きっと寂しくて、熱い掌

 残滓をすべてかき出せたのを確信して、杏寿郎はようやくシャワーをとめた。義勇を起こさぬよう慎重にしつつも、体が冷える前にと手早く済ませる手付きは慣れたものだ。
 義勇の眠りは深い。体を拭いバスローブを着せるあいだも、目覚めることはなかった。
 疲れているんだな。思いながら杏寿郎は、汚れたシーツを取り払ったベッドに、義勇をそっと横たわらせる。初めて逢ったころよりずっと大人びた義勇の頬を、杏寿郎の手が静かに撫でた。
 義勇が寂れた喫茶店のオーナーを引き継いだのは、昨年だ。口下手な義勇にとって、いきなり降って湧いた客商売は、いまだに慣れないのだろう。三十路が近づく男にしては破格にきめ細かくなめらかだった頬は、少し荒れていた。
 小五のころから姉と二人暮らしだった義勇は、働く姉の代わりに家事をすべく、中学時代から家庭科部に女子に混じって入っていただけあって、料理はお手の物だ。修学旅行の土産を持って、冨岡先輩のおかげで助かったとアパートを訪れた杏寿郎に、義勇が振る舞ってくれたさつまいもプリンとやらが、蕩けそうに美味だったのも杏寿郎は覚えている。
 あの日、義勇が杏寿郎に気づいたのも、その先の調理室に向かう途中だったかららしい。義勇は、煉獄杏寿郎の名を、知っていた。

『だからなんだ? ヤクザなのはおまえじゃないだろう? ご両親のことは、煉獄自身には関係ないことだと思うが』

 俺とあまり関わらないほうがいいと、少しだけためらいながら告げた杏寿郎に返された義勇の言葉は、いかにも不思議そうだった。
 やっぱり杏寿郎は泣きたくなって、でも、今度の涙の理由は、わかっていた。
 うれしかった。本当は、背負ったものではなく自分自身をまっすぐに見つめてほしかったのだと、初めて杏寿郎は気づいた。誰かに、おまえはおまえと笑ってほしかったから、泣きたくなるのだ。
 それが義勇であったことを、杏寿郎は、今も深く感謝しているのと同時に、どうしようもなく後悔している。

 我ながら未練たらたらな手をどうにか律し、杏寿郎はゆっくりと義勇の頬から手を離した。朝まで抱きしめて眠りたいとの願いを自分に許すことは、今夜もできそうにない。義勇の荒れた肌やうっすらと浮かぶ目の下の隈は、自分のせいだと杏寿郎は深く自覚している。苦しめておいて、自分の腕のなかで安らかに眠ってほしいなど、どの口が言える。
 穏やかで幸せな語らいなど、もう二度と望んではいけない。今では遠い冬の日に、もう終わったのだ。

 中二の秋に出逢って、人目を避けて続けた義勇との交流は、冬には終わった。
 雪がちらつくなか、母を跳ね飛ばした自動車の、急ブレーキの音とともに。

 スリップしたのだと、誰もが思っただろう。運転手の罪状は過失運転致死傷罪。けれど、本心からそれを信じているようなお人好しは、きっといない。ひびいたブレーキ音は、跳ね上がった母の体が地面に叩きつけられたのと同時に上がった。目撃者はおらず、杏寿郎の証言は、きっと調査報告書からは消されている。

 母は、父に心の底から愛されていたから、死んだのだ。

 迫る車から母をかばおうとした杏寿郎は、逆に信じられない力で突き飛ばされた。今夜はシチューにしましょうか。サツマイモも入れて。ほんの数分前、一緒に行ったスーパーで、そう言って微笑んでいた母は、冷たい地面に手足を投げ出し目を閉じていた。
 地面を染めていく深紅と、舞うように静かに降り注ぐ真白い粉雪。杏寿郎の上げた絶叫は、自身の声だというのにどこか遠かった。

「もらってくれないか……赤は、しばらく見たくないんだ」
 大きなパジャマを差し出して言った杏寿郎に、義勇は、ギュッと眉を寄せていた。泣き出しそうだ。そう思ったのを覚えている。
「学校……もう、こないと聞いた」
「あぁ。父の家に引き取られることになったのでな! ……今日で、転校する」
「……そうか」
 わずかにうつむき唇を噛んでも、義勇は涙をこぼしはしなかった。それでも、杏寿郎が差し出した大きなパジャマを受け取る白い手は、小さく震えていた。
 二人そろって黙り込んでいたのは、どれぐらいだろう。きっと一分にも満たない。
 根が生えたように動きたがらぬ足を無理に動かし、それじゃあと踵を返そうとした杏寿郎を、義勇の手が引き止めた。
「つらいことがあったら、必ず電話しろ。つらくなくてもっ。……待ってるから。ずっと、待ってるから」
 無理やり握らされたノートの切れ端は、もうない。硬質で整った数字の列は、灰になって消えた。
 どれだけ厳重に保管しようとしても、絶対はない。万が一にも誰かに見られ、義勇の身に母のような災厄が降りかかるかもしれない可能性は、ひとかけらだって残したくなかった。

