あのころ、飄々としていた宇髄こそが、最も杏寿郎と義勇の状態に気をもんでいたのかもしれない。今でこそ思い当たる点も多々あるが、当時の伊黒にはそれに気づく余裕はなかった。
不死川は、もしかしたら察していたんだろうか。言ってくれればよかったものをと思わなくもないが、今さらわざわざ確かめる気はない。杏寿郎を案じるあまりに視野狭窄に陥っていた自分の、不明を恥じるばかりだ。
過去の自分の不甲斐なさはともかくとして。伊黒はわずかに居住まいを正した。脳裏に浮かぶのは不敵で飄々とした笑みを浮かべる美貌の男――宇髄の姿だ。
当時、一人だけ高校生だった宇髄は、学校での義勇と杏寿郎の様子を、伊黒たちからの伝聞でしか知ることができなかった。だが宇髄天元という男にとって、それぐらいはハンデにもならなかったんだろう。
宇髄は頭の回転が早く、年に似合わず世慣れてもいる。誰よりも交流の幅だって広い。おそらくは、伊黒や不死川よりもずっと、義勇と杏寿郎の置かれた状態を正しく理解していたに違いなかった。
結果、その夏は、伊黒にとっても今までで一番、遊び倒した夏になった。
普通なら、男子生徒が素行不良な奴らにたまり場へと連れ込まれたと聞いても、性的な暴力を思い浮かべはしない。だが、義勇においてはそのかぎりではなかった。当時は今よりずっと線も細く、ときに少女と間違われることもあった義勇の容貌は、不埒な想像をかき立てるに足る美しさであったのだ。
それでも、宇髄や不死川と性的な関係にあるなんて噂は、基本的にはあまりタチがよくない者らのやっかみだ。校内での不死川との様子を見ていれば、信じる者などそうはいない。
卒業してもなにかと話題にのぼる宇髄とだって、同様だ。
並ぶとどうしたって人目を惹きつけてしまう美貌の二人は、目撃情報が多いぶん、不死川以上に噂になりそうなものだ。けれども、これまた不死川と同じく、二人のやり取りを見れば、噂はやっぱり噂にすぎないと誰もが知る。
そもそも、義勇と宇髄が二人きりでいるのを目撃したという者が、ほぼ皆無だ。最初から宇髄にはわかっていたんだろう。自分や義勇の容貌が、人に性的な欲求を抱かせることを。
宇髄自身は、義勇と違い中学のころからさらに背もぐんと伸び、すでに大男の部類にあったので、男から不埒な目で見られることはなくなっていたはずだ。けれども美青年であるのは間違いなく、大人びた宇髄と、まだ少女めいた幼さを残していた義勇がともにいるだけで、そこに隠微な関係性を見出そうとする者は多かっただろう。宇髄は早くからそれを察していたに違いない。
だからあのころの宇髄が、義勇と二人で逢うことは皆無に等しかった。ほとんどの場合、杏寿郎や伊黒たちが一緒だ。
もしかしたら杏寿郎に配慮して、宇髄はあえて二人きりを避けているんだろうか。伊黒が思い至ったのはずいぶんと経ってからだ。
いや、もしかしたら逆かもしれない。宇髄が配慮するようになったから、伊黒も気づいただけという気もする。
いずれにせよ、宇髄が少しばかり慎重に義勇と接するようになったのは、伊黒たちが中学生になってしばらくしてからだ。たしかあれも夏だった。義勇を誘うとき、宇髄は必ず杏寿郎にまず声をかけると、伊黒が気づいたのは。
義勇が好みそうな催し物でさえ、宇髄はまず、杏寿郎を誘う。結果なんて考えるまでもない。杏寿郎は、義勇が興味をそそられるものを熟知している。すぐに、宇髄に誘われたのだが義勇も行かないかと、義勇に声をかけるのは自明の理だ。
もしくは、全員がそろっているときに、みんなで行かねぇ? と宇髄は切り出す。とにかく、義勇と二人きりで遊ぶという状況を、いつしか宇髄は徹底的に避けるようになっていた。
思い返してみれば、宇髄の変化も当然だろう。その夏あたりから、義勇と杏寿郎にもわずかな変化があったのだから。
義勇が、やけに恥ずかしげな態度で杏寿郎に接するようになったのは、それよりは前だっただろうか。ほんの短い期間だったが、義勇は、杏寿郎を避ける素振りをみせたことがある。たしか中学に上がって間もないころだ。
長続きはせず、いつのまにか始終くっつきあう無自覚なイチャつきも、すっかり復活していたけれど。
まだ小学生だった杏寿郎が、なんで、どうしてと、悲しげにしたのだから、それもまぁ当然かもしれない。杏寿郎が義勇に甘いのと同様に、義勇だって杏寿郎には甘いのだ。
杏寿郎の義勇に対する甘やかしっぷりが、砂糖の山にコンデンスミルクをぶちまけたかの如くだから、相対的に義勇がそっけなく見えるだけだ。おまけに、義勇は意外と手が早い。杏寿郎にデコピンをおみまいしたり、足を踏んづけたりしている姿も、二人の仲睦まじさを知らぬ者たちにたびたび目撃されている。
そんな場面に出くわした者からすれば、杏寿郎が不憫に思われるのも、わからないでもない。
だが、伊黒たちから見れば義勇の鉄拳制裁など、ただの照れ隠しなのが丸わかりだ。二人は結局、そうやってイチャついているにすぎない。
ともあれ、中学に入ってから、義勇からの杏寿郎に対する過度な愛情表現が、それなりに減ったのは確かだ。とはいうものの、距離感皆無のはた迷惑さは、以前とたいして差がない。ほぼ元通りと思ったところで、今度は杏寿郎のほうが、なんだか妙にぎこちなくなった。
