きっと寂しくて、熱い掌

「愛人契約、か……。よもや、君がうなずくとは思わなかったぞ、冨岡」
 密やかな声は、苦笑よりも泣き言めいて杏寿郎自身の耳には聞こえた。
 胸に秘め続けた忘れ得ぬ初恋の人を、こんなやり方で手に入れたのは自分だろうに。それ自体を嘆くなど、度し難い愚か者だと己をあざ笑う。

 営業妨害をやめてもいい。その代わり、俺の愛人にならないか。期限は、そうだな、俺が飽きるかくたばるまで。

 ふざけるなと怒鳴られたかったのかもしれない。自分は一生忘れられないし忘れたくないが、義勇からは、忘れ去られたかった。中学のころ、冨岡先輩はすごいな、こんなにうまいものを作れるとは! と、瞳を輝かせて笑った自分など、ひとかけらも残さず忘れてほしいと、杏寿郎は心の底では祈るように願っていた。
 忘れてほしかったから、電話は、一度もしなかった。何度も見返したノートの切れ端に書かれた数列は、今もそらんじられるけれど。
 もう、歩む道は遠く離れた。重なり合うことはない。ならば、いっそ軽蔑されてしまいたかった。二度と不用意に近づいてなどこないように。義勇がけっして母のようにならぬように。

 けれど、義勇はうなずいた。杏寿郎は、思いがけず手に落ちてきた片恋のかけらを、冗談だと笑って手放してやれなかった。
 だから一年経った今も、いびつな関係は続いている。

 特別な存在だと誰にも知られぬよう、マンションなどを買い与えることもなく。逢うのはせいぜい月に一度あるかなしか。部屋にも行かない。一晩気まぐれに抱いて、しばらくは思い出すこともない。そんなふりを続けている。
 義勇の真意を杏寿郎は知らない。知ろうとも思わなかった。愛だとか、恋だとか。そんな密やかで甘く、熱い想いを、互いに分かち合うことなどできやしないのだ。もしも、義勇のなかにも杏寿郎と同じ熱があったとしても、それを知るのは怖かった。
 知ればいっそう手放せなくなる。月に一度どころか、ほかの誰もその瞳に映し出せぬように、毎日毎晩抱いてしまいそうだ。義勇を檻に閉じ込めるなど、したくはないというのに。
 それでなくとも、杏寿郎の立場は、今もって盤石とは言いがたいのだ。残照でしかない親の七光りにすがる、たかが二十七歳の若造だと杏寿郎を侮る者は、いまだ枚挙にいとまがない。義理人情など一銭にもならぬと、杏寿郎の方針を敵視する者は、幹部にだっている。義勇が弱みになり得ると知れば、組内にだって、義勇を害そうとする輩がいないとはかぎらなかった。
 組の中でも外でも、敵は、虎視眈々と杏寿郎の喉笛を切り裂く隙を狙っている。
 少なくとも、シガラミだらけのこの身から解放されるそのときまで、杏寿郎が本当に伝えたい言葉を口にすることはないだろう。今際いまわきわに、誰にも聞かれぬよう口にできたら御の字だ。
 静かな義勇の寝顔を見下ろして、杏寿郎は、もう一度白い頬に手を伸ばした。頬に触れたかった手は、我知らず首元に伸ばされていた。

 いっそ、このまま。すべては手に入らず、手放すこともできず。いつか理不尽に奪われるのではと、怯えるぐらいなら。
 いっそ。いっそ、この手で。

 杏寿郎は、義勇の肌に触れることなく、グッと拳を握った。掌に爪が食い込むほど強く。
 夜明けはまだ遠い。義勇の寝顔は安らかだ。誰もいない家庭科室で、ひっそりと寄り添いあえたころのようには、笑ってくれずとも。
 一度なすりつけられた悪評は、今もまだ客足を鈍らせ、喫茶店の経営はけっしてうまくいっているとは言えぬ状況らしい。それでも義勇が提供する料理やコーヒーの味は、口コミで少しずつ広まってきているようだ。地上げの失敗で太いシノギは失ったが、義勇が微笑みながら客にコーヒーを差し出す姿を想像すれば、そんな未来を奪い取ることはできやしなかった。

