にゃんこなキミと、ワンコなおまえ 1

 煉獄杏寿郎、当年とって十八歳は、猫と暮らしたいと常々願っている。
 級友などに口を滑らせるたび、おまえは犬派かと思ってたと意外そうな顔をされるが、とくに反論する気はない。犬もいい。忠実で健気だ。元気な犬と公園や河原で遊ぶのはきっと楽しいだろう。
 だが一緒に暮らすなら猫がいい。黒くつややかな毛並みの、真っ青な瞳の猫ならば最高だ。むしろ、その猫でなければ、一緒に暮らしたいなど思わない。
 ちなみにごく親しい友人たちに同じことを言うと、なぜだか生ぬるい目で見られるのだが、それはともあれ。

 父が動物嫌いなので、煉獄家では今までペットを飼ったことがない――もとい、モフモフとした生き物を飼ったことがない。千寿郎が幼稚園のころに祭りですくった金魚なら、いる。あれを金魚と呼ぶのは、少々ためらいがないわけではないけれども。
 縁日の屋台ですくった金魚は短命だと聞くが、煉獄家の金魚は言葉どおり水があったのかどんどん大きくなって、水槽に収まりきらずに今では庭の池で飼われている。
 これもう鯉じゃん! 遊びにきた友人は、池の金魚を見るとほぼ百パーセントの確率でそう叫ぶ。
 まぁ、金魚にしてはやたらと圧の強い眼差しやら規格外な大きさはともかく、六年ものあいだ家族の一員としてともにいるのだ。愛着はある。餌をねだってパクパクと口を開ける様子も、それなりにかわいいものだ。
 だが金魚では腕に抱くどころか、撫でてもやれない。しかもいるのは池のなかだ。添い寝など無理難題がすぎる。
 寒い夜ともなれば、杏寿郎は、しなやかな黒猫の体を抱きしめて眠りたいのだ。いや、真夏にエアコンが壊れ汗みずくになったとしても、添い寝する。猫が不満げな顔をしようと、絶対にしてみせるけれども。

 ともかく、杏寿郎としてはともに暮らすのならば、そっけなくて愛想なしな黒猫であるべきと思っている。無愛想だけれど、気がつくと隣に寄り添っている、本当は甘えん坊で寂しがり屋の黒猫。なついた者にしかゴロゴロと喉を鳴らすことはないのがまた、たまらなくかわいい。
 杏寿郎が必ずや一緒に暮らしてみせると心に決意の焔を燃やすのは、そんな猫だ。クールな見た目に反し、ちょっとぼんやり屋さんでわりとドジっ子な黒猫と、是が非でも同じ屋根の下で暮らしたい。
 けれども、煉獄家で一緒に暮らすのは無理だ。
 家族が反対しているわけではない。むしろ、ぜひともうちに来てくれと全員が心から願っている。だが、猫が受け入れてくれないのだ。
 益体やくたいもない世間の陰口など気にすることはないのにと、考えるたびいまだに杏寿郎の不満と怒りは噴出する。猫に対してでは、もちろんない。口さがなく、下世話な好奇心に満ちた世間というやつにである。
 誓って杏寿郎にも父や母にも、悪意や下心などなかった。だというのに、世間はまったくそうは思わないものらしい。以前から何度か出ている話ではあるが、そのたび流れたのはしかたのないことかもしれなかった。下衆の勘繰りであのやさしい猫が傷つけられるなど、杏寿郎だって我慢がならない。
 ともに暮らすことは無理だったが、小さな子猫のうちは毎日のように煉獄家に入り浸りとなっていたので、なんとか杏寿郎も不満を飲み込むことができた。お泊りしてくれることだって多く、一緒の布団で添い寝だってできたのだ。煉獄家でそれが果たせたのは、杏寿郎が小学生のうちだけだったけれども。

 中学に入学した日は、杏寿郎にとって、猫からともに眠ることを拒まれた日と同義だ。むしろそっちのほうが重要である。その夜の衝撃と悲しさを、杏寿郎はいまだに忘れられない。
 あのころはまだ、猫よりも杏寿郎のほうが体も小さかったのに、もう大きいのだからと父や母にまでたしなめられたのは、今もって解せぬ。大きくなれたのは喜ばしいが、猫と一緒に眠れなくなるなら、大きくなんてなれなくていいとさえ思ったものだ。

