きっと寂しくて、熱い掌

 スマホが鳴ったのは、義勇が寝支度を終えたときだった。
 わざわざ呼び出し音を変えずとも、電話の主はわかっている。カレンダーの曜日は火曜。時刻は午後十一時。平日のこんな時刻に電話してくる男は、一人しかいない。
 スマホの画面に映る名は確信とたがわず、応答をタップした義勇は、平坦な声で「はい」とだけ答えた。
「迎えをやる」
 ただその一言で、電話は切れた。こんばんはも、夜分にすまないの詫びもなしだ。いつものことながら忙しない男だと少しの諦めを飲み込んで、義勇は、着込んだばかりのパジャマのボタンに手をかけた。
 作られた当時は大きすぎだと笑ったパジャマは、高校に上がるころにはもう、少し窮屈だった。白い生地はうっすらと黄ばみ、赤とオレンジのストライプもすっかり色あせて、人が見ればみすぼらしいと眉をひそめるだろう。袖もほつれ、生地が薄くなってきているから、いつ破れるかとヒヤヒヤもする。でも、まだ着られる。まだ捨てたくない。
 迎えが来るまで十分とかからないだろう。いつもそうだ。
 とくにめかしこむ必要はないが、見咎められて時間を食うのはごめんだ。こういう夜のために用意してあるシャツとジャケットを着込み、義勇はスマホと鍵を手にとった。備え付けの靴箱に置かれた百円ライターをポケットに滑り込ませたら、身支度は終了だ。財布はいらない。完全に捨て置かれれば電車代が必要になるが、そんな心配は無用だ。

 電気を消し部屋を出る。六畳ワンルーム、二十八になった義勇の倍はある築年数のアパートは、ドアの建付けがいまいちだ。少し力を込めねばうまく閉まらない。
 こんな夜には毎回、義勇は少しヒヤヒヤとしながらドアを閉める。ドアは今夜もバタンと大きな音を立て、ドキンと鼓動が跳ねた。
 月に一度あるかなしかの習慣は、今のところ苦情をうけてはいない。だが万が一、クレームがきて退去をうながされでもしたら困るのだ。義勇がオーナーを務める喫茶店に近く、かつ、義勇の収入に見合ったアパートなど、そうそう見つからないのだから。
 足音がひびかぬようにそろりと階段を降りた義勇を、ベンツのヘッドライトが照らした。眩しさに義勇が目をすがめても、運転手があわてて降りてくることなどない。
 組長の愛人の――しかも、数いる美女ぞろいの愛人のなかでは唯一の男で、組長の気に入り度合いも低い義勇に、礼儀正しくする必要はない。少なくとも、初対面時に要と名乗った運転手を務める男は、そう言い含められているはずだ。
 自分でドアを開け無言で乗り込んだ義勇に、要はいつもと同じ少し申し訳なさげな顔で会釈した。会話はない。それもまた命令されているのだろう。親しげな軽口や同情のない沈黙は、義勇にとってはありがたかった。

「いつもと同じ時間にお迎えにあがります」
 要の声を聞くのは、義勇が車を降りるときだけだ。セリフはいつも同じ。義勇もいつもと同じく、うなずきだけで返す。
 部屋も毎回同じだから、フロントにたずねる必要もない。ロビーを素通りして、義勇は、エレベーターホールへと足を向けた。
 義勇の収入では、一泊さえためらうホテルだ。スタッフの教育も万全で、ふさわしくない服装で歩き回る客には、慇懃な態度ながらもすかさず声をかけてくる。男である義勇がデリヘル嬢のような扱いをされることはないだろうが、不審者とあやしまれでもしたら面倒だ。
 だから義勇は、毎回決まってジャケット着用で訪れる。余計な厄介事はごめんだ。普段着のパーカーにジーンズで訪れるには敷居が高い場所だった。
 部屋は最上階よりも三階ほど下だ。最上階のスイートルームは、屋上に近いからか使うことがない。確認したことはないが、窓からの襲撃に備えているんだろう。そんなアクション映画ばりのありえそうにない奇襲に対してさえ、警戒しなければならない男の立場に、いつもながら義勇の胸が小さく軋んだ。

