にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 2

 とてもきれいなお母さんが、熱いから気をつけてと出してくれたそれは、甘い匂いがしていた。
 姉と杏寿郎の母が部屋を出ていく背中を見つめ、義勇はちょっとだけ不安になった。人見知りする義勇にとっては、どんなにやさしくても出逢ったばかりの人だ。知らないおうちで取り残されるのは、少し怖い。
 ホカホカとした湯気を立てるココアは、ホラおいしいよ、飲んで? と誘惑してくるけれど、すぐには口をつける気になれなくて、義勇はカップを手にすることなくモジモジと身を縮こまらせた。
 隣に座る杏寿郎は、そんな義勇の様子には気づかなかったようだ。いただきましゅと満面の笑みで言うなり、躊躇なしにカップをかたむけている。義勇が止めるまなんてなかった。
「あっ」
「あちゅいっ!」
 グビリと思い切りよくココアを飲んだ杏寿郎が、すぐに顔をしかめて舌を出したのに、泡を食った自分のうろたえっぷりだって、義勇は今もはっきり覚えている。
「大丈夫!? フゥフゥしてから飲まないと、やけどしちゃうよっ」
 心配する義勇に、杏寿郎はやけに生真面目な顔でうなずいたものだ。
「うむ! ちゃんとフーフーちよう!」
 そう言った杏寿郎が、まろい頬をいっそう丸くふくらませて、フゥフゥと息を吹きかけたのは、義勇のカップにだ。
 戸惑う義勇には気づかなかったのか、杏寿郎は、少しだけ冷めたカップを義勇に差し出して、さも誇らしげに笑った。あのときの顔だって、義勇はちゃんと覚えてる。なにひとつ忘れていない。
「フーフーちたから、もうだいじょうぶだ! ぎゆうがやけどちたら、たいへんだかりゃな!」
 熱くて痛かったのは自分なのに義勇を真っ先に心配する杏寿郎は、小さくてかわいいのに、なんだかとってもかっこよく見えた。

 妙に照れくさくって、キュウッと胸が苦しくなった理由は、あのころにはまだわからなかったけれど。
 あのときのキュンと鳴った小さな胸の音を、ときめきと呼ぶのだとすら知らないまま、義勇は杏寿郎のことをどんどんと大好きになっていった。
 自分よりも小さくてすごくかわいくて、だけど臆病な自分よりずっと勇気があってやさしい、杏寿郎。悲しくてつらくて、膝を抱えて泣きたいばかりだった日々が、暖かくてやさしい光に包まれたのは、杏寿郎がいてくれたからだ。杏寿郎の笑顔は、まるで雨上がりのお日様のようだった。
 ぎゆう、ぎゆうと、うれしそうに呼んで駆けてくる様は、ブンブンとしっぽを振って飛びついてくる子犬にも似ている。犬はちょっと怖いけれど、杏寿郎ならちっとも怖くない。どんなに小さな子犬でさえ撫でてあげられない義勇でも、杏寿郎にだったらなんの怯えもなく触れられる。
 杏寿郎大好きと笑って金色のフサフサとした髪を撫でてあげると、いかにもご満悦と言った顔で笑うのが、すごくかわいかった。

 大好きな気持ちが恋に変わったのは、いつからなのか。義勇にはよくわからない。たぶん、最初からなのだろう。恋という言葉は知らなくとも、きっと初めて出逢ったその日から、義勇は杏寿郎に恋していた。
 杏寿郎に恋心が向かったのは、いうなれば夜が終われば朝がくるのと同じぐらい、当然のことだったのかもしれない。

 義勇にしてみれば、杏寿郎のことがかわいくてたまらないのも大好きなのも、当たり前すぎるほど当たり前で、ちっとも気づかなかった初恋である。とうとう自覚したのは、中学生になってすぐのこと。こればかりは覚えていたくないのだけれども、忘れられそうにもない思い出だ。
 杏寿郎への気持ちは恋なのだと思い知ったのは、第二次性徴期特有の現象によってである。
 有り体に言えば、杏寿郎の夢を見た夜に初めて夢精するという、きっかけとしては泣きたくなるような代物だ。あの日の呆然なんて言葉じゃ済まない衝撃も、義勇ははっきりと覚えている。
 忘れたい。きれいサッパリ記憶から消したい。無理だけれども。