 ようやくまた一緒の布団にくるまることを、当の猫から許されたのは、杏寿郎がさらに大きくなってからだ。
 具体的には、高校二年生の夏休みである。その夜の泣き出したいぐらいの喜びを思えば――というか、実際に泣いた。猫がオロオロとうろたえるほど男泣きに泣いた。不甲斐なし――こんな夜を毎日のようにと、杏寿郎が切願するのも当然だ。
 だがしかし、実際に煉獄家に猫が身を寄せた場合、子猫ではなくなった今、ふたたび一つ褥で眠るのは、逆に難しくなったと言わざるを得ない。
 それに、夜だけでなく、朝も昼も杏寿郎は猫を抱きしめていたいのだ。家では母や千寿郎にかまい倒され、ちっとも杏寿郎が猫に近づけなくなる可能性が高い。
 否。可能性どころじゃない、確定事項だ。父だって怪しい。なにせ煉獄家の面々は、あの黒猫が大好きなのだから。
 猫は今でもたまに家にきてくれるのだが、そのたび母と千寿郎の浮かれっぷりは激しい。父だってソワソワとする。猫もうれしげに母や千寿郎にかまわれていて、家にいるとちっとも杏寿郎の相手をしてくれやしないのだ。
 たまのことだからかもしれないが、たぶん一緒に暮らしても大差はないだろう。それは寂しい。できれば杏寿郎が独占したいのだ。家では駄目だ。

 だからといって、では家を出ればいいとはいかなかった。なにせ杏寿郎は現在高校生である。学費も生活費もすべて親がかりなのだ。おいそれと一人暮らしなどできるわけもない。
 けれども春がくれば、杏寿郎も高校を卒業する。進学先はそれなりに遠いので、大学生になるのと同時に家を出れば万事解決だ。
 ところが、杏寿郎が一人暮らしをするには、高すぎるハードルが存在した。父や母だけでなく、親しい友人たちもそろって真顔になり、やめておけと言うほどのハードル……いや、もはや今はなきベルリンの壁クラスの難題だ。なにしろ千寿郎さえもが「生き急ぐような真似はやめてください、兄上」と涙声で言う始末である。
 たかが一人暮らしで、この言われよう。あんまりではなかろうか。

 正直なところ、進学先を決めるにあたっても、少々もめたのだ。レベルや学費うんぬんではなく、学校の場所が問題で、だ。
 杏寿郎が進学する大学は、先にも述べたとおり煉獄家から離れた場所にある。県を二つほどまたいだ地方都市だ。家から通うなら新幹線通学となってしまう。
 となれば、大学近くにアパートでも借りることになるのは、ごく当たり前の流れだろう。杏寿郎だってまったく疑っていなかった。
 ところが、それこそが父や母が渋い顔をする原因でもあったのだ。
 父や母曰く。

「アパートが燃えでもしたら、どう責任を取るつもりか」

 だ、そうな。
 心外の極み……とは、口にしづらい。二階以上の部屋なら、階下を水没させる可能性もあるとの言にも、反論は難しいところだ。
 一人暮らしをするということは、家事をすべて自分でこなすのと同義である。まともに生活したかったら、掃除洗濯、炊事もすべて、自分でしなければいけない。
 それこそが、杏寿郎の一人暮らしをみんなが阻止したがる理由だった。

 突然だが、煉獄杏寿郎という男の家事スキルは、ゼロどころかマイナスである。母のお腹に家事能力をすべて置いてきたのだろうとは父の言だ。忘れ去られた家事の才能は、そっくりそのまま弟の千寿郎が持って生まれたように思われるので、眉唾とも言いがたい。
 とはいえ、掃除はまだいい。これだけは杏寿郎だって人並みにこなせる。雑巾がけはむしろ得意だ。
 だが、炊事洗濯になると、苦手どころか杏寿郎はたちまち人間凶器と化す。台所のリーサルウェポン。年上の友人である宇髄が命名した杏寿郎の二つ名に、誰もが神妙な顔でうなずく始末だ。
 包丁を持てばまな板が真っ二つ。火にかけたフライパンや鍋が、天井に届かんばかりの勢いで燃え上がったのも、一度や二度ではない。これならどうだとご飯を炊けば、炊飯ジャーが煙を吹き壊れる。無洗米と水を入れてスイッチを押しただけなのに、なぜだ。こればかりは誰にも解けぬ長年の謎だ。
 それでもどうにか料理ができあがることもまれにあるが、正直、ダークマター以外の何物でもない。

 天国に一番近い料理。食べるな危険。食い物を粗末にすんじゃねぇ!

