にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 1

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 杏寿郎が義勇と初めて逢ったのは、杏寿郎が四歳になった翌日だった。
 お庭で外遊びする時間のことだ。キャアキャアと幼児のはしゃぐ声がひびく園庭の隅で、一人で膝を抱えて座り込んでいる子がいるのに、杏寿郎は気づいた。立てた膝にうずめた顔は見えない。着ているスモックは水色で、男の子だということだけが知れた。
 砂場で今まさに友達と大きなお山を作ろうとしていた杏寿郎は、迷わず立ち上がると、その子に向かって駆け出した。

「きみ! なにをちているのだ? あっちでおともだちとあしょぼう! いまからおやまをちゅくって、とんねりゅをほるのだ! たのちいぞ! いっちょにちゅくろう!」
 笑って声をかけたのに、その子は顔を伏せたまま小さく首を振っただけだった。
 だから杏寿郎は、その子の隣にストンと腰を下ろした。同じように膝を抱えて座り、園庭ではしゃいだ声を立てるお友達を見つめる。
「……なんでここにいるの?」
「うむ! きみがここにいるからだ! ははうえが、こまってる人がいたらやしゃしくしなしゃいといってた!」
 胸を張って杏寿郎が言うと、その子はますますギュッと膝を抱えてしまった。
「こまってない。あっち行って」
 そういう声は怒っているようではなかった。どちらかというと、なんだか悲しそうな声だ。
「こまってないなら、かなちいのか? それならおれがよちよちちてやろう!」
 母はいつも、杏寿郎がしょんぼりとすると、やさしく抱きしめよしよしと撫でてくれる。そうすると悲しい気持ちはゆっくりと溶けていって、杏寿郎はいつだって笑顔に戻れるのだ。
 だから杏寿郎は、隣に座る男の子を小さな手でギュッと抱きしめて、うつむいたままの頭をよしよしと撫でた。
「よちよち、おとこのこは、ないてはだめなのだぞ」
 男の子は、年少さんになったばかりの杏寿郎よりも、ちょっぴり大きかった。それでもなんだか、膝を抱え込んで縮こまっている姿はとても小ちゃく感じられて、消えてしまおうとしているみたいだった。それはとても寂しいことだと杏寿郎には思えたのだ。
 お空は晴れてお日様はピカピカしているし、とても気持ちのいい風だって吹いている。砂場やジャングルジムで遊ぶのは楽しい。なのに誰とも遊ばず隅っこで一人ぼっちでいるなんて、もったいない話ではないか。

「なにがそんなにかなちいのだ?」

 聞いても男の子は答えてくれない。杏寿郎のほうが困ってしまう。けれども放っておくことなどできなかった。だって杏寿郎よりもお兄ちゃんに見えるのに、男の子はとっても悲しげに小ちゃくなっているのだから。

 杏寿郎は、泣いたことがない。いや、覚えていないだけで、もっと小さいころにはそれなりに泣きべそをかくことだってあったのだろうけれども。少なくとも今は、転んだり悲しいことがあったりしても、グッと唇をへの字に噛みしめて泣くのを我慢する。
 男の子は簡単に泣いてはいけない。父や母はいつも言う。だから杏寿郎は泣いたりしないのだ。
 この子も泣いている様子はない。だけども杏寿郎の目には、声を殺して泣いているように見えた。
 杏寿郎は強い子だから、泣いているお友達がいたら守ってやるのですよと、杏寿郎はいつも母に言われている。だからこれは杏寿郎にとって当たり前のことだ。杏寿郎は黙ったままの男の子を抱きしめ撫で続けた。

 男の子の髪は、キラキラとした杏寿郎の髪と違って、真っ黒だ。お習字のときに母が磨る墨みたいに。
 母がお習字するときの匂いが、杏寿郎は好きだ。墨の匂いは母の匂いと混ざって、なんとなく安心する。
 墨とは違うけれども、この子もちょっといい匂いがする。お花みたいな甘い匂いがする髪だ。母の髪と似ている。母と違ってくせっ毛なのだろう。ぴょんぴょんとところどころはねた髪は、見た目よりも柔らかかった。

 どれぐらいそうしていただろう。不意に男の子が小さな声で言った。
「おとうさんとおかあさんが、死んじゃったんだ」
「えっ!?」
 あんまり驚いて撫でる手を止めた杏寿郎に、男の子は、ますます小さく縮こまった。

 杏寿郎はまだ、死ぬということがよくわからない。でもとても悲しいことだというのはわかる。だって死ぬともう逢えないのだ。この子は父にも母にももう逢えないということではないか。