 学校で習っていたから、自分の体に起きた現象についてはすぐに合点がいった。けれども、なぜ今夜にかぎってと、傍らで眠る杏寿郎の寝顔を見つめ泣き出したくなったのは致し方ないだろう。

 幼稚園のころから、杏寿郎の家にお泊りすることはたびたびあった。
 その日も、杏寿郎の母から戴き物の牡蠣がたくさんあるから食べにいらっしゃいと誘われて、姉も一緒に夕飯をごちそうになっていた。そういうときには、なんだかんだと引き止められ、姉ともどもお泊りになるのが常だ。
 家でなら姉と布団を並べて眠るけれども、お泊りのときには、義勇は杏寿郎の部屋で一緒の布団で眠るのが定番である。中学に上がったってそれは変わらない。
 杏寿郎は、お泊りでは義勇と一緒に眠るのだと幼稚園のころからかたくなに信じていたし、義勇だって杏寿郎と抱っこしあって眠るのになんの疑問もなかった。
 だからその日だって、一つの布団にくるまって、クスクスと笑いあいながらお互いを抱きしめて眠った。楽しそうに学校での話をする顔、義勇だけ中学生になって一緒に通えないのを悔しがる顔。全部義勇は覚えている。
 夢に出てきた杏寿郎が、義勇大好きだと幼い笑みを浮かべて頬にキスしてくれたその顔だって、義勇の記憶から今も消えそうにない。

 杏寿郎を起こさぬようにそっと布団を抜け出し、どうしようとうろたえながらトイレに向かった義勇が出くわしたのは、槇寿郎――杏寿郎の父だ。
 出てきたのが槇寿郎でよかった。義勇はいまだに安堵する。もしも母の瑠火や姉と顔を合わせていたら、義勇はきっと、いたたまれなさに死にたくなっただろう。
 涙目の義勇に気づいて、すぐに察してくれた槇寿郎には、今も感謝している。赤飯炊くか? となんとなくウキウキとした顔で言われたのは、ちょっぴり困ったけれども。断りきれて幸いだ。

 ともあれ、杏寿郎の夢を見て夢精するという、なんだか泣きたいような経験でもって、義勇は自分の恋を自覚することとなったわけである。こればかりは、杏寿郎にも口が裂けたって言えない秘密だ。墓まで持っていく決意は固い。
 そうして義勇は、それ以来、杏寿郎と一緒に眠るのがちょっと怖くなった。もし杏寿郎に知られたらと思うと、泣きたくもなった。
 けれども、それまでお風呂も眠るのも一緒だったのに、いきなり別々になんて言い出すこともできない。理由を問われても、杏寿郎と一緒だとエッチな気持ちになっちゃうかもしれないからなんて、どんな顔をして言えばいいのだ。冗談じゃない。

 嫌われたら、とは、不思議と思わなかった。
 だって、杏寿郎が義勇のことを好きなのは、太陽が東から昇るのと同じくらい、当たり前のことだったので。

 杏寿郎が恋だと自覚していたかは知らないが、片想いであるわけがない。自惚れてるなんて自嘲する余地もなかった。
 なにしろ杏寿郎の義勇に対する執着や独占欲は、誰の目にも明らかすぎたのだ。それはもう、義勇本人の目にさえも。
 とはいえ、そのころの杏寿郎は、ただもうかわいいばかりの小学生だ。なにをどうしろと。
 学校で学んだ性教育に、男同士のアレコレなどない。よしんば同性愛での性交について教えられていたとしても、相手は小学生だ。駄目だろう。いろいろと。
 自分が同級生よりも奥手なことは、年上の友人である宇髄などにもたまにからかわれていたから、なんとなく自覚していた。なのに、まさかこんなことで自分が悩む日がこようとは、義勇はちっとも思っていなかった。
 けれど、そう長い期間は悩まなかったのもまた、事実だ。
 悩み戸惑って、杏寿郎を避けるには、杏寿郎との距離感はあまりにも近すぎたので。

