にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の1

 伊黒があげた絶叫が、女の激高を深めたんだろう。うるさい。怒鳴り声は遠く聞こえ、投げ飛ばされて壁に激突した衝撃に息が詰まった。
 ガンガンとドアを叩く音。開けろ、なにがあったと怒鳴る、聞き慣れぬ声。女に枕で顔を押さえつけられたのを、覚えている。全身が痛くて、ただ苦しくて、もがいた手がなにかをガリッとひっかいたのも。いっそう息ができなくなっただけだったけれど、それでももがくのをやめられなかった。
 ガラスが割れる音がして、なにをしていると怒る声が聞こえたら、不意に息が楽になった。
 薄く開いた伊黒の目が捉えたものは、光だった。
 いつでも閉めっぱなしのカーテンが開いている。救急車! そんな大声とともに、体がふわりと浮き上がった。
 朧な視界に広がる眩しい日差しと、それ以上にまばゆい金と赤のきらめき。騒然とした多くの知らぬ声を、かすれていく意識の片隅で聞きながら、あのとき自分が思い浮かべた言葉はなんだったろう。当時の自分の記憶は、今となってはイメージばかりだ。自身の心境は思い出せない。
 女の罵倒とテレビが垂れ流す言葉しか、伊黒は聞いたことがなかった。保護され、切り裂かれた口の傷がふさがっても、しばらくはろくに口もきけずにいたのは、言葉自体をよく知らなかったからだ。だから当時は、もしかしたらなにも考えていなかったかもしれない。
 言語化されることのない感情は、明確な輪郭を持たずに混沌としている。助かったとの安堵すら、あのときの自分は感じていなかったに違いない。
 温かい。頼もしい腕に抱えられて浮かんだのは、もしかしたら、そんな一言だけかもしれなかった。

 前後の記憶は曖昧だ。自分が被虐待児と呼ばれる存在であることも、昼夜を問わずに聞こえる幼子の泣き声に、近隣住人が気をもんでいたことも、当時の伊黒にはあずかり知らぬことである。突然に襲いかかる嵐のような暴力や、キリキリと痛む空腹は、あのころの伊黒にとっては当然の日常で、それ以外の世界など存在することすら知らなかった。
 ときどき「百数えたら、ママ早く、一緒におやつ食べようって言いな」と頬をつねって女が命令するのにうなずき、玄関が開き知らぬ声が聞こえてくるのに怯えながら、部屋の隅で必死に数を数えた。そうして、言われたとおり、オウム返しに声を張り上げる。その意味を理解したのも、ずいぶん経ってからだ。ずる賢い女だ。自分のなかにあの女の血が流れていると思うだけで、伊黒はいまだに、全身から血を抜き去りたい衝動に駆られることがある。
 そんなことをすれば負けだと、唇を噛みしめ胸を張り、衝動を押し殺し耐えることも今では可能だ。非力な腕に反して、とんでもなく負けん気が強いと笑われるのは、伊黒にとっては勲章と言っていい。
 けれど当時は、負けん気など持ちようもなかった。温もりややさしさなど、存在することすら知らなかった。だから、白い病室で目覚めたあとに自分に向けられた、いろんな人のやさしい笑顔や言葉も、どこか他人事のように感じていたんだろう。
 もう大丈夫だからね。安心していいよ。誰もが伊黒にそう言った。見知らぬ大人は、誰もみな口をそろえて伊黒にそう言い、かわいそうにと笑顔をゆがめる。
 かわいそう、なのか。自分は、かわいそうと憐れまれる存在だったのか。
 ぼんやりとした思考はさしたる感慨を持たず、ただ流れていく。自分の年齢や名前すら、当時の伊黒は知らなかった。
 今でも、当時の名前は他人の物にしか思えない。いま呼ばれたところで、自分のことだと気づきもしないだろう。当時だって同じことだ。女が自分を呼ぶときはいつも、クズだのバカだのだったから、名前があるとすら知らずにいた。
 自分の名は、伊黒小芭内だけでいい。やさしい人たちが与えてくれた、この名だけでいい。

 ようやく起き上がれるようになったのは、秋だった。保護され病院に収容されたのは、春だったらしいから、二つの季節をまるまる病室で過ごしたことになる。
 顔の傷や骨折よりも、衰弱しきった体が回復するまでに時間を要したのは、間違いない。さまざまな事情が絡み合った結果だろうが、退院までには一年近くを要したほどだ。大人数で暮らす児童養護施設では、伊黒をあずかるのは難しかったのも理由の一つだろう。
 流動食以外を食べられるようになっても、伊黒の食は細かった。空腹でいるのが当たり前で、体が食事を受け付けないのだ。
 保護されたとき伊黒は四歳だったそうだが、体重も身長も、三歳児の平均をはるかに下回っていたらしい。少しずつ自分で食事を取れるようになり、介助されることが減ってきたときには、伊黒はもう五歳になっていた。

