にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 2

 突然だが、冨岡義勇、ギリギリ未成年な十九歳は、犬と暮らせたらいいのにと昔から思っている。ここ数ヶ月はなおいっそう、キラキラとした毛並みの大きな犬がいてくれたらと、願うことが増えた。不甲斐ないことだけれども。

「小さい犬さえ怖がるくせに、意外だねぇ」
「怖くない。苦手なだけだ」
「ハイハイ、わかったわかった」

 ムゥッと唇をへの字にした義勇に、わけ知り顔した幼馴染たちが苦笑する。
 少しふてくされつつ、義勇は豚汁うどんを無言ですすった。たちまち汁で汚れる口周りに、二人の苦笑が深まり、真菰がサッと取り出したハンカチで義勇の口元を拭ってくれる。
 つい先日に満二十歳を迎えた真菰は、ここ最近やたらと年上ぶるが、このタイミングバッチリな仕草は昔からだ。
 開店直後なせいか、学食はいつもより空いている。人の目が少なくて幸いだ。幼児扱いされているようで、学内ではあまりされたいものではない。けれども義勇の不機嫌顔は、もうすっかりいつもの無表情になっていた。
 なんだかんだ言っても、二人に世話を焼かれるのは慣れっこだ。というよりも、こういう世話の焼き方は、錆兎と真菰にかぎらず義勇の周囲にいてくれる人々共通なのだ。恥ずかしながら、もはやこれが通常運転である。
「相変わらず食べるの下手だよな」
 呆れているような言葉だが、錆兎の声音も表情もどこかうれしそうだ。

 義勇が大学進学にともない生まれ故郷に戻ってから、四月になれば二年が経つ。だというのに、錆兎や真菰はいまだに義勇が帰ってきたことをしみじみと喜ぶのだ。気づくたび、義勇はちょっぴり面映ゆくなる。

 両親がそろって事故で亡くなり、義勇が引っ越しを余儀なくされたのは五歳のときだ。年に一度は墓参りのために姉と一緒に帰郷していたとはいえ、裏返せばその日ぐらいしか、義勇は二人と逢えなかった。それなのに、今もこうして一緒にいる。
 大好きな幼馴染との縁が途切れなかったことに、義勇もいまだにありがたさを噛み締めてしまう。
 と同時に、ポンッと頭に浮かんだのは、キュウーンと切なげに鳴く犬の姿である。

 ちょっとほかの人を好きだなぁと思った瞬間に、想像のなかとはいえしっかり現れ、俺を忘れないでと存在を主張してくるのだから、まったくもってしょうのない奴だ。義勇は勝手に赤くなりかける顔を誤魔化すべく、またうどんをすすった。
 しょうがないのはどちらやら。離れていたって頭のなかにはいつだって、騒がしい犬が住み着いている。コロコロと転がるように走りまわっていた子犬のころから、ずっと一緒にいたのだし、それもまたしかたのないことかもしれないけれど。
 それでもなんにつけて思い浮かべてしまうのは、向こうの自己主張が激しいばかりでもない。
 あぁ、本当にしょうのない奴だ、俺は。自嘲は胸にずいぶんと甘くひびいた。

 真菰に言われるまでもなく、犬はたしかにちょっと怖い。幼いころに中型犬に追いかけられ、尻を噛まれるという不名誉な出来事があったせいで、いまだに義勇は犬を見かけると、体が一瞬ピシリと硬直するのだ。ぬいぐるみのような子犬であっても、条件反射でビクンとしてしまう。
 そんな義勇でも、世界で唯一、まったく怖くない犬がいる。それはフサフサでキラキラした金色の毛並みの、大きな犬だ。義勇と背丈は変わらないくせに、体の厚みは全然違っていて、ちょっぴり悔しい。
 犬はしつけもしっかりされている。いかにも血統書付きな毛並みの良さと賢さは、惚れ惚れとしてしまうほどだ。
 いつだってご機嫌でフレンドリーな犬は、ハチ公も顔負けな忠犬でもあって、義勇を全身全霊で守ろうとする。実際、なにがあったってこの子と一緒なら大丈夫と、義勇が全幅の信頼を置けるほどには、強い。
 瞳も毛並み同様に金色で、ちょっと赤みが差しているところは、夜明けの空に似ている。清々しくて美しい、澄んだ瞳だ。義勇に悪意を向ける輩とひとたび認識すれば、射殺さんばかりに鋭くなるその目は、義勇に対してはいつだって笑みにたわんでいた。
 義勇のことが大好きで、大切で、なによりも大事と、いつでも体いっぱいで訴えてくるかわいくて健気な犬だけれど、同時にちょっとヤキモチ焼きだ。
 大切な義勇を悲しませたりは決してしませんとばかりに、義勇が友人などと笑っていてもせいぜい強がっておとなしくしているのだが、二人きりになったとたんにすり寄ってきて、寂しかったとキュンキュン鳴くのである。
 