「おねえちゃんも、学校やめてお仕事することになっちゃった。おうちにもいられなくなったから、もう錆兎や真菰にも逢えない。おうちに帰りたい……おとうさんとおかあさんに逢いたい。でも言っちゃダメなんだ。おねえちゃんが悲しい顔しちゃう」

 男の子の声はどんどんと悲しげに震えていく。うずくまる小さな体も震えていた。杏寿郎の胸がキュウッと痛くなる。
 錆兎と真菰というのが誰なのかはわからないけれど、きっと大好きな人たちに違いない。そんな人たちにも、この子は逢えないのだ。
 お姉ちゃんを悲しませまいと、泣くこともできずにいるんだろう。とってもやさしい子なのに、こんなふうに一人ぼっちで悲しい涙をこらえるなんてあんまりだ。杏寿郎もどんどんと悲しくなってしまう。

「おれがいっちょにいてやる! おれのおうちのこになるといい! ちちうえもははうえも、とってもやしゃしいから、だいじょうぶだ!」

 思わず叫ぶように言った言葉は、幼児の思いつきでしかない。だけれども、とっても良い考えに思えた。もちろん、お仕事をしているお姉ちゃんも一緒にだ。杏寿郎の家は大きいから部屋ならある。
「そうちよう! おれはれんごくきょうじゅろう、よっちゅだ! きみのなまえはなんていうのだ?」
 この子が一人で涙をこらえて膝を抱えているなんて駄目だ。そんなの杏寿郎こそが悲しくなってしまう。この子が悲しいときには、杏寿郎が抱きしめて撫でてやるのだ。そうしたらきっと、この子だって笑ってくれるだろう。
 明るく言った杏寿郎の声に、ピクンと男の子の肩が揺れて、そろりと顔が上げられた。

「……冨岡義勇。五歳」

 おうちの人に言わないで勝手にそんなの決めちゃダメなんだよ? ちょっぴり泣きそうな顔で笑った義勇の顔を、今も杏寿郎は忘れていない。

 その日の夜、布団のなかで杏寿郎は母に、とってもすごい秘密を打ち明けた。
「ははうえ、ぎゆうはしゅごいんです、まほうがちゅかえるのです! おほちしゃまとおはなのまほうです。だってぎゆうがわらうと、キラキラちます! おはながさいてるみたいでちた!」
「そうですか。義勇さんはとても愛らしい子ですからね。やさしくしてあげるのですよ?」
「はい!」
 満面の笑みでうなずいた杏寿郎の頭を、母はやさしく撫でてくれた。

 杏寿郎の提案は、残念ながら大人たちには却下されてしまったけれども、義勇をお迎えにきたとてもやさしそうできれいなお姉ちゃんは、義勇と仲良くしてやってねと杏寿郎に言ってくれた。はい! おれがぎゆうをまもってあげます! と宣言した杏寿郎に、うれしそうに笑ってくれたのだ。
 蔦子と名乗った義勇の姉と、母が交わした会話を、杏寿郎は知らない。母がぜひにと誘い、義勇と一緒に家で夕飯を食べたあとも、帰宅した父も交えての蔦子との話し合いは長く続いた。そのあいだ、杏寿郎は義勇と遊べたのだから、文句はない。
 父が懇意にしている弁護士のおじさんが、しょっちゅう家に来ていたのはそのころだ。
 未成年後見人だの遺産の管理だの横領だの、そんな言葉を杏寿郎が知ったのも、もっとずっと大きくなってからだった。
 そのころにはもう蔦子も成人して、義勇と二人で住んでいた四畳半一間の風呂なしアパートからだって引っ越していた。部屋が六畳になりユニットバスがついただけだったが、義勇はとてもうれしそうに、杏寿郎が泊まりに来てもこれで大丈夫と笑っていた。

 本当なら高校一年生だった蔦子が、父や母の勧めにうなずくことなく働き続けたのは、いまだに少し残念な気がしないでもない。
 後見人となった親戚が頼りにならないばかりか、未成年である蔦子たちの保護すらせずに遺産を食いつぶそうとしていたのを思えば、警戒心が騒いでもしかたのないところだ。だが、蔦子が父たちの養子縁組の申し出にうなずかなかったのは、出逢ったばかりの他人でしかない父たちを、信用できなかったというわけではなかろう。生真面目すぎる人なのだ。
 運送会社の事務員として働いていた蔦子は、義勇の学費にと、取り戻せた遺産にもほとんど手を付けずにいたものらしい。大学を受験せず就職しようとした義勇を説得できたのは、父や母よりもむしろ蔦子が見せてきた貯金通帳のおかげだろう。
 心配無用と笑った蔦子は、儚げな容姿であっても肝の据わった女性なのだ。でなければ、齢十五の少女が細腕一つで弟を育て上げることなどできやしない。