義勇と手を繋ぎたがったり、大好きと抱きつこうとするのは、それまでと変わりない。けれど、義勇に触れる寸前に、ほんの少し躊躇するようになったのだ。照れくさげと言い換えてもいい。
思春期らしい羞恥心というには、クラスの女子などに偶然触れたところで慌てもしないあたりが、杏寿郎らしいと言えなくもない。
あぁ、とうとう恋愛的に義勇を意識しだしたか。伊黒と不死川は、杏寿郎の戸惑いと羞恥に、呆れと微笑ましさを感じたものだ。大部分は、ようやくかという呆れだったけれども。
思えばそれが、宇髄が義勇と二人きりにならぬよう、配慮しだした時期だ。
とはいえ、まだ小学生である杏寿郎では、おつきあいとはいかなかったようだ。けれども、いずれ二人が恋人になるのを疑うなど、真夏に降雪を案じるのと変わらない。遅かれ早かれ、杏寿郎は義勇に告白するのだろうし、義勇はうれしそうにその手を取るに違いなかった。杏寿郎が中学に入学してからはなおさらに、その日は近いと伊黒は思っていた。
いつもながらの、少しの口惜しさと腹立ち。近いうちに、五人そろってふざけあうことも少なくなるとの、寂しさ。勝手にすればいいと、素直じゃない言葉を一人吐き捨てても、慰めなのかチロッと鏑丸に頬を舐められるまでもなく、強がりでしかなくて。
それでも伊黒は、祝福する気でいたのだ。素直にはなれず、せいぜい長続きさせろと、言わずもがなな言葉になろうとも。
いつ杏寿郎は告白するんだろう。伊黒だけでなく、不死川や宇髄、もしかしたら槇寿郎たちまでもが、その日が近いことを覚悟していたはずだ。
二人の相思相愛っぷり……というか、互いの、とりわけ杏寿郎の執着度合いは、誰の目にも明らかで、今さら同性愛云々を思い悩むような余地すらなかったのだ。
よしんば杏寿郎がクラスの女子などを彼女だと紹介でもしたら、きっと槇寿郎たちは正気かと杏寿郎に詰め寄るに決まっている。それぐらい、二人が一緒にいる未来以外、誰も想像することはできなかった。杏寿郎が、義勇とお付き合いすることになったと報告すれば、きっと煉獄家では赤飯が炊かれるはずだ。
そうは言っても年齢ばかりはどうしようもない。十五ヶ月の差を気にしている杏寿郎のことだ。告白するにも、小学生のうちはないだろう。学ランを着た義勇とランドセルを背負った自分では、まだ釣り合わないと自制しているのは想像にかたくない。
杏寿郎の変化に誰よりも早く気づいたであろう義勇はといえば、あまり変わりはなかった。受け入れる覚悟も準備もできているとばかりに、杏寿郎の告白を淡々と待っているようにも見えた。
ところが、小学校の卒業式も、中学の入学式も、空振りだ。では杏寿郎の十三歳の誕生日だろうかと思いきや、例年通りみんなで祝っておしまいである。義勇もさすがに少々拍子抜けしていたように思う。
それでも、いつかは必ず杏寿郎は義勇に愛を告げるのだろうし、義勇は遅いと甘く叱りながら杏寿郎の手を取るのだと、誰もが疑っていなかった。
けれど、その日がくる前に、事件は起きてしまった。
そうして迎えた夏休みは、やたらと忙しかった。
宇髄の誘いで遊び倒した夏。キャンプだ祭りだと、目まぐるしく過ぎた日々のなかで、いつしか誰もが以前のように笑っていた。
まだ幼い千寿郎や、不死川の弟の玄弥を加えてのイベントが多かったのは、性的なものなど皆無の関係だと、他人に知らしめるためだったのだろう。宇髄の彼女とやらが――三人もいたのは面食らったが――参加することも多かった。真面目な中学生らしい、体験型のワークショップにも、やたらと行った。
義勇の不名誉な噂を払拭し、杏寿郎が以前と変わらず真面目で明るい優等生であるのを、見せつける意図があったのは明白だ。噂を鵜呑みにした馬鹿を義勇に寄せつけず、なおかつ、体面を気にする教師が杏寿郎から義勇を引きはがせばいいなどと、愚かな結論を出さぬように。
そうだ。宇髄の策は功を奏したはずだ。
少なくとも、二学期が始まっていくらも経たぬうちに、義勇に関する噂は立ち消えた。七人もを病院送りにした杏寿郎への怯えが消えるには、今しばらく時間を要したが、それも生来の朗らかさを取り戻した杏寿郎が屈託なく接すれば、自然と周りの態度も元に戻っていく。
夏の合宿に参加できなかった部活でも、小学生の大会で優勝常連だった杏寿郎を失うのは惜しかったんだろう。万年初戦敗退の剣道部が、六月にあった市の大会で優勝したのは、杏寿郎のおかげなのだ。先輩のプライドのなんのといったところで、実力が違いすぎる。
今まで以上に杏寿郎は、勉強にも部活にも励み、義勇もそれまでと変わらず、至極マイペースなままだった。
変わったことをあげるなら、杏寿郎はもう、義勇の手を握るときに恥ずかしがることはない。変わったというよりむしろ、昔に戻ったと言うべきだろうか。幼いころと同じように、一番大好きと笑っても、もう杏寿郎は義勇に恋心を伝えようとはしない。恋は怯えとともに瞳の奥に隠されて、義勇のそばにいられるだけでいいと、杏寿郎は笑うのだ。