 槇寿郎が、小さな杏寿郎を抱いて見舞いに来たのは、そのころだ。

 助けてくれた人がお見舞いに来てくれたよ。食事やトイレを手伝ってくれていた若い看護師が、警察だとか福祉施設以外の面会を告げたのは、初めてだった。伊黒の体が回復し精神が安定するまで、病院側は面会にも慎重を期したとみえる。事情聴取もすぐにドクターストップがかけられていた。
 そういう日には、担当の看護師や医師が、いつも以上にやさしい。元気になるまでいていいんだからね。いつでも彼らはそう言って笑った。金にならぬ福祉事業と変わりのない患者にも、心を尽くせる病院であったのは間違いない。
 たぶん、生まれ以外、自分は幸運に恵まれているんだろう。今でもときどき、伊黒は思う。
 入院して以来、多くの人が話しかけてくれるから、だいぶ言葉も覚えた。それでも感情を口に出すことはできず、そもそも感情らしきもの自体が薄い。そんな日々ではあったけれど、助けてくれた人との言葉に、そわりと胸の奥がさざめいたのは覚えている。
 ジャキンという切断音と、瞬間カッと燃えた自分の顔。痛みよりも熱さに絶叫を上げたあの日の記憶は曖昧で、けれど、金と赤のキラキラとした輝きだけは、はっきりと覚えていた。
 生まれて初めて見た、きれいなもの。強く輝く金色。抱き上げられて感じた温もり。痛みやひもじさしか与えられない場所から、連れ出してくれたその人との対面に、伊黒が戸惑い落ち着かぬ様子を見せたのに、看護師はいつもと同じくかわいそうにと言いたげな顔をした。
 喜んでいいのか。うれしいなんて、思っていいのか。楽しいと笑えば殴られる。泣けば蹴られる。骨身にしみついた痛みは、幼い伊黒から表情を奪い、感情を持つことを許さなかったから、なにも答えず、小さく震えながら部屋に入ってきたその人を見つめた。

 幼子を腕に抱いて現れた男は、金と赤の髪や瞳をしていた。キラキラしていたのはこの髪だったのかと、ぼんやり思いながら、無言で伊黒は男を見上げた。
 こういうとき、なんと言うのが正解なんだろう。怒られないためには、なにを言えばいいんだろう。ごめんなさい。それしか思い浮かばず、口を開きかけた伊黒は、男の腕のなかでジタバタと手足をうごめかせたそれに、言葉を飲み込んだ。
「コラ、杏寿郎っ。おとなしくしてなさい」
「らって、いちゃいいちゃいしてましゅ!」
「は? いちゃいいちゃい? って、なん……あ、あぁ、包帯か。うん、まだ痛そうだな。でも騒いだら駄目だろう? いい子にしなさい」
 困り顔で言うその人と、腕のなかでもがくその子は、よく似ていた。金と赤の髪も、大きな目やくっきりとした眉も、二人の血が繋がっているのを示している。
「あ、コラ!」
 とうとう腕のなかから脱出を果たした男の子は、ベッドに身を乗り上げ、ふくふくとした手を伊黒へと伸ばしてくる。
「たい? いちゃいのとんでけしゅる? きょうじゅろがちたげましゅ!」
 ふっくらとまろい頬。大きくてキラキラした瞳。伊黒の答えを待たずに頭に触れてきた手は、包帯に触れたら痛いと思ったからだろうか。
「杏寿郎、降りなさいっ」
「ははうえは、ちてくれましゅ! きょうじゅろも、にいちゃにちましゅ!」
 抱き上げられて離れていく小さな手を、伊黒の目が思わず追いかけた。どうしてかは、よくわからない。もっと。あの小さな手に撫でられたい。もっと笑うのが見たい。もっと。なぜだかそんな言葉が浮かんで、男の顔を見上げた伊黒は、すぐに青ざめうつむいた。
 なにかをねだるなど、してはならない。それがなんであれ、きっと痛みになって返ってくる。知らず震えだし、ギュッと布団を掴んだ手も怯えうつむけた顔も、血の気が失せた。
 やだだめと訴える、杏寿郎という男の子の声だけが聞こえる。男の顔に視線を向けることはできなかった。きっと怒りに歪んでいるに違いない。そう思った。
 医師や看護師が怒り出さないことは、もう知っている。警察だとか児童福祉団体だとかを名乗る人たちも同様だ。けれども、この人は違う。
 人はそれぞれに自分の役目にふさわしい顔をする。自分はかわいそうな子供であり、看護師たちにとっては、やさしくしてやらねばならない存在なのだ。伊黒がママと呼んでいたあの女と違い、伊黒に怒りをぶつけることはない。彼らはそういう役をふられている。
 男の役割がなんなのかは知らないが、きっとあのアパートの一室から伊黒を連れ出したことも、男の役目のひとつなのだろう。けれど、それ以上はわからない。怒りだし殴られる可能性はあった。
 体は衰弱しきって平均値をはるかに下回っているが、伊黒の知能は水準以上だ。少なくとも、伊黒の治療にあたった医師はそう判じたようだった。伊黒と同じような環境にいた子供は、人の顔色を常に窺うようになるらしい。その点は伊黒も同じだったが、伊黒は、大人の事情をも理解した。
 それが幸いだったのか否かは、伊黒自身にもわからない。ただ、嵐のような暴力に耐える時間はきっと短いと、それだけ考えていた。