『本気で惚れるなよ』

 誰にとも、父は言わなかった。けれど広く寂しい父の背と声に、杏寿郎の脳裏に浮かんだのは、義勇の微笑みだけだった。

 父は、アパートに来るときにはいつも、酒の臭いなどしなかった。だが、杏寿郎が引き取られて以降、父から酒の臭いが抜けた日はない。
 母と笑いあい、杏寿郎を肩車してくれた父のたくましかった体は、最後には頼りないほど痩せていた。雪の夜だった。雪は、杏寿郎からなにかを奪っていく。
 すまん、杏寿郎。父の最期の言葉は、詫びだ。二十五という若さで組を継ぐのを余儀なくされたことへの詫びなのか、それとも、ほかの意味があったのか。それは知らないままでいい。
 母を愛し、杏寿郎をこの世に誕生させたことへの詫びなら、聞きたくはない。愛されていた。父と母の愛で自分は生まれた。信じるのは、それだけでいい。

 ともあれ、その日以来、ただがむしゃらに杏寿郎は走り続けてきた。人を踏みにじり、傷つけ、食い物にする稼業に、吐き気が止まらぬ夜を過ごそうとも、組を解体することはできなかった。
 暴力団排除条例で縮小や解体を逃れ得ぬ組も多いなか、煉獄組は稀有なほどにいまだ確固たる地盤を持つ巨大な組織だ。看板をおろしてハイおしまいというわけにはいかない。組という後ろ盾を失った大勢の組員が、すべてまっとうな道を歩みだすなど、理想論がすぎる。おおかたは、昔ながらの義理人情を尊ぶ煉獄組と違って汚い仕事への躊躇などない組に、右から左へ流れるように移るだけだろう。
 古い組である煉獄一家は、任侠道を少なからず重視している。人を根本から駄目にする薬物は、昔ながらの慣習に従い、販売などすれば幹部だろうと父はただでは済まさなかった。
 その父が亡くなり、煉獄組自体が消滅すればどうなるか。結果は火を見るより明らかだ。煉獄組の目が光っているからこそ保たれている秩序が、一気に崩れる地も多かろう。
 杏寿郎が父と同じだけの忠誠を集めねば、どれだけの人間が食い物にされ、どれだけ多くの人が今より泣くことになるのか。投げ出してしまうわけには、いかなかった。

 義勇と再会したのも、シノギの一環だった。

 地上げ中の土地で、ただ一軒、頑として首を縦に振らぬ小さな喫茶店がある。そんな報告を受けてのことだ。
 暴排条例に抵触するような暴力行為や、あからさまな妨害工作は行えない。考えなしに暴力的な手に出れば、こちらの核心部に警察が乗り込む大義名分を作ってやるだけだ。
 じわじわと悪評を広めたり、人相の悪い組員を入れ代わり立ち代わり送り込み、客が立ち寄れぬようにするなど、手口は法に触れない範囲に限られる。とはいえ、人の口に戸は立てられぬとの言は正しく、今まではそれで十分成果を上げてきた。あてが外れたのはその店が代替わりしてからだ。
 老齢だった店主の跡を継いだ優男のオーナーは顔に似合わず度胸があって、組員たちへの怯えなどまるで見せないのだという。
 客が寄り付かぬのであれば、いずれ経営が成り立たなくなるのは間違いないが、時間がかかるかもしれない。そんな報告だった。
 どんな奴か一度見てみるかと杏寿郎が思ったのは、気まぐれだ。肝の据わった優男のオーナーとやらに、なんだか少し愉快な気分になっていた。母と暮らしていた町だと知り、懐かしさもあった。
 杏寿郎は、正々堂々として威に屈せぬ者を好む。苦しい境遇にも心折れることなく、懸命に生きるまっとうな人たちは、愛おしくすらあった。それでも、シノギに情や情けを差し挟む気はない。思い出は心のなかにだけあればいい。だから、赴いたのはけっきょくのところ、気まぐれでしかなかった。

 カランと軽やかに鳴ったドアベル。控えめないらっしゃいませの声。
 カウンターに立つ、白いシャツとデニム地のエプロン姿のオーナーの顔は、たしかに優男と言われるだけある秀麗さだった。
 見開かれた青い瞳は、彼が、杏寿郎を忘れていないことを知らせていた。