◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そんなの同棲すりゃ派手に解決じゃねぇの?」
呆れた声で言う宇髄の感想はもっともだ。もちろん杏寿郎だって最初はそのつもりだった。一人暮らしより二人暮らし。同棲。いい響きだ。当然、夢見ている。
けれども。
「義勇が許してくれないのだ……」
「あー……あいつはそうかもなァ」
十一月も末が近づく児童公園は、日が暮れてしまえば子供の姿はない。街灯に照らされた小さな公園は静かなものだ。
缶コーヒーを手にベンチに腰掛けた杏寿郎は、深くため息をついた。
すこぶる体格のいい男三人が並んで座るには、児童公園のベンチはいかにも狭い。けれど木枯らしが吹くこの季節、ギュウギュウとくっつきあうこの狭さこそがちょっとありがたかった。
幹線道路を挟んだ向かいには、杏寿郎たちがアルバイトをしている運送会社がデンッと建っている。個人経営の中小企業ではあるが、そこそこ羽振りはいい。大の猫好きな社長と、無類の犬好きな専務兼奥さんの人柄もよく、バイト先としては大当たりだ。
杏寿郎がここの倉庫で仕分けのバイトを始めたのは、高二の春。義勇が進学のために地方へと引っ越したのにあわせ即バイトを探し始めた杏寿郎に、蔦子が勤めていた運送会社を紹介してくれた。
大学に合格した不死川も似たような経緯で一足先にバイト採用されている。
不死川もこの児童公園で杏寿郎たちと一緒に弟妹連れで遊ぶこともあったから、もともと運送会社の面々とはそれなりに顔見知りだ。そのせいか馴染むのはやたらと早かったらしい。杏寿郎も同様で、この夏までは部活動で忙しくシフトに入れない日も多かったが、肩身の狭い思いをせずにいる。
身近にいる大人はみな本当にいい人たちばかりだとしみじみ思いつつ、道向かいで煌々と光る運送会社の看板を見るともなしに見やった杏寿郎は、手にしたコーヒーをグビリと飲んだ。会社に設置された自販機のコーヒーはブラックが最安値で七十円。遠距離恋愛中でいろいろと物入りな杏寿郎にとっては有り難いかぎりだ。
そんな優良職場ではあるが、休憩になると社員とは別に過ごすことが多い。社員の多くが休憩する倉庫の裏手にある喫煙所は、高校生の杏寿郎には少々難ありなのだ。周りに喫煙者がいないこともあり、タバコの臭いは好かない。自然、向かいにある馴染みの児童公園に足が向かう。
この秋に成人した不死川も喫煙者ではないし、杏寿郎が入る前から休憩時間には公園のベンチで過ごしていたと聞く。バイト初日に誘われるまま喫煙所で休憩したら、自身はタバコなど吸わなかったにもかかわらず、弟妹から「兄ちゃん臭い! 近づかないで!」と避けられたのだそうな。なんとも恐ろしい話ではないか。
弟妹を溺愛する長男にとって、たいそうショックだったのは想像に難くない。まるで真っ白に燃え尽きた某ボクシング漫画の主人公めいたありさまとなった不死川に、宇髄は「そりゃ派手に災難だったな」と笑ったが、杏寿郎にとっては笑い事ではない事態だ。千寿郎から同じ非難を浴びないよう気をつけろとの忠告に従い、杏寿郎も喫煙所には近づかぬようにしている。
千寿郎に避けられるのもつらいが、早朝バイトのあとで新幹線に飛び乗ることも多い杏寿郎にしてみれば、万が一義勇にあらぬ誤解をされたらそれこそ一大事だ。臭いなんて言われキスを拒まれたら、とうぶん立ち直れそうにない。李下に冠を正さず生きたいものである。
そんなわけで寒風吹きすさぶなかでも、公園のベンチで身を寄せ合って過ごすのが定番なわけだが、このところの会話はもっぱら杏寿郎の進路だ。そろそろ受験勉強に本腰を入れねばとも思うが、とくにトラブルがなければ受かるだろうとの模試結果や担任の言葉に甘え、杏寿郎は高三の十一月になってもバイトを続けている。
