にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の1

 ほんの少し怯えた目をして、それでもやさしく微笑み言った人の、白く細い手をとったその日から、伊黒の人生は新たに幕を開けた。

 もしもあの春の日に、槇寿郎が旧友に会うためその地を訪れていなければ。別の道を選び、アパートの前を通りかからなければ。伊黒のことをずっと案じてくれていなければ。もしも、杏寿郎をつれて病室にこなければ。
 一つひとつは些細だけれど、なにかが一つ違っただけで、伊黒の今は存在しないだろう。
 子煩悩だけれど気が弱く心配性な母や、物静かで家族思いの父を持つ、伊黒小芭内という少年など、きっとこの世のどこにもいなかった。まったく違う名が刻まれた墓石の下に、骨となって収められていたか、それとも虚ろな目をして今も薄暗い部屋の隅で膝を抱えているか。いずれにせよ、幸せなど一つも知らずにいたのに違いない。

 伊黒の過剰なほどの警戒心が、悲壮な過去の境遇からくるのはたしかだ。伊黒はそれを自覚している。
 当時、ずいぶんとワイドショーを賑わせたらしい伊黒の過去は、大人たちの配慮によって名を変えられたことで、誰にも暴かれた様子はない。それでもいつなんどき、おまえ虐待されて親に殺されかけたんだろうと、ニヤニヤと笑い揶揄してくる者が現れないともかぎらないではないか。
 伊黒が生まれたのはそれなりに遠方で、報道された名前も今とは違う。けれど、特徴的な自分のオッドアイを、あのころ一度でも目にした者がいたのなら、年齢や顔の傷跡で察することは可能だ。伊黒よりもむしろ、母が一番それに怯えている。実母が刑期を終え出所したと知らされてからは、とくにひどい。
 伊黒への暴行傷害、保護責任者遺棄等罪に加え、枕で顔を押さえつけた行為には殺意があったと裁判所が判じたため、女に科せられたのはそれなりに重罪ではあった。だが、死刑にでもならぬかぎり、いずれ自由になるのは自明の理だ。
 親権は恒久的に喪失しているし、あの女にそんな殊勝さはない。心情的にも法的にも小芭内の母はおまえだけだ。誰もがそう言い聞かせるのだが、母の心配は尽きないようだ。
 母は善良であるがゆえに、母親ならば子供に逢いたいと願うはずだと思い込んでいる。子である伊黒に対しても同様で、なさぬ仲である自分より産みの母が恋しいのではないかと、いつまでも心の隅で母は恐れている。それはもはや、血の繋がりへの信仰に似ていた。
 どれだけ望んでも、自分は産めない。ひた隠しにする劣等感が、消えぬ怯えの源なのだろう。伊黒自身に泣き縋るような真似はしないけれど、眠れぬ夜が増えたことは誰の目にも明らかだった。おせっかいな誰かが伊黒の居場所を実母に知らせれば、幸せは奪われるのだと恐れている。
 だから伊黒は、警戒を怠ることがない。誰にも自分の過去を暴かせてなるものか。母が安らげるのなら、平凡で暖かな家族の光景を守れるのであれば、呪われるだの陰湿だのの陰口など、鼻で笑い飛ばせる。
 強い決意の裏には、伊黒自身の怯えもあった。劣等感は、伊黒のほうが母よりよっぽど深いかもしれなかった。自覚しているから、伊黒はたやすく人を信用しない。誰にも弱みを見せず、負けてなどやるものかと不安を律する。

 けれど、義勇は違うではないか。苦い過去を思い返しながら、伊黒はかたわらを歩く義勇を上目遣いにねめつける。
 両親が幼くして亡くなり、親族にひどい仕打ちをうけたのは知っている。苦労したのはたしかだろう。だが、義勇には姉がいた。幼い義勇を守り慈しむ存在は、いかなるときにもかたわらにいたのだ。
 おまけに、伊黒がまだぎこちない新家族での生活に慣れようと必死になっているうちに、杏寿郎と出逢い、煉獄家にもすんなりと入り込み、まるでじつの家族のように愛されている。しかも杏寿郎のなつきようといったら、伊黒に対して以上だ。杏寿郎に「にいちゃ」と呼ばれ、兄弟のように過ごすのは伊黒だけの特権だと思っていたというのに。まぁ、新しい名をもらったときから、呼び方は「おばにゃい」に変わったけれども。
 新たな名に面映ゆく笑う伊黒が幼心にもうれしかったんだろう、杏寿郎は発音しにくい小芭内という名を、ニコニコと笑いながら何度も呼んでくれた。かわいかった、本当に。
 だというのに、気がつけば杏寿郎は、いつでも義勇と一緒にいる。杏寿郎と知り合ったのは伊黒のほうが断然早いのに、なんなんだ、このありさまは。
 杏寿郎の義勇に対する愛情と執着はとんでもなく深く、義勇もまた、杏寿郎に信頼と愛情を同じだけ返している。小さくとも二人は、読み聞かせられた本にあった番の狼のように見えた。
 けっして人に屈することのない狼の王と、その番。二人の姿を見ていると、ほんのときたま、伊黒は不安に襲われることがある。ブランカを失ったロボと同じように、義勇を奪われれば杏寿郎はたちまち冷静さを失い、あの狼の王と同じく死を選ぶのではないかと。中三のあの日から、そんな危惧ははからずも増した。
 誰にでも笑いかけ心から案じもする杏寿郎の博愛が救ったのは、きっと伊黒だけじゃない。だから杏寿郎は、誰からも好かれる。けれど、多くの人から特別の好意を寄せられようと、杏寿郎自身は、どこまでも公正だ。いっそ残酷なほどに、平等な慈しみと好意しか返すことがない。義勇を除いては。
 特別なのだ、義勇だけは。ロボにとってのブランカのように、杏寿郎にとっては義勇だけが、特別で唯一だ。
 杏寿郎だけでなく、義勇の愛らしい容姿や素直な気質は、誰からも慈しまれる。変態や変質者までをも惹きつけるのは、どうかと思うが。あれは本当に勘弁願いたい。
 それはともかく、これだけ深い愛情に恵まれておいて、なぜ「俺なんか」などという自己卑下の言葉が出るのか、伊黒にしてみればまったくもって理解し難い。冨岡義勇という男は本当に苦手だ。

