「おや、いらっしゃい。鏑丸さまは健やかにしておいでかな?」
伊黒が店内に足を踏み入れたと同時に、艶やかなボブの髪を揺らせて、店長が振り返った。出逢ってから十二年も経つというのに、この人はいつ見ても変わらないなと、伊黒はわずかに苦笑する。
ニィッと赤い唇をつり上げた顔には、シワの一筋も増えちゃいない。幼児ほどにも大きなイグアナを抱きあげている腕は華奢で、背を撫でる手はヤモリの腹を思わせる白さだ。爪も唇と同じく真紅に彩られている。
たぶん、この店が小学生の度胸試しスポットになっている理由は、爬虫類たちのせいばかりじゃないのだろう。年齢不詳な美女である店長は、どことなし魔女を想像させる。
「おかげさまで、元気にしてます。あとで新しいシェルターを買いますから、あっちの席、お借りしていいですか?」
店の奥を指差し伊黒が言うと、店長は、伊黒の背後で居心地悪げに立っている義勇をちらりと見やり、軽くうなずいた。
長年のお得意様である伊黒への信頼と言えば、聞こえはいいが、実際のところは関心がないだけだろう。店は趣味と言い切るだけあって、店長のいかにもな営業スマイルなど、伊黒は一度も見たことがない。
店内にはめずらしくも客が二人ほどいた。どちらも常連だ。伊黒と店長の会話は耳に入っているだろうが、こちらも伊黒たちを気にする様子はない。気に入りの爬虫類の話ならまだしも、そうでないなら爪の先ほどの興味もないと言わんばかりに、熱心にトカゲや亀のゲージを眺めている。
この店は店長も客もいつだってこんな具合で、奥まった場所にあるレイアウト用品のコーナーは、内密の話をしたいときにはもってこいだ。流木やらテーブルヤシなどの観葉植物が並ぶ隅に、小さなテーブルセットがあるのもありがたい。
巨大なイグアナとお楽しみ中の店長は、今日はお手製のハーブティーを持ってきてくれることもないだろう。人への関心が薄いせいか、近隣での噂話はもちろん、同性愛などへの偏見も露と見せぬ人ではあるが、聞かれたい話でもない。
ペットショップから植物園に移動したかのようなコーナーの隅に、売り物の小さなサボテンの鉢植えが乗った、白いアイアン製のガーデンテーブルセットがある。こちらは無人だ。
義勇を促しともに席につくと、伊黒は「それで?」と高慢な態度で腕を組み胸を反らせた。見下すような視線を受けても、義勇は気にした様子もない。
「それで、と言われても……杏寿郎のそばにいたら、俺が求めるものは手に入らないから?」
感情の読めぬ顔でコテンと首をかしげてみせる義勇に、伊黒のこめかみに青筋が浮く。
「質問に疑問形で返すような馬鹿と話をする気はないのだがね。貴様の馬鹿は杏寿郎馬鹿っぷりだけで腹いっぱいだ。これ以上の馬鹿を晒すのはやめてもらいたいものだな。だいたい、貴様が求めているもの、だと? やさしい姉に愛情を注がれ衣食住は事足りて、宇髄や不死川のような友人にも恵まれ、周囲の大人たちからも慈しまれている。おまけに、幼いころから杏寿郎の親愛を一身に受けてもいる貴様が、これ以上なにを求めているというんだ? 強欲にもほどがあるぞ」
険のある物言いなのは今さらだ。だが伊黒の苛立ちは日ごろの比ではなかった。
口にした文言は掛け値なしの本音だ。家族の愛情もまともな暮らしも、幼少期の伊黒は与えられずにいた。必死に生を掴み取ろうとした伊黒に応えるように、槇寿郎が手を伸ばしてくれたからこそある今だ。友人だってそうだ。小学校で友達ができない伊黒を心配した両親が、杏寿郎たちと仲のよかった宇髄らとの旅行をお膳立てでもしなければ、きっと今も杏寿郎と鏑丸……それから義勇ぐらいしか、友人などいなかっただろう。そんな伊黒からすれば、義勇の言葉はひどく傲慢に聞こえた。
これだけ恵まれているというのに、義勇は自己卑下すらしてみせる。宇髄あたりならば、軽口めかして諌めるかもしれない。けれど伊黒はまだ、宇髄のように大人になどなれやしなかった。杏寿郎みたいに、そんなことはないと義勇の手を取り真摯に言い聞かせるなど、もってのほかだ。
不死川さながらに、ふざけたことをぬかすなと、拳を振り下ろしながら怒鳴らないだけマシだと思え。
苛立たしさを隠しもせず、伊黒は強く義勇をにらみつけた。
