きっと寂しくて、熱い掌

 ガチャッとオートロックのドアが閉まる音がして、義勇はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 空調の効いた室内は快適な温度で、柔らかな布団にくるまれた身は寒さなど感じるわけもないのに、ひどく寒い気がした。
 小さく長いため息をつき、義勇はノロノロと起き上がった。意識を失っているうちに清められた体に、不快感はない。ひりつく陰部や、腰のだるさはいかんともしがたいが、もう慣れた。
 見まわしたところで、室内には誰もいないと知っている。杏寿郎はけっして義勇が目を覚ますまで部屋にいたりしない。抱きしめあって眠ったことなど、一度もなかった。
 億劫がる足を叱咤してベッドを降りると、義勇は、放り出されたままのジャケットを拾い上げ、窓際に置かれたテーブルへと近づいた。ソファに腰かけ、置かれた札をぼんやりと眺める。
 愛人という名目だから、金を支払われるのは当然だ。無造作に置き去られた金額は、義勇が経営する喫茶店のひと月分の純利益より多い。
 フッともう一度ため息をこぼし、義勇は緩慢な動作で紙幣を一枚手に取った。
 タバコを吸う姿など一度も見たことがないが、禁煙の部屋を選ばないでくれたのがありがたい。テーブルに置かれた灰皿を引き寄せ、義勇は、ジャケットのポケットからライターを取り出した。
 ライターの火に万札の端をかざせば、すぐにメラメラと燃えて、黒く燃え尽きひらひらと灰皿に落ちていく。
 火災報知器が鳴らぬことを祈りつつ、一枚一枚、義勇は置かれた紙幣を燃やしていった。呼び出された夜にだけ繰り返す、杏寿郎には秘密の、忘れてはならぬ義勇の習慣だ。
 破り捨ててもいいが、あやしい想像をかきたてるゴミを残されては、清掃員が困るだろう。持ち帰るのはまっぴらだし、誰かにやる気もなければ、燃やすしかない。

「……騙したいなら、もっとうまく騙せ」

 つぶやく声は、義勇自身の耳にも苦笑めいて聞こえた。
 ただの気まぐれだ。女ばかりでは飽きるから、たまに男の義勇にも手を伸ばす。それぐらいの軽い遊び心でしかない。
 そう何度も自分に言い聞かせなければ、義勇は、かまわないから本音を言えと杏寿郎に詰め寄ってしまうに違いなかった。


 再会したその日、杏寿郎の立場を、義勇はすぐに理解した。

『やぁ、冨岡先輩。久しぶりだな……逢いたかった』

 傲岸不遜を装い笑う顔は精悍な獣のようで、中学のころのあどけなさが残る顔つきより、ずいぶんと研ぎ澄まされて見えた。皮肉げな声で紡がれた文言は、それでも、差し挟まれたわずかな沈黙のせいで、杏寿郎の動揺と嘆きを如実に義勇へと伝えてきたものだ。
 逢いたかった。その言葉こそが、再会してから今日まで杏寿郎が口にした言葉のなかで、唯一の本心だ。それを義勇は疑わない。
 逢えない、逢ってはいけないと己を律してきても、心から離れなかったであろう願いが、そのたった一言には込められていた。
 嘘が下手だ。義勇は唇だけでかすかに笑う。
 シニカルで獰猛な笑みを装っても、杏寿郎の瞳は、いつだって義勇を映し出すときかすかに揺れる。まるで、泣き出しそうに。俺に関わらないほうがいいと告げてきた、中学のときと、同じように。

 馬鹿だなと、義勇は胸の奥で独り言ちる。あれほど熱く見つめられても気づかぬほど、抜けてなどいないと、少しばかりむくれたくすらなった。
 もう一つ言っていいなら、馬鹿な上に、杏寿郎は鈍感だ。なぜ義勇があんな馬鹿らしい提案にうなずいたのか。触れてくる手を一度も拒まずにいるのか。もしも、一回でもあの電話番号にかけてくれたなら。もしも義勇の喫茶店に、ちゃんと客として訪れてくれたなら。その理由を杏寿郎ならすぐに理解するだろうに。
 もしかして連絡があるかもと、一人暮らしとなった今でも義勇は、当時の電話番号を手放せずにいる。再会した今となってもだ。
 スマホしか普段は利用することがないのに、固定電話の基本料金を支払い続けるのは、無駄でしかない。だいいち、姉と暮らしていたころから使用している電話は、いまだに望む人からの声を伝えてくれやしなかった。
 ようやく鳴った電話は、昔教えた番号ではなく、新たに聞き出されたスマホのほうだ。それでも、やっぱり固定電話を解約する気にはなれないのだから、俺も馬鹿だと義勇はなおも唇を歪める。