 杏寿郎が作った料理を前に宣われた数々の言葉には、常にポジティブな杏寿郎ですら粛々と土下座するよりなかった。
 中学のころに友人たちとキャンプに行ったときも、悲惨だった。まだ杏寿郎の壊滅的な調理スキルを知らなかった友人たちとカレーを作ったのだが、できあがった代物ときたら……。杏寿郎が鍋の前にいた時間は、ほんの数分である。なのにどうしてこうなった。
 唖然とする一同を前に、先輩であり友人でもある不死川が脳天に落としてきた拳骨は、かなり痛かった。仲の良い従兄の伊黒にすら、すまんこれは庇えそうにないとさじを投げられたカレーは、なぜだか紫色をしていた。

 そんな諸々の惨劇を経て、誰もが悟るのだ。煉獄杏寿郎に鍋釜包丁を持たせるな。これは煉獄家のみならず、親しい友人全員の総意である。
 巷にあふれるレンジでチンするだけの便利な食品も、杏寿郎にとってはこれまた鬼門だ。
 なぜ、レンジというのは爆発するのだろう。聞いても誰も納得のいく答えを返してはくれない。

 普通は爆発しねぇから!

 最初のうちは誰もが青筋立ててそう言ったものだが、今では誰一人まともに聞いてくれやしないので、謎は謎のままだろう。
 煉獄家の三代目の電子レンジがご臨終となったのを機に、杏寿郎は台所への立入禁止を母より厳命されたため、冷食やチルド食品にも見放された。レンジに触れたのは、小六の二月が最後だ。
 ちなみにそのとき温めようとしたのは……というか作ろうとしたのは、レンジで作れるという触れ込みのフォンダンショコラのはずだが、できあがったのは、なにやら怪しげな泡をブクブクと立てる炭だった。ご臨終した電子レンジも、最後の仕事がこれではやりきれまい。
 作ろうとしたチョコは、買い替えられたオーブンレンジを使用し、当時小学一年生だった千寿郎が作ってくれた。
 新しく我が家に来たのは、新発売の高機能オーブンレンジだ。母が杏寿郎にレンジの使用許可を出した理由は、あまり考えないでおきたい。とりあえず、煉獄家の献立のレパートリーはぐんと増えた。

 では洗濯はどうかというと、煉獄家の脱衣所に現在鎮座している洗濯機は、四代目である。それで察してほしい。
 廊下にまであふれ出た泡で足を滑らせた父が、思い切りすっ転んで足を骨折したその日から、洗濯機には『杏寿郎 触れるべからず』と母直筆の書が貼られている。
 市のカルチャーセンターで講師をしている母の書は墨痕鮮やかで、整然として美しいが、見るたび杏寿郎の眉はへにゃりと下がる。猫が泊ってゆくたびに、じっとその紙を見ているのがまた、いたたまれない。
 口頭で充分ですと、杏寿郎にはめずらしく母に反発したこともあるが、遠い目をして微笑まれただけで終わった。今も洗濯機には、母の手による美しい筆跡で情けなさをかき立てる文言をしたためられた半紙が、堂々と貼られている。
 杏寿郎の手からは白物家電を破壊する電磁波が出ているとは、まことしやかに友人連中がささやくところだ。
 そんな杏寿郎ですら、箒とちりとりを使えばできるのだから、掃除という家事は素晴らしい。杏寿郎が使っても壊れない。アナログ万歳。ありがたいかぎりだ。

 閑話休題。

 さて、台所のリーサルウェポンである杏寿郎が一人暮らしなどすれば、早晩家を焼け出されるか、水浸しになった階下の住人から怒鳴り込まれること必至というのが、みなの共通認識である。両親にしてみればそうそう許可できるものではない。不本意ながら、杏寿郎だってそれは理解している。
 杏寿郎が壊した家電の買い替えだけでも――否、それに加えて台所の修繕もしている――かなりの出費を強いられている煉獄家だ。
 比較的裕福な家庭ではあるが、大食漢な杏寿郎が一人で爆上げしているエンゲル係数も家計を逼迫する勢いだというのに、これでは父も母も頭が痛いことだろう。一人暮らしなどさせて、アパートまで燃やされてはたまったものではないと、考えるのもむべなるかな。
 レンジやら洗濯機やらが壊れるたびに説教はされたけれども、それでも小遣いを減らさずにいてくれた両親は、我が親ながら聖人のごとくに寛容な人たちだと杏寿郎とて思う。感謝だって尽きない。だが、それはそれ、これはこれだ。

