にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 6の1

 その図書館は、人通りもまばらな住宅地の外れにある。
 蔵書家だったどこぞの社長が亡くなったとかで、故人の遺言で建てられたという、ほんの一年ほど前に開館したばかりのこじんまりとした図書館だ。専門書は少なく、蔵書は国内外を問わず小説が多い。ジャンルはさまざまだ。
 駅のほうに行けばもっと大きな市立図書館もあるが、伊黒は、その小さな図書館のほうが好きだった。義勇も同様らしく、約束したわけでもないのにばったりと出くわすことも、ままあった。いつでも杏寿郎が一緒だったけれど。
 子供向けの絵本はなく、キッズスペースなども設けていない。だから利用者の年代は高めだ。あくまでも読書を楽しむための場所として設立されたものだから、椅子は多くともテーブルはほぼない。自習スペースとして利用する学生も見かけることのない図書館には、いつでも静謐な空気が流れていた。
 近くにあった町工場が倒産し、周辺も以前よりずっと静かになった。
 のんびり散歩するにも最適となればよかったが、残念ながらそううまくはいかない。経営者が逃げ出した町工場には、ガラの悪い連中がたむろするようになったとかで、治安が悪くなったとも聞く。
 だが、まだ昼日中だ。カツアゲされそうになっても、自作の自衛グッズはいつでも身につけている。とくに気にすることもなく、伊黒は、テスト前に見かけて気になっていたミステリが、貸出中になっていないことだけを祈りながら歩いていた。

 その図書館を最初に教えてくれたのは、杏寿郎だ。めずらしい、とは思わなかった。杏寿郎はどちらかというと読書よりも体を動かすのが好きなほうだが、義勇は伊黒と張る読書家だ。案の定、情報の出どころは義勇だった。
 もっと詳しく言うならば、義勇の姉である蔦子が、情報の発信源である。
 本の運搬を請け負ったのは蔦子が務める運送会社だそうで、蔦子から新しい図書館ができると聞いた義勇が、杏寿郎を誘うのは当然の成り行きだ。その結果、伊黒たちも小さな図書館の存在を知ることになったわけである。
 声の大きな杏寿郎も、図書館では静かなものだ。杏寿郎の場合は、本が目当てでくるのではなく、静かにページをめくる義勇を眺めているのが好きなんだろう。最初のうちは自分もおとなしく本を読んでいるのだが、気づくといつのまにか視線は義勇に釘付けで、どこか夢見心地な顔でぼんやりしている。そんな杏寿郎に気づいてしまう伊黒や不死川こそが災難だ。
 けれどもその日は、伊黒一人である。杏寿郎の視線に気づいた義勇が顔をあげ、ポッと頬を染めてはにかみ笑ったり、そんな義勇に杏寿郎の顔が林檎みたいに真っ赤に染まるのを、見ずにすむ。
 恥ずかしげに忍び笑いながらも、ちゃんと本を読めと言いたげにトンと軽く肘で杏寿郎の腕を打つ義勇や、首をすくめつつ義勇を見ていたいとばかりに顔を覗き込んで声を殺して笑う杏寿郎を目撃するたびに、胸焼けがしてたまらなくなるのだ。