 ひっそりと息を吐きだし、杏寿郎はベッドに背を向けた。
 義勇を一人残して杏寿郎が部屋を去るのは、いつものことだ。ともに朝を迎えたことなど一度もない。体にしか興味はないし、それすら月に一度のつまみ食いでいい程度だと、誰からも思われたい。義勇本人にも。
 心の底からの忠誠を信じられる腹心の要にだけは、義勇の安全を最優先しろと伝えてある。それだけで杏寿郎の真意を悟れるだけの才覚も、要にはあった。義勇以外の愛人の送り迎えも、異を唱えることなく努めてくれている。
 傍目にわかる特別扱いは、わずかにでもしない。それが、義勇を守る盾になる。

 杏寿郎は無言のまま脱ぎ捨てられたスーツを手にすると、財布から十数枚の札を取り出した。
 窓際にあるテーブルに置いたら、今宵の逢瀬は終わりだ。百万だ二百万だと手当の額を競う女達とくらべ、義勇に与える額は段違いに少ない。月に一度もあればいい関係で、大枚を渡すのはためらわれた。
 それでなくとも、人を食い物にして得た金だ。杏寿郎が汗水たらして稼いだわけではない。そんな金を義勇に渡すのだと思うと、忸怩とした思いが腹の底からこみ上げるが、義勇から文句をつけられたことは、一度もない。

 最後に一度だけ。願いに突き動かされ、杏寿郎はベッドに戻ると、義勇の頬に恐る恐る触れた。
 義勇は杏寿郎より体温が低い。少しヒヤリとして感じられる肌は、いつでも杏寿郎の愛撫で熱を帯びていく。今夜もその熱は杏寿郎の掌にたやすく馴染んだ。
 けれども眠る今、狂乱の熱はすでに去っている。己の熱が彼の肌身を焼き尽くす前に、手放せてやれたらいいのだがと、杏寿郎は胸の片隅で、果たせそうにない願いをかすかにつぶやいた。声にはしない。
 代わりに口にしたのは、ありふれた一言だ。

「おやすみ……冨岡」

 そろりと手を離したら、もう杏寿郎は振り返らなかった。
 静かに身支度を済ませ、部屋を出る。
「車を回せ」
 電話で伝えるのは簡潔な一言。エレベーターを降り、ロビーを抜け出れば、すでにベンツは横づけされていた。
 すぐに後部座席のドアを開けた要に鷹揚にうなずき、乗り込む寸前、杏寿郎はふと空へと視線を投げた。真夜中の空は、厚い雪雲に覆われている。
「……降らないといいが」
「安全運転でいきます。お任せください」
 目覚めた義勇を送り届ける際の事故を、心配したと思ったのだろう。無意識の独り言に、要が控えめな声で告げた。
「うむ、要なら安心だ」
 フッと笑って言うと、杏寿郎はシートに深く身を沈める。
 雪は、杏寿郎からなにかを奪っていく。横たわる母と流れる深紅。やせ衰えた父の体。叫び出したいような喪失感を、杏寿郎は無理やり閉じ込め生きている。今度は誰かから自分自身が奪い取りながら。
 もう、なにも奪わないでくれと神に願い、すでに汚れたこの手をあわせたところで、無意味だろう。
 だからもう、杏寿郎は神には祈らない。願いを託したりしない。
 奪われないために、守り抜く。どれだけ苦しく、心を切り刻まれようと手放せないのなら、自分の命尽きるその日まで。
 静かに車は走る。義勇が眠る場所から遠ざかる。

 今年最初の雪がひとひら、対向車の眩しすぎるライトが目を焼くなかで、ゆっくりと舞い落ちていくのが見えた。