「……杏寿郎、人の命は炊飯器やレンジとは違うのだ。買い替えられるものではないんだぞ」
「よもやっ! 人死にが出る前提ですか!」

 最終的な進路を決定する三者面談があった日の夜に、杏寿郎を正座させた父と母が、しかつめらしく開口一番に言ったセリフがこれだ。担任には学力的にも問題ないと太鼓判を押してもらったのに、さすがにあんまりではなかろうか。
 大丈夫ですよとおっしゃった先生の目は、死んだ魚のようだった気もするが、反対されなかったのだから、まぁいい。
 だというのに、諸手もろてを挙げて賛成してくれると思っていた両親から、まさかの反対意見である。ハラハラと覗き見ている千寿郎の視線もなんだか痛い。
「家を出るとなると、今までのように上げ膳据え膳の生活はできないのですよ? ほかの大学では駄目なのですか?」
 母の言うことはもっともだ。けれども杏寿郎にだって引けぬ理由がある。

「無論、あの大学でなければ駄目です! ほかの大学に義勇はいませんから!」
「……少しは建前というものを覚えんか。先生の前でもそんな志望動機を言うとは思わなかったぞ、えらい赤っ恥だ。この馬鹿息子が」

 満面の笑みで高らかに言った杏寿郎に反し、父の声はかなり疲れていた。心外の極みである。
「お言葉ですが父上、義勇が通う大学の偏差値は、けっして低くはありません! 俺が馬鹿では、あの大学に通っている義勇まで馬鹿のように聞こえるではないですか。いくら父上でも義勇への暴言は聞き捨てなりません! 撤回していただきたい!」
「そういうこっちゃないわっ! 誰が義勇のことを言っとるか、馬鹿はおまえだけだ! おまえのその義勇馬鹿もたいがいにせんかと言ってるんだろうがっ!」
「ふむ。義勇馬鹿とは親馬鹿のようなものでしょうか。ならば望むところです! ぜひとも義勇馬鹿を極めたい! いや、極めてみせます!」
 握りこぶしを固め高らかに言った杏寿郎に、父はぐぬぬと唸っている。こめかみの血管が切れそうで、なんだか心配になるほどだ。
「まぁ、杏寿郎の義勇さんへのこれは、手の打ちようがないですから。今さらそこをうんぬんしたところでしかたありません。幼稚園のころからの筋金入りなのは、あなたもご存知でしょう?」
 頭から湯気を立てそうな父にやんわりと言う母は、達観しているのか穏やかなものである。強力な味方を得たかと、杏寿郎は喜悦に頬を緩めかけた。
 けれども、そうは問屋がおろさないとばかりに、冷静な眼差しをひたりと杏寿郎に据えて宣った母の言葉は、杏寿郎をうろたえさせるのに充分すぎた。さすがは杏寿郎を生み育てただけはある。杏寿郎の弱点をよく知っている。

「ですが杏寿郎、あなたのことですから、義勇さんのお宅の近所に住むつもりでしょう? 最悪の場合、義勇さんまで焼け出されてしまうことになります。よいのですか?」
「……そ、それはっ」

 それは困る。いや困るなんてどころでは済まされない。
 義勇が現在住んでいる地方都市は都心と違い牧歌的ではあるが、酔漢や下衆な輩はどこにだっている。義勇を着の身着のままで夜の街に放り出すなど、とんでもない話だ。飢えたオオカミたちの前に仔ウサギを放つようなものではないか。
 もちろん、杏寿郎が義勇を一人きりさまよわせたりするはずもない。義勇に群がるケダモノなど、ひとり残らず滅殺してみせよう。インターハイ優勝の剣道の腕前は伊達ではないのだ。剣術家の家系に生まれたばかりでなく、義勇を守るという大義を金科玉条と掲げている杏寿郎である。義勇を守る戦いに、負けはありえない。
 そうして敵を叩きのめした暁には、義勇はきっと、杏寿郎の胸に飛び込んできてくれるだろう。どんなに危なげない圧勝だろうと、秀麗な眉を心細げに寄せて、怪我はないか無茶をするなと杏寿郎をたしなめるのだ。たとえ百万の敵だろうと、君にかすり傷一つ負わせるものかと笑う杏寿郎に、義勇はちょっぴり頬を染め、馬鹿と甘くなじって抱きしめてくれるに違いない。