 図書館でいちゃつくんじゃない、本を読め貴様ら。

 一人ならばそれも回避できる。テストから解放された清々しさもあり、めずらしく伊黒の足取りは弾んでいた。
 だが、その足も道の先を歩く後ろ姿に気づき、思わず鈍った。義勇がてちてちと歩いている。杏寿郎がおらず部活もない放課後に、義勇が一人で過ごす場所なんて、容易に想像がつくというのに、そこまで思い至らなかった自分を伊黒はちょっと恨んだ。
 小さな図書館だ。顔をあわせて無視というわけにもいくまい。まだ距離はあるが、どうするか。声をかけるか、それとも予定を変更して市立の図書館にでも行くか。悩んだ時間はごく短かった。
 ガラの悪い笑い声が聞こえてきて、ぞろぞろとはた迷惑に道に広がって歩く集団が目に入った。離れていたから会話は聞こえない。けれども、そいつらが義勇を取り囲みなにやら絡んでいるのは、すぐにわかった。
 学校ではクラスメイトの不死川がたいがい一緒だし、杏寿郎が入学してからはとくに、休憩時間や放課後に義勇が一人でいることはめったにない。だから、あんなふうに露骨に絡まれることは皆無だったのだが、あの手の輩が義勇や自分を不死川の腰巾着だのなんのと影で揶揄していることを、伊黒は知っている。
 嫌な雰囲気だ。思ったときには伊黒の足は早まっていた。
 義勇は争いごとが苦手なタチではあるが、それでも、ただおとなしいばかりでもない。なにせ喧嘩を売られがちな不死川と一緒にいることが多いのだ。自分の身を守れる程度には、それなりに喧嘩慣れしている。
 おまけに、あの顔だ。ぽやぽやとしてるのも相まって、幼いころから、やたらと変質者に声をかけられる。本人は疑いもせず、道を聞かれれば真面目に教えようとするし、困っていると言われればそれは大変と案じるものだから、杏寿郎や伊黒はたいへん苦労した。
 夏にトレンチコートを着ているだけでも不審感満載なうえに、すね毛の足が丸見えな男だぞ、真面目に対応しようとするんじゃない。言い聞かせても、でも困ってたしとしょんぼりするから、杏寿郎の剣道の上達はどえらく早かった。伊黒の自衛グッズの威力もメキメキと上がっていったものだ。
 一人にしておくのは危険だ。誰もが危惧したのは当然だろう。だがやむを得ず単独行動する場合だってある。心配した周りが我も我もと義勇に防御術を教え込んだのは、至極当たり前の流れだったかもしれない。結果、義勇は見た目にそぐわぬ喧嘩常勝っぷりとなっている。
 けれど、絡んでくる相手はそうは見ない。不死川や宇髄といった手練の影で、威光にあずかっているだけと、義勇を侮るのだ。そういう点で言えば、義勇は見た目で損をしていると言えなくもない。
 相手が一人二人ならば、心配する必要もなかろうと、伊黒もそこまで不安を覚えなかったかもしれなかった。だが、今回はまずい。ザッと遠目で数えただけでも、七人はいる。いくら義勇でも、あの人数相手では分が悪すぎる。
 向こうが伊黒に気づくより早く、義勇が腕を取ろうとした男の手を、逆に掴み投げ飛ばしたのが見えた。馬鹿が。舌打ち一つ、伊黒はすぐに走り出した。
 相手の数を考えろ。この場合は三十六計逃げるに如かずだろうが。思い切りネチネチと説教したいところだったが、それどころではない。すぐに怒号があがり、伊黒が声を上げるより先に、二人目を義勇が蹴り飛ばしたのと同時に、羽交い締めされたのがわかった。
 口を押さえられ、連れ拐われていく義勇に、伊黒がとった行動はと言えば、走りながらスマホを取り出し杏寿郎に電話をかけるというものだった。
 あのときの自分の行為が正しかったのか、伊黒にはいまだわからない。真っ先に杏寿郎に義勇が拐われたと電話したのは、最善だったか、否か。
 結果として義勇は無事だったし、杏寿郎だってお咎めはない。けれども、どこかでなにかを間違えた気がしてしかたがなかった。