「すまんが、好きにさせてやってくれ。言葉は遅いくせに、コイツは誰に似たのか押しが強くてなぁ。言い出したらきかんのだ」

 だから、そんな言葉が苦笑とともに告げられるなど、思いもしていなかった。
 思わず上げた伊黒の顔を見つめる男の瞳は、やさしい色をしていた。小さくうなずけば、パァッと笑んだ杏寿郎が、いそいそと頭を撫でてくる。
 笑顔から一転、真剣な顔でいかにも一所懸命に「いちゃいのいちゃいのとんでけ!」と何度も繰り返す杏寿郎に、なぜだか喉が急に苦しくなって、目の奥が熱くなる。
「にいちゃ、もういちゃくない? げんきなったら、きょうじゅろとあしょぶ? きょうじゅろはね、みっちゅ! おにごっこもかくれんぼもできりゅよ!」
 満足したのか手を離し、ニコニコと笑いかけてくる杏寿郎は、ちっちゃなお日様みたいだった。
 たいがいは閉め切られているカーテンの隙間から、こっそりと仰ぎ見た青空に輝く、あたたかくて眩しいお日様。すぐに分厚いカーテンで隠されるお日様が、自分を照らしてくれている。
 スンッと知らず鼻を鳴らした伊黒の頭に、杏寿郎よりもっと大きな手が、ポンと乗せられた。

「強い子だな。よく、がんばった。君は、本当に強い子だ。もっと元気になったら、杏寿郎と遊んでやってくれるか?」
「にいちゃ、ちゅよい? きょうじゅろも! きょうじゅろもちゅよくなりましゅ!」
「わかったわかった。うん、杏寿郎もお兄ちゃんみたいに強くなれ」

 杏寿郎を抱き上げて笑いながら言う男を見上げる伊黒の目に、涙が光る。笑う二人の顔は、気づけばぼやけて見えた。知らず頬を伝いだし、包帯を濡らした涙は、やけに暖かかった。
 泣いたらもっと怒られる。そんな怯えすらもう浮かぶことさえなく、伊黒は初めて素直に泣きじゃくった。どんどんと濡れていく包帯も相まって息苦しいし、鼻の奥もツンと痛い。けれども涙はとめられそうになかった。とめなくてもいいのだと、思った。

「っ! ちちうえ、にいちゃいじめちゃらめ!」
「はぁ!? ちっ、ちがっ、いじめとらんぞ!」
「らって、にいちゃ、えんえんちてましゅ!」
「いや、それは……お、俺のせいか?」
「あにゃちゃ、めっれしゅよ!」
「おい、それ、瑠火の真似か? というか、いつ見た!?」

 男の口を人差し指でちょんと押さえて頬をふくらませる杏寿郎と、ぱちくりとまばたきして顔を赤くした男に、伊黒は思わず泣きながら笑った。
 アハハと声を上げて、涙をポロポロと落としながら。
 うれしくて泣くのも、怯えず笑うのも。笑い返して、もらうのも。強い。そんな言葉をくれたのも。きれいだとか温かいと、素直にそう思えるすべてを、初めて伊黒にくれたのは、杏寿郎と、その父――槇寿郎だった。

 その後、日を置かずにたびたび病室に顔を見せる人たちは、少しずつ増えていった。
 最初は、杏寿郎の母の瑠火が。それからしばらくして、その妹だというよく似た女性も、病室に来た。やがてそこに夫という若い男性も加わり、伊黒の病室はにぎやかになっていく。次第に妹夫妻だけでくることが増えていったが、それでも三度に一度は杏寿郎が一緒だ。
 槇寿郎や瑠火と違って、妹夫婦――とくに、瑠火の妹には、伊黒は少しよそよそしくなってしまう。かわいそうに。そんな言葉が瑠火よりずっと気の弱そうな面差しに浮かぶから、そんな目で見ないでくれと視線をそらせそうになる。けれども、杏寿郎が一緒なら、それもない。
 杏寿郎がいると、パァッと病室が明るくなる。みんなの顔にも自然な笑みが浮かぶ。まだぎこちなくしか大人に接することができない伊黒も、杏寿郎には素直になれた。

 いよいよ退院するという日には、全員が迎えに来てくれた。
 見送りではない。迎えに、だ。

「私たちの子供になってくれる?」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