とてもきれいなお母さんが熱いから気をつけてと出してくれたココアは、甘い匂いがしていた。
その人と一緒に部屋を出ていく姉の背中を見つめ、義勇はちょっとだけ不安になった。どんなにやさしくても出逢ったばかりの人だ。人見知りな義勇にとって、知らないおうちで取り残されるのは、少し怖い。
ホカホカとした湯気を立てるココアは『ホラおいしいよ、飲んで?』と誘惑してくるけれど、すぐには口をつける気になれず、義勇はカップを手にすることなくモジモジと身を縮こまらせた。
隣に座る杏寿郎は、そんな義勇の様子には気づかなかったようだ。いただきましゅと満面の笑みで言うなり、躊躇なしにカップをかたむけている。義勇が止める間なんてなかった。
「あちゅいっ!」
グビリと思い切りよくココアを飲んだ杏寿郎が、すぐに顔をしかめて舌を出したのに泡を食った自分のうろたえっぷりだって、義勇は今もはっきり覚えている。
「だ、大丈夫!? フゥフゥしてから飲まないと、やけどしちゃうよっ」
心配する義勇に、杏寿郎はやけに生真面目な顔でうなずいたものだ。
「うむ! ちゃんとフーフーちよう!」
そう言った杏寿郎がまろい頬をいっそう丸くふくらませ、フゥフゥと息を吹きかけたのは、義勇のカップにだ。
戸惑う義勇には気づかぬまま、杏寿郎は少しだけ冷めたココアを義勇に差し出し、さも誇らしげに笑った。あのときの顔だって、義勇はちゃんと覚えてる。なにひとつ忘れていない。
「フーフーちたから、もうらいじょうぶだ! ぎゆうがやけどちたら、たいへんだかりゃな!」
熱くて痛かったのは自分なのに義勇を真っ先に心配する杏寿郎は、小さくてかわいいのに、なんだかとってもかっこよく見えた。
妙に照れくさくって、キュウッと胸が苦しくなった理由は、あのころにはまだわからなかったけれど。
キュンと鳴った小さな胸の音をときめきと呼ぶのだとすら知らないまま、それでも義勇は、杏寿郎のことをどんどんと大好きになっていった。
自分よりも小さくてすごくかわいくて、だけど臆病な自分よりずっと勇気があってやさしい、杏寿郎。悲しくてつらくて膝を抱えて泣きたいばかりだった日々が、暖かくてやさしい光に包まれたのは、杏寿郎がいてくれたからだ。杏寿郎の笑顔は、まるで雨上がりのお日様のようだった。
ぎゆう、ぎゆうと、うれしそうに呼んで駆けてくる様は、ブンブンとしっぽを振って飛びついてくる子犬にも似ている。犬はちょっと怖いけれど、杏寿郎ならちっとも怖くない。どんなに小さな子犬でさえ撫でてあげられない義勇でも、杏寿郎にだったらなんの怯えもなく触れられる。
杏寿郎大好きと笑って金色のフサフサとした髪を撫でてあげるたび、いかにもご満悦と言った顔で笑うのが、すごくかわいかった。
大好きな気持ちが恋に変わったのは、いつからなのか。こればかりは義勇にもよくわからない。でもたぶん、最初からなのだろう。恋という言葉は知らずとも、きっと初めて出逢ったその日その瞬間に、義勇は杏寿郎に恋していた。
泣きそうになるぐらい甘苦しくて温かな気持ちが溢れ出し止まらなくなるよな、抑えきれずに意味もなく大きな声を上げ走り回りたくなるよな、大好きでも足りない杏寿郎への気持ち。それが恋なら、義勇が初めての恋に落ちたのは間違いなく、杏寿郎の笑顔を初めて見たその瞬間にだ。
杏寿郎に恋したのは、いうなれば夜が終われば朝がくるのと同じぐらい、当然のことだったのかもしれない。義勇にしてみれば、杏寿郎がかわいくてたまらないのも大好きなのも、当たり前すぎるほど当たり前で、ちっとも気づかなかった初恋である。
とうとう自覚したのは、中学生になってすぐのこと。こればかりは覚えていたくないのだけれども、忘れられそうにもない思い出だ。
杏寿郎への気持ちが恋なのだと思い知ったのは、第二次性徴期特有の現象によってである。有り体に言えば、杏寿郎の夢を見た夜に初めて夢精するという、きっかけとしては泣きたくなるような代物だ。あの日の呆然なんて言葉じゃ済まない衝撃も、義勇ははっきりと覚えている。