 そんな蔦子の弟であるから、生真面目さは義勇だって変わりがない。頑張り屋なのも姉譲りだ。どんなに家族同然だろうとも、煉獄家に頼りきりになったりなどしなかった。水臭いほどに、節度をかたくなに守ろうとする。幼いころからそうだった。
 他人行儀なと思わなくもないが、これはもうしょうがない。口さがない世間の陰口に対する自衛もあっただろうけれど、そういう気質なのだ。
 だからこそ、ためらいがちに甘えられるのがたまらなくかわいくて、父や母は杏寿郎に対してよりもよっぽど、義勇のことを案じていたと思われる。いまだにやたらと義勇を甘やかしたがるのだ。
 杏寿郎は放っといてもまっすぐにたくましく育っているが、義勇は繊細だけど大雑把だし、賢いけれども抜けている。なによりもとにかく愛らしい。うかつに目を離せばどんな危険な目に遭うことか。というのが、父と母の大義名分である。否定はしない。
 そんな義勇であるが、杏寿郎のことを守るのは自分の役目だと思っているフシがある。やけにお兄ちゃんぶりたがるのだ。
 義勇は蔦子と歳が離れているせいもあってか、両親が健在のころにも、冨岡家の小さな王子様といった扱いだったらしい。同い年の幼馴染たちにも弟のように思われていたそうで、お兄ちゃんという立場に多大な憧れがあったとみえる。
 悲しくてつらくてたまらぬ時期に出逢ったせいだろう。生来の人見知りがさらに強くなり、幼稚園での義勇は、杏寿郎の影に隠れがちだった。けれど、杏寿郎よりも歳上だという自負はしっかり持っていたに違いない。杏寿郎のお兄ちゃんとして振る舞おうとすることは多かった。

 とはいえ、同じ年の子にくらべ言葉こそ舌足らずではあったが、元来しっかり者な杏寿郎には、手助けしてやれることなどほとんどない。杏寿郎がナイトよろしく義勇を守りかばおうとするのを、うんうんと素直に聞いてやることで甘やかしていた。……とは、母の見解である。
「ぎゆう! みじゅたまりがあるぞ! ぬれてちまう、こっちだ!」
 と手を引く杏寿郎に、ありがとうと笑って素直についていく姿はたいそう愛らしかったと、母は懐かしそうに笑う。
「義勇さんがいてくれるおかげで、子育てがとても楽です」
 いつもお世話になってと恐縮する蔦子に、母がコロコロと笑って言っていたのは、掛け値なしの本音だっただろう。
 義勇さんはちゃんとうがい手洗いしてますよだの、遊んだ玩具を片付けられて義勇さんはえらいことだの言われれば、杏寿郎だってきちんとせねばと張り切る。
 おばけだって怖くないし、転んでも泣いたりしない杏寿郎だけど、義勇に嫌われるのは怖い。悲しくてつらいに決まっている。嫌われるのは絶対に嫌だ。
 義勇に呆れられたり眉をひそめられたりしないよう、義勇を守る騎士となるべくそれまで以上に良い子にと務めた結果、杏寿郎はまったく手のかからぬ子になった。義勇はおっとりとしているわりには存外気が強いので、深窓の姫君のごとくに守られるつもりなどさらさらないだろうが、気持ちの問題である。

 どれだけ杏寿郎が頑張ろうと、家事能力に関してだけはいかんともしがたかったのだが、それはまぁしょうがない。義勇はそんなことではちっとも杏寿郎を嫌ったりしなかったし、それどころか、杏寿郎よりもできることが俺にもあってうれしいと笑うから、今まで問題にもならなかった。
 千寿郎が生まれてからは、杏寿郎の持つ庇護欲もいや増したものだが、義勇だって負けず劣らずである。千寿郎が家事を好むようになったのは、義勇が率先して母や姉の手伝いをして、家事をまったく厭わなかったからだろう。
 杏寿郎を尊敬してやまぬ千寿郎だけれども、こと家事に関してだけは、母の次に義勇を師と崇め奉っている兆候すらある。
 そんな煉獄家であるから、家電や家さえ無事ならば、杏寿郎の家事音痴もとくに問題にはならなかった。だというのに、ここにきてまさに杏寿郎の破滅的な家事能力こそが、義勇を連れ戻すにあたっての大問題なのだ。
 煉獄家一同が落とすため息は、とてつもなく深かった。