「杏寿郎も杏寿郎だ。貴様を一人にしたらなにがあるかわかったもんじゃないと、アイツが一番気をもんでいるだろうに、よくもまぁ応援するなどと笑えたものだ。貴様と離れることを杏寿郎が本心から許容するなど、信じない、信じない。アイツの冨岡馬鹿具合も貴様とどっこいどっこい、いや、下手したら貴様以上だろうが」
「うん。杏寿郎は、俺を誰よりも愛してくれてる。俺も同じだ。だから今は、一緒にいたら駄目だ。杏寿郎が手に入らなくなる」
「は?」
思いがけない言葉に、伊黒の目が丸く見開かれた。
義勇の声も表情も、やっぱり静かだった。青く澄んだ瞳はまっすぐに伊黒を見据え、揺らがない。
眼差しの強さに知らず姿勢を正し、伊黒は真っ向から義勇の瞳を見返した。
「なにを言っているのか、さっぱりわからないんだがね。相思相愛だと自覚があるなら、杏寿郎が貴様のものだということぐらい、理解していると思うんだが?」
口惜しいがそれを否定できる者などいやしない。二人は一対だと、周囲の者はみな理解している。宇髄や不死川はもとより、伯父たちや義勇の姉も、二人が交際すると知ったところで反対はすまい。ごく親しい者たちや家族からすれば、それは当然の成り行きだ。
亀毛兎角とは先人はうまいことを言う。杏寿郎と義勇が、互いにほかの誰かと交際するなど、亀が甲羅に毛を生やし兎の頭に角が伸びてくるより、ありえない。
杏寿郎の博愛精神は多岐に及ぶが、それでも恋慕を含む愛情は、義勇にだけ注がれている。誰の目にもそれは明らかで、本人だってすでに自覚していることだろう。義勇もきっと同様だ。
幼いころにはてらいなく杏寿郎に告げていた大好きの一言を、今の義勇はめったに口にしない。愛してるなど論外だ。だからこそ、先の言葉は相当にめずらしい。それでも驚くにはあたらなかった。
目は口ほどに物を言う。義勇にとっても杏寿郎だけが特別で唯一なのだと、青い静かな瞳は、いつでも真摯に語っているのだ。杏寿郎と義勇の恋慕が一方的なものだなどと、二人をよく知るなら者なら、想像すらするわけがない。
「一緒にいたら、大人はきっと、杏寿郎と俺の恋を原因にすると思う」
「は?」
呆気にとられ、伊黒はまたもやポカンとする。静かな声音で言う義勇自身は、意図が伝わることを疑いもしていないようだが、伊黒には理解不能具合は聞き覚えのない異国語と変わりゃしない。
「貴様の言葉はさっぱりわからんっ」
心外! って顔をするな。口下手な自覚があるなら、伝わるような言葉選びをしろ!
義勇はいつもこうだ。説明下手なわけじゃないくせに、心許した者にはやけに言葉足らずになったり、遠回りだというのにことの始まりから全部伝えようとしたりする。今の言葉も伊黒への信頼あってこそだとわかるだけに、甘えるなと言いたくなるのを伊黒は無理にも飲み込んだ。
「……もういい、最初から話せ。時間はある」
全部をすっ飛ばして結論だけ言われても、杏寿郎じゃないのだ、わかるわけがない。
ハァッと疲れ切ったため息をついた伊黒に、義勇は、なんでわからないんだろうと言いたげな、ちょっぴりすねた顔をしている。杏寿郎が甘やかしまくるからだと、伊黒は舌打ちしたくなるのをどうにかこらえた。まったくもって頭が痛い。
「あれは……五歳になったばかりのころ」
気を取り直したのか語りだしたのはいいが、最初の一言がそれか。そこからなのか。
キリッとこめかみが痛むが、ここで腹を立てて口を挟めば、またぞろ話が脱線するか、理解不能な結論だけが飛び出す。長いつきあいは伊達じゃないのだ。それぐらいは伊黒も義勇の習性を承知している。
奥歯を噛みしめ、口をつきかけた皮肉をなんとか飲み込むと、伊黒はじろりと義勇をねめつけた。先を促す視線をあやまたず察したか、義勇は、少し居住まいを正した。
「両親の葬式で親戚が、俺と姉さんを誰が引き取るかでもめているのを聞いた」
義勇の言葉に、伊黒の眉間がわずかに寄る。
未成年後見人になった親戚が、両親の遺産を横領しようとしたことは、伊黒も聞き及んでいた。姉の蔦子は入ったばかりの高校を自主退学し、義勇を養うために働くことになったのだと聞いている。
たしかに災難ではあっただろうが、いったいそれのどこが、杏寿郎と離れねばならぬ結論へと繋がるのか。予想もつかず伊黒は沈黙を保った。
「姉さんだけなら、引き取ってもいいって人は多かった。でも俺は五歳だったから。中学を出て働くにしても、十年は養わなくちゃいけない。高校まで行かせるなら十三年だ。貯金や保険金だけじゃ全然足りない。父さんたちは学生結婚だったらしいから、貯金もそこまで多くはなかったみたいだ」