 静かにドアをノックすると、十秒数えきる前にドアが細く開いた。
「……久しぶりだな、冨岡」
 かけられる言葉もいつもと同じだ。逢いたかったと言われたのは再会したその日だけで、こんな関係になってからは、どんなに間が開こうとも、一度も言われたことがない。義勇だって、寂しかっただの飽きられたかと思っただのと、世迷い言めいた甘えや愚痴を口にする気はなかった。
 男にとっては、ただの気まぐれだ。女ばかりでは飽きるから、たまに男の義勇に手を伸ばす。それぐらいの軽い遊び心でしかない。
 ほかの愛人には、なんて声をかけるんだろう。そんな言葉が義勇の脳裏に浮かぶのも、絶えて久しい。考えたところで無駄なのだ。どんな回答が返ろうと、義勇の立場は変わらず、男の態度も変わらないだろう。
 スルリと滑り込むように部屋へと入れば、すぐにたくましい腕が伸びてくる。抱き寄せられる寸前に、どうにかドアを閉めた。
 熱くて寂しい夜が、また始まる。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 何度目かの射精のあと、杏寿郎は、ようやく義勇の肚から己を引き抜いた。ズルリと抜き出した男根は、まだ硬度を保っている。義勇との情事はいつでもこうだ。萎える気がしない。
 だが、失神した義勇をさらに抱く気にもなれなかった。義勇を使いたいわけじゃない。抱きあいたいから、抱いている。愛しあえないのなら、せめて、背にすがってほしかった。
 始まりには慎ましやかに閉じていた小さな蕾は、うろのように口を開き、クプクプと泡立つ白濁をゆっくり吐き出している。淫猥な光景に、温かなその虚をふたたび己の男根で埋め塞いでしまいたい衝動が、杏寿郎を襲った。
 フゥッと重いため息を吐き出し、杏寿郎は奥歯を噛みしめるとベッドを降りた。抱き上げても義勇は意識を失ったままだ。
 毎回どうしてもこうなる。ほかの愛人たちには避妊具を欠かさないし、抱くのは義務感に近い。せいぜい口と膣で一度ずつ達すれば、それきり触れる気にもならなかった。ねだられればともに眠りもするが、腕枕などもってのほかだ。枕の下に潜ませた銃をしびれた腕で扱う可能性を考えれば、ごめんこうむる。
 だが、義勇にだけは駄目だ。避妊具をつける時間すら惜しく、体位を変えるときでさえ抜き去りたくなくて、毎回無理をさせてしまう。腕のなかに閉じ込め、抱きしめたまま眠りたくてたまらなくなる。

 ――こんな特別扱いなど、冨岡はされたくないだろうがな。

 思った端から、杏寿郎は苦い自嘲に顔を歪めた。
 そもそもこんな関係こそ、義勇は望んじゃいないだろう。義勇が杏寿郎に抱かれるのは不合法な契約によるものだ。再会したときこそ、昔のよしみという情はあっただろうが、今ではそんなものすら消え失せたに違いない。
 中学のほんの一時期、親しくした後輩。義勇にとって杏寿郎は、そんな人物でしかなかったはずだ。
 今は、契約という名の脅迫で、己を弄ぶ人でなし。義勇が思う煉獄杏寿郎という男など、きっとそんなものだ。

 軋む胸をこらえて、義勇を抱いたまま杏寿郎は、そっとバスタブに足を踏み入れる。
 熱いシャワーが直接義勇に降り注がぬよう気をつけながら、杏寿郎はまだやわらかいそこへと、ゆっくり指を差し入れた。慎重にかき出すぬめりは、命を繋ぐ役目を果たすことなく水流に流され、排水口に消えていく。やるせなさを覚えるよりも、いっそ安堵するその光景。杏寿郎は自分をあざ笑ってみせた。
 稼業を継ぎはしても、子を生し連鎖を続けるなどまっぴらだ。よしんば義勇が女だったなら、自分は絶対に子種をその肚に注ぎはしないだろう。

『本気で惚れるなよ』

 母の葬儀のあと、杏寿郎が迎えられた屋敷で対面した父は、小さなアパートではついぞ見たことがない険しい顔をしていた。
 杏寿郎に背を向け、家でのことはアレに聞けとそっけなく父が言ったアレとは、父の本妻だとすぐわかった。わかりましたと少し固い声で答えた杏寿郎に、父が背を向けポツリと言ったのが、先の言葉だ。
 母が、世間では愛人と呼ばれていることを杏寿郎が知ったのは、小六のときだ。父が、代々看板を掲げる大きな組の組長であることも、そのときに知った。
 愛人という言葉の意味に心が乱れはしたが、父に対しての不信はなかったように思う。毎日父親が帰ってくる友達の家とは違い、多くとも月に二、三度だけ「ただいま」とやってくる父は、普通の人ではないのだと、うすうす感じていたからかもしれない。
 だがそれ以上に、父を迎える母の顔はいつも幸せに満ちていたし、ただいまと告げる父の顔もまた、いつだって愛おしげな笑顔ばかりだったせいだろう。
 父に愛されていることを、杏寿郎は、一度たりと疑いもしなかった。