 だって、待ってるからと約束した。返事はなくとも、義勇は杏寿郎に誓ったのだ。
 だから、待ってる。いつまでだって。ずっと、待ってる。
 喫茶店のメニューには、さつまいもプリン。味はこれからだって磨いていくつもりだ。いつか、うまいとの評判を聞きつけて、杏寿郎が食べにきてくれるかもしれないから。

 灰皿のなかには、黒い炭になった紙幣がたまっていた。残り一枚を燃やしきったら、ベッドに戻ろう。義勇はぼんやりと考える。
 どうせ眠れやしないが、横になっているだけでも疲労が少し和らぐ。明日は、週イチの休業日だ。いつもどおり、チェックアウトギリギリまでいても問題はない。
 ただの気まぐれで自分勝手に呼び出す愛人だというのなら、相手の都合など考える必要はないはずだ。なのに、杏寿郎から連絡がある曜日は、必ず決まっていた。義勇の店は水曜が定休日だ。杏寿郎は、火曜の夜しか、義勇を抱かない。
 騙していたいと杏寿郎が願うのなら、騙されていようと義勇は思う。それで杏寿郎が、あのときのように消え去らずにいてくれるなら、騙され続けてみせようじゃないかと、黒い灰に誓う。
 それでも。
 それでもいつか、アパートの部屋でひっそりと沈黙したままの電話機が、もしも呼び出し音をひびかせたのなら。
 もしもまた、義勇が作ったプリンを、杏寿郎がうまいと笑って食べてくれたのならば。
 義勇は、今際の際にいようとも、遅いぞと笑ってやるつもりだ。

 ハァッとまたため息をつき、立ち上がろうとした義勇は、ふと、熱い手で頬を撫でられる感触を思い出し、なんとなく窓へと視線を向けた。
 義勇の習慣が置かれた紙幣を燃やすことなら、杏寿郎の逢瀬での習慣は、眠る義勇の頬に触れることだ。そして、その手がためらいがちに首元に触れかけ、握りしめられるのも。
 食い入るように喉ばかりを見つめるからか、薄目でうかがっていても杏寿郎に気づかれたことはない。少なくとも義勇が、気づかれたと焦った覚えは、一度もなかった。
 窓の外はまだ暗い。真夜中の空にひらひらと、白い粉雪が舞いだしていた。
 知らず義勇はブルリと背を震わせる。杏寿郎の熱い掌を思い出したせいか、目に映る光景はより寒々しく感じられた。

 騙すことしかできないのなら、いっそ、その手で。
 ナイフも、銃も、使わないでほしい。その大きな手で、自分の手で、殺して。
 絶えていく義勇の脈動を、冷えていく体温を、途絶える呼吸を、感じながら。
 そのときには、必ず自分もたくましい首を締め返すのだと、義勇は心に誓う。
 杏寿郎を、一人にしないよう。一緒にと笑って言うのだと、心に決めている。
 願っても杏寿郎の手は、いつでも握りしめられるけれど。

 今際の際の際まで電話が鳴らぬのであれば、いっそあの手で終わらせてほしいと、夜の終わりに黒い灰を見つめて、義勇はいつでも一度きり願う。あまり強く願いすぎると、うっかり口に出てしまいそうだから、いつだって一度だけ。
 もしも、その手で殺してと願いを口走ったのなら、杏寿郎は、逆に自分自身を終わらせてしまいそうで怖い。義勇を殺してくれもせず、義勇に殺されてもくれず、必死に周囲の者や義勇を騙そうとして、自分で自分を終わらせてしまう。そんな気がして怖かった。
 だからいつでも義勇は、寝たふりをする。杏寿郎の手が頬に触れることも、首に伸ばされたその手がこらえるように握りしめられることも、気づかぬふりで。たとえようもないほどに甘くささやかれる、おやすみの一言にも、知らぬふりを押し通す。

 灰皿に積もった黒い灰を、空へとまいてしまおうか。舞う雪を見るともなく眺めながら、義勇はその光景をほのかに思い描く。悲しい夜の残滓など、風にさらわれどこか遠くに飛んでいけばいい。二人が寄り添いあうことを許してくれぬなにもかもを、白く、白く、埋めつくしてくれと密やかに願う。
 想いあう心が、黒い灰となって燃えつきる前に、あの白い雪が舞う、空へ。
 願いながら、義勇の唇が知らず紡いだ声は、やわらかい。

「煉獄、寒くないといいけど」

 そっと自分の頬に触れてみた義勇の手は、冷たい。杏寿郎の掌の熱を、忘れそうになるほどに。寂しくて、寒いから、義勇はそっと目を閉じる。熱を帯びた固い掌を思い出しながら。
 閉ざされた視線の先、白い雪は、静かに降り続いていた。