月に一度、週末に新幹線に飛び乗る生活も、もう一年半が過ぎた。言うまでもなく義勇に逢いに行くためだ。バイトだって新幹線代や小遣いで買うにはちょっと罪悪感を掻き立てられる諸々の費用を稼ぐためである。
本当なら毎週通いたいのだが、義勇が許してくれないからしかたがない。夏までは部活だってあった。学業優先、部活も頑張れ。義勇に言われてしまえば、杏寿郎だって張り切らぬわけにはいかない。
学年十位内を常にキープし、剣道の大会では優勝常連。最後のインターハイではとうとう個人戦で全国優勝も成した。文武両道を地でいく男として後輩の尊敬を一身に集め、同級生にも面倒見の良さから兄貴とあだ名されるほど、杏寿郎は学校中の生徒から慕われている。
だがそんな輝かしい成績の数々が、最愛の幼馴染兼恋人に「えらいな、杏寿郎はすごい」と褒めてもらいたいがゆえだと知る者は、そう多くはない。
恋人だとはさすがに気づいていないだろうが、社長をはじめ運送会社の社員たちにも、杏寿郎が義勇になつきになつきまくっていることは知られている。なにしろここは、蔦子が勤めていた会社なのだ。
親戚には恵まれなかった冨岡姉弟であるが、遠くの親戚より近くの他人というのは事実らしい。遺産を着服していた親戚に、非合法な働き口を蔦子に斡旋するほどのあくどさがなくて幸いだ。安アパートをあてがったあとは勝手に就職先を探せとほったらかされたからこそ、煉獄家とも繋がりが持てたと言えなくもない。
十五歳と五歳で二親を亡くし健気に肩寄せあって生きる姉弟をたいそう不憫に思い、なにくれとなく心砕いてくれる社長がいる会社に勤められたのも、幸運であった。社長も専務も、社員たちも皆、蔦子のことをたいへんかわいがってくれている。
蔦子が寿退社した今でも頻繁に蔦子と義勇の名を会話に乗せているのは、ありがたくも微笑ましい。子に恵まれなかった社長夫妻にとって、蔦子と義勇は我が子とも思い大事に育てるべき存在なのだろう。離れて暮らす今もそれは変わらぬようだ。
小学生のころには、蔦子の退社時間を待ってこの公園で遊ぶことも多かったので、社長たちは義勇のこともよく知っている。となれば、杏寿郎だって顔馴染みなのは当然だ。
面接に訪れた杏寿郎が開口一番社長に言われたのは「よぉ、蔦子ちゃんの結婚式ぶりだな! で、いつからくる?」という、面接ってなんだっけと首をひねりたくなる一言である。
営業部長補佐という肩書の三毛猫を膝に抱いた社長から、履歴書を渡すまでもなく告げられた採用決定。履歴書持参の意味とはと思わなくもないが、採用ならば文句などあるわけがない。
即座に「できれば明日からでも働きたいです! よろしくお願いします!」と笑った杏寿郎に、営業部長を務める柴犬を撫でながら専務が苦笑していた。犬と猫の肩書の違いに二人の力関係が見えるとは、不死川の言である。
ちなみに、不死川も面接内容は似たようなものだったらしい。それもこれも蔦子への信頼あったればこそだと思うと、弟同然な杏寿郎もなんだか誇らしくなる。
めちゃくちゃ時間かけて履歴書書いたのによォと、不死川は遠い目をしていたが、杏寿郎にはピンとこない。履歴書を書いているときに顔をのぞかせた父に「どれ、見せてみろ」と言われ、素直に見せたらゲンコツを落とされたことのほうが解せぬ。
「志望動機に新幹線代などと書く奴があるかっ、この馬鹿息子!」
父は青筋を立てそう怒鳴ったが、正直は美徳だと父も母も言うではないか。嘘も方便とも言われたが。
それを話したらこの場にはいない伊黒にも、なぜ冨岡が絡んだとたんにおまえのIQは一気に下がるんだと呆れられた。杏寿郎からすれば、それこそなぜそんなことを言われるのかわからんと、首をひねらずにいられない。不死川には死んだ魚のような目をされ、宇髄には爆笑された。これまた解せぬ。