忘れたい。きれいサッパリ記憶から消したい。無理だけれども。
学校で習っていたから、自分の体に起きた現象についてはすぐに合点がいった。けれども、なぜ今夜にかぎってと、傍らで眠る杏寿郎の寝顔を見つめ泣き出したくなったのは致し方ないだろう。
幼稚園のころから、杏寿郎の家にお泊りすることはたびたびあった。
その日も、戴き物の牡蠣がたくさんあるから食べにいらっしゃいと誘われ、姉とともに夕飯をごちそうになった。そういう日にはなんだかんだと引き止められ、姉ともどもお泊りになるのが常だ。
家でなら姉と布団を並べて眠るけれど――さすがにその習慣も、中三のとき受験勉強を理由に六畳の部屋を仕切ることになって終わったが――、お泊りでは杏寿郎の部屋で一緒の布団で眠るのが定番である。中学に上がったってそれは変わらない。
杏寿郎は、お泊りは義勇と眠るのだと幼稚園のころからかたくなに信じていたし、義勇だって杏寿郎と抱っこしあって眠るのになんの疑問もなかった。
だからその日だって、一つの布団にくるまりクスクスと笑いあいながら、お互いを抱きしめて眠った。楽しそうに学校での話をする顔、義勇だけ中学生になって一緒に通えないのを悔しがる顔。全部義勇は覚えている。
夢に出てきた杏寿郎が、義勇大好きだと幼い笑みを浮かべて頬にキスしてくれたその顔だって、義勇の記憶から今も消えそうにない。まぁその顔は現実でも常に見ていたものなのだから、当然と言えば当然かも知れないが。頬へのキスだって低学年のうちまではたびたびしあっていたし。
なのになんでまた性の目覚めのきっかけがそれなのか。自分でも自分の体が信じられなかった。が、恋心についてはちっとも疑う余地などなかったあたり、自分でも素直すぎるだろうと思わなくもない。性的な欲求を覚えるイコール好きだから、つまりは恋だ。なんともまぁ純粋がすぎると、宇髄や真菰に知られたら苦笑されるかもしれない。
今でこそ自分でも呆れるが、当時はそれどころじゃなかった。
杏寿郎を起こさぬようにそっと布団を抜け出し、どうしようとうろたえながらトイレに向かった義勇が出くわしたのは、槇寿郎だ。
出てきたのが槇寿郎でよかった。義勇はいまだに安堵する。もしも瑠火や姉と顔を合わせていたら、義勇はきっと、いたたまれなさに死にたくなっただろう。
義勇が涙目で青ざめていた理由をすぐに察してくれた槇寿郎には、今も感謝している。内緒で洗濯しておくから心配するなと笑いながら替えの下着を出してくれたのも有り難かった。赤飯炊くか? と、なんとなくウキウキとして見える顔で言われたのは、ちょっぴり困ったけれども。断りきれて幸いだ。
なんにせよ、杏寿郎の夢を見て夢精するというなんだか泣きたいような経験でもって、義勇は杏寿郎への恋心を自覚することとなったわけである。こればかりは杏寿郎にも口が裂けたって言えない秘密だ。墓まで持っていく決意は固い。
そうして義勇はそれ以来、杏寿郎と一緒に眠るのがちょっと怖くなった。もし杏寿郎に知られたらと思うと、泣きたくもなった。
だからといって、それまでお風呂も眠るのも一緒だったのだ。いきなり別々にしようなんて、強固に言い募ることだってできやしなかった。理由を問われても、杏寿郎と一緒だとエッチな気持ちになっちゃうかもしれないからなんて、どんな顔をして言えばいいのだ。冗談じゃない。
断り続けて嫌われたらとは、かけらも思わなかった。
だって杏寿郎が義勇のことを好きなのは、太陽が東から昇るのと同じくらい、当たり前のことだったので。
杏寿郎が恋だと自覚していたかは知らないが、片想いであるわけがない。自惚れだと自嘲する余地すらなかった。
なにしろ杏寿郎の義勇に対する執着や独占欲は、誰の目にも明らかすぎたのだ。それはもう、義勇本人の目にさえも。
とはいえ、そのころの杏寿郎はただもうかわいいばかりの小学生だ。なにをどうしろと。
学校で学んだ性教育に、男同士のアレコレなどない。よしんば同性愛での性交について教えられていたとしても、相手は小学生だ。駄目だろう。いろいろと。
