めてきたのに、電話の向こうに気取られぬよう深呼吸する。
犬などと違い、蛇は意思疎通の難しいペットだが、鏑丸は別格だ。六歳の誕生日からずっと一緒に暮らしている白蛇である鏑丸は、もうそろそろ老いが見えてもおかしくないが、まだまだ元気で、こうして伊黒の感情の機微を読み取り、慰めたり心配してくれもする。
鏑丸との出逢いも、杏寿郎がきっかけだ。
「……伊黒、頼みがある」
そっと鏑丸の小さな頭を撫でたと同時に、スマホから聞こえてきた義勇の声は、どことなし固かった。電話越しの声を聞き慣れているわけではないが、その声はいつもの義勇とはなんとなく違う気がして、伊黒はまた少し顔をしかめる。
「貴様が俺に?」
「杏寿郎には話せない。というか、おまえにしか頼めない」
義勇の声は静かだ。義勇は声も小さく、淡々と話すことが多いから、いつもどおりと言えなくもない。だがその静けさは、なぜだか伊黒を落ち着かない気分にさせた。
鏑丸のために室内は充分に暖かくしているというのに、背に寒気が這い登りゾクリと震える。杏寿郎に話せず、伊黒にしか頼めないこと。見当もつかず、けれども、きっと義勇のことだから杏寿郎の身に関わることに違いない。
「……なにがあった」
「写真が、置かれている」
「は? 写真?」
「俺のだ」
スムーズに進まぬ会話に、イラッと伊黒のこめかみに青筋が浮いた。義勇はいつもこれだ。言葉足らずだったりやけに遠回りだったりする物言いに、伊黒や短気な不死川はいつもイライラとさせられる。
「おい、もっとわかりやすく話せ。貴様の写真がなんだというんだ」
「ここ数ヶ月、部屋の前に紙袋が置かれていることがたびたびある。なかに俺の写真が入ってる」
スマホから聞こえてくる声は、やっぱり固い。伊黒の表情も、その言葉に固く凍りついた。
思い出したくもないのに浮かんできたのは、中三のときの一幕だ。それから、昨年の四月に、義勇の新居から見つかった、盗聴器。だがあれは、義勇とは関係ないものだったはずだ。義勇のあちらでの幼馴染である錆兎たちが、新たな盗聴器の有無をときおり探ってくれているが、今まで怪しいものが発見されたという報告もない。
「写真が置かれているだけか? 誰かにつけられている様子や、部屋に異変はないのか?」
「とくには……だが、写真は隠し撮りだと思う。それと最近になって、メモが入っていることが増えた」
伊黒の緊張が伝わったのだろう、鏑丸がまたチロチロと頬を舐めてくる。だが、伊黒の緊迫感は薄れそうになかった。
「メモ?」
「俺が、いつどこにいたとか、誰と逢ってたとか。……杏寿郎と電話したときや、その……泊まりに来たあとは、杏寿郎と話した内容、とか……書いてあって」
まさか。そんなわけはない。思わず伊黒はそう言いそうになった。引っ越しの日に見つかった盗聴器は一つきりだ。新たな盗聴器だって、見つかってない。どういうことだ。
錆兎たちが嘘をついている……とは、考えにくい。義勇の目を盗み彼らに盗聴器のことを告げたときの、驚愕と憤怒は本物だった。
言いよどむ義勇の声音に、メモの内容はうすうす察しがつく。杏寿郎が泊まったあとだと言うならなおさらだ。
なぜ杏寿郎に言わない。愚問だ。なぜ義勇が杏寿郎には話せないと言うのか、伊黒は知っている。義勇が杏寿郎と離ればなれになる場所への進学を決めたのと、同じ理由からだろう。
「写真やメモは捨ててないだろうな。警察へは?」
「……一応、杏寿郎に見つからないよう隠してある。警察は……友達のいたずらじゃないのかと。メモを見せていないせいだとは思うが」
「相手は男の可能性が高いんだな?」
「たぶん」
それなら、警察の腰が重い理由もわかる。ストーキングとは異性に対して行うものという思い込みは、意外と根深い。同性にストーキングされていると言われても、ピンとこない者が多いのだ。警察に相談しても、まともに取り合ってもらえぬこともあると聞く。
ましてや義勇の場合は、恋人が男子高校生の杏寿郎だ。被害状況や背景事情を告げれば、杏寿郎との仲についても知られることになるのは必至で、義勇にしてみればそれは避けたいところだろう。
「それで、俺に頼みたいこととはなんだ」
それからの数日間、伊黒の睡眠時間は激減した。もともとGPSを利用した子供の見守りアプリの開発をしているところだったから、大まかな雛形はできていたのが救いだ。以前にそんな話をしていたからこそ、義勇も伊黒を頼る気になったのだろう。
とはいえ、予定では来年春ごろに公開するつもりでいたものだ。完成が早まっただけとはいえ、まさかこんなにも突貫工事になろうとは。スマホの機能を使いこなせぬ義勇でさえも、とっさのときに役に立つという点では、子供でも充分扱える実証ができたと言えなくもないけれども。
とにもかくにも、義勇が望む機能は充分に備えられた。ストーカーも、写真の入った紙袋をドアノブにかけていくだけで、接触はないようだ。
現状、ストーカーの存在を義勇は、錆兎たちにも明かしてはいないらしい。知る者が増えれば、杏寿郎の耳に入る可能性も高くなる。それもまた、義勇にしてみれば回避したいのだろう。
本当なら、協力者は多いほうがいい。伊黒のアプリは、あくまでも万が一の場合に対して、対処が早まるだけのものだ。義勇の身を守る盾になるわけではない。杏寿郎に知られることをかたくなに拒む義勇の気持ちはわからないでもないが、伊黒としては気がもめてしかたのないところだ。
返すがえすも、中三のときに起きた事件が悔やまれる。あれがなければ、義勇はきっと杏寿郎のそばを離れようとなどしなかっただろう。無邪気な恋心だけ抱いて、今も杏寿郎が住むこの町で暮らしていたに違いない。
「一緒にいたら、大人はきっと、杏寿郎と俺の恋を原因にすると思う」
義勇が伊黒にそんなことを言ったのは、昼休みに進学先の話題が出た翌日だ。義勇が地方に進学すると聞き、伊黒と不死川は思わず絶句したけれど、杏寿郎はすでに聞かされていたのか、義勇なら合格間違いなしだと笑っていた。
翌日に伊黒が義勇と二人きりで話すことになったのは、あくまでも偶然である。
はからずもそれは、中三のときと似た状況でもあった。
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