 義勇と身を寄せ合い、夜明けを待つ街角……あれ? ちょっといいな。

 コホン、と小さな咳払いが聞こえ、杏寿郎は夢想から現実へと引き戻された。母の視線が痛い。杏寿郎もガラにもない空咳などして、居住まいを正す。
 現実を見よう。義勇がおとなしく守られてなどいるわけなかった。
 争いごとが大嫌いなわりに、義勇は結構手が早いのだ。平手の威力ときたら、杏寿郎でさえ吹っ飛びかけるほどだ。不埒な奴らを地に沈めるぐらい、義勇一人であってもお茶の子さいさいだろう。喧嘩沙汰になれば、杏寿郎とともに大暴れ必至である。
 いや、焼け出された場合、まずは杏寿郎に向かって鉄拳制裁がくだされる可能性のほうが、俄然高いけれども。
 とはいえ、義勇はポヤポヤともしているので、親切ヅラで声をかけられれば、ホイホイと暗い路地裏に連れ込まれてしまう恐れは多分にある。

 うむ、やはり守らねばならん。幼いころからの俺の使命だ。必ずや義勇のそばに行かなければ!

 決意を新たに拳を握りしめた杏寿郎を見つめる母の眼差しから、なんだか凍りつきそうな冷気が漂ってくる。激昂する父よりも、静かな母のほうがよっぽど怖い。
 ブルッと背を震わせて、杏寿郎はそれでも意を決し、深く深く頭を下げた。
「義勇に迷惑をかけるような真似は、死んでもいたしません! どうか同じ大学への進学をお許しください!」
 もはや土下座である。だがかまうものか。矜持やプライドなど、義勇と過ごすバラ色のキャンパスライフの前では塵芥よりも軽い。
「おまえなぁ……同じ大学に入っても、義勇はおまえより二つも上なんだぞ? 卒業してこっちに戻ることになれば、残りの二年間はおまえ一人であっちで暮らすことになるんだ。また離ればなれになるからといって、簡単に違う大学に編入などさせんからな」
「父上、俺と義勇の年の差は十五ヶ月です」
 杏寿郎のズレた返答に、父の眉根がギュッと寄せられた。
「それぐらいどうでもいいだろうが」
「よくありません。二歳差ではなく十五ヶ月差です。二年と十五ヶ月ではまったく違います! いま俺は十八で義勇は十九、一つしか違いません! なのに学年は二つも離れてしまう……早生まれという日本の教育制度には多大な欠陥がある! せめて飛び級制度を組み入れるべきだと俺は思う! 父上もそう思われませんか!」
 杏寿郎の主張は、もう何度目なのか。杏寿郎としては何度訴えても言い足りないが、父にとっては耳にタコだろう。いかにもげんなりとして見える。
 だが、そこは間違えないでもらいたい。二月生まれの義勇はたしかに杏寿郎よりも二学年上になるけれど、生まれ年は一つしか違わないのだ。杏寿郎にとって、九ヶ月の違いは些細ではない。
 義勇が二つ年上になるのは、五月にある杏寿郎の誕生日までの、三ヶ月きり。一年のうちのたった四分の一である。なのに二学年差。解せぬ。
 おかげで中学も高校も、一緒に通えたのは一年きりだ。なんともやるせないことこの上ない。
 それでも別の学校に進むなどという選択肢は杏寿郎にはなく、高校受験の際にも、義勇が通っているという理由で今の高校に決めた。就学中に飛び級制度が制定される僥倖に恵まれた場合を考え、成績だって上位をキープしている。
 結局高校を卒業するこの年になっても、日本の教育制度が変わることはなかったが。
 あぁ、一緒にいられる時間が多い上、帰りも一緒だった幼稚園のころはよかった。