自分が同級生よりも奥手なことは、年上の友人である宇髄などにもたまにからかわれていたから、なんとなく自覚していた。なのにまさかこんなことで自分が悩む日がこようとは。はたから見れば思わず苦笑してしまう程度のことかもしれないが、義勇の苦悩はそれなりに深かった。
けれど、そう長い期間は悩まなかったのもまた、事実だ。
悩み戸惑って避けるには、杏寿郎との距離感はあまりにも近すぎる。杏寿郎を納得させるだけの明確なきっかけなしには、習慣をいきなり改めるのはむずかしい。なんだかんだで結局は風呂も布団も全部一緒、元の鞘だ。一緒の布団に関しては、二年後にはふたたびもめることになったけれど。
杏寿郎が中学に入学すると同時に「いい加減大きくなったんだから布団を並べるだけにしなさい」と槇寿郎や瑠火に止められたのだ。なにしろまだまだ小学生で通用する背丈だった杏寿郎と違い、義勇は中三。成長期真っ盛りだ。背だって順調に伸びていた。一人用の布団に二人で眠るのは、いかにも窮屈そうに見えたに違いない。
もしもあのとき杏寿郎の説得が叶い、今しばらくの同衾を許されたとしても、杏寿郎だって中一の秋口あたりからいきなり身長が伸びはじめていた。当時は毎日のように成長痛に顔をしかめていたから、いずれは「布団からはみ出してるだろうが!」と叱られ、布団を分けられる次第になったことだろう。義勇だってまだまだ背は伸びていた。遅かれ早かれ訪れる決別だったのだ。
とうとう背丈が並んだのは杏寿郎が十四になる直前、こどもの日に煉獄家の柱で恒例の背比べをしたときに判明した。杏寿郎が快哉を上げたのは言うまでもない。
蛇足ながら、煉獄家のその柱には、杏寿郎の従兄である伊黒ばかりか宇髄や不死川の背までもが、いくつか刻まれている。数は少ないながらも不死川の弟たちのものだってあった。槇寿郎と瑠火の面倒見の良さというか、子供らに対する分け隔てない愛情深さが、その傷の数々から窺い知れるというものだ。
そんなふうに毎年柱に背をつけ比べていた身長も、今はたった一センチとはいえ抜かされている。
杏寿郎の背が義勇よりわずかばかり高いとわかった日はといえば、これまたこどもの日だ。しかも去年のである。杏寿郎が伸びるぶん義勇の背も伸び、ずっと横並びだったというのに、とうとう追い抜かれた。ただしそれが判明したのは、煉獄家の柱に記した傷によってではない。
去年のゴールデンウィークも、今年と負けず劣らず大勢で過ごし、にぎやかだった。
杏寿郎と恋人になってひと月、交際開始と同時の遠距離恋愛で、ひと月ぶりにやっと逢えるという状況でありながら、だ。
引っ越してひと月の義勇を案じてか、宇髄たちいつもの面々も杏寿郎に同行してきたのだ。それを義勇が知ったのは、約束の一週間前。杏寿郎たちとも交友を深めたいと、錆兎と真菰も参加を申し出て、総勢七名で向かったのは絶叫マシンで有名な遊園地だ。
ジェットコースターの身長制限の話になったのが、背比べのきっかけである。こどもの日に煉獄家で杏寿郎のちょっと早めの誕生パーティをひらくたび、全員で背比べしたとの思い出話に花が咲いた。真菰が「杏寿郎くんたちばかり義勇との思い出が多くていいなぁ、楽しそう」と唇をとがらせ、じゃあちょっと全員で比べてみようかとなったのは、食事中のこと。レストランの外壁にズラッと並び、宇髄がシャーペンでちょんちょんとそれぞれの背で印をつけていった。
見つかって叱られる前にとすぐさまみんな指でこすり消して、撤収! との宇髄の掛け声で一斉に走り出した。笑いながら。柱の傷とは違ってすぐに消えた小さな印。馬鹿馬鹿しくてちょっぴりはた迷惑な、子供でいられるうちだけの悪ふざけ。幼いころにはこんなふうに、杏寿郎たちと錆兎たちが一同にうちそろうなんて思いもしなかったから、なんだか妙に心躍った。
が、杏寿郎の印がほんのわずかとはいえ自分より上にあったのは、なんとなく今も悔しい。義勇の成長はどうやら止まったらしいので、巻き返しの可能性は低いと思われる。……うん、やっぱりちょっと悔しい。ほんのちょっとだけ。でも本当に、ちょーーっぴり、だから。一センチ程度じゃ負けたなんて思っていないとも。強がりでなく。