それはともかく。
「冨岡のこったから、煉獄が一緒に住んだらなし崩しに家賃だなんだを全部親父さんが払っちまうと思ってやがんだろォ。あとはアレか、引っ越しすんのがめんどくせェ」
「そのとおりだ! よくわかるな、不死川!」
「わからいでか。なんだかんだで付き合いも長ぇしなァ」
不死川の口調はボヤキに近いが、杏寿郎からすれば羨ましいことこの上ない。
小学校からのつきあいである不死川は、悔しいが杏寿郎よりも学校での義勇をよく知っている。小一から高三に至るまで、なぜだかすべて義勇と同じクラスという奇跡を得ているのだ。小中高すべての卒業アルバムには、義勇と不死川が一緒に写っている。
出席番号だってあまり離れてなかったせいか、修学旅行も全部同じ班だ。よしんば杏寿郎が義勇とクラスメイトだったとしても、冨岡と煉獄では同じ班になれたか怪しい。名字一つとっても格段の差だ。
おまけに小学校の登校班だって同じだったのだから、偶然なんて言葉ではおさまらないものを感じざるを得ない。
登園時間より毎朝二十分も早くに母と一緒に家を出て「おはよう義勇! いってらっしゃい! いってきます!」と挨拶するだけの二年間を過ごさねばならなかったと杏寿郎に比べ、不死川は労せず義勇と一緒。なんなのだ、この差は。
杏寿郎が小学校に入ってからは、家を出る時間はさらに十分早まった。毎朝大急ぎで義勇たちの集合場所まで駆けていき、義勇と挨拶を交わして不死川に「登校するあいだ義勇を頼む!」とお願いしたら、自分の集合に間に合うよう駆け戻る。そんな毎日だった。
不死川はあくび混じりに集合時間ギリギリに現れることも多かったので、逢えるかどうかは運次第なところはあったけれども、それはべつにいい。義勇に朝一番に挨拶をする。それこそが肝要だったのだから気にするほどのことではない。どうせ学校に行けば逢えたのだし、いちいち頼み込まずとも不死川が義勇から目を離さずいてくれることぐらい、杏寿郎だってちゃんと知っていた。
ちなみに、宇髄は登校班こそ違えどルートがかぶるそうで、毎朝途中からは一緒だったと聞いている。やっぱり朝に義勇と過ごす時間は杏寿郎よりもちょっとだけ長い。想像するだに楽しい登校風景だ。
なぜ杏寿郎の班だけは違う道なのか。どれだけ悔しがろうと、こればかりは年齢同様に杏寿郎にはどうしようもなかった。一年時は同じ一年のお友達を、二年からは加えて年下の子達を守るという責務を負った杏寿郎が、勝手にほかの班にまじって登校できるわけもない。
毎朝明るく笑って登校していたものの、一刻も早く義勇に逢いたいとほとんど早足になったのは当然だろう。「杏ちゃん待ってっ。早いよぉ」と一、二年生から泣きが入って、謝り倒したことも二、三度あった。……もしかしたら、五度くらいはあったかもしれない。いや、八……十? 年に二、三度のうっかりぐらい誰しもあるものだ。
それはさておき。
思えばなんと涙ぐましい日々だったのか。中学に入るまで一度も義勇と一緒に登校できなかったのを思い返すたび、今でも杏寿郎は「日本の教育制度は恋する者に厳しすぎる!」と天に向かって叫びそうになる。
そんな苦労をせずとも毎日義勇と一緒にいられた不死川が羨ましい。じつに羨ましすぎる境遇ではないか。ちょっぴり妬ましくすら思える。
十五ヶ月違いの杏寿郎は、中学高校は一年ずつしか義勇とともに通えなかったというのに、不死川は十二年間一緒なのだ。これを奇跡と言わずしてなんと言う。
運命とは言わない。口が裂けても言いたくない。けれども縁深いことに違いはないし、不死川はいい奴だ。杏寿郎が同じ学校に通えぬあいだ、誤解されがちな義勇を見守ってくれた。