 伊黒が口を開かなければ、無口な義勇とのあいだに会話はなくなる。黙々と歩くうちに見えてきた図書館に、伊黒は心ならずも安堵のため息をつきかけた。
 図書館で沈黙するのは当然だ。この気詰まりさからやっと解放される。伊黒が思ったのと同時に。

「あ、蛇」

 唐突な言葉に、バッと伊黒は振り返った。あっちと無言で指差す義勇の手の先に、シュルリと逃げていく小さなしま蛇がいた。
 瀟洒な洋館風の図書館の周囲は、緑に囲まれている。蛇にとっては住みやすい環境かもしれない。とはいえ、たまに野良猫は見かけるが、蛇を見るのは初めてだ。
 なんとはなしうれしくなって、マスクの下で微笑んだ伊黒にめずらしく義勇のほうから話題を振ってきた。
「鏑丸、元気か? 今年も冬眠させないんだろう?」
「ふん、貴様に心配されるまでもない。何年世話をしていると思っている」
 尊大に胸を張った伊黒に、義勇は、フフッと小さく笑った。
「十二年前だから、もう干支を一回りだ。蛇年だったら覚えやすかったのに、残念だな」
「馬鹿馬鹿しい。蛇年に蛇に出逢うなら、寅年には虎か。辰年はどうする。龍に逢えるとでも? くだらない、くだらない」
「それは、そうだが。あぁ、それに杏寿郎は、蛇じゃなくてミミズだと思ってたし、ミミズ年はないからな」
 なにげない声で言った義勇と、思わず顔を見合わせる。

『ぎゆうっ、おばにゃい! しゅっごくおっきいミミジュいた!』

 くねくねと身をくねらせる小さな白い蛇をむんずと掴み上げて、ニコニコと笑った小さな杏寿郎が、きっと義勇の脳裏にも思い浮かんでいるに違いない。ムズムズと口元を震わせ、わずかにうつむく義勇の様子と、伊黒だって大差はなかった。マスクの下で唇を無理にも引きしめねば、吹き出しそうだ。
「あれは、ちょっとかわいそうだった」
 どっちが? と、聞くのも馬鹿らしい。鏑丸に決まっている。だって杏寿郎は、義勇に「ミミズじゃないよ、蛇だよ。噛まれちゃうかもっ。危ないよ、杏寿郎っ」と言われても、伊黒の母が縁側から「イヤッ、捨ててきて!」と叫んでも、キョトンとしていた。

 伊黒の六歳の誕生日でのことだ。煉獄家の広い庭の隅に入り込んだ、まだ子供らしい小さな白い蛇を、かくれんぼしていた杏寿郎が見つけてきた。ただそれだけのことだが、伊黒にとっては大事な思い出の一つである。

 杏寿郎が怖いもの知らずなのは、誰もが承知しているところだったけれども、まさか蛇を鷲掴みにしてくるとは。しかも本人は、見たことのないめずらしいミミズだと思っていたらしい。
 ミミズと思い込んでいたならなおさら、怖いというより気持ち悪がりそうなものだ。だが、杏寿郎の博愛は生き物にも及ぶのか、まったく嫌悪の色などなかった。
 必死にもがく白蛇に、腰が引けていたのはむしろ、義勇と伊黒のほうだ。そして、義勇が及び腰に後ずされば、杏寿郎が即座に反応するのは火を見るよりも明らかだ。当然、地面に蛇をおろした杏寿郎から、一目散に離れた蛇が向かっていったのは、なぜだか伊黒の足だ。
 あっと思うまもなく小さな白蛇は伊黒の足を這い登ってきた。