「わかったわかった! おまえのそれはちっとも変わらんな。だが、十五ヶ月の差はどうしようもないだろうが。義勇が卒業したあとはどうするつもりだ」
「それに関しては、心配無用です! 義勇は院に進んで、公認心理師の資格を取る予定なのです。修士課程修了はちょうど俺の卒業と重なりますから、四年間同じ学校です! ……それに、もし義勇が院に進まなくとも、あちらには蔦子姉さんもいますから。義勇があちらで就職する可能性は高い気がします……」

 最後の言葉はシュンと肩が落ちた。一緒にいられる時間が増えるのはいいが、そうなると父が言うように、結局は離ればなれになってしまう。
 杏寿郎は煉獄家の嫡男だ。ごたいそうな家系でもないが、それなりの旧家には違いない。跡取りである杏寿郎が、家から遠く離れて就職するというわけにもいかないだろう。
 けれどもそんなしがらみなど、義勇には関係ない話だ。

 杏寿郎のいるこの街で暮らすという選択肢は、義勇にはないのかもしれない。いや、よもやそれはあるまい。いやいや、義勇は将来を決める大事な選択に、情を挟むことなどないだろう。いやでもそれはどうなんだ。将来というなら杏寿郎の存在は重要なファクターなはずだ。……はずだが……義勇のことだから、楽観は許されない。義勇の思考回路は時に突拍子もない方向へ進むのだ。

「うぅむ……たしかにそれは言えるな。蔦子ちゃんが幸せになってくれたのはよかったが、義勇までいなくなったままでは、寂しいかぎりだ。できれば戻ってきてくれるといいが……」

 腕組みしてしみじみと言う父は、すっかり杏寿郎の進路など頭から抜け出ている。父もしょせんは義勇とその姉である蔦子に甘いのだ。
 不遇な境遇にあった健気な姉弟を、なにくれとなく面倒を見てきた父と母にとっては、二人も我が子同然である。嫁入りの際にも、結婚式をする余裕はないからと遠慮するのを説き伏せ、ならば我が家で昔ながらの式をすればいいと、質素ながらも式を挙げさせ送り出したほどだ。

 母が嫁入りに着た打ち掛けをまとった蔦子は、とてもきれいだった。

 父と母を二人目のお父さんとお母さんと呼び、ありがとうございましたと泣きながら笑った蔦子の顔は、今まで杏寿郎が見たなかでも、一等幸せそうだった。意外と涙もろい父はもちろん、常に冷静な母でさえ涙ぐんだのは言うまでもない。
 杏寿郎だって泣いた。ほんの少し寂しくて、でも、途方もなくうれしくて。
 幼稚園のころに出逢ってからずっと、蔦子姉さんと呼び慕っていた人である。蔦子も杏寿郎のことを義勇と同様にかわいがってくれていた。杏寿郎にとっては実の姉とも思い、幸せになってほしいと願っていた人なのだ。
 やはりうれしそうに泣く義勇と手をつなぎ、新郎と並んで盃をかたむけるお雛様のような蔦子を、きれいだな、よかったなと泣き笑い見つめたのは、ほんの一年前のこと。桜が舞う四月のとある日だった。
 生まれ故郷に住む幼馴染と交際を続けていた蔦子が、長すぎる春のすえに結婚したのは、義勇の大学進学と同時だ。結婚を機に仕事をやめ生家のあった地へと蔦子は嫁ぎ、義勇も同じ地に移り住んだ。
 新婚家庭に同居はせず、大学近くにある四畳半一間の築六十年になるアパートで、現在義勇は一人暮らし中である。蔦子や義兄が遠慮するなと言っても、意外と意地っ張りな義勇はがんとしてうなずかなかったので。
 