短気で怒りっぽい不死川は、口下手な義勇に対する苛立ちを隠さない。慣れぬ者には不仲だと思われがちだ。それは今でも変わらないが、実のところやたらと突っかかっていたのは、せいぜい最初の一年だけである。杏寿郎がようやく小学校に入学できた年には、すっかり義勇の保護者っぷりが板についていた。
不死川は子沢山家庭の長男ゆえか意外と世話焼き気質だから、ポヤポヤとした義勇をほっておけなかったのだろう。気持ちはわかる。
ともあれどうあがこうと、杏寿郎は義勇よりも十五ヶ月年下なのだ。ずっと一緒にいたくともそういうわけにはいかない。杏寿郎がいないのは寂しいけど不死川がいてくれるから学校も楽しいと、義勇が笑顔でいられたのだから、文句など言っては罰が当たる。……が、やっぱり羨ましい。
「けどアイツ、大学院に進む気なんだろ? 生活費は姉貴に頼らずバイトで賄ってるっつうし、家賃や光熱費を折半できるのは派手にありがたい話だろうによ。あいかわらず意固地なのな」
「蔦子姉さんにも頼らぬものを、我が家に頼るなど義勇がするわけないからな。だが、意固地というのとは違うぞ! 義勇はとても真面目で義理堅いだけなのだ!」
ハイハイといかにも苦笑めいた声で言う宇髄は、義勇たちとは三つ違いで、同じ学校に通ったのは小学校のころだけだ。中高は義勇たちと入れ替わりである。ほかの誰かならきっと、小学校を卒業すると同時に縁は薄れていたに違いない。
なのに、杏寿郎の従兄である伊黒も含めたメンツで今でもつるむことが多いのは、宇髄自身が杏寿郎たちを気に入ってくれているからだろう。
新進気鋭のイラストレーターとして脚光を浴びている宇髄は引く手あまたで、都心への引っ越しを進められることも多いらしい。都会とはいいがたい街で中古の単身用マンション暮らしなんて、華やかで派手な宇髄のイメージにそぐわないのだそうな。そんな言い分は杏寿郎にはピンとこないが、情報収集と分析力に秀でている宇髄が株取引でも一財産築いているのはよく知っている。弱冠二十三歳であっても宇髄ならば都心のタワマンだろうと自力で購入できるだろう。セレブ生活だってきっと思いのままだ。
それでも宇髄は、お節介な言葉を飄々とした笑みで受け流し、慣れ親しんだこの街でいまだに暮らしている。
今日も今日とて呆れた顔で笑う宇髄が、義勇を案じているのは疑いようがない。当然のことながら、杏寿郎や不死川、このところなにやら忙しいらしくめっきり顔をあわせる機会が減っている伊黒のこともだ。
宇髄は在宅ワーカーだが、住んでいるマンションが近所なため、公園に杏寿郎たちが来たのが窓から見えるとこうしてフラッと現れる。息抜きと本人は言うが、最近は頻度が増えた。杏寿郎の受験が近づいたからだろう。
本当に宇髄はいい奴だなと、杏寿郎はちょっとだけ微笑んだ。
面白がりで事態を引っ掻きまわすこともそれなりにあるけれど、面倒見のいい男なのだ。杏寿郎と義勇の行く末を気にかけてくれているのだとわかるから、杏寿郎も、宇髄には父や母にも言えぬ相談をしがちだ。義勇も同様なのは、少々妬けなくもないけれども。
このメンバーで一番年下なのは言うまでもなく杏寿郎だが、末っ子扱いされているのはむしろ義勇だ。怒りっぽい不死川はしょっちゅう義勇に文句を言っているが、それでも長男らしい世話焼き精神を発揮してなんだかんだと面倒をみているし、みんなの兄貴分な宇髄にいたっては言うまでもない。皮肉屋の伊黒でさえネチネチと文句を言いつつも義勇をかまうから、杏寿郎はうれしくなるのと同時に、ちょっぴりヤキモキしたりもする。
当の本人は頑として認めないが、甘やかされるのに慣れている義勇は、年上の宇髄にはとくになついているのだ。これまた羨ましい。杏寿郎には無条件に甘えてくれやしないのに、宇髄にだけは完全に甘えん坊な弟の顔を見せるなんて、ズルい。
だからなぜおまえは冨岡に関してだけそんなに心が狭いんだと、伊黒には頭を抱えられるが、しょうがないではないか。杏寿郎の義勇馬鹿っぷりは、母曰く幼稚園からの筋金入りだ。