閑話休題。
ハッと目を見開き、義勇はむぅっと口をへの字に曲げた。またやってしまった。錆兎たちと一緒だと、どうも気を抜いてしまう。
思い出がとにかく多すぎて、義勇を取り巻く諸々すべてが杏寿郎を連鎖的に思い起こさせるから、義勇の思考はたびたびとっ散らかるのだ。勝手に頭が杏寿郎にまつわることへと思考を変換させる。
義勇がぼんやり屋だと言われる一因は、ほかでもない杏寿郎だ。一人でいてもふにゃふにゃ笑ってしまうのだって、結局のところ頭のなかにいる杏寿郎が、義勇の顔を勝手に微笑ませるせいだ。
だからといって、杏寿郎を脳裏から追い出すことなど不可能だ。したいとも思わない。
せいぜい気をつけようと、義勇は小さくうなずいた。脱線した思考が戻ってくるまでの間は年々早くなっているので、思い出やら想像に耽る時間は義勇自身が思うより短いのが救いといえば救いかもしれない。無表情っぷりだって年を重ねるごとに鉄壁と化している。瑠火のブリザード吹きすさぶ眼差しはまだ習得できていないが、鍛錬あるのみ。
散らばった思考を少しばかり引き戻そう。さてそんなふうにして共寝は中三と中一になった春で一時中断されたが、風呂に関しては、義勇が引っ越すまでは一緒のままだった。
煉獄家の浴室は広いし、まとまって入れば水道代やガス代も浮く。千寿郎が幼稚園に入ったこともあり、三人まとめての入浴をうながされるようになったのもまた、そのころだったのだ。
裕福な家庭とはいえ、瑠火は天然資源を無駄にするのを許さない。遊興費などを出し渋ることはないから、出費云々ではなくあくまでも地球の資源優先ということだろう。スケールがでかい。たんなるケチだの節約家だのの枠に収まらない人だ。もちろん無駄遣いを許さぬ倹約家でもあるので、理にかなった判断といえよう。
そんな瑠火からすれば、杏寿郎の白物家電クラッシャーっぷりは至極頭が痛いことだろうが、買い替えの踏ん切りに利用している感が無きにしもあらずだったりする。叱ったところで杏寿郎自身にもどうにもならぬものならば、うまく利用してしまえばよいとの合理的な判断を下せる瑠火を、義勇はたいへん尊敬し師と崇めているが、それはともあれ。
義勇にしても杏寿郎との入浴は完全に日常であったので、背中や髪を洗いっこするのは息をし食事をするのと変わらない。一緒にいるのが当たり前すぎたせいか、厄介な思春期の性欲だって思うよりずっと大人しかったから、危惧していた問題もまったくの杞憂に過ぎなかった。不幸中の幸いといえよう。もしも千寿郎に見られたら、きっと自分は切腹しようとしたに違いないと義勇は確信している。落ち着きのあるムスコで本当に良かった。
そもそも、いざその場になってみれば、自制心や理性を振り絞るほどのことでもなかった。日常と性の境界線は、無意識でも義勇のなかできっちりと引かれていたのだろう。考えてみれば当然だ。杏寿郎の距離の近さにいちいち動揺していては、日常生活すらままならない。
だから今も、煉獄家に泊まる際の入浴は千寿郎もまじえ三人で――たまに槇寿郎がなんとなし混じりたそうにソワソワして見えるが――だ。だが共寝とは逆に、アパートでの入浴は別々になっている。
まぁ、あれだ。アパートのユニットバスは狭いから。それだけが理由で別なわけでもないが。ふたたび解禁となった共寝は……窮屈さはむしろ今のほうが深刻だけれども、眠るだけではないから、まぁ……うん、寝るなら一緒の布団でないと無理というか……。
ほのぼのと心温まるばかりなココアの思い出が、またもやいらぬことに向かってしまった。気をつけようと思ったそばからこのありさまでは、先が思いやられる。我ながらこの癖はどうにかならないものか。
スンッと虚無顔になった義勇は、知らず虚空を見つめ胸中でため息をついた。
「なに百面相してるんだ?」
「杏寿郎くんのこと思い出しちゃった?」