 義勇の一人暮らしについて、反対意見がなかったとは言わない。義勇はけっこう抜けているところがある。ポヤポヤとして春の陽だまりのような人なのだ。
 とはいえ、幼稚園のころから蔦子が残業で遅くなるときには、煉獄家で蔦子の帰りを待っていたから、義勇は母の薫陶よろしく料理だってお手の物である。だから杏寿郎と違って、義勇の食生活については誰も心配などしていなかった。
 一緒にお手伝いした杏寿郎はといえば、握りつぶした玉子で台所を玉子まみれにし、ピーラーでじゃがいもの皮をむけば血まみれの小さな欠片になる有り様で、そうそうにお膳を拭くぐらいしかお手伝いさせてもらえなくなったが、義勇は順調に料理の腕前を磨いていったものだ。
 おかげでお姉ちゃんの手助けができるとうれしげに笑う義勇には、母も物静かな顔の下でメロメロになっていたに違いない。今も義勇が来ると、いそいそと義勇と一緒に台所に立ち、義勇の好物である鮭大根を食卓に乗せる。というか、義勇の来訪時には義勇が恐縮するぐらい、義勇の好物だらけの夕飯になるのはいつものことだ。

「ご両親のお墓もあちらにありますし、蔦子さんもいるとなれば、あちらで暮らす可能性は高いでしょうが……ですが、義勇さんがあちらで暮らしていたのはほんの五歳まででしょう? 知り合いはほとんどこちらにいるのに、なにかあったら頼れる方はいらっしゃるんでしょうか」
 ホゥッと少し悩ましげなため息とともに言った母に、杏寿郎の目がカッと見開いた。
「それです! たとえ生まれ故郷といえども、義勇の友人はみなこちらにいますし、なにも家を継ぐわけではない! 義勇だってまだあちらに骨を埋めると決めたわけではないはずです! だが義勇は父上や母上もご存知のとおり、遠慮がちで慎ましい……少々強引にでも迎えに行ってやらねば、遠慮し続けいずれは通り一遍なお付き合いなんてことにもなりかねないではないですかっ! それは絶対に阻止しなければなりません!」

 遠い親戚のようなつきあいになるなど、まっぴらごめんだ。それは杏寿郎のみならず、煉獄家の総意でもある。
「兄上、義勇さんは今よりもっと遊びに来てくれなくなるのですかっ!?」
 心配げにチラチラと部屋を覗き見ていた千寿郎まで、泣き出しそうに杏寿郎へと詰め寄ってくれば、場は妙な緊迫感に包まれた。
「……説得できるか?」
「猶予は四年間もあるのです、必ずやしてみせます!」
「ですが……杏寿郎、あなたの一人暮らしについてはまた別です。義勇さんにおんぶに抱っこというわけにはいかないのですよ。義勇さんの生活に支障をきたすような真似は、この母が許しません」
「ぅぐ! ……わ、わかっています!」
「義勇は杏寿郎の世話まで一手に引き受けかねないからな。あの子は本当に気立てがいい」
「せめて杏寿郎にもうちょっと生活力があればよかったのですが……」
「大丈夫です! 特訓して、俺だって四月までには鮭大根を作れるようになってみせます!」

「それはやめろっ! 家を燃やす気か!」
「台所は立入禁止と言っているでしょう!」
「兄上、義勇さんのところに行く前に天国に逝ってしまいますよ!」
「……よもや、そこまでか」

 一同そろって、ハァッと深いため息をつく。もはや杏寿郎の進路がどうこうという話ではない。議題はすでに、いかに義勇をこちらへ呼び戻すかにシフトしている。が、誰も気づかない。というか、あえて無視している始末だ。

 ここまで杏寿郎を……というか、煉獄家の面々を駆り立てる、義勇という人物。いったいいかなる者かと問われれば、杏寿郎は、世界で一等麗しい人だと胸を張って答えるだろう。
 冨岡義勇、御年十九歳の大学二年生。杏寿郎にとっては幼馴染ということになる。
 見目麗しく高潔な心根の、生真面目を絵に描いたような好青年だ。いかんせん口下手で、無愛想もここに極まれりといったまるで置物のような佇まいだけに、誤解されることも多々あるが、とてもやさしく思いやり深い人でもあった。
 少なくとも、幼いころから義勇をよく知る煉獄家の面々にとっては、愛さずにはいられない人物である。
 つけ加えるならば、杏寿郎にとっては、初恋の人でもあった。
 齢四歳での初恋は、高三も終わる現在にいたっても継続中だ。むしろ年追うごとに想いは深まるばかりである。
 さらに言えば、目下絶賛遠距離恋愛中の――高校生の杏寿郎にとっては、県二つまたいだだけでも充分遠距離だ――恋人でもあった。一応、父や母には内緒ではあるけれども。どうせ筒抜けだが、一応、内緒なのだ。だって義勇が恥ずかしがるから。