「もういっちょ追加で、煉獄と一緒に暮らしたら毎晩派手に求められて、身がもたないから嫌だ。こんなとこかね」
ブフォッと盛大な音を立て飲みかけたコーヒーを吹き出したのは、不可抗力だ。
「うぉっ! 汚ぇなぁ、おいっ! 大丈夫かよ」
むせた杏寿郎の背中を、宇髄がトントンとたたいてくる。ありがたいが、そもそも宇髄の発言が原因だ。いきなりそういう話を振るのはやめてもらいたい。
「…………宇髄、義勇はそういうことを君に相談しているのか?」
地を這うような声音になったのもまた、やむなしと思いたいところだ。
いつもの面々には杏寿郎の恋心などだだ漏れなので、義勇と晴れて恋人となって以降は、杏寿郎だってなにかと相談している。だから、義勇がよしんば宇髄に杏寿郎とのアレコレを相談したとしても、責める道理はない。
ないのだが、それはどうかと思うではないか。こればかりは杏寿郎の心が狭いうんぬんの話ではない。
宇髄は見るからに美丈夫で頼りがいもあり、信頼の置ける年上の男だ。とにかくモテる。小中高すべてで、宇髄のモテっぷりが伝説めいて語り継がれているほどなのだ。しかも彼女は三人。不誠実だとなじられてもしかたないところだが、彼女たち全員の同意のもとだと言うから恐れ入る。杏寿郎も宇髄の彼女たちとは顔見知りだが、それぞれ個性的でいい人たちばかりだし、三人とも宇髄とは相思相愛なのが傍目にもわかる。
そんな宇髄に、溺愛している恋人が自分の知らぬところで夜の営みについて話しているなど、想像するだけで照れくさいのを通り越し胸が焼けてもしかたがなかろう。
感想や愚痴があるのなら、俺に直接言ってくれればいいものを。義勇が望むならできるかぎり善処するというのにっ!
杏寿郎は胸中でうなる。ほんのちょっぴり落ち込みもする。実際、義勇が待てと言えば杏寿郎は脂汗が流れようと我慢して動かず待つし、無理はけっしてさせていないつもりだ。なのになぜ不満があるなら俺に言ってくれないのかと、不本意ながら少しだけすねたくもなった。
もう無理と訴えられることはあるが、駄目なのか? と悲しく見つめれば、義勇は受け入れてくれるから、同意の上であるのに違いはない。……はずだ。大丈夫。うむ。義勇はもうちょっと加減しろとは言うけれど、怒っていない。……はずだ。たぶん。
「ていうかよォ、宇髄にゴムの通販頼んでる時点で、おまえに文句言う権利ねぇだろ。そんぐらいコンビニで買えや。冨岡相手にそんなに盛れるってのが、俺にゃわかんねぇけどなァ」
少し乾いた笑い声を立てて言った不死川に、杏寿郎はちょっと唇をとがらせた。
このメンツだと少々子供っぽくなるのは、杏寿郎も義勇とどっこいどっこいだ。むしろ、義勇がいると無意識に背伸びして大人っぽく見られようとしてしまいがちなので、こちらのほうが素と言えなくもない。
そんな杏寿郎を宇髄は面白がり、不死川や伊黒は少々呆れつつも見守ってくれているというのが、このメンバーでの通常運転である。
わからんと言いつつ、不死川の顔に嫌悪の色は一切ない。従兄の伊黒だって、毎度まいど眉をひそめはしても、慎みを持てとの忠告だとか杏寿郎の義勇馬鹿っぷりへの呆れのほうが、だんぜん大きい。本当に友人に恵まれたと、杏寿郎は常々感謝している。
「そうは言っても、コンビニで売ってる避妊具では、義勇とその、そういうことをするには、あまり体に良くないと宇髄が言うのだ。義勇の体を損なうような真似はできん。それに、宅配便を受け取るのは母上か千寿郎だ。なにを買ったのかと聞かれても答えようがないのだから、しょうがないではないか」
全国チェーンのドラッグストアで見かけたことはあるが、母の友人がいるレジに持っていく度胸は、さすがの杏寿郎にもない。