 ヤクザの子。愛人の子。そんな噂が学校に広まって、友達が離れていっても、杏寿郎自身は変わらない。変わろうとも思わなかった。それまでどおり明るく笑い、困っている者がいれば手を差し伸べる。それでも、人は杏寿郎を恐れた。
 杏寿郎自身をではなく、その背の向こうに広がる別世界を、人は恐れる。やがて不安は杏寿郎本人への恐怖となって、誰も彼もが杏寿郎を避けて通るようになった。だから学校での杏寿郎は、いつだって一人ぼっちだ。
 連絡事項でもなければ、自分から杏寿郎に声をかけてくる者などいない。先生ですらそんなありさまだった。
 誰も、杏寿郎に話しかけたりしない。笑いかけてなどくれない。中二の秋までは、誰もいなかったのだ。ただの一人も。

「それじゃ、測れないだろ」

 居残りで課題のパジャマを作るためメジャーと格闘していた杏寿郎に、かけられた声は、やけに生真面目だった。
 残暑厳しい九月。放課後の家庭科室にはツクツクボウシの声が聞こえてきていた。まだ日暮れにはだいぶ早い。一人きりではエアコンをつけるわけにもいかず、窓を開けても残念ながら風は吹き込むことがなく、杏寿郎の額には汗が光っていた。
 開いたままの戸から顔を出し言った男子生徒に、見覚えはなかった。もしかしたら違う学年なのかもしれない。
 どうやら彼は廊下から家庭科室を覗いていたらしい。まったく気配に気がつかなかったが、いつから見られていたのだろう。杏寿郎はちょっぴり焦った。
 煉獄杏寿郎の噂を知らぬ者など学校にはいないと思っていたが、彼は相当な世間知らずなのだろうか。杏寿郎に話しかけなどしたら、どんな陰口を叩かれるかわかったものではないというのに、迂闊すぎる。自分のせいで誰かがいじめられるなど、まっぴらだ。
 どう答えるべきかとの杏寿郎の焦燥と逡巡に、彼はちっとも気づいてはくれなかった。ためらいなく教室に足を踏み入れ、杏寿郎に近づいてきさえする。おまけに、突っ立ったままの杏寿郎に手を差し出しすらした。
「貸せ。測ってやる」
「あ、いや! 気遣いはありがたいが、大丈夫だ!」
「大丈夫じゃないから、採寸できてないんだろう? 修学旅行に間に合わなくなるぞ」
 十月にある修学旅行用のパジャマを自作するという家庭科の課題は、二年時の定番だ。彼も作ったことがあるのだろう。ということは、彼は三年生か。さっと視線を走らせれば、上履きのラインは紺で、彼が一学年上であることを証拠付けていた。
 なぜ一人でやっているのかと、不審がられてもしかたない。いじめられ、仲間はずれにされていると思われたんだろうか。杏寿郎の頬にわずかに朱が散った。
 班の組み合わせはしかたないしにしても、杏寿郎にうかつに触れるのは怖いのだろう。二人で組んでの採寸に、杏寿郎と組もうという物好きはクラスにはいなかった。いじめられた覚えはないが、のけ者扱いは否定できない。
 現況を恥じたことは今までなかった。クラスメイトを始めとする者たちの怯えは、充分に理解できたし、巻き添えを食わせることなどしたくもない。だから胸を張っていたけれども、誰一人友達がいないことを彼に知られるのは、なぜだかやけに恥ずかしかった。
 言葉を探して視線をさまよわせる杏寿郎に対して、彼は苛立つ様子など見せなかったが、杏寿郎の手からメジャーを奪い取る手は、少し強引だった。
 かまわないでくれと止める間もなく、後ろを向けと有無を言わさぬ声がかけられ、杏寿郎は思わず素直に背を向けていた。
 彼の手が、肩に触れた。アンダーウェアを着ていない杏寿郎の肩から、薄い夏用のシャツ越しに彼の体温がかすかに伝わってくる。困惑は、自分に声をかけてきた彼の真意をはかりかねているからなのか、勝手に騒ぎたてる鼓動や熱くなる頬のせいなのか、杏寿郎にもよくわからなかった。ただ、さっぱりと乾いて見える彼のシャツと違い、汗で湿っている自分のシャツが、やけに恥ずかしかった。
 手が離れていっても、騒がしい鼓動は鳴り止むことがない。彼は無言で、広げられた型紙に勝手に数値を書き込んでいく。ちらりと見やった彼の文字は、硬質で整っていた。