 義勇が一緒に暮らせたらいいのにと願っているのは、そんな犬だ。

 ほかの言い方をするのなら、幼馴染。
 二学年差と言うと、生まれ年は一つ違いとすぐさま訂正してくる年下の男の子……なんて言葉には、そろそろおさまらなくなってきた高校三年生。義勇の守護者で騎士を自認しているだけでなく、その認識を周知徹底させようとするから、ちょっと頭が痛い。まぁ、否定はしないけれど。
 年下なのに生意気ななんて、とうてい言えないぐらいには、義勇だってあの子を頼っている。頼り切りになるのはごめんだが、幼いころから精一杯背伸びして義勇を守ろうとしていたあの子には、義勇だって弱いのだ。かわいくてたまらない弟分なので。
 本当は、それだけではないけれど。
 去年の春に、それだけではなくなったけれども。

「ていうかぁ、義勇が一緒に暮らしたいのはワンコじゃないでしょ?」
「……犬だ」
「ハイハイ、わかったから。そういうことにしておいてやるよ。で、おまえのかわいい犬は、次いつ来るんだって?」

 真菰はもちろん、錆兎の笑んだ視線も、お見通しと言わんばかりだ。なんともはや、居心地が悪いことこの上ない。というか、照れくさくてしょうがない。
 意地になって違うと言い張ったところで、ふぅん? とニヤニヤされるだけなのは、わかりきっている。だから義勇はちょっとうつむいて、ことさらそっけなく言った。
「クリスマスイブ。終業式が終わったらすぐに来るって言ってた」
 今年のクリスマスは金曜日だ。式は午前中には終わる。金曜の午後から日曜の夕方までいるからと言い張る犬に、押し切られたのは自分だが、少しだけ不安もあった。
 義勇は、うっかりこぼしかけたため息を、無理やり飲み込んだ。

 いつもなら、土曜の午前中から日曜の夕方までの滞在だ。やってくるのは月に一度。だいたい第一週目か二週目に。それ以上は義勇が許可しなかった。だってあの子はまだ高校生なのだ。
 成績も上位で、部活では二年時から早くも主将だったぐらい、先生の覚えもめでたい優秀な子である。勉強に部活にと毎日忙しい。なんにでも全力投球で、頑張り屋なのだ。
 義勇がこちらに移り住んでからすぐに、あの子はバイトだって始めた。新幹線を使えば二時間もかからぬ距離だが、高校生には痛い出費だ。小遣いだけでは月に一度だってキツイだろう。裕福な家庭ではあるが、ご両親はけっして子供を甘やかさない人たちだから、小遣いだってそう多くはない。

 実の息子にはともかく、義勇には甘い気がするけれども……まぁ、いい。あの人たちのおかげで義勇だって、道を外れず育ち、曲がりなりにも大学生になれた。
 借りなどと思う必要はない。恩返しと言うのなら素直に甘えなさい。笑って言ってくれるから、義勇も恥ずかしながらあの子の両親には甘えてしまう。
 姉も義勇と同様だ。姉弟そろってあの人たちには頭が上がらないし、実の両親のように慕っている。

 ともあれ、小遣いが足りなければバイトするのは当然かもしれないが、向こうにばかり負担を強いるのは義勇だって忍びない。だいいち義勇のほうが年上なのだ。お兄ちゃんだ。
 長期休暇には俺が遊びに行くから、毎月なんて来なくていい。義勇がそう言っても、そんなの義勇が足りなくて俺が死ぬ! と絶叫されたから、しょうがない。互いに妥協点をすり合わせた結果、目下のところ月イチのお泊りと相成っている。
 長期の休みには、二、三日ぐらい義勇があちらにお邪魔するのも、条件の一つだ。でないと父上たちがすねると言われれば、義勇にだって否やはない。