事実だから義勇は言葉に詰まる。
黙秘権を行使するとばかりに口をつぐみ、ちょっと恨みがましく上目遣いににらめば、錆兎と真菰はいかにも楽しげに笑った。
「杏寿郎って、あのやたら声が大きい高校生だよな。前にバイト先まで冨岡を送ってきた子。クリスマスに親父の車使うの、あの子とどっか行くからだろ? どうせなら土曜までと言わず日曜まで借りてていいぞ。親父もお袋も、クリスマスだからって出かける予定もないみたいだしさ」
村田の言葉にからかいのひびきはないが、改めて確認などしないでもらいたいものだ。
「なんだ、村田に借りるのか。ていうか、村田は車使わなくていいのか? クリスマスなのに」
「聞くなよ! クリスマスの予定なんてバイトに決まってんだろぉ! どうせシングルベルだよ、クリスマスのレストランでホールなんてクルシミマスでしかねぇよっ!」
わっと泣き真似する村田に、真菰が苦笑する。義勇も少しいたたまれなくなった。
「……すまない」
「へ? なんで冨岡が謝んのさ」
「バイト。忙しいのに、休んでごめん」
飲食業のクリスマスは書き入れ時だ。バイトとはいえ、調理スタッフが一人抜ければそれだけ忙しさは増す。そもそもバイト先だって、村田の親戚がやっているイタリアンレストランを紹介されてのものだ。村田の気の良さに甘えている自覚は義勇にもある。
レストランのオーナーにだってそうだ。日ごろから杏寿郎が来るスケジュールにあわせてシフトの融通を利かせてもらっていているというのに、一年で一番忙しい日に自分の都合を優先させた義勇に嫌味を言うでもなく、笑って了承してくれた。村田に「おまえは休まないよな? な?」と向けた笑顔は、なんだかちょっとばかり怖かったけれども。
ビクリと肩を揺らせコクコクとうなずいていた村田には、本当に頭が上がらない。そのうえ、親御さんの車まで借りるのだ。嫌味の一つも言いたくなるだろうに、村田はまったく義勇を責めようとしない。否応なしに罪悪感も湧く。
「そんなの気にすんなよっ。冨岡のぶんも頑張るから、楽しんでこいって!」
シュンとして義勇が肩を落としたとたん、いかにも焦った様子で言う村田は、本当にいい奴だ。
学校でもバイト先でもなにかと気にかけてくれる同級生の友情に、じんと熱くなった義勇の胸は、けれども村田の次の言葉にすぐさまスッと冷めた。
「それに、冨岡がバイト休めないなんて言ったら、あの子がかわいそうっていうか……いや、怒ったりはしないだろうけどさ。次に逢ったときに、すっげぇ圧のこもった目でじっと見られんの、ぶっちゃけ怖い……」
乾いた笑みを浮かべて遠い目をする村田には、正直、申しわけないかぎりだ。隠そうとしても隠しきれない杏寿郎の嫉妬深さに、駄犬めと眉根だって寄る。伊黒が言う「冨岡絡みの杏寿郎は、器の小ささが着せ替え人形用のティーカップ並み」という言葉にも反論なんてできやしない。
おかげで忘れかけていた不安まで、またぞろかき立てられてしまったではないか。
真菰と錆兎の笑い声や村田のボヤキを聞きながら、義勇は無意識に小さく背を震わせた。脳裏に浮かびかけたのは錆兎たちにも、ましてや杏寿郎には決して教えたくない、隠しごとだ。
アパートに備え付けられた小さな靴箱のなか、押し込めているソレは、少しずつ数を増やしつつある。
本音を言えば、少し怖い。不安は隠しきれない。だけど、逢いたくてたまらないのだ。それに今度の来訪ではちょっと遠出する。なんならどこかに泊まってしまえばいい。きっと大丈夫だ。
錆兎たちに相談してしまおうかと迷うことはある。けれども言葉にするには、ためらいがあった。義勇が抱える怯えは、できればこれ以上誰にも知られたくない。認めてしまうことこそが怖くて、自分でも気づかぬふりをしていたかった。
眩しい日差しが満ちた学食にひびく笑い声は明るい。義勇が抱えた秘密は「せっかくのクリスマスデートなんだからオシャレしなきゃ駄目だよ、私が選んであげる!」と迫ってくる真菰の笑顔に気圧されて、胸の奥底にそっと沈められた。