少し離れた店でならあるいはと足を伸ばしたこともあるが「あら、先生の息子さん」と、どこに行っても声をかけられる。市内全域に教え子がいる人気講師な母の、顔の広さを甘く見てはいけない。
おまけに県警機動隊所属で剣道の師範を受け持っている父の教え子兼同僚をはじめ、剣道がらみの父の知り合いだって、市内どころか県内どこにでもいる。パトロール中のおまわりさんに捕まって稽古の厳しさについて愚痴を聞かされるのも、日常茶飯事だ。
事程左様に顔の広さを誇る煉獄家の長男である杏寿郎に、隠密行動など無理難題がすぎる。ちょっと買い物に出たら十分に一回は誰かしらに声をかけられ、結局目当ての店にたどり着けなかったことすらあるほどなのだ。目的のブツがブツだけに、万が一購入するところを見られた日にはどこまで話が広まっていくのか、考えるだに恐ろしい。
ついでに杏寿郎自身、剣道の大会などで知り合った学外の知人も多いし、同じ学校ともなれば杏寿郎のことを知らぬ者などたぶん一人としていない。
近所や最寄り駅付近はアウト。新幹線への乗り換え前も、万が一乗り遅れたらと思うと、どうしても躊躇する。義勇が住む街ならさすがに知り合いはいないだろうとも思うが、駅に着けばすでに義勇が改札で待っていてくれるのだ。避妊具を買ってくるから待っていてくれとは言えない。一緒にドラッグストアに行って買うのも無理だ。だって義勇が恥ずかしがるから。
レジに出すだけなら気恥ずかしさもその場限りだが、避妊具を購入するところを誰かに見られるのは勘弁願いたいらしい。
杏寿郎と恋人同士だと知られるのを嫌悪しているわけではない。ただただ恥ずかしいらしいのだ。だから、どうせ筒抜けだろうと家族にもまだ報告はしていない。お互いちゃんと大人になったら、改めてお付き合いしていますと家族にもきちんと報告しよう。そんなふうに話はまとまっている。
それぐらい恥ずかしがり屋ではあるが、見ず知らずの他人に見られるぶんには、マイペースでもある義勇は気にもしていない。この恋を恥じる気持ちは義勇にもないのだ。けれども、知り合いに見られたら恥ずかしさのあまりに憤死しかねないと、義勇は言う。気持ちはわからないでもない。杏寿郎だって誰彼かまわず知られるのは避けたいところだ。だから杏寿郎も強くは出られなかった。
人見知りな義勇自身は友人もあちらでは多くないが、五歳まで両隣に住んでいたという幼馴染たちには友人知人が多い。結果、彼らといつも一緒にいる義勇の顔も自然と知れわたっている。杏寿郎のように気軽に声をかけられることこそないものの、道を歩けば知人に――向こうの一方的なものとしても――気づかれる状況だ。となれば選択肢は残されていないのだ。
「え、男同士じゃゴムも特別製かよ。マジか」
眉唾と書かれた顔を向ける不死川に、宇髄がニヤリと笑う。
「特別ってわけでも男同士専用でもねぇけどな。イソプレンラバーっていってな、そこらのコンビニにあるポリウレタンやラテックスのコンドームよりも、肌に優しい素材なわけよ。直腸ってのは膣と違って単層でかなり傷つきやすいから、なるべく肌に近い柔らかさのほうが安心ってわけだ。潤滑剤も必要なんだし、まとめて買ったほうがちったぁお得だしな。興味あんなら、おまえにも派手にオススメのやつ教えてやろうか?」
「いらねぇよっ! んな相手もいねぇわ!」
「んだよ、あの美人さんにまだ告白してねぇのか。ノロノロしてっとほかの男に取られっかもしれねぇぞ?」
「うっせェ! そういうんじゃねぇっつってんだろ!」
「はいはい、地味にそういうことにしといてやろう」
街灯に照らされた公園に、楽しげな宇髄の笑い声がひびく。子供が遊んでいる時間でなくて幸いだ。たとえ声をひそめようと、純真な幼子の前でしたい会話ではない。というか、とうてい聞かせられない話だ。