 男たちが向かったのは、図書館から少し行った場所にある廃工場の倉庫だった。少し大きめの物置程度のシロモノだったが、持ち主は見回りすらせず放置しているらしい。機械が残されている工場の鍵は頑丈だったが、倉庫の鍵はいかにもチャチで、素行不良な中高生たちがたまり場としていると噂になっていた。
 動転する杏寿郎がすぐ行くと怒鳴る声に、図書館の先の町工場と告げれば、すぐに電話は切れた。杏寿郎がどこにいるのか問う間もない。
 倉庫の入り口は閉められていて、迂闊に開ければ自分も捕まるのは自明の理だ。自衛グッズも大人数相手ではそこまで役には立たない。そうなれば、あの手の奴らは、義勇への脅迫材料に伊黒を使うだろう。コイツを痛めつけられたくなければおとなしくしろってなものだ。馬鹿の考えることなど理解したくもないが、たやすく想像はつく。
『冨岡、拉致。町外れの廃工場倉庫。相手七人』
 メッセージアプリに打ち込んだ情報は簡潔だ。宇髄と不死川ならすぐ駆けつけるだろう。
 曇った窓から覗いてみたが、汚れすぎたガラスでは、なかの様子はよくわからなかった。録画するのは難しいだろう。だがゲラゲラと笑う声は大きく、音声なら充分証拠を抑えることは可能だ。
 そのときは、それが最善だと伊黒は思った。けれども、伊黒は自覚もしている。
 馬鹿どもの下衆で知性の欠片もない言葉に、吐き気がしそうなほどの怒りを覚えながらも、震える手で録音し続けたのは、それしかできなかったからだ。

『泣くんじゃないよっ、クソガキ!』
『はぁ? お腹へったぁ? アンタみたいな気持ち悪いガキに、食わせる飯なんかあるわけないでしょ!』
『勝手に食べやがって! そんなに意地汚い口なら、それらしくしてやるよ!』

 頭のなかでグルグルとひびきまわる声に、ギュッと目をつぶる。それでも怒りに醜く歪んだ女の顔と、ギラリと光ったハサミは、瞼の裏から消えそうにない。
 消えろ。消えろ。消えろ! もうおまえなんかに負けない。おまえなんか消えろ! 女の声を必死に打ち消しても、マスクの下がひどく痛む。ガンガンと頭痛がする。吐きそうだ。
 身勝手な暴力は、反吐が出る。理不尽な言い分には、身震いするほど腹が立つ。けれども体は勝手に震えて、動けなくなる。だからこそよけいに、徹底的に反撃するようになった。
 動かなければ。冨岡がどんな目に遭うのか、聞こえてくる馬鹿の声から想像なんて簡単にできる。いま助けられるのは、自分だけだ。
 どうやって? 自衛グッズだけじゃ、七人もを相手にはできない。義勇が動けたとして、その前に自分が捕まったら、もっと最悪な結果になりかねない。伊黒の思考は堂々巡りを繰り返す。
 
 早く来い。早く。早く! いつのまにか、伊黒は、ただそれだけを必死に祈っていた。

 祈りに答えるように、突然ガァンとひびきわたった大きな金属音に、伊黒が感じたのは安堵だ。宇髄か、それとも不死川か。思いながら入り口に向かおうとした伊黒の耳に飛び込んできた、「杏寿郎!」という叫び声は、怒号にかき消された。
 最初に伊黒が思ったのは、まさか、だ。竹林は遠い。早すぎる。伯父が一緒なのか? 竹を取りに行くときはいつも、伯父の車でだ。
 助かったと、思った。自分のときと同じだ。槇寿郎なら、助けてくれる。
 安堵はけれどもすぐに、不安に取って代わられた。聞こえてくるのは、怒号。物が壊れる音。それから義勇の、悲痛な呼びかけ。杏寿郎。その名しか義勇は呼ばない。
 伊黒が動けずにいるうちに、怒号はやがて悲鳴に変わった。杏寿郎の声は一度も聞こえてこない。

「杏寿郎! よせ! もうやめろ!」

 義勇の叫び声に、ようやく伊黒の呪縛が解けた。
 急ぎ入り口に回ったところで到着した宇髄と鉢合わせたとき、伊黒は、心ならずも泣きだしかけるほどに安堵した。
 けれど。

 ホコリの舞う倉庫に飛び込んだ伊黒と宇髄が目にしたものは、青ざめきって震える義勇の横顔だ。はだけたシャツや、外されて垂れ下がったままのベルトを見れば、どんな目に遭いかけたのか一目瞭然だ。あのありさまを見れば、誰だってまず義勇を案じて当然だろう。
 けれども、伊黒と宇髄が心配したのは、むしろ杏寿郎の様子にだった。