「小芭内!」

 あわてて縁側から素足で飛び降りて駆けてきた母が、蛇を払い落とそうとするより早く、小さな蛇は伊黒のシャツの内側にシュルンと入り込み、ふるふると震えていた。
 威嚇するでも、伊黒に牙を立てるでもなく震える小蛇の豆粒みたいな目と、シャツのなかを覗き込んだ伊黒の目が見つめあう。蛇のキュルンとつぶらな目は、なんだかとてもいとけなく見えて、この子を守れるのはきっと俺だけなんだと、なぜだか思った。
 けれど母はいよいよ青ざめて、蛇を掴み取ろうとしてくる。蛇を見ただけで悲鳴を上げたくせに。
 言いしれぬ喜びと小蛇への庇護欲に挟まれて、どうしたらいいのかわからず、すがる目でみんなを見回した伊黒の耳に、涼やかな笑い声が聞こえてきた。

「その子は小芭内さんがとても気に入ったようですね。名前のせいでしょうか」

 杏寿郎の母であり、伊黒の伯母となった瑠火だった。
 小芭内の名付け親は瑠火だ。名前の由来のなった芭蕉には「燃える思い」という花言葉があるのだという。小さな体のうちに、不遇に負けぬ強さを秘めた子だからと、少々めずらしいひびきをしたその名をくれた。
 初めてそれを告げられたときには、大仰なと、覚えたばかりの言葉が浮かんだが、大部分は照れ隠しだ。
 伊黒小芭内。それが自分の名前。自分だけの。
 槇寿郎も瑠火も、父や母となった人たちも、杏寿郎だって、小芭内と自分を呼ぶ。とてもやさしく温かな声で。誰もクズだのバカだのという言葉で自分を呼ぶことはない。それだけでもうれしくてたまらなかったけれど、その名はとても特別に思えた。
 書道家でもある瑠火がしたためた命名書は、伊黒家のリビングに家族写真とともに飾られ、見るたび伊黒の胸はキュッと甘く締めつけられる。

「姉さま……」
「小芭内さんの名前には、蛇がいますから。草冠の下の巴は蛇の象形です。お友達だと思われたのかもしれませんよ?」

 騒動を聞きつけて集まってきた大人たちは、瑠火を除いてみな少し戸惑った顔をしていた。瑠火と同じように笑ったのは義勇だけだ。
「じゃあ、俺もお友達になるっ。小芭内とおんなじなら、蛇さんもう怖くないもん」
 義勇が笑って言えば、キョトンとしていた杏寿郎だって笑顔になるのは、当然の成り行きだ。
「おれも! へびしゃんもいっちょにあしょぼう!」
 笑顔で小芭内のシャツのなかを覗き込もうとする杏寿郎と義勇に、一番戸惑っていたのは、伊黒だったかもしれない。
 この子と一緒にいたい。そんなことを言えば、きっと母は困るだろう。だってあんなに怖がっていた。無邪気に笑う杏寿郎と義勇が、ちょっとばかり恨めしい。
 どうしよう。泣き出しそうになりつつ、恐る恐る見上げた母の顔にいつものやさしい笑みはなく、なんだか怒っているようにも見えた。ビクリと首をすくませ、ごめんなさいと口にするより早く、母が震える声で言った言葉に、伊黒は目を見開いた。

「そ、それなら、名前をつけてあげなくてはいけませんね。小芭内の、お、お友達っ、なんですからっ」

 顔はまだ青ざめて、手も足も震えているのに、母は「お、お母さんにも見せて?」と、伊黒に笑いかけてきさえする。
「……いいんですか?」
 伊黒の声も震えていた。信じられなかった。たとえ法的には家族になったとはいえ、伊黒ははたから見れば厄介な子供だ。他人の目の奥にある厭わしさを、伊黒は理解している。
 いつまでたっても食は細く、成長も著しく遅い。語彙はぐんぐんと増えたが、まず口にするのはいまだにごめんなさいだ。駄目だと自分でも言い聞かせるのだが、部屋の隅で膝を抱えてしまう癖もなかなか抜けそうにない。というよりも、そうしていると少しだけ安心するのだ。じっとこうしていれば叱られない。少なくとも、殴られることは減る。そう無意識に思ってしまう。
 父や母はとてもやさしいのに、それでもどうしたって怯えてしまう自分が、申しわけなかった。こんな厄介な子供では、いつかこのやさしい人たちも自分を厭うだろう。父や母という役目を降りると言われても、自分には拒否することなどできやしない。当然だ。だって自分は本当の子供でもなく、仮初に子供の役を振られただけに違いないのだから。
 今もやっぱり怯えが勝って、母の顔を見ていられずにうつむいた伊黒は、すぐにまたパッと顔をあげた。
「血! お母さん、血が出てる!」
 尖った石でもあったのだろうか。素足で飛び出してきた母のつま先に、血が滲んでいた。
 うろたえて泣き出しそうになった伊黒は、やっぱりごめんなさいとは言えなかった。華奢な腕が信じられないぐらい強い力で、ギュッと抱きしめてきたので。

 きっと、あの日、あの瞬間に、伊黒は本当の意味で家族を得たのだ。お母さんと、その人を迷いなく呼び、強く抱きしめられたそのときに。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