 逢えない週末はバイトに勤しんでいるらしい。在籍していた剣道部も夏に引退したから、休日や放課後に入れられるシフトが増えたと笑っていた。
 離れていても、あの子の日常を義勇はすべて把握している。毎日スマホに届くメッセージと、週末の夜に電話越しに交わす会話で、あの子が伝えてくれるから。
 それをどれだけ義勇が楽しみにしているか、あの子はきっと、義勇自身よりも深く理解している。
 生徒会長への推薦は断固拒否したと言っていたが、もったいない話だ。面倒見がよく誠実で、誰に対しても公正な子だから、いい会長になっただろうに。
 とはいえ、生徒会の仕事まで加われば、体力おばけかというぐらいにタフなあの子でも、さすがに体を壊しかねない。そうなれば、義勇は月イチの来訪すら拒んだだろう。
 そうして寂しさを無理やり押し殺して、一人で膝を抱えるのだ。そんな自分の姿は、簡単に想像がつく。我ながら暗い。
 あの子の主張はそれを見越してだと理解できてしまうから、義勇もあまり強く出られないでいる。

 生まれ故郷とは言っても、義勇がこちらに住んでいたのは五歳までで、知り合いなどほぼいない。元来人見知りでもあるから、新しい友達を作るにも時間がかかる。
 錆兎と真菰、それにこちらで新婚生活を始めた姉夫婦ぐらいしか頼れるものもいない新生活は、マイペースな性分の義勇にもそれなりにこたえた。
 なまじ向こうにいたころは、友人にも周囲の大人にも恵まれて、裕福な暮らしではなくとも心豊かでにぎやかな日々だったから、一人きりの小さな部屋がずいぶんと寒々しく感じられたものだ。
 あの子にはきっと全部お見通しだったんだろう。義勇が寂しくないように、我慢しないようにと、毎月新幹線に飛び乗って、満面の笑みで義勇に逢いにくる。
 本当に、よくできた犬だ。忠犬もここに極まれり。
 
 難点をあえて挙げるとすれば、頑張りすぎるところだと、義勇はうどんをもぐもぐ噛みしめながら、ちょっと眉を寄せた。それと、義勇に関してだけは妙に心が狭いところも。
 もう少し言っていいなら、若さゆえなのか体力が有り余っているのか知らないが、元気すぎるところも、ちょっとだけ困るというか、なんというか。
 ……七味唐辛子をかけすぎた気がする。辛い。なんだか顔が熱くなってきた。錆兎と同じ秋鮭丼にすればよかったかもしれない。

「おぉ、青春してるなぁ。でも受験生だろ? 大丈夫なのか?」
「息抜きも大事だからって押し切られた。模試の結果も毎回A判定だから大丈夫だって言ってる」
「へぇ、頭いいんだねぇ。ね、どこか行くの? クリスマスだもんね、絶対にあのワンちゃん張り切ってるでしょ」
「ワンちゃんって言うな。……ドライブする。イルミネーション見に行こうって言ってた」

 おぉーっ、とそろってあがる声には、わずかながら冷やかすひびきが混じっている。嫌悪や悪意などかけらもない声や表情には、感謝もするし安堵もするが、からかうのはやめてほしい。色恋沙汰など慣れちゃいないのだ。
 デートじゃないと反論するには、自分もちょっと浮かれているのかもしれないが。
「レンタカーか? なんなら俺の車貸すぞ?」
「錆兎も真菰とどこか行くんじゃないのか?」
「私たちはまったりおうちデート。クリスマスって楽しいけど、どこも人が多いのが嫌だよねぇ」
 真菰の言葉に、錆兎の顔に苦笑がよぎった。もしかしたら真菰に言わなかっただけで、錆兎もクリスマスだからとデートプランを立てていたのかもしれない。
 持ち上げた丼の影からちろりと視線を投げれば、以心伝心。錆兎の眉根がキュッと寄って、余計なこと言うなよという視線が返ってくる。
 答える代わりに義勇は、丼に残った汁をグイッと飲み干した。即座に真菰の手が伸びてきて、また口元を拭われる。

 本音を言えばまったく同感だけれども、真菰の言葉に同意はしないでおく。
 前回のお泊りで切り出されたクリスマスの予定に、人混みに出るのはと口ごもった義勇にあの子が、いかにも悲しげに言葉に詰まったあと、すぐに、それならいつもどおり家にいようと空笑いで言ったのを思い出したので。