騒がしい宇髄たちの声をぼんやりと聞きながら、杏寿郎は無人のブランコを見るともなく見つめた。互いに背を押しあったブランコ。二人一緒に笑いながら滑ったすべり台。鬼ごっこに影踏み、運動会の前にはバトンリレーの練習だってここでした。義勇とだったらバトンパスも完璧だ。何度となく義勇と一緒に遊んだ公園には、そこここに思い出が転がっている。
勝手にゆるんだ頬を見られるのはなんとはなし気恥ずかしくて、少しうつむく。うっそりと握りしめた缶コーヒーは、すっかり冷めていた。
コーヒーをブラックで飲めるようになったのはいつからだったろう。ハッキリとした記憶はない。義勇に関することならば、なにひとつ忘れたものなどないのに。
出逢った日はもちろんのこと、義勇と過ごした日々はすべてキラキラとして記憶も鮮明だ。
義勇に初めて大好きだと言った日。義勇が初めてお泊りしてくれて、一緒の布団で眠った日。義勇と背が並んだ日。全部覚えている。初めてのキスや、初めて眠る以外の目的で同じ布団に入った日にいたっては、金の額縁に入れたカレンダーを飾っておきたいぐらいだ。
忘れたいと願うことだって、本音を言えばなくはない。思い出しただけで叫びだしたくなるような悪夢に似た記憶だって、義勇と過ごした日々のなかにはある。
それでも、そんなつらい思い出さえなにひとつ忘れられないのだ。義勇に関する事どもに、忘れていいものなどなにもない。忘れては駄目だとも思っている。
初めて夢精した日のことだって、その夜に見た義勇の夢とともに杏寿郎は覚えている。思い返すと恥ずかしくて、でも、やっぱり俺は義勇が好きなんだなぁと、ちょっぴりの罪悪感とともに深く実感したものだった。
当然というか、初めて自慰をしたのも、級友に見せられたグラビアと同じポーズをした義勇を想像をしながらだ。
小学校の高学年ともなれば、ませた級友からグラビアやらエロ本なんてものを見せられることはままあったけれど、杏寿郎はまったく興味がなかった。女の人の裸など見ればそれなりにドキドキとはするが、触れたいだとかあまつさえ抱きたいなんて思ったことがない。ほかの男性であればなおさらだ。杏寿郎が興奮するのは今も昔も義勇にだけなのだ。
宇髄と交友を続けられたのは、その点でもありがたい。なにしろ男同士でのアレコレなど、学校の性教育の授業でも教えちゃくれない。
準備の手順から行為中の注意点、使用するのにオススメの避妊具やら潤滑剤にいたるまで、懇切丁寧にレクチャーしてくれた宇髄には、感謝せねばなるまい。もしかしたら大部分は面白がり気質によるものかもしれないが、からかいもせず教えてくれた有り難さに変わりはないのだ。
「おい、煉獄。休憩終わるぞォ」
「もうそんな時間か。俺も戻って仕事しねぇとな。おまえらも地味に頑張れや」
「地味は余計だァ」
「うむ、またな、宇髄! あ、そうだ。その、明日あたり荷物が届くと思うのだが……代金はこれで足りるはずだ」
少し口ごもりつつ宇髄を呼び止めた杏寿郎が慌てて財布から札を取り出すと、宇髄は愉快げに笑い、不死川はなにやら表情筋が死んだ半目開きになった。
不死川や伊黒がよくする表情だが、この顔、ほかにもどこかで見た気がする。杏寿郎は知らずパチリとまばたいた。
感情の読めない虚無顔は義勇もよくするけれど、義勇の場合は、猫がなにもない空間をじっと見ているのに似ている。幽霊でもいるのかと怯えられることもあるが、杏寿郎からすればぼんやりしている義勇もかわいいなと、微笑ましいだけである。
対して不死川の表情はといえば、どちらかというと諦めの境地だ。伊黒もちょくちょく見せる顔である。見慣れた表情だが、なにに似てると思ったんだろう。
思い出せぬもどかしさに首をかしげた杏寿郎は、すぐにポンと手を打った。