淡々とした義勇の声音からは、悔しさも憤りも感じられなかった。
蔦子と義勇は年が十も離れている。両親もそれなりの年齢だったのだろうと思っていたが、学生結婚なら、せいぜい三十代後半に入ったところだったのかもしれない。そのうえ、二人の子持ちだ。生命保険も父親だけの可能性がある。
養育資金……しかも育ち盛りの子ならば、衣食にかかる金額もそれなりだ。教育費用だって、たとえ公立校であろうと修学旅行の積み立てなど細々と金は出ていくばかりである。蔦子だけでも躊躇するところだろう。ましてや幼い義勇までとなれば、親戚とやらの押しつけ合いは簡単に想像がつく。
「俺は姉さんについてくるいらないオマケだったんだ。おまえがいなければ姉さんが苦労することもないのになぁと、酔ったどこかのおじさんが笑ってた。でも、しょうがないんだ。やめなさいとたしなめてくれたおばさんだって、俺を引き取ろうとはしなかった。誰も彼も、俺がいなければと考えたと思う。俺も同じだ。葬式の日からずっと思ってた。父さんたちと一緒に、俺も死んでればよかったのに、いや、それより生まれてこなければよかったんだと、ずっとそんなことばかり考えていた。なのに、杏寿郎だけは、俺にうちにこいと……俺自身を欲しいと言ってくれた。杏寿郎だけが、オマケとしてじゃなく、俺を欲してくれたんだ」
杏寿郎と義勇が、どんなふうに出逢ったのか、伊黒は知らない。けれども、その光景はたやすく思い浮かんだ。
キラキラと光るお日様みたいな笑顔で、杏寿郎は、幼い義勇に手を伸ばしたのだろう。ためらいなど微塵もなく朗らかに笑って、悲しみと罪悪感の底に沈んだ義勇の手を取り、日差しのもとに引き上げたに違いない。
それははからずも、伊黒自身と重なって見えた。
「……馬鹿馬鹿しい。蔦子さんがどれだけ貴様をかわいがっているか、わかってないのか?」
ありきたりな言葉だ。自分にも跳ね返ってくる言葉。
どれだけ両親に愛されても、心のどこか隅っこにこびりついて離れない、罪悪感。トラウマはいまだに、伊黒を叩きのめそうとする。
夜中にうなされ飛び起きる日は、もう一年に何度もないけれど、それでもなくならない。ずっと、ずっと、消えてくれない。心に刻まれた傷はかさぶたになろうとも、その下でジクジクとうずいて、いまだに血を吹き出しそうになる。
「わかってる。だからよけいに、つらかった」
わかっている、わかるとも。わかりたくなどないけれど。
同じだ。コイツは俺と同じ。
不幸の度合いをくらべれば、悲惨さは伊黒のほうが深刻だろう。だがそんなものは問題じゃない。たとえば飢餓に苦しむ異国の子供の写真を指差し、世界にはもっとつらい思いをしている子がいるんだよなどと言われても、伊黒からすればそれがどうしたとしか言えない。
小学校時代の担任にもそういう奴がいたが、今も伊黒は軽蔑している。
つらさも苦しさも、人とくらべれば自分の元から去るなんてものではないのだ。下を見て安心するなら、それは優越感以外の何物でもないではないか。
浅ましい所業だと、なぜ思わない。善人面した教師は伊黒に、だから傷跡なんて気にしちゃ駄目と笑ったが、貴様になにがわかると怒鳴りたかった。ひねくれた子だと両親を責められたくないから、殊勝な顔をしてうなずいてみせたが、今も思い出すだけで腹が立つ。
伊黒の苦しさは伊黒だけのもので、義勇の悲しみだって義勇だけのものだ。くらべること自体が馬鹿馬鹿しい。
なのに、どうしても言わずにいられなかった。
杏寿郎に救われたのは同じでも、伊黒は、人前で自分を卑下するどころか、いっそ傲慢なほどに振る舞う。尊大で横柄な態度は鎧だ。心の奥底で膝をかかえる幼く傷だらけの自我を守り、やさしい両親に苦しんでいることを悟られぬようにするために、着込んだ鎧。
だが義勇はどうだ。自分に価値がないといまだに思い込んでいるのは同じでも、伊黒と違って、義勇はそれを自ら口にする。
宇髄や不死川が、伊黒が、そして誰よりも杏寿郎が、そんなことはないと言い聞かせても。
あぁ、そうか。俺がコイツをどうしても苦手でしょうがないのは、同族嫌悪か。
コイツは、もしかしたらこうなっていたかもしれない、自分だからか。