 ココアの思い出から、ついいらぬことまで思い出してしまった。
 スンッと虚無顔になった義勇は、知らず虚空を見つめ胸中でため息をついた。
「なに百面相してるんだ?」
「杏寿郎くんのこと思い出しちゃった?」
 事実だから、義勇は思わず言葉に詰まる。
 黙秘権を行使するとばかりに口をつぐみ、ちょっと恨みがましく上目遣いににらめば、錆兎と真菰はいかにも楽しげに笑った。
「杏寿郎って、あのやたら声が大きい高校生だよな。クリスマスに親父の車使うの、あの子とどっか行くからだろ? どうせなら土曜までと言わず日曜まで借りててもいいぞ。親父もお袋も、クリスマスだからって出かける予定もないみたいだしさ」
 村田の言葉にからかいのひびきはないが、改めて確認などしないでもらいたいものだ。
「なんだ、村田に借りるのか。ていうか、村田は車使わなくていいのか? クリスマスなのに」
「聞くなよ! クリスマスの予定なんてバイトに決まってんだろぉ! どうせシングルベルだよ、クルシミマスだよっ!」
 わっと泣き真似する村田に、真菰が苦笑する。義勇も少しいたたまれなくなった。
「……すまない」
「へ? なんで冨岡が謝んのさ」
「バイト。忙しいのに、休んでごめん」
 飲食業ではクリスマスは書き入れ時だ。バイトとはいえ、調理スタッフが一人抜ければそれだけ忙しさは増す。なのに自分の都合を優先させたうえに、親御さんの車まで借りるのだ。
 嫌味の一つも言いたくなるだろうに、村田はまったく義勇を責めようとしない。否応なしに罪悪感も湧くというものだ。
「そんなの気にすんなよっ。冨岡のぶんも頑張るから、楽しんでこいって!」
 シュンと肩を落とした義勇に、いかにも焦った様子で言う村田は、本当にいい奴だ。
 学校でもバイト先でも、なにかと気にかけてくれる同級生の友情に、じんと熱くなった義勇の胸は、村田の次の言葉にすぐさまスッと冷めた。

「それに、冨岡がバイト休めないなんて言ったら、あの子がかわいそうっていうか……いや、怒ったりはしないだろうけどさ。次に逢ったときに、すっげぇ圧のこもった目でじっと見られんの、ぶっちゃけ怖い……」

 乾いた笑みを浮かべて遠い目をする村田には、正直、申しわけない。隠そうとしても隠しきれない杏寿郎の嫉妬深さに、駄犬めと眉根だって寄る。
 おかげで忘れかけていた不安まで、またぞろかき立てられてしまったではないか。

 真菰や錆兎の笑い声や、村田のボヤキを聞きながら、義勇は、一人の部屋に隠したそれに小さく背を震わせた。
 本音を言えば、少し怖い。不安は隠しきれない。だけど、逢いたくてたまらないのだ。それに今度の来訪ではちょっと遠出する。なんならどこかに泊まってしまえばいい。だから、きっと大丈夫だ。
 相談してしまおうかと思うことはある。けれども言葉にするのは、ためらいがあった。義勇が抱える怯えは、できれば誰にも知られたくない。認めてしまうことこそが怖くて、自分でも気づかぬふりをしていたかった。

 眩しい日差しが満ちた学食にひびく笑い声は明るい。義勇が抱えた秘密は、せっかくのクリスマスデートなんだからオシャレしなきゃ駄目だよ、私が選んであげると迫ってくる真菰の笑顔に気圧されて、胸の奥底にそっと沈められた。