 眉が一瞬へにゃりと下がり、代わりに声をちょっぴり上ずらせた笑みは、やせ我慢がみえみえだった。そんなふうに笑われては、嫌なわけじゃない楽しみだと答える以外に、義勇になにが言えようか。
 たちまち、本当か!? 当日のプランは任せてくれ! 義勇と行きたいと思って調べたのだ! と、見えないしっぽをブンブンと振りまわしているのが感じられるほど喜色をあらわにするから、胸がキュンとしたことまで思い出してしまった。
 錆兎や真菰になにかもの申せば、たぶんそんなあれこれも口にせざるを得なくなる。口下手な自分の口さえをも、軽くしてしまう人というのはいるものだ。目の前の二人がまさにそうだし、筆頭はあの子である。
 あの子の場合は、日ごろは圧の強さによってだが、雨の日に捨てられた子犬のような眼差しで見てくるギャップも大きい。卑怯だ。あんなの強く出られるわけないじゃないか。
 脳裏に浮かぶキュンキュンと鳴くすね顔に、思わず頬がゆるみかけたが、すぐに義勇は少しうつむいた。

 楽しみなのは嘘じゃない。逢いたいのは自分だって同じだし、初めて二人きりで過ごすクリスマスにソワソワともしている。
 今まではあの子の家に招かれたり、ほかの友人達も一緒に遊ぶのが常だった。そのころはまだ、お互いを言い表す関係は、幼馴染だとか友人としか言いようがなかったので、しかたのないことかもしれないけれど。
 去年のクリスマスだって本当は、二十五日には逢えるはずだったのに、なんとインフルエンザで義勇がダウンしてしまった。
 当然のように看病に行くと電話口でわめかれたが、そんなことさせられるはずもない。
 姉さんのところで世話になってるから来るなと、口を酸っぱくして言い聞かせた義勇に、電話越しにわかったお大事にと告げる声は、なんだか泣き出しそうだった。
 義勇も本当は泣きたかった。だって、恋人になって初めてのクリスマスだったのだ。気恥ずかしさが先に立ち、素直に好きだと口にするのは稀だけれど、義勇だってちゃんとあの子が大好きで、できることならいつだって一緒にいたいと思っている。
 熱に浮かされているときには、実際にちょっと泣いた。逢いたくて、そばにいないのが寂しくて。

 まぁ、そのぶん、あちらにお邪魔した正月にはべったりくっつかれて、ちょっとばかり難儀したけれども。

 いや、べつにくっつかれているのはいいのだ。ギュウギュウとたくましい腕で抱きしめられるのは、照れくさいけれどもうれしいし幸せだ。でも、ご両親やらまだ小学生の弟の前でもべったりというのは、いかがなものか。

 うんうん、寂しかったな。約束守れなくてごめん。そう言って甘やかしてやれたのは、一時間が限界だった。義勇にしてみれば、よく我慢したと自画自賛したいぐらいである。
 正月早々平手打ちしたのは、ちょっとだけ悪かったかなと思わなくもないが……まぁ、いい。しつけは大事だ。どんなにかわいくても、ご家族の前でキスなどしかける駄犬には、鉄拳制裁も辞さない構えでいなければ。でないとあのワンコは元気がありあまりすぎてて……ちょっと……うん。
 
 思考がついあらぬ方向に流れた。まだ昼だ。そういうことを思い出すには、時間も場所も不似合いすぎる。
 あの子を思い出すのはいつのものことだが、TPOはわきまえるべきだろう。自重していたはずなのだけれども、最近、ちょっと怪しい。
 理由は義勇も自覚している。クリスマスが近づいてきているからだ。楽しみすぎてというだけならいいのだけれど、それだけではないから厄介だ。
 向かいの席で楽しげにクリスマスの話題に興じている二人は、ふと義勇の顔によぎった陰りには気づかなかったようだ。聞かせたい話ではないから、義勇は常の無表情をあえて保つ。
 不甲斐ない。こぼれそうになるため息をふたたび飲み込んだそのとき、知り合いの声が聞こえてきた。

「みんな、ここにいたのか。冨岡、親父からオーケー出たぞ。当日の昼からでいいんだよな?」
「村田くん、なんか顔色悪くない? 目の下の隈、すごいよ?」
「よぉ。マジでひどい顔してんな。大丈夫か?」
「ありがとうございますと伝えてくれ。体調悪いのか? うん」
「まとめて返事すんな。わけわかんないから」
 栄養ドリンク片手によろよろと近づいてくる同級生が、一斉に向けられた視線に対して浮かべた笑みは、いかにもお疲れ気味だ。いつもはサラサラツヤツヤとした髪も、今日はなんだかキューティクル控えめである。めずらしいこともあるものだ。
「風邪?」
「んにゃ、先輩につかまってオールで麻雀つきあわされた……」
 義勇の隣に腰を下ろした村田は、げんなりと言ってため息をつく。本気でお疲れモードだ。
「……タバコ臭い」
「マジで? うわぁ、ごめん。あっちの席行くわ」
 あわてて立ち上がろうとするから、義勇はとっさに村田のパーカーの裾を掴んだ。