「あの、ありがとう。助かった」
「かまわない。日洲先生は厳しいから、間に合わないと修学旅行は先生と行動させられるぞ。気をつけろ」
「あぁ、それなら平気だ! そのほうが、班の者もみなホッとするだろうしな!」
 やたらと厳しくヒステリックな初老の教師も、杏寿郎のことはどこか腫れ物に触るように扱っている。あからさまに見逃される可能性のほうが高い。
 だからこそ、授業中にただ一人裁断まで進めなかった杏寿郎は、放課後の家庭科室でメジャーと格闘する羽目になっている。もしかしたら、杏寿郎にかぎっては「間に合わなければ修学旅行に参加させない」という脅し文句が、現実になるかもしれない。

 べつに傷つくようなことでもないから、素直に笑ってしまったが、よけいなことを言った気がする。パチリとまばたき小首をかしげた彼の顔に、怪訝そうな色が浮かんで、杏寿郎は己の迂闊さにほぞを噛んだ。
 いや。ちょうどよかったのか。
 きっと彼は杏寿郎のことを知らないのだ。煉獄杏寿郎という悪名は知っていても、容貌までは知らずにいたのだろう。てらいなく声をかけてきたのはきっとそのせいだ。困ってる後輩がいるなと、ちょっと呆れつつ他意のない純粋な親切心で手を差し伸べたに違いない。
 親切な先輩を、詮索や下衆な勘ぐりの的に晒すのはごめんだ。杏寿郎は、少しだけ痛む胸をこらえて、静かに笑ってみせた。
「君の名前は? 三年生だろう?」
「あぁ。冨岡義勇だ」
「そうか、ありがとう冨岡先輩! 俺は……煉獄杏寿郎。二年生だ」

 笑んだ表情を崩すことなく、杏寿郎は胸中だけで身構える。彼の――義勇の瞳が怯えるさまに、うろたえ傷つかぬように。
 だが、義勇の反応はどこまでも杏寿郎の予想を外れていた。
 義勇は、なぜだかムッとしたようにわずかばかり眉を寄せ、異議申し立てめいた声で言った。
「言われなくてもわかる。パジャマを作るのは二年生だけだ。上履きだって赤だし、気づかないほど抜けてはいない」
 ポカンとした杏寿郎に、義勇は言うだけ言って満足したのか、もう不満などまるでない様子でまた小さく首をかたむけた。
「裁断しないのか?」
「あ、す、する! 今日中に裁断しないと、みなに追いつけんのだ!」
「縫い代分を忘れるなよ? つんつるてんになるぞ」
 義勇の静かな声で紡がれたつんつるてんという言葉が、妙にかわいく聞こえて、杏寿郎はなぜだか泣きたくなった。なんだか胸が苦しくて、やけにムズムズとこそばゆい心地もして、わけもわからず泣きたくなる。
 勝手に浮かび上がりそうになった涙をこらえ、あわてる手付きで杏寿郎が紙袋から取り出した布地は、白地に赤とオレンジのストライプだ。机に広げていると、不意にクスッと小さな笑い声が聞こえた。
「色違いだ」
「え?」
 仰ぎ見た義勇の顔は、ほのかに笑んでいた。
「去年、水色と青の縞模様で俺も作った。お揃いだな」
 縞模様。なんだか古めかしい語彙が、どうにもおかしくて、やっぱりなぜだかかわいくてならない。お揃いというその一言が、無性にうれしくてたまらなかった。

 縫い代分を多く取りすぎて裁断された布に、義勇は呆れた顔をしていた。
「大は小を兼ねるというからな! 失敗してもこれなら取り返せるから問題ない!」
 そう言って杏寿郎は笑ってみせたのだが、仕上がりを心配してくれたんだろう。翌週も、同じ時間に義勇は家庭科室を覗きにきた。やっぱり杏寿郎は居残りで、義勇に習いながら作ったパジャマは、つんつるてんどころか大きすぎた。