そうだ、この前のお泊りで義勇のアパートで見たアレだ。声をごまかすためにつけたテレビに映っていた、アレに似ている。チベットスナギツネだ。
思い出せた爽快感に杏寿郎は知らず笑みになったが、口には出せなかった。さっきの今で交わす会話としては、やはりどことなし恥ずかしくはある。ついでに、壁の薄い安アパートでのあれこれも連鎖的に思い起こされ、我知らず頬が熱くなった。
「了解。ブツはいつもどおりここでわたしゃいいな? 明日もバイト入ってんだろ?」
「うむ! クリスマスの軍資金を貯めなければならないのでな! 今年はちょうど週末だし、千寿郎には申しわけないが義勇と二人きりで過ごすのだ!」
今月は新幹線代だけでなくプレゼント代だって稼がねばならない。それに今年は義勇が免許をとったから、二人でドライブしてイルミネーションを見に行くのだ。
義勇には内緒だが、レストランも予約済みである。もちろん、杏寿郎がおごる予定だ。
俺のほうが年上なんだからと義勇は杏寿郎におごられるのを嫌がるが、ここはこちらの顔を立ててほしいところだ。年上の恋人に甘えきりなど男がすたる。
だいいち義勇だってまだ学生なのだ。学費は早逝したご両親の保険金やら遺産から捻出しているが、家賃や食費といった生活費はバイトの給料でまかなっている。奨学金こそ借りてないものの、絵に描いたような苦学生だ。
住んでいるアパートも、昔蔦子と暮らしていたのと似たり寄ったりな四畳半一間である。ユニットバスがついているぶん、まだマシといったところだ。デート費用ぐらいは彼氏である自分が出さずしてどうする。
まぁ、いつもは声を抑え動きも抑えで隣やら階下を気にしつつなホニャララを、気兼ねなく堪能すべくホテルに泊まりたいなんていう、絶対に義勇には言えぬ予定もあったりするのだけれど。というか、もう予約してるけれども。十八になっててよかった。
うむ、食事代は押し切られて割り勘になったとしても、ホテル代は俺が出さねば。いや、出す! 彼氏として、ここは譲れん! 予約済みだと当日に知れば、義勇だってキャンセルしろとは言わないだろうしな!
胸中で決意の焔を燃やし張り切る杏寿郎に、なにかを悟ったのか、不死川はもはや相槌すら返さない。そのぶんというわけでもなかろうが、宇髄の秀麗な顔にはちょっぴり人の悪いニヤニヤ笑いが浮かんだ。
「へぇ。……頼んだの十個入り? クリスマスにお泊まりなら派手に盛り上がんだろ、足りんの?」
横断歩道へ向かって歩く途中、笑う宇髄からこっそり耳打ちされ、杏寿郎の顔がボンッと火がつく勢いで真っ赤に染まった。歩みだって止まる。
絶句した杏寿郎に、宇髄は今日一番の愉快げな声をたてて笑った。
「ま、頑張れや、恋する青少年。かわいい黒猫と暮らせるよう、派手に祈ってやんよ」
「あー……猫、な。似てなくもねぇかァ。ていうかよ、宇髄が言うと別の意味に聞こえんぞ」
不死川の顔にも苦笑が戻る。真っ赤な顔で固まったままの杏寿郎を振り向き見た視線は、呆れを含みつつもどこかやさしい。
「お、そういやそうだな。さすが俺様、無意識でもうまいこと言うねぇ」
「アホか。ま、そりゃともかく、ありゃ保護しとかねぇと危なっかしいからなァ。首輪つけとくにこしたこたぁねぇか。オラ、仕事すっぞ。甲斐性あんとこ見せてぇんだろォ」
「……うむ! 残り時間も頑張ろう!」
信号が青に変わる。先に渡りだした二人に追いつくべく、杏寿郎は空き缶をギュッと握り駆け出した。
今日は九時までの勤務だ。残りは三時間。倉庫内は底冷えが激しくて暑がりな杏寿郎さえときに震えるぐらいだが、愛しい『黒猫』と過ごす特別な日のためだ、頑張らなければ。
できることなら、春には大切で特別な、大好きでたまらぬ黒猫と暮らせたらいいのだけれど。
ペットではないから飼いたいなんて言わない。杏寿郎は、大好きな黒猫と暮らしたい。一生、一緒に。