 気のいい同級生を恐縮させてしまった。こういうところが自分はなっていないのだろう。錆兎たちが幼いころと変わらぬ扱いをしてくるのも当然かもしれない。

「いい。ここにいろ」
「……あのさ、冨岡。俺だからいいけど、そういうのほかの奴にすんなよ?」
 焦って口早になった義勇に、村田はしみじみとそんなことを言う。なぜだか錆兎や真菰まで神妙な顔でうなずいていた。
「そういう?」
「だから、そういうの。あざといわぁ」
 コテンと小首をかしげれば、いよいよ村田は遠い目をする始末だ。解せぬ。
「天然だからヤバイよねぇ」
「まぁな。よく今まで無事でいられたもんだ」
 真菰と錆兎まで、そんなことを言い出すのだから、ますますわけがわからない。
 怪訝な顔をした義勇に錆兎は苦笑し、真菰はコロコロと軽やかに笑った。
「ちょっと悔しい気もするけど、杏寿郎くんには感謝しなきゃね。ね、義勇」
 真菰が感謝する理由はよくわからないが、賛同の意を誤魔化す必要もない言葉だ。
「うん」
 知らずホワリとはにかみ笑った義勇を、村田がぎょっとした目で見つめてくる。
 視線に気づき見返せば、目があった村田の顔はなぜだかやけに赤い。やっぱり風邪を引いたんじゃなかろうか。
 心配になって少し眉根を寄せたら、錆兎が感に堪えないと言わんばかりのため息をついた。
「本当に、杏寿郎にはいくら感謝してもし足りないな」
「だよねぇ」
「日ごろ無表情だから威力がすごいな。あんまり人前で笑うなって言われてるって聞いたときには、なんのこっちゃと思ったけど、大正解だ。冨岡、ほんと気をつけろよ?」
「うん?」
 なんのこっちゃとはこっちのセリフだ。思うけれども、問うほどのことでもない。
 ようは杏寿郎は正しいと言われたってことだろう。やっぱり杏寿郎はすごい。賢い。
 なんだかちょっと明後日の方向に思考は変換されて、義勇はうれしくさえなる。

 最初に言われたときには、義勇もどうしてと少し反発もした。当然だろう。自分がいないときに人前で笑うのはよくないなんて忠告を、すぐさま納得などできるわけもない。
 けれど、ほかの友人たちにも、姉を始めとした大人たちも、杏寿郎――義勇の大事なあの子に同意するし、なにより、杏寿郎がとんでもなく心配そうな顔をしていたから。ならば義勇があえて逆らう理由などありはしないのだ。
 一人でいるときにはあまり笑みを浮かべないように気をつけたら、やたらと道を聞かれることも、面白いところに連れて行ってあげると言ってくる人も減った。だからきっと、杏寿郎は正しい。

 人見知りで口下手なものだから、知らない人に声をかけられるのは少し緊張する。困っている人は助けてあげなければと思うし、親切で言ってくれたものを拒むのだって、申しわけないと思うけれども、知らない人についていくわけにもいかない。気を悪くされぬようにうまく断るのは、まだ幼かったころの義勇にはずいぶんとハードルが高かった。
 笑顔でいれば声もかけやすかろう。杏寿郎はきっと、義勇がそのたびちょっと困っているのなんて、お見通しだったに違いない。年下だなんて思えぬほどに、杏寿郎は本当に頼れる男の子だ。
 それでも、義勇が年上であるのに違いはない。出逢ったのが五歳と四歳だったからか、いまだに義勇の心には、舌足らずで自分よりも小さな体をした杏寿郎が住まっている。
 今では背丈はほぼ同じなうえ、体格的には杏寿郎のほうが義勇よりもよっぽどたくましいのだが、義勇の目には今でもかわいく見えるのだ。
 義勇の手よりも小さなその手で、義勇の手をギュッと握り、姫を守るナイトのように振る舞おうとする杏寿郎は、ほんとうに愛らしかった。
 ふと記憶の底から浮かび上がってきたのは、出逢ったその日に、杏寿郎の家でごちそうになったココア。思い出したとたんに自分でもわかるほどに頬がゆるんで、義勇は面映ゆさをこらえて少しうつむいた。
 きっといま自分の顔はとろけきっている。恥ずかしくてあまり見られたいものではない。けれども思い出はやさしすぎて、頭